いと赤きもの
勢い良く窓を開いた僕に、対面した碧眼が見開く。
「ディー! 助けて!」
いつぞやのレディアくらいに、全く事情も口にせず助けを求めた。
「うむ。わかった」
そして悩む間もないディー。さすがに頼もしい。
そう言ってくれると信じてたよ!
「ありがとう! じゃあコレ!」
僕は歯を食いしばって、窓枠に大きな箱を載せた。
重い。5キロは僕には重いんだよ。
ディーは小首を傾げてそれを見つめ、訝しげに眉を寄せた。
「…これは?」
「カニ!」
ぐいぐいと押し付けると、ディーは理解できないような顔をしながらも箱を自分の部屋の中へ下ろした。
「ふんぬぅ!」
そこで、僕はもう一度歯を食いしばって床から箱を持ち上げ、窓枠に載せた。
そう、2つ目の箱だ。
二階まで5キロの箱ふたつ持ってきただけで僕はもう満身創痍だよ。
今すぐベッドでダウンしたい。
だけど今回はレディアの気持ちがよくわかった。
大量に、すぐにでも何とかしなければならないものを押し付けられた気持ち。
そりゃあ助けを求める以外の選択肢がないわ。なかったわ。
ふと見れば、追い遣られて窓枠に肘をつけなくなったディーが、所在なさげにしている。
…説明くらいはしなきゃダメだよね。
よし、ちょっと冷静になろう。
「…実は、うちの両親、今度は旅先からカニを送ってきたんだ…」
「…ふむ…?」
「10杯入りを2箱も送ってきて…何かと思ったらさぁ。ホテルで食べようと思ってカニを1杯ずつ買ったら福引券を貰ったんだって。…それでくじを引いたら、二人とも、カニが10杯ずつ当たっちゃったんだって…」
ちょっと泣きたい気持ちで、ディーの陣地へ箱を押す。
押し付けたい気持ちを理解したのか、ディーは2つ目の箱も自分の部屋の中へと下ろした。
若干湿り気を帯びてしまった2人前の窓枠を、ササッとウェットティッシュで拭う。
カニ買ったのにその矢先にカニ当たっちゃうとか、運がいいのか悪いのか。
しかし両親は旅先であるため「そんなにあっても困るし、とりあえず家に送ろう!」と思い立ったらしい。
うちに送らないで、そこらで付近の人に配りまくってくれたら良かったのに。
「…冷凍庫にこんな入るわけないじゃん。それに1匹だって剥くの面倒なのに、僕に20匹も剥けるわけないじゃん。ってか、そんな食えないよね」
しかも相手は毛蟹なのだ。
指に穴がブサブサ開くよ。勝てる気がしない。
「うっかりカニを放置して腐らせたりしたら悲劇も甚だしいよ。海産物の腐敗臭はハンパないからね」
「既にちょっと臭いがする」
「それはカニだから仕方ない」
「うむ、カニィだからな」
…ん?
かに…、ぃ?
思わずディーをガン見する。
ひたりと視線を合わせた相手は、平然とした顔をしているように見える。
見えるがしかし。「なに見てんの?」と尋ねないということは、見られる理由には心当たりがあるのだろう。
それは自白も同義である。
「いや、カニィじゃないよね! 何、やっぱりコレ僕が間延びしてる説なの!?」
語尾伸びまくってる成人男子とか、困ります!
精神的ダメージが計り知れないよ。
「カーニー?」
「誰だよ!?」
ホント、どういうことだ。
どうした異世界、本気でカニがないとでも言う気か?
「ディー。落ち着いて聞いてね。…カニだよ?」
「うむ。海産物だな」
本当にわかっているのだろうか…。
なんか怪しいその態度に、僕はトラップを仕掛けることにした。
「ねぇ、異世界のカニもやっぱり黒くて長いの?」
「…ああ、そうだな」
「はい、ダウトー! どんなカニだよ、それ!」
なんてことだ、やっぱり知ったかぶりしてやがった!
