ドーナツで命の危機。
秘密にしているなんて知らなかった。
それはある意味、ディーなりの心遣いだったのかもしれない。
「今日のおやつはなんと、お前の初名乗りのドーナツです」
「…そんな名は名乗っていないのだが? 大体お前、昨日は窓を開けなかっただろう。あれほど一日に一回は開けろと言ったのに、この鳥頭が」
「今日から数日休みでね、休暇を有効活用するために頑張ってたんだよ、昨日は。夜中の二時過ぎに一応チラ見したよ。起きられても困るからこっちも明かり消して隙間から覗いただけだけど。っつーか社会人になったら友達でも毎日なんか会う機会ないから。僕なんて友達ともう年単位で遊んでな…、そ、そんなことより、早くこの中から選ぶんだ。喉詰まられても困るから飲み物も用意してあげるよ、今日は側までポット持ってきた」
ちょっと浮かれていたのは、今日から魅惑の5連休だったからかもしれない。祝日と休日の隙間に有給を挟んで、僕は朝からご機嫌だ。昨夜のうちに洗濯などの雑事は済ませた。予定はキッチリ埋まっている。そう、ゴロゴロしながら本を読んで、気が向いたらネットをするのだ。おやつにカップ麺、レトルト食品も完備した。怠惰満喫の準備は万端。え、外出? 部屋はこんなに楽しいのに、外なんか行ってなんかいいことあるの?
「僕の好きな奴は取られたら嫌なので二つ買っておきました。お勧めの目安はそれね。…まだ拗ねてんの? あぁ、別に食べないならいいんだよ、全然困らない。数日分の朝ごはんになるだけだから。まぁ、僕は今食べるんだけどね。コーヒー入れよっと」
「私には紅茶を頼む」
「え。インスタントコーヒーか日本茶しかないわ。あとは…冷たいのはスポーツドリンク系…ハイポトニック飲料とかあんまり味濃くない奴しかないな。僕、味濃いジュース不得意だから」
昔は100%のジュースも飲めたんだけど最近は刺激が強いと喉が痛くて、むせる…あれ、まだ老化じゃないよね?
「…お前と同じで良い」
呆れたような視線を貰ったが、僕としては彼がご存じないであろうスポーツドリンクに食いついてこないことのほうが不思議だった。出会って数日の嫌になるほどの質問攻めが嘘のようじゃないか。いっちいち説明させられて、つい何回かキレたもんな。あ、だから興味のメーターが振り切れないうちは訊かないようにしたのかな。
マグカップにコーヒーを入れて窓枠に乗せてやる。溜息をついたディーが椅子を引き寄せ、窓辺に座った。電気屋のでかいチラシを窓に敷いて…っと。
「取らないの? 好きなの食べていいよ?」
箱からドーナツを取り上げてかぶりつく僕に、ディーは固まっている。
手についた砂糖を舐めてペーパーナプキンで拭くと、恐る恐るというように声がかけられた。
「皿やフォークは使わないのか?」
「使いたいなら出すけど、ウェッティーあるし別に良くない? …あ、そういえば王子だったね、ディー。さすがにこれはまずかったか」
慣れきって、変な外国人で脳内固定されてた。うっかり。
「い、いや…使わないのがそちらのマナーなのであれば」
「マナー的には皿とフォークが正しいと思うよ。うっかりズボラに友達感覚だったわ、チラシ敷いたし別にこぼしてもいいやと思っちゃって。ごめん、皿取って来るね」
「大丈夫だ! あと、ウェッティーは何だ! それがあると何が良いのか!」
ガタンと立ち上がってまで止められたので、腰を浮かせかけていた僕は再び着席した。なぜディーが握り拳なのかわからない。実は怒ってるのか?
「ウェッティーはこれだね、ウェットティッシュ。湿ってるから手が汚れたら拭けばいいし。乾いてるティッシュはこっちね。でもそのドーナツにするなら、ここ隙間できて取りやすくなってるから、最初っからペーパーナプキンでガッてドーナツ掴んで食ったらいいんじゃない?」
「お前は、か弱い割りに案外、豪快だな」
「豪快じゃなくてズボラだね。だらしないだけ。あと、か弱くないよ。色男は金と力がないらしいから多分それだよ」
「その定義で行くと私は色男ではないようだ」
「チクショウ、爆発しろ!」
過激派の二つ名をいただいた。
そんな感じで和やかにおやつタイム終了。
しかし、ここで衝撃の事実発覚。もうすぐ他国との会談と昼食会があるらしい。欲しがるままにドーナツ三個も与えてしまったが…ご飯はちゃんと入るのだろうか。そのせいで皆がちゃんと食べてるのに一人だけお残しして我儘王子みたいになったら困るな。…おかーさんじゃないんだからそんな心配しなくていいか。
「会談には頭数としているだけだし、食事会も最初だけ揃っていれば途中から抜け出してもいいんだ」
「ふーん。いや、別に待たないからゆっくりしてきて」
顔を合わせるのが日課になってはいるけれど、別に遊ぶ約束してるわけじゃないし。
素直に応じたのだが、相手はそうは思わなかったようだ。
「…つまりだ、すぐ戻るから、このまま窓は開けておけ」
「いや、だからそっちで何かあったら容疑者にされそうだから嫌だってば。ディーが鍵を開けてないから入れませんよって言えたほうがいいでしょ…」
押し問答のようになりかけたところで、ガンッ!と大きな音がした。
…どこだ、上…? いや、でも…。
「何だ」
「わかんないよ。カラスが屋根になんか落としたのかな」
「様子を見てくる、ここにいろ」
ディーは立ち上がり、駆け出そうとするけれど。
「ご無事ですか、殿下!」
蹴破る勢いで開けられた扉と焦ったような声。
ええぇ。これ、なんかマズくない?
