6 鮮血の結末
「【加速】」
シアがつぶやくと同時に、その動きが残像と化した。
先ほどの男よりもはるかに速い。
ライオットたち英雄クラスに匹敵するほどの──もしかしたら凌駕するほどの、閃光のごとき速度──。
それでも、間に合うのか。
バーンズはすでにイリーナのいる神輿の数メートル前まで迫っている。
シアとの距離は二十メートルほど。
「駄目だ、その女は俺が──」
反射的に前へ出る。
だが、衰えた足は情けないほど弱々しく、ゆっくりとしか動かせない。
「くそ……っ!」
二年の間、ずっと燃やし続けていた復讐の念。
それをあっさりと他の男に奪われるのか。
たぶん、あいつにだって、イリーナを恨む気持ちはあるんだろう。
相応に怒りや憎しみ、あるいは絶望を抱いているんだろう。
それでも、俺は──。
「あいつは俺が……!」
「何事ですか」
神輿からイリーナが地面に降り立った。
あいかわらずの──いや、二年前よりもはるかに美しくなっている。
神々しいまでに麗しく、女神のごとく清らかで。
まさしく、聖女。
……ただし、外見だけだが。
「バーンズ、なぜこのようなことを?」
イリーナは殺意を持った男を前にしても、顔色一つ変えない。
「お、お前が……お前が悪いんだ!」
声を震わせて叫ぶバーンズ。
手にした剣を彼女の前に突きつけ、
「俺はお前のことだけを想い、すべてを捧げてきた! お前の言うままに、汚い仕事にだって手を染めた! なのに、いざ最高司祭の地位が手に入ることになったら、あっさり切り捨てるのか!? しょせん、お前にとって俺はただの道具だったのか!?」
一気にまくしたてる。
群衆がざわめいた。
「お、おい、何言ってるんだ、あいつ……?」
「聖女様が、そんなひどいことを……?」
「まさか。イリーナ様のお姿を見ろよ。あんなに神々しくて清らかな女性が、そんな卑劣なことをするわけがない」
バーンズの言葉に動揺した者たちの声は、それに反論する者たちの声で、すぐに封じられる。
「どうせ、教団内の対抗勢力が聖女様に汚れたイメージを植え付けようとしてるんだろ」
「だよな。イリーナ様は誰にでも慈悲深い、真の聖女様だ!」
「聖女様! 聖女様!」
「聖女様! 聖女様!」
たちまち沸き起こる大歓声。
「……まあ、こうなるか」
外面だけは本当にいいからな、イリーナは。
周囲の空気は完全に『聖女様』の味方だった。
バーンズに対しては、根も葉もない事実で彼女の評判を落とそうとする卑劣漢、といった視線が向けられている。
「……シア、少し待て」
俺は彼女に声をかけた。
とはいえ、その言葉をかけるまでもなく──シアもすでに空気を読んで、足を止めていた。
ただし、バーンズがいつイリーナに襲い掛かっても止められるように、警戒はしているようだ。
俺も、今のうちに少しでも近づくか。
弱々しい足取りで歩みを進める。
その間に、群衆のバーンズへの糾弾が始まっていた。
「聖女様を貶めようとする卑怯者!」
「どこの差し金だ!」
「帰れ帰れ!」
罵声や投石まで起き始めた。
「くっ……!」
さすがにバーンズも焦った顔だ。
彼にすれば、公衆の面前でイリーナの『悪行』を暴きたかったんだろう。
実際、彼女が俺にしでかしたことを考えると、バーンズの言っていることは真実である可能性が十分にある。
だが、群衆にほとんど全員がイリーナの『裏の顔』なんて知らない。
バーンズの言葉を信じるはずもなかった。
と、
「おやめください、皆様」
ヒートアップする群衆を制したのは、イリーナだった。
「どうやら彼は呪術を受けているようです。事実無根の出来事を騒ぎ立て、私を糾弾したのも���その影響──悪しき心に囚われているのです」
両手を広げ、群衆に向かって宣言するイリーナ。
「ああ、なんてかわいそうなお方。聖女イリーナの名において──今から癒して差し上げます」
「な、何を白々しい!」
バーンズは怒りの声を上げて斬りかかった。
──いや、斬りかかろうとした。
その動きがぴたりと止まる。
「ぐっ……う、動けない……!?」
「そう、それでいいのです」
イリーナが彼に向かって右手を差し出した。
「神よ、彼の魂にどうか救済を──」
呪言を告げつつ、その瞳が妖しく輝いた。
「あれは──」
俺は息を飲んだ。
イリーナが今唱えたのは、僧侶系の上位魔法だ。
そして、その効果は──。
「うう……お、俺は何を……?」
バーンズの表情が一変する。
まるで憑き物が落ちたような顔だ。
イリーナへの怒りや憎しみのようなものがゴッソリ抜け落ちたような、顔。
「落ち着きましたか?」
イリーナがにっこりとほほ笑む。
「う、うう……聖女様に向かって、俺はなんてことをしたんだ……ああ……っ!」
バーンズはがくりと地面に両膝をついた。
「申し訳ありません、皆様! 私は、ありもしないデタラメを言いました! イリーナ様がそのようなひどいことをするはずがありません!」
態度を反転させ、群衆に向かって叫ぶバーンズ。
「とある呪術師との戦いで、呪術に囚われてしまったようです……聖騎士にあるまじき醜態……ああ」
苦悩の声でうめく。
「イリーナ様! あなたに刃を向けた罪は、私自身の命で贖います!」
叫ぶなり、バーンズは──。
己の剣を首筋に当て、一気に引ききった。
吹き出す鮮血とともに、青年騎士はその場に倒れ伏す。
「なんてことを!」
悲痛な声を上げるイリーナ。
だが、俺は見逃さなかった。
イリーナの口元にかすかな笑みが浮かぶのを。
さっき彼女が唱えた呪文──。
それは対象を洗脳し、自害に追いこむ僧侶系の禁呪法だ。
高位司祭であるイリーナだからこそ使える超上級呪文である。
「せめて、安らかに眠りなさい」
イリーナは悲痛な表情でつぶやき、治癒呪文を唱えた。
バーンズの首筋からの出血がわずかに勢いを弱める。
だが、それでも血が止まることはない。
こんなものは群衆に対するただのポーズだろう。
バーンズはどう見ても致命傷で、もはや上級の治癒呪文でも助からない。
「あ……ぐ……イリー……ナ……俺、の……」
バーンズはかすれた声でうめいた。
最後に、わずかに正気を取り戻したのか。
それとも──?
彼の手が、力なく落ちる。
ピクリとも動かなくなった。
……死んだか。
復讐相手を殺されずに済んだ安堵感と、彼に対する憐憫と。
俺の中で、同時に二つの感情が湧きあがる。
──せめて安らかに眠れ、バーンズ。
内心でつぶやいた。
「お前の無念はすぐに晴らされる」
この俺の手によって──。