知らないと素直に言ったとして、何の不都合があるというのか。
「ふむ、少し誤解があったようだが…カニィだな?」
「カニ! です!」
「カニ、です」
「真似しなくていい!」
「…ですか?」
「ですね」
うわぁ、ディーのですます口調に強い違和感。
本日もノリノリで残念だな。
ディーは掛け合いが楽しかったらしく、ニッコニコだ。
「カニ食べたことないの? そっちにないの?」
「うむ、私は食べたことがないし、翻訳されないところを見るにそうだと思うぞ」
どうやら知ったかぶりはやめたらしい。
もう飽きたのかもしれない。
しかしカニを知らないのは問題だ。
こんな攻撃的な見た目のものが食えるかとか言われたら、20杯を自己処理せねばならなくなる。
「マジかー。食べれそう? 無理だったらどうしよう、こんなにあるのに」
箱を開けるよう促すと、王子様は床に片膝を付く。
…が、蓋を開けるのに失敗し、爪の間に入った発泡スチロールの欠片をメッチャ気にし始めた。
ダメだ、ディーじゃここから進まない。
急いで玄関から靴を持ってきて、ディーの部屋への侵入を果たす。
見知らぬ感触だったのだろう、まだ爪を気にしているディーを横目に箱をオープン。
途端に漂う磯の香り。
「部屋が…カニ臭くなりそうだな」
「そうなんだよね」
「少し風魔法でマサヒロの部屋に返しておくか」
「やめて、僕の部屋に向けて換気しないで」
なんてことする気だ、コノヤロウ。
調理場に移動した僕らを待っていたのは真剣な顔をした猛者達だ。
一挙一動見逃すまいと鋭い視線を向けてくる。
カニ、剥くだけなのに。
「一応うちにあったカニスプーンは持ってきたけど、あげないからね。返してね」
カニがいないこの世界に残していって良いものではない。
万一別の用途にでも使われては、カニスプーンの存在意義を根底から揺るがすことになる。
「こんな感じで、ポキッと折って全部外します。そんで包丁かハサミで殻割って食べる、と」
言いながら素早く蟹脚を折り取っていく。
あー。軍手を持って来れば良かったかな。
だけど軍手も意外と守ってくれないからなぁ。
途中でピタリと手を止めた僕に、ディーが首を傾げた。
「どうした、マサヒロ。そやつの脚はまだ残っているぞ。全てもぐのがお前の仕事なのだろう」
そんな仕事に就いた覚えないわ。
人を拷問官みたいに言うな。僕はただの会社員です。
「限界が訪れた」
素直に口にしてみたが、相手の目は不審を訴えるだけだ。
「いくら力ないマサヒロでも、それを数本折っただけでそんなことはないだろう」
納得しないディー。
僕はそっと手を蟹から離し、皆に見えるように手のひらを上に向ける。
ディーが眉を寄せた。
「なぜ、そんなに手がボロボロなんだ」
「カニの殻がトゲトゲしてんだよ。痛い」
刺さりまくって心が折れた。
あと、もう面倒くさい。
「早く言え! 手を洗って手当てしろ、お前は回復魔法が効かないんだぞ」
ションボリする僕を、珍しく慌てたディーが水場へ導く。
あの、手を引かれなくても洗うくらい自分で出来るんで。
あ、包帯とか要らないです。皮一枚に穴開いてるだけで、別に血も出てないんで。
「代わりましょう」
見かねた料理人の一人が申し出てくれたので場所を譲る。
パキパキと1匹のカニの脚を外し終えた料理人は不思議そうに、こっそり呟いた。
「棘はあるけど、あんなに負傷するほどではないかな…?」
えー。
待ちたまえ、僕の手は普通ですよ?
あ、そうか。逆に言うと、一般的に異世界人の手の皮は厚い、ということだね。
皆が皆重たい剣をブンブン振れるマッチョどもなんだから、不思議でもないか。
「…ディー、作業できないよ、これ」
要らないって言ってるのに包帯ぐるぐる巻きに処され、ミトンを嵌めたみたいになった手を見つめる。
ディーはなぜか、負傷していないほうの手にも包帯を巻いてくれたのだ。
カニの脚をもぐどころか、甲羅を開けることも、殻に包丁で切れ目を入れる係すらも出来なくなった。
両手とも血も出てないことを見ていたのに、周囲の料理人達はなぜ止めてくれないのか。
そんなことを考えたけど、答えはわかりきっていた。
僕が止めても止まらないんだから、皆も諦めたに決まってるよね。
「負傷するのだから手伝いは不要だ、口だけ出しておけ。どうせマサヒロが達者なのは口だけだ」
確かに口先で説明するだけで料理人達がテキパキとこなしていくから、まぁ、いいんだけどさ。
結果的に異世界コック達の匠の技で、毛蟹は僕が剥くよりも圧倒的に早く片付いた。
異世界人達には馴染みのないカニさんだが、皆、普通に食材として受け入れている。
もしかしたら、カニはいなくても、似たような何かはいるのかもしれないね。