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はじめてのかつどん。


 腕輪は取れなかった。酷い話だ。

 漫画は一晩では返って来なかった。更にあらすじや解説を延々と喋らされた。なんて酷い話だ。ディーは文字も読めないくせに、なぜか次巻を要求している。むしろ早く自分で読めるように、あいうえお表から作成してあげたほうがいいんじゃないだろうか。

 …甘くすると要求が酷くなりそうだから、やめておくか。いやしかし、気に入りの本を布教するためなら…。


 とりあえず約束どおり金ピカ腕輪にはよく見えなくなる魔法がかけられて、職場では誰も僕のことを成金扱いしなかった。

 週末から僕の運気が下がっているせいか、今日はなぜか僕の部署だけ忙しく、かといってあんまり残業には良い顔をされないので(上司達は帰りたい派なのだが平社員が残るとお目付け残業しなくてはならない)、翌日に差し障りない程度までアワアワと全力で終わらせて…疲れた。お腹は減ったけど、作りたくも後片付けしたくもない。どこかに食べに行くのも億劫…というか家に帰るのが遅くなることが嫌。早く家でゴロゴロしたい。

 よし、こんなときは近所のポカ弁に頼ろう。

 そんなわけでカツ丼片手に部屋に戻り…何とはなしに閉め切ったカーテンを見つめる。

 もうこの窓を開けてもお隣の家庭菜園には会えない。日曜日には何がしかの変化を期待して開いた窓だけど、全くお変わりなかったので今後は一切の期待をしない。もはやこの向こうには偉そうな異人が住んでいるのだ。彼は土曜日に引っ越してきたのだ。そう思おう。

 お茶とカツ丼をスタンバイしつつ、カーテンを少し開けた。一日一回は窓を開けろとか言われたけど、向こうは寝るのが早いみたいだし、いないかもね。まぁ、相手の窓が閉まっていることだけ確認しておこう。

 鍵を外して。ほんの数センチ、ガラス戸をずらす。万一にも気づかれないように隙間から覗く感じで確認を…。

 不意にガッ、と抵抗を感じた。一気に窓がスライドし、フルオープンに。

「遅いじゃないか、待ちくたびれたぞ!」

 左様でございましたか。当方、突然の事態に少々唖然としております。

 え、何、この人張り込みしてたの? 王子って暇なの?

「なぜそんな中腰なんだ、お前は。不審な奴だな」

「不審て。こっちの台詞だよ、なんでそっち側から全力で開けてくるんだよ、びっくりしたじゃないか」

「お前のことだから細く窓を開けて「一回開けた」とか言いそうだと思ったんだ。それに、そちら側はやたらと眩しいから、少し開いただけでもすぐわかる」

 読まれていたらしい。短い付き合いなのに僕を正しく理解しているじゃないか。さすが恐ろしいほどの同調を見せた男。

 涼しい顔してるくせに、笑えるじゃないか。部屋に一人だからってツーステップでバックしたんだろ、知ってるよ。諸刃の剣だから言わないけどな。

「マサヒロ」

「んー?」

「それは何だ?」

 顎で示されて、僕は自分の部屋を振り返る。あぁ、ご飯食べようと思ってたんだっけ。

「晩ご飯だよ、今仕事から帰ってきたばっかりなんだ。作るのも億劫だから途中で買ってきた」

「こんな時間まで働いているのか…」

「んーと、別にそんな遅いわけではないです。三十分くらいしか残れてないから。ディーんとこが早寝なだけ」

 だって、まだ八時前だよ。電車一時間乗って帰ってきたらそんなもんでしょう。

 窓辺から引き上げてカツ丼を開ける。あぁぁ、お腹減った。

 ふわりと漂う香ばしい匂いに、ディーが若干気弱な声を出した。

「私の分は?」

「なんでだよ、晩ご飯食べてないの?」

「とっくに済ませてはいるが、お前、目の前で未知の料理を広げられて黙ってはいられまい」

「王子様は毒見とか色々あるから、よそで適当に食べちゃダメなんじゃないですかね。疲れて帰ってきた一般庶民のご飯奪うとか暴君じゃないですかね」

「…マサヒロ。今度叙勲してやろうか?」

「いらんわ。何に対してだよ」

 今度飯おごってやろうか、みたいな感覚で言うな。

 あんまり可笑しかったので、僕は諦めて小皿とスプーンを取りに行った。肉は一個しか入れないけど、真ん中のいいとこあげよう。

「味見だけだからな」

 裏のなさそうなイイ笑顔が返ってきた。そんなにカツ丼が食べたかったのか…。

 無意識なのか、僕が食べてから自分も食べ始める。僕が毒見役なのでしょうか。別に元々自分が食べるつもりのものだからいいんだけどさ。

「うまいな。…なぁ、マサヒロ?」

「もうあげないよ。これ、僕の晩ご飯だからね」

「ちぃっ」

 僕が黙々と食べている間、ディーはちょっと暇そうに、かつ恨めしそうにこちらを見ている。この人、早寝のはずなんだけど。そんなに食べたら胃もたれするんじゃないんだろうか。そして胃もたれされたら、僕がヒューゼルトに絡まれそうじゃない? 毒盛ったな!みたいな感じで。

 うん、やっぱり今日は味見程度にしておいたほうがいいよ。心を鬼にしてお預けだ。

「…マサヒロ。今度希少素材で装備を作ってやろうか?」

「あのね。こっちでは装備とか使わないからね。武器なんて持ってたら捕まるから」

「なん、だと…」

「今度百円引きセールのときにディーの分も買ってきてあげるよ。結構頻繁にあるから」

「うむ、わかった」

 即答ですか。


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