8 黒の位相1
『私のことは以後ラクシャサとお呼びくださいませ』
【闇】が唐突に提案した。
「ラクシャサ……?」
『いつまでも【闇】ではややこしいでしょう? 本来、【闇】とは力の概念。私はその一部に過ぎませんゆえ』
微笑む女。
『ここまで【具現化】できる宿主様は初めてです。ゆえに──私の真名を知っていただきたく』
「呼び名なんてどうでもいい。が、お前が望むなら、そう呼ぼう」
俺は【闇】あらためラクシャサに言った。
彼女と連れ立って、荒野を歩き出す。
俺は足が衰えているため、かなりゆっくりとした道程だ。
ラクシャサは俺に歩調を合わせて歩いてくれる。
周囲には、代わり映えのしない荒野が続いていた。
以前に迷いこんだ墓標の丘もそうだが、ここも寂寥感の漂う光景だった。
曇天で周囲が薄暗いのも、そんな雰囲気に拍車をかけていた。
黒い空には時折、闇色の稲妻が走る。
その稲妻がまばゆく弾けながら、突然消えた。
「あれは──」
落雷という感じじゃないな。
まるで空間に吸いこまれたような消え方だ。
『どこか別の時代、あるいは別の世界に【闇】の一部が流れこんでいるのです』
と、ラクシャサ。
『あるいは、あなたのように【闇】を身に着け、その力を振るう者がいるかもしれません』
「俺と、同じように……」
『時代や世界は変われど、人間の業は変わりませんゆえ』
ラクシャサが微笑む。
人間の業……か。
俺の復讐心も、その一つなんだろう。
『この辺りで休憩しましょうか』
二時間ほど歩き、ラクシャサが巨大な岩の陰を指さした。
『あなたの衰えた体では長時間の移動は辛いでしょう』
「……そうだな」
『ここでは空腹は感じないと思いますが、疲労は現世と同様に蓄積していきます。ゆっくり眠ってくださいね』
ラクシャサが言った。
『望むなら
思わずラクシャサを見返した。
『冗談です』
にっこり笑って、人差し指を立てる【闇】の女。
意外と茶目っ気のある雰囲気が、少し意外だった。
こういう一面もあるのか、こいつ。
「冗談に聞こえないからやめろ」
『ふふ、もし乗ってくれたら、抱かれて差し上げようかと思ったのですが』
艶然と微笑むラクシャサ。
どこまで本気なんだか、読めない女だ。
『あなたと一緒にいた少女たちに怒られてしまいますね』
「シアとユリンか? 別に怒りはしないだろう」
『怒りや憎しみだけでなく、もっと人の感情の機微を学んだ方がいいですよ、宿主様』
「……なんのことだ?」
『特に乙女心について、ね』
こいつの言っていることは、今一つ要領を得ないな。
『あなたに宿って二年ほど……随分と力を増しましたね』
ラクシャサがいきなり話題を変えた。
「あいつらへの恨みや憎しみを忘れたことはない。その思いが俺の【闇】を育てた」
『おかげでこうしてお話しできます。私の姿を見てもらえるのは、嬉しいですわね』
言葉通り、嬉しそうに目を細めるラクシャサ。
右目の下に泣きぼくろがあることに気づいた。
「お前は、今までにも色々な人間に宿って来たのか?」
『あら、嫉妬ですか?』
「……なぜ俺がお前に嫉妬心を抱かなきゃならないんだ」
ちょっと憮然としてしまった。
ラクシャサはそんな俺を見て、なぜか楽しげな顔をする。
『そうですね。数百数千という人間に宿り、【闇】をもたらしてきました。といっても、あなたほど強大な【闇】を身に着けた人間はいませんでしたが……そもそも、私の姿をここまではっきりと【具現化】させたのも、あなたが初めてです』
説明するラクシャサ。
『大半の宿主様には声を届ける程度が限界でした。中には、私を宿した瞬間に精神が崩壊した者もいますし』
恐ろしいことを微笑み混じりに告げる。
【闇】を抱えるっていうのは、思っていたよりも心身の負担や消耗が激しいということなんだろうか。
俺自身は、この力を使うことでなんらかの負担や消耗を感じることはないんだが──。
『あなたの場合はむしろ【闇】から力を得ているようですね。本来なら『闇の鎖』ですべてを奪われ、吸い取られて死ぬはずだったのが、【闇】によって失われた生命力を補充し、こうして今も生きているのですから』
ラクシャサが説明する。
「俺が……死ぬはずだった……?」
あの儀式の作用は魔力を奪われたり、体が著しく衰えたりすることなのかと思っていた。
だが、違ったのか。
俺は本来なら、すべてを吸い尽くされて死ぬはずだった──?
『今のあなたは──身体能力こそかなり衰えていますが、生命力においては常人のそれをはるかに凌いでいます。ご心配なさらず』
ラクシャサが俺の手を取った。
意外なほど温かな両手が、骨ばった俺の手を包みこむ。
『これからも、あなたのために力を尽くしますね、宿主様。どうか存分に【闇】を振るいなさいませ』
休息を終え、俺たちはふたたび進みだす。
数時間歩いては、休息し、また数時間──という行程を繰り返し、やがて前方に巨大な湖が見えてきた。
『着きましたよ、宿主様』
ラクシャサが湖を指さした。
「あれが目的地なのか?」
俺をさらなる【闇】に導くという存在。
それがここにいるんだろうか?
俺の問いにラクシャサは静かにうなずいた。
『あの湖は『黒の位相』の中心点。そして、その底には──』
恭しい口調でラクシャサが告げる。
『【闇】の根源──【