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けれども逃げ切れなかった。



「ディー2よりもワンコだの犬耳だのと呼ぶほうが不敬じゃないかい?」

「マジか」

 なんでだよ、そっちはただの事実じゃないかよ。



 僕のご希望には沿わず、犬耳王子は再び僕の前に姿を現した。

 ありのままの己を見られることを恐れていたはずのディーが、私室にディーニアルデ王子を招いたのだ。

 ディーの部屋の、応接間っぽいところで優雅なティータイム。ちなみに人払いされているので侍女はおらず、本日も紅茶担当はヒューゼルト。いつものことながら、護衛兵の仕事じゃない。紅茶入れてる最中に襲撃されたらピンチにならないのだろうか。

「どういうことだよ、ディー」

 洗濯途中に携帯で呼び出された僕が、ちょっと不満げになるのは仕方がない。

「うむ。お前は面倒くさがりだが、多分事情を聞けば放って置かないと思ったのだ」

 せめて干してくる時間をくれたら、僕だってここまで不機嫌ではなかったのに。うちには乾燥機はないのだ。長引いたら、せっかく洗濯した服がカゴの中で生乾きの臭いになってしまう。そうなったら、またやり直しだ。頑張るのは洗濯機だが、終わるのを待つのが面倒くさい。そして洗濯機の中に忘れたまま次の日になったりするのだ。生乾きエンドレス。ヤギさん郵便くらい終わらない。

「まずは僕の話を聞いてくれるかな?」

 犬耳男が微笑んでいる。

「…にじり寄るのをやめてくれたらね」

 僕は完全に逃げの体勢に入りました。ドアの位置をチラ見で確認。

 ディーがついた溜息に反応して、ヒューゼルトがあっさりと僕を捕らえる。

 やめろ、僕は二度と血の涙を流すつもりはない。

 ヒューゼルトは怯える僕を片手間で宥めつつ、ソファに押し付ける。

 裏表が逆です、ヒューゼルト。背もたれで窒息する。

 まずい、「背中にべたぁ」したことを根に持たれているかもしれない。どうやら業務用シナモン1kgをネット注文する日が来てしまったようだな。

「ディーニアルデ、話が進まないからマサヒロに絡むな。お前の席はそこだ、そこから動くな」

「床って酷くない!?」

「お前が犬の姿でいればマサヒロの態度も緩和される。しかし膝に乗せさせる気はない」

「ソファに上げてくれてもいいんじゃない?」

「そのソファは気に入りなのだ。毛がつくし、犬くさくなるだろう」

「風呂に入ったからフローラルだよ…もう路地裏臭はしないよ…」

「定位置から動いたら会合は終了する。マサヒロは本来、お前に会わせる者ではないのだ」

 この場で犬耳王子にゴチャゴチャ言えるのはディーだけだ。

 相手は他所の国の王族だから、僕ら下々が無礼を働けば本来はお手打ち&国際問題だろう。僕は窓の向こうに逃げればいいだけなので権力こそ怖くはないが、テロリスト扱いになってしまえばそれを庇おうとするディーに苦難が降りかかるのは必至。僕のせいでディーを不利な立場に置くのは本意ではない。例えばそうして国に不利益をもたらしたのが異世界人ではなく近衛兵のヒューゼルトなら、普通に首ちょんぱされるのだろう。物理的に。

 まぁ、この犬耳王子はそういうことを気にするタイプではないとは、思うけれども。

 犬耳王子は音も立てずに犬の姿になった。案外大人しく、示された位置にお座りをする。

「…ふわっふわだ…!」

「襲撃で三日三晩逃げ回っていなければ、ちゃんとツヤツヤふわふわなんだよ。…撫でてもいいんだけどね?」

「マサヒロ、騙されるな。ディーニアルデは犬のふりをして相手に撫でさせ、油断しているところで人型に戻って驚かすという遊びが好きなのだ。愉快犯だ」

 タチ悪ッ!

 危うく腰を浮かせかけていた僕は、ディーの言葉に従って無心を取り戻す。

「ディーもやられたの?」

「いいや、ディーニアルデの獣型を見たのも先日が初めてだ」

「ディーエシルトーラ王子は犬に興味がないからね。そこらに可愛い犬がいたところで撫でてはくれないよ」

 わん平Tシャツを超おねだりしたのに?

 そう思ったところで気がついた。ディーは、可愛いものも好きだ。けれどもそれは素の時のことなのだろう。

 今は恐らく、油断していない状態なのだ。

「そう。それで、結局僕に何の用事なのさ?」

 長引かせると、ボロが出るかもしれない。早く本題に入ってしまったほうが良さそうだ。

 僕の考えに気付いたのだろう、ディーが少し目を和ませる。

「うん。…言葉の通じない、異国の詩人。それが君で、間違いないね?」

「ディーとはぐれたときに歌って稼いだだけで、平時は詩人活動はしていないんだけど…多分僕のことだとは思うよ」

 訝しげに返した僕に、唐突に、ディーニアルデ王子は歌いだした。

 …ヘタクソだ!

 うろ覚えなのだろう、音程が微妙だ。だけど聞き覚えのあるメロディーと。空耳っぽい歌詞。

「スタンドバイミーだね」

 呟くと、犬は頷く。はへっと笑った。可愛いが、もう騙されない。

「僕の知人が、この歌を知っていた。つまり君は、彼女と同じ場所から来たのだと思う」

 思わぬ言葉に目を丸くする。

 日本人。そして女の子。

 …いや、まだわからない。アレは英語の歌詞だ、うっかりジャマイカ人とかかもしれない。

「それで?」

 珍しいが、有り得ないことじゃない。実際、僕はディーと、とんでもなく同調をして今この場にいるのだ。

 …しかも、二回も世界を繋いでしまった。二度あることは三度あるというし、いつ三度目が起こるかと戦々恐々。

「彼女…トワコは三年前にこちらに落ちてきたんだ。異世界人について色々調べたけれど資料は少ない。彼女を帰してあげる方法は見つからないままだけど、そこに君の歌が…」

「えっ、帰れないの!?」

 それは大変だ!

 驚いた僕に、ディーニアルデ王子が驚愕した。

「き、君は帰れるの?」

「うん。…あれ、僕にその人を帰してほしいっていうお願いではなく?」

「違うよ、同郷ならば心強いだろうから、話をしてあげてほしいって思ったんだよ! ああ、でも、こんな急に帰れるなんて言ったら…」

 ふわふわした両手で頭を抱える犬の図。

 緩みかけた口元を隠して、僕は咳払いする。

「ちょっと待ってよ、始めから順番に話してくれるかな。これ、ディーも初耳なんでしょ?」

「詳細は聞いていない。ただ、知人が異世界人であり、帰れない状況にあるということだけを聞いた。そしてマサヒロが異世界人であると疑っていたことも」

 だからマサヒロに話だけは通そうと思った、と厳かにディーが言う。

 人一人の失踪事件が解決するかもしれないのだ。それは流石に、面倒だのとは言えない問題だ。

「その人はディーニアルデ王子と同調して、こっちに来たの?」

「そうだよ。だけど言葉も身元もわからないような人間を側には置いておけなかったから、トワコは僕の友達が面倒を見ていたんだ」

「補足すると、翻訳の魔道具はあまり一般的なものではない。市場に数はなく、作れる人間も限られている。…何せ、用途自体が限られているからな」

 そういえば、猫の首輪でしたね。

 僕は小さく息をつき、紅茶を一口飲む。

 洗濯物は、諦めよう。思いを断ち切るように、心の中で決意した。


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