9 賢者区画
俺たちはヴァレリーの魔法研究が収められた部屋──『賢者区画』に足を踏み入れた。
部屋の右側の棚には、無数のオーブが並べられている。
あれの一つ一つに奴の研究データが収められているはずだ。
反対側を見ると、黒いクリスタルの柱がいくつも見えた。
内部には老若男女問わず、様々な人間が一糸まとわぬ姿で閉じこめられている。
「痛い……痛いよぉ……」
「助けてぇぇぇ……」
悲痛な声があちこちから響き渡る。
クリスタルの中にいると苦痛を受ける仕組みなのか、あるいはなんらかの魔導実験を受けて痛みが生じているのか。
悲鳴やすすり泣きが、怒りや恨みが──間断なく聞こえてくる。
まさしく、地獄絵図だった。
「私と同じ被験体ですね……」
ユリンが暗い顔でつぶやいた。
……彼女自身も同じような目に遭ってきたんだろうか。
ヴァレリーの弟子だったころ、教わったことがある。
呪術とは、人の『負の感情』をエネルギー源にして起動する術式なのだと。
高位の呪術になるほど、より大きな『負の感情』が必要になる。
苦痛、憤怒、悲哀、怨念、そして絶望──。
かつて俺が味わったのと同種の想念だ。
彼らもまた、なんらかの呪術を起動させるために延々と続く苦痛を与えられているんだろう。
見ていられないな。
「──シア」
俺は【従属者】の少女に命じた。
「承知しました、クロム様」
具体的な言葉にしなくても、俺の意志を彼女はくみ取ってくれている。
いや、仮に命じなくてもシアは自分の意志でそうしただろう。
「──【切断】」
黒く輝く剣でクリスタルを次々に切り裂いた。
内部に収められている人々を解放する。
「動ける者は逃げろ。俺たちが通ってきた道の罠はすべて破壊してある」
と、今までの道順を彼らに説明する。
「あ、ありがとうございます……」
「うう……」
大半の人間は苦鳴をもらしながら立ち上がり、部屋から出ていった。
残る十数人は苦痛が大きすぎて、立ち上がることさえできないようだ。
治療する方法があればいいんだが──。
と、
「……!」
俺は部屋の最奥に視線を向け、顔をこわばらせた。
ぼろぼろの石板が立てかけてある。
どこかから切り出した壁画──だろうか。
描かれているのは、小高い丘と無数の墓標。
天から垂れる長い鎖と、一人の女。
「まさか──」
「それは禁呪法『闇の鎖』を描いたもの。二年前、古代の遺跡で見つけた壁画をここに運んだのだ」
かつ、かつ、と足音が近づいてくる。
この、声は──。
俺はごくりと喉を鳴らした。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
俺はずっとこの人に魔法を教わってきた。
イリーナを守れるくらいに強くなりたい、と。
その思いを胸に、この人に師事してきた。
厳しいけれど、時には優しさも見せてくれる尊敬すべき師匠だった。
すべては──過去形になってしまったが。
「やはり、お前か……クロム」
扉の向こうに、青みがかった黒髪を長く伸ばした男が立っている。
鋭い眼光が俺をまっすぐに見据えている。
「久しぶりだな、ヴァレリー」
俺はかつての師と、二年ぶりに対面した。
「なぜお前が生きている、クロム」
ヴァレリーが険しい表情で俺を見据える。
「なんだ、愛弟子が生きていたっていうのに、喜んでくれないのか?」
俺は皮肉を込めてたずねた。
「……ふん、愛弟子だと? お前の才能はたかが知れていた。失っても惜しくはなかった……だから『闇の鎖』の生け贄にしたのだ」
ヴァレリーが鼻を鳴らす。
「おかげで勇者ユーノは莫大な【光】の力を得た。魔王を討つほどの、な」
「俺に大した素質がなかったから切り捨てた、と?」
「私がお前を生け贄に推薦したのは、主にそれが理由だな。才能がない者を教えるのは退屈だ」
「俺が消し飛ばしたお前の弟子たちは、その才能にあふれていたわけだ」
「……いずれは私に匹敵する使い手になった者もいたかもしれない。惜しいことを」
ヴァレリーが顔をしかめる。
もっとも奴が惜しんでいるのが弟子の才能なのか、それとも愛人としてなのかは分からない。
「話を戻すぞ。お前はどうやって生き延びた? その【闇】の力はどうやって身に着けた?」
ヴァレリーが俺をにらむ。
その瞳に映るのは、警戒と恐怖。
そして、
「『闇の鎖』の生け贄になった者が生きていられるはずがない……通常は【闇】に呑まれて消滅するはずだ。なのに、なぜ──しかも、私でさえ得られなかった力まで得て……」
おそらくは、嫉妬。
【闇】という強大な力を得た俺への──。