「入るな、大丈夫だ! 何だ、何があった」
ディーが抑えるより先に兵士の影が視界にチラつく。
僕は撤収しようとチラシを急いで畳んで。ディーと僕のマグカップを部屋の床に引き戻して。ついでにドーナツ一個銜えてから箱を閉じて。完全にパニックだった。
…ドーナツを銜えたりしなきゃ良かったんだ。
「何者だ!」
兵士って足が速いんですね。槍の先をこんなに突きつけられる経験なんて、多分この先一生ないだろう。刃じゃなくて穂先だからか、結構分厚いんだな。
大丈夫、落ち着け。まだ刺されてない。あ、ちょっと、敵意はないんです、銜えてたドーナツ持とうとしただけなんで突かないでください、いや、ホントにドーナツ持たないとそろそろ落ちるし口の中が、ヨダレがもう限界にっ…。
ぺそっと小さな音を立てたドーナツを、けれど僕は見ることができない。下向いたら槍刺さる。
ごめんね、ディー。僕の部屋側に落ちてたら良かったんだけど、そっちの床が汚れたわ。土足だから三秒ルールとか無理だね。もぐもぐと咀嚼して、若干引いてる気配のある兵士達に両手を上げて降参して見せる。弁解するには口の中を空にしなくては…ごっくん。
「こいつ、何を飲んだ!」
「毒か、吐かせろ!」
おげぇ、こんなことでまさかのピンチ!
「大丈夫、おやつです! おやつ食べただけだから吐かせなくて大丈夫だから! おやつが何か知りたかったらそこに落ちたし、何ならそれ調べられるから大丈夫だから! 部屋汚れたけどウェッティーあるから大丈夫! 多分ディーは怒らないから大丈夫だから! 怒っても大丈夫! 多分許してくれるから大丈夫!」
僕も混乱中なので、大丈夫大丈夫と繰り返すことしかできない。
小さな溜息が聞こえた。ディーだ。
「静まれ」
低めの不機嫌そうな声。それだけで、兵士達の槍の先が困惑したようにブレた。ホントやめて。危ないから動かさないで。
「彼は私の友人だ、そのような真似をせずとも問題ない。私の部屋で武器を抜くとはどういうことか、誰か説明せよ」
「殿下、すぐに隊長が参ります、あちらへ」
「ヒューゼルト」
「私が彼を拘束しておきます。…武器を引け」
槍がガシャガシャと音を立てて引かれる。近づいてきたヒューゼルトが僕の腕をがしりと掴み、窓に乗り上げさせた。ふおぉ、膝蓋骨の下に窓枠の段差が超ぉ刺さってる。思わず顔が歪んだ僕は悪くない。
「しぃっ、大人しくしていろ、お前が無実ならすぐに終わる」
こそりと囁かれた。疑ってないんだよね、ヒューゼルトは敵じゃないよね、信じていいですよね、野良猫とか思って悪かったよ、君は立派なナイトだとも!
「あの、ヒューゼルト、膝痛い」
「膝?」
「段差に乗り上げてる、もうちょっと楽な姿勢にさしてもらってもいい?」
胡乱げな周囲の視線を一身に浴びつつ、ヒューゼルトの手を借りて姿勢を変える。すとんと窓に腰掛けて、ぶらりと足を垂らすことになった。一人だけ靴下で、ちょっと恥ずかしい。一応な、という呟きとともに喉の辺りにナイフが添えられた。あのぅ、本当に信じていただいているのですよね、ヒューゼルトさん。シャッてやられたら何の抵抗もできずに死ぬんだけど。
あぁ、あんなにドーナツ食べなきゃ良かったな、緊張で吐き気がしてきた。
「…つまり、暗殺者は捕まったのだな?」
「はい、しかし「窓が開いているのに結界が張られていたようだ」との証言がありまして、室内で交戦されているのではないかと…」
えぇ、なになに、聞いてなかった。
身を乗り出しかけるが、ヒューゼルトが慌てたように僕を固定したので動けない。すっごい目で睨まれたけど、うん、ごめん。殺す気ないのに添えただけのナイフに寄ってきたらそりゃ焦るよね。支えてくれてありがとう、謎の自殺を遂げるところだったよ。