1 賢者ヴァレリー
前半はヴァレリー視点、後半はクロム視点です。
SIDE ヴァレリー
ラルヴァ王国とリジュ公国の国境沿い──深い森の奥に、その研究所はあった。
「た、助けてください……どうか許して……」
「ひい、痛い痛い痛い痛いぃぃぃぃぃっ……」
「この人でなしがぁっ! あんたは人間じゃな……ぎゃあああぁぁぁっ!」
室内で繰り広げられているのは、阿鼻叫喚の地獄絵図──。
絶え間ない苦痛、激痛に襲われる被検体たち。
絶望の中で、精神崩壊寸前で──いたぶられ続ける者たち。
すべては、魔導の実験によるものだった。
「いいぞ……お前たちの苦痛と絶望が、私の研究を深めてくれる」
苦しむ被験体たちを前に、彼は謳うように告げる。
鋭い目つきに厳格な雰囲気をたたえた、四十絡みの中年男だ。
身にまとっているのは赤紫色のローブ。
手にしているのは、魔法の杖。
今や世界最高の魔法使いと称えられ、魔王ヴィルガロドムスを討った勇者パーティの参謀役でもある賢者ヴァレリーである。
「魔導とは人の心の闇に踏みこむ術。その闇をより極めるために──」
ヴァレリーがほくそ笑む。
彼らの苦痛の表情を見ても、心は痛まなかった。
何も、感じなかった。
ヴァレリーはただ観察するだけだ。
冷静に。
冷徹に。
反応を見極め、貴重なデータを収集していく。
その積み重ねは、彼が研究している術式をさらに磨き上げてくれるだろう。
「いいぞ、もっと苦しめ……もっと悲しめ……もっと絶望しろ」
胸が高鳴る。
ヴァレリーが探究しているのは、人の負の感情である。
呪術の基本にして根源たるもの。
それを自在に操ることができれば、新たな呪術式が完成するはずだった。
「ふふふふふふ……くはははははは!」
ヴァレリーは愉悦の笑い声を響かせた。
「かつて我が弟子に施した呪術は、当時の私の最高傑作と呼べる術式だった。だが、まだ足りない! もっと強烈で、凶悪で、極悪で、そして最強の術式がどこかに存在するはずだ。そう神や魔王に比肩するほどの力を得られる術式が」
二年前に実践した禁呪法『闇の鎖』を超えるかもしれない、究極の術式が。
それが完成したとき──ヴァレリーは人を超え、魔王すら超えた力を手にできるかもしれない。
古来、いかなる魔法使いもたどり着いたことがない領域に、自分が到達するのだ。
目の前では、三十を超える被検体がそれぞれ断末魔のうめき声をもらしていた。
さすがにそろそろ限界なのだろう。
「全員廃棄だな」
ヴァレリーはため息をついた。
「また活きのいい被検体を新たに探してこなければ」
近隣の村は、すでにほとんど狩りつくした。
いい被検体になりそうな、めぼしい人間はもういないだろう。
もう少し遠くの町まで行くか──。
と、考えたとき、
「ヴァレリー様、報告があります」
数人の男たちが室内に入ってきた。
いずれもヴァレリーの護衛だ。
「ぐ、ぐえ……これは……」
床の上に散乱する死体の群れ──たった今、絶命した被検体たち──を見て、兵はその場で嘔吐した。
「吐くならよそでやれ。実験室を汚すな」
ヴァレリーが眉を寄せる。
「し、失礼いたしました……うぶ……ぅ」
まだ気持ち悪そうな護衛たちを、じろりとにらむ。
「報告とはなんだ」
ヴァレリーが促した。
「私は研究で忙しい。手短に済ませろ」
「は、はい……実は、被検体の一人が逃げ出したようです」
「何番だ?」
「はっ。372番であります」
「372というと──例の娘か」
ふんと鼻を鳴らした。
「すでにめぼしいデータは取ってある。見逃せ」
「追わなくてよいのですか?」
「彼女に施された呪いは強力だ。放っておいても死ぬ──魔物に、殺されるだろう」
ヴァレリーはすでに報告には興味をなくしていた。
そんなことより、新たな被験体を探すのだ。
「究極の禁呪の探求──私がそこにたどり着く日は近い……近いぞ……!」
賢者の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
※
人々の前から『聖女』が消えて数日──。
ラルヴァ国内は大騒ぎになっている。
世界的に人気のあった聖女イリーナが、忽然と姿を消したのだから当然だろう。
実際には、彼女は醜い魔獣と化し、魔王軍の残党と今も戦っている。
だが、人々にそんなことが分かるはずもない。
先日のライオット殺害と結びつけて事件を推理する者もいるようだ。
ただ、俺の元までそいつらがたどり着くのは容易ではないだろう。
あいつらの所業を知らなければ、俺のことを知るのは難しい。
この二年で調べたかぎり、俺は公的には魔王軍との戦いで死亡したことになっているらしい。
ユーノたちの誰かが国にそう報告したんだろう。
まあ、その方が俺にとっては都合がいい。
死んだことになっていた方が、正体を知られずに行動しやすくなるからな。
あの後、俺とシアは馬を使い、現場から逃走した。
凶悪なモンスターが多発する地帯をわざと選び、追われづらいルートを選んだ。
慎重に足跡を消したこともあり、今のところ追手の気配はない。
もちろん、油断は禁物だが。
イリーナの音声オーブについては、まだ公開していなかった。
シアに保管させてある。
これにはユーノたち全員の所業が語られているため、公開のタイミングを見極める必要がある──。
俺が次に向かうのは、ラルヴァ王国とリジュ公国の国境付近。
そこには賢者ヴァレリーの研究室があるという話だ。
ヴァレリー自身は常駐しているわけではないが、研究室内にいることが多いんだとか。
その日の夜は、森の中を進んでいた。
うっそうと茂った森林は見通しが悪い。
どこからモンスターが現れるかもしれないし、あるいは野盗が襲ってくるかもしれない。
「俺から10メートル以上離れるなよ」
いちおうシアに言っておく。
彼女には闇のスキル【切断】と【加速】を付与してある。
一流の戦士ですら、今のシアに勝つことは困難だろう。
とはいえ、不意打ちされれば、いかに彼女といえども不覚を取らないとも限らない。
俺のスキル範囲内という絶対安全圏にいるのが一番いい。
「はい、何があっても離れません」
シアが俺のローブの袖をつかむ。
俺の枯れ木のような腕に自分の腕を絡ませるようにして、身を寄せてくる。
……いや、そこまでくっつかなくてもいいんだが。
もしかしたら、イリーナと決別した俺が心を痛めているとでも勘違いして、慰めようとしてくれているのか?
「シア、別にそこまでくっつかなくても──」
彼女に言おうとしたそのとき、
「きゃぁぁぁぁぁぁっ……!」
ふいに、かすれたような悲鳴が聞こえてきた。
前方からだ。
「クロム様、あたしが見てきます!」
シアが叫んだ。
「分かった。だが危険ならすぐに戻れ」
「承知しました」
告げたシアは、赤い軌跡を残して駆け出した。
高速移動スキル【加速】だ。