かぜの日に:後半戦
どうしてディーがこちらの服を着てきたのか。
それには彼なりの切実な理由があった。
「ヒューゼルトが別件で昨日から3日間護衛から外れているのだ。マサヒロには悪いがどうしても今日明日でないとならん」
いや。いやいやいや。
体調不良だって言ってるじゃないですか。
そりゃ、微熱だよ? でも熱の上がりかけはダルいんだよ?
「今日が無理でも明日には出かけたい。看病してやるから今日中に治せ」
無茶言うな、既に4日くらいはゾンビのような動きで生きてるのに。
仕事を休まなかったことと、ミスをしなかったことを褒めてほしいくらいなんだよ。土日は休まないと、来週こそミスか病欠だよ。
それに、マスク常備にセルフ隔離モードで人に近づかないようにしてきたけど、そろそろ他の人に移るかもしれないじゃないか。これ、移していいタイプの風邪じゃない。移すと洒落にならず憎まれるタイプだ。
「…私は相談しようとしていたのだぞ。だが、お前はすぐに電話を切るし、そうこうしているうちに当日になってしまったのだ」
ディー、聞いて。そして予定は諦めて。というか、前もこっちにはヒューゼルトと来たんだし、無理に目を盗んで出かけなくてもいいじゃないか。脱走一族の血がそうさせるのかい。
今にも天に召されてしまいそうな僕に、ディーは言い切った。
「大丈夫だ、マサヒロ。お前ならできる!」
いや、そういうの、無理なんで。
根性論は、根性のある人だけでやってください。
ディーは何としても僕の風邪を今日中に治すと言う。
「風邪のときはいつも何を食べているのだ?」
「んー…。摩り下ろしたリンゴかなぁ」
でも今回はリンゴ買いに行く体力も摩り下ろす気力もなければ、飲み込むのも辛かったので。とりあえずゼリー飲料のお世話になっています。
風邪の時は桃缶という派閥があるのは知っているが、僕の家はリンゴ摩り下ろし派。リンゴ食ったら薬飲んでベッド直行。それが須月家における風邪の掟である。卵酒も飲んだことはない。
「風邪のときはいつもどのような対処をするのだ?」
対処って何だ。
「えぇと、氷枕…って異世界にあるのかな。濡れタオルを額に乗っけて冷やすとか…かな?」
「よし、わかった」
ハキハキと答えたディーは、ひょいと窓を乗り越えて帰っていった。
…なんかよくわからないが、帰ってくれたので寝るとしよう。一分一秒分の体力が惜しい。
ごろりとベッドに横になり、目を閉じる。
邪魔が入らなくなったと同時に僕の意識は簡単に召された。
やっぱり今週末は寝ないとだなぁ…。
…と思ったら、べそっと顔の上に何かが乗った。
何!?と言おうとしたが声が出ない。視界は真っ白だ。
湿っぽい。あ、濡れタオルか!
「ぶっはぁ!」
慌てて僕は顔面からタオルを引き剥がし、起き上がった。
「起きたか」
「起きたかじゃないよ! 寝てる人の顔全面に濡れタオルかけちゃダメでしょ!」
「ははっ、マサヒロがそうすると言ったのだろう」
掠れ声で喚いても迫力はないらしく、ディーは朗らかに笑っている。
勘違いで間引かれるとか、たまったもんじゃない。
「濡れタオルは額です! デコに乗せるの! 鼻と口に濡れタオルかけたら息できないでしょうが。お前は病気したことないのか!」
「私は回復魔法で治る。しかし、鼻は元々詰まっているので構わないのではないか?」
「黙れ! わかってるなら口塞ぐな!」
「我侭な奴だな、どちらだ」
「…僕の口を、塞ぐな。お前は、黙れ」
無駄な体力を使わせるなよ…。溜息をついて時計を見ると、意外にも二時間くらいは寝ていたようだ。
…あれ、濡れタオル持ってくるのに二時間もかかったのですか、ディー…?
