1 聖女イリーナ
今回はイリーナ視点です。次回からクロム視点に戻ります。
SIDE イリーナ
「──では、よろしくお願いしますね。最高司祭様」
暗い寝室でイリーナ・ヴァリムは初老の男に微笑みかけた。
ラルヴァ王国に戻ってすぐに体を求められたことには辟易したが、今はこの男の機嫌を損ねるわけにはいかない。
今後のイリーナの出世は、実質的に彼の一存で決まるのだから。
「ふふふ、任せておけ。これほど素晴らしい体を堪能させてもらったのだ。君の願いをかなえないわけにはいかんな」
「ありがとうございます」
イリーナは一礼し、初老の司祭に恭しく口づけした。
愛情など欠片も抱かない相手へのキスも、慣れたものだ。
ゆっくりと唇を離し、イリーナはそそくさと僧衣をまとう。
ばたんっ!
そのとき、寝所のドアが乱暴に開け放たれた。
「イリーナ!」
叫びながら一人の男が押し入ってくる。
きらびやかな鎧をまとった騎士。
秀麗な顔立ちをした、二十代半ばくらいの青年である。
名前はバーンズ。
イリーナの身辺警護をしている聖騎士の一人だった。
「嘘だ……君が、そんな男と寝たのか……!?」
バーンズは彼女と最高司祭を交互に見て、うめいた。
イリーナはすでに僧衣を着ているが、最高司祭はでっぷりと太った裸をさらしたままだ。
一目見れば、ここで何が行われていたかは明らかだろう。
「なんだ、お前は! 無礼であろう!」
最高司祭が一喝した。
が、バーンズはひるまず、イリーナと最高司祭をにらむ。
「なぜだ、イリーナ! 俺たちは愛し合っていたじゃないか!」
「なんのことでしょうか?」
イリーナは形のよい眉をひそめた。
(よりによって、こんなタイミングで入ってくるなんて)
まさか上位の聖騎士ともあろうものが、最高司祭の寝所に押し入ってくるとは思わなかった。
もう少し分別のある男だと思っていたのだが──。
嫉妬にかられれば、男などこんなものか。
内心でため息をつく。
「おい、イリーナ。これはいったいどういうことだ?」
最高司祭が戸惑ったように彼女とバーンズを交互に見つめる。
「お助けください、最高司祭様。あの者は以前から私に迫ってきていたのです」
イリーナは即座に頭の中でシナリオを作り、弱々しい声で説明する。
『言い寄られて困る女』の表情を浮かべつつ、
「ですが、私が断ると逆上して──」
「なるほど、一方的な横恋慕か」
最高司祭がふんと鼻を鳴らした。
「消え失せろ、小僧。イリーナはワシの女だ」
「な、なんだと……!?」
「見て分かる通り、すでに男女の契りを交わした仲だ。身も心もワシらは深く結ばれている。お前などが割って入る余地はない」
「イリーナ、俺とのことは遊びだったというのか!? あの日、ベッドでささやいた愛の言葉は、全部嘘だったのか!?」
バーンズが愕然と叫んだ。
イリーナはそんな彼を冷ややかに見つめた。
まったく、男というのはどうしてこう単純で馬鹿なのか。
一度や二度寝たくらいで、この聖女イリーナの恋人になったつもりとは。
「ああ……最高司祭様、私をお守りください」
イリーナは悲しげな表情を浮かべ、最高司祭にしなだれかかった。
「あのような虚言まで……まるで私がふしだらな女のように印象付けようとしているのです!」
演技の涙を流してみせる。
「それはけしからんな。どれ、ワシが追い払ってやろう」
最高司祭はすっかりだまされ、呪文を唱えた。
「『マインドウェイブ』!」
精神に干渉し、苦痛を与える呪文である。
「が……はっ……!?」
まともに食らったバーンズは、その場に崩れ落ちた。
「はあ、はあ、はあ……」
脂汗を流しながら、こ���らをにらみつける聖騎士。
司祭はそんな彼をにらみ返し、
「もう一度だけ言う。消えろ」
「く、くそ……っ!」
バーンズは恨めし気に吐き捨て、逃げていった。
「では失礼いたします」
イリーナは扉を閉めて部屋を出た。
バーンズの乱入という予想外の事態はあったものの、事なきを得た。
最高司祭の心証も上々だ。
まずまずの成果だった。
近々、イリーナは次期最高司祭に推挙されるだろう。
女性としては初めてのことだ。
勇者パーティの一員として魔王を討ち、その清楚な美貌から大衆人気も抜群。
そんな彼女を教団も放っておかない。
とはいえ、最後の一押しが必要だった。
だからイリーナは、あの男に──現・最高司祭に体を許したのだ。
恋人である勇者ユーノに対する裏切りではあったが、気にはならなかった。
女の武器は積極的に使う主義だった。
そもそもユーノに近づいたのも、前の恋人であるクロムを見限ったからだ。
彼では、自分を高みに導くことはできない。
(私は……もっと駆け上がってみせる。この世の権力の頂点まで)
「イリーナ様、調査の結果が届きました」
一人の少女がイリーナの元にやって来た。
まだ若いが強い信仰と魔力を備えた、有望な神官だ。
将来は高位司祭間違いなしと言われる人材で、イリーナの側近ともいうべき存在だった。
「お納めください」
報告書を恭しく差し出す。
「ありがとうございます。あなたの働きにはいつも感謝していますよ」
花のような笑顔でねぎらうイリーナ。
「っ……! も、もったいないお言葉です、聖女様」
少女は顔を赤らめた。
そこに書かれていたのは──。
術者の容姿:フードを目深にかぶった男と女の二人組。詳細は不明。
攻撃方法:詳細は不明。
魔法の属性:詳細は不明。
被害者:ライオット公爵および警備兵数十人。
……といったものだった。
「ほとんどが不明というわけですね」
イリーナは形のよい眉をひそめた。
ふいに、脳裏にいくつかのイメージが浮かび上がった。
「これは──」
『神託』。
過去や未来など、本来なら見えるはずがない出来事を見通してしまう──高位の僧侶だけが持つ感知能力だ。
ただしその発現は偶発的なものだった。
自分でコントロールすることはできない。
その『神託』で浮かび上がった光景は。
「ひどい……」
身震いするような殺戮の嵐だった。
街道をまっすぐに進むフードとマントの二人組。
どうやら青年と少女らしい。
青年からは禍々しい雰囲気を感じた。
邪悪な、雰囲気を。
まるで魔族──いや、それ以上の邪悪を。
そして彼に近づいたものは、ことごとく血を吹き出し、チリとなって消えうせる。
そのとき、風でフードが一瞬だけめくれ、青年の顔がのぞいた。
「まさか……」
ハッと息を飲む。
彼女が知っている男によく似ていた。
ただし髪の色が銀髪になっているし、何よりも目が違う。
この世のすべてを恨み、憎むような、濁った瞳。
彼女がかつて生まれて初めての恋をした、あのクロムとは──まっすぐで爽やかな目をしていた、彼とはまるで違う。
「そもそも、あの人は死んだはずです……」
初めての恋人だったから、感傷的になっているのだろうか。
いや、違う。
自分はそんなことでは動じない。
ただ──嫌な予感が消えなかった。