訝しげに目をやれば、ディーは中世服に着替えている。今日は出かけられないというのを理解したのだろう。心底安堵する。
でも、さっき貸したTシャツが返ってきた様子はありませんね。得意の借りパクですね。わかります。
「さて、次はリンゴだったな。先程リンゴがあることは調理場に確認しておいたからな、すぐに持ってきてやろう」
「お前が摩る気じゃないだろうな」
「そのつもりだったが…」
「コックさんにお願いしてきて。そうじゃないと食わない」
「…やれやれ。城の中をリサーチしてきたのだが、人は病気になると我侭になるという。どうやら本当だったようだな」
家事などしたことがないだろうディーが摩り下ろし時に目測を誤って、流血沙汰になる未来しか見えないだけだ。
ツッコミ疲れたので、一旦体力を温存するため、僕は口を挟まなかった。
こんな誤解一つで体力が保持できるのなら、安いものだ。
その後も、ディーは城の中でリサーチしたという様々な民間療法を携えてやってきた。
謎の青汁を飲ませようとしたり。(青臭苦かった)
妙な護符を額に貼り付けてきたり。(キョンシー気分でした)
氷水に頭まで浸からせようとしたり、何かの肉の脂身を食べさせようとしてきたのは断固拒否した。その辺、病人がやっていいことじゃない。悪化するよ。僕はそっちの世界の一般人より繊細だよ。
「…次は…ドラゴンの鱗を魔力水に溶かして飲む」
「物理的に溶けないと思うけど。あと、魔力水って何?」
「恐らく、属性魔力で出した水だな」
本当ですか。聞きかじった話を適当に解釈してませんか、ディー。マロックじーさん助けてー。
まぁ、謎の棒で出した水なら飲めるだろうけど…ドラゴンの鱗はちょっとなぁ…消化できる気がしないなぁ…。
「やめようよ、お腹痛くなりそうだし」
「大丈夫だ、幸い先日のドラゴンはまだ加工中だ。割れた鱗の欠片をちょっと入れればいい」
「いや、鱗でしょ? あの、剣をカァーンて弾いてた鱗でしょ? どう考えても僕の胃袋では戦えないってば」
「ふむ。ならば今すぐ試せる手がなくなったな。待っていろ、ちょっとドング牛鬼の角とルスティカスライムの涎を取りに出て…」
「鱗飲める気がしてきた! ちょっとだけならいける気がしてきたよ!」
あれだ、漬け込んで、成分溶け出たよーとか言っとけばいいんだ。本当に鱗自体を飲む必要はないだろう。
正直、牛鬼はもういいし、スライムの涎とか恐怖でしかない。その危険な混合物をどうする気なのか。飲むの? 塗るの? どっちも嫌だよ!
ディーが鱗をちょろまかしてくると出て行ったので、僕はペン立てに刺さっていた謎の棒を取り出して待機した。
…うちのコップに爬虫類の鱗とか入れたくないなぁ。
ディー、コップも持ってきてくれないかな。
っていうか、なんか汚そうだから、鱗もタワシと食器用洗剤で洗ってから漬け込むんでいいかな。漬すつもりなら洗剤はまずいかなぁ。
「おい、起きろ、マサヒロ」
肩を揺り起こされて、はっと顔を上げた。
どうやらまた召されていたらしい。
そりゃあね、全然休ませてくれてないもんね、この人。
ディーは、コップの中に鱗が浮いた水を手に持っている。
僕の謎の棒は要らなかったみたいだ。そう思ってペン立てに刺し直すと、ディーは思いついたようにコップの中の水を消した。
「水は入れてみたのだが、鱗が溶けないのだ」
「いや、溶けないと思ってたよ?」
せめて粉末にするとかしないと。でも、剣が弾かれる鱗をどうやって粉末にできるというのか。
「マサヒロのアレでやってみろ」
僕の顔は疑問符だらけだっただろう。しかしコップの中の水はディーが消してしまったのだし、彼が諦める時はスライムの涎がやって来る時だ。
無言でもう一度ペン立てから謎の棒を取り出した。
コップの中に、水をちょろり。
熱で薄ぼんやりした頭でも棒が誤作動を起こすことはなく、コップには七分目ほどの水が現れる。
と、水の中に浮いていた鱗がうっすらと光った。
「…ちょ…、ディー、何、今の」
「溶けたな。よし、飲め」
「そ、その前にどういうことなのか説明を求む!」
溶けたよ。溶けちゃったよ。まだ洗ってないのに!
飲めるわけないよ、落ちてた石入れた水飲めって言われてるようなもんでしょ。ディー、衛生という言葉を知っているか。
リトライしようよ、もう一枚持ってきたまえ。
「知らん、もう面倒くさい、早く飲め」
横暴だな!
嫌だよ、と言おうとしたら、相手はそれを察したようだ。
腕力をもって僕の口にコップをぐいぐいしてくるので、僕は諦めて手を上げ、自分で飲みますアピールをする。コップを受け取り、ちょっと一息。前歯が折れるかと思った。風邪が治る保証もないのに前歯も失うとか。泣きっ面に蜂を体現するところだ。
じっと見つめたコップの水には、ゴミが浮いている様子はない。
鱗はどこへ行ったのか。この水、飲んで平気なのか。変な寄生虫とかいないだろうな、ドラゴン。
大体どうしてディーの水はダメで僕が出せばいいのか。どちらもディーの属性魔力じゃないか。これが祝福棒の力か。
現実逃避していると、ディーの手が焦れたようにコップに伸ばされる。また、前歯を折ろうとしている。慌てて僕はコップを呷った。
「納得いかないよ。なんでアレで治るのさ」
僕の風邪はどこに行ってしまったのか。
「治ったのだから良いではないか。もう具合は悪くないのだろう?」
「…うん。ない」
ドラゴンの鱗を謎の棒から出た水に溶かしたもの。
あれを飲んだ瞬間に熱は下がり、声は掠れず、鼻は開通した。魔力がない僕でも、薬なら適用可能ということなのだろうか。
けれども僕は、牛鬼の肉を食べたときと同様の傷を心に負った。
…ドラゴンの鱗、飲んじゃったよ…洗ってないのに…。