かぜの日に:前半戦
あれ、何だか喉が痛いな…?
そんな一日を過ごしたら、あっという間に口内炎ができて、喉の痛みは悪化して、ハナも垂れるし熱も出る。
そう、風邪です。まごうことなき夏風邪だ。
誰だね、夏風邪は馬鹿がひくだなんて言っているのは。そんな俗説を信じるのは早急にやめるんだ。
なぜなら僕は、根本的に免疫力が低いので年中風邪をひきまくっています。夏だけ特にひくわけじゃない。むしろ、夏もひいたから何だって言うんだ。免疫ってどこで買えるの?
それにしても、久し振りに酷い風邪をひいた。
ディーの不満の電話を掠れた声で受け流しつつ、窓は開けない。
正直、遊んでる体力がないんだよ。喉痛いのに電話してるだけいいと思ってよ。だるいから一分くらいだけど。
喉が痛すぎて、ご飯を食べるどころか水分すら飲み込むのが辛い。
ガンガンと音が聞こえそうなくらい痛む頭を堪えながらようやくの週末を迎える。
悪いが休みもディーと遊ぶのは無理だ。何とか土日で回復しないと…。
そう思ってベッドに倒れ込むのに。
…携帯電話、鳴りすぎ!
「…あいよ。うるさいよ、ディー」
『開口一番の台詞とは思えん。…今日も調子は変わらんようだな』
「ひき始め、悪化、更に悪化って流れで来てる。そろそろ調子も上向きになってくるんじゃないかと、思ってるんだけどね」
天気だって、嵐のあとは徐々にでも晴れてくるはずなんだ。
…くるはずなんだ…。
溜息すら喉に痛い。
『回復系の魔法が効けば良いのだが…一度試してみるか?』
「効かないんでしょ?」
『マロックが言うには、な。対象の魔力を活性化して治癒力を引き上げるものだから、魔力のないマサヒロには、理論上効かないそうだ』
どうして魔力が活性化したら治癒力が上がるのか。体温が一度上がると免疫力が…みたいなアレかな?
舌打ちしようとしたが、無駄な衝撃は喉を痛めるだけなのでやめておく。
魔法による御利益が全く受けられないのですが、棒じゃなく僕を祝福するように精霊に直談判する方法はないものだろうか。
しかし、あっちは本当に魔力のない人間には住みにくいんだなぁ…。
「精霊使いは?」
『…何?』
「魔力がないけど祝福があって、精霊使いになった人の場合。回復魔法は効くの?」
『…ふむ。魔力がないのなら、理論上は、効かないはずだな』
「効く場合もある…?」
『試したことがないからわからない。魔力が全くない人間を、お前の他に見たことがないと言ったろう』
「そうでした」
『しかし、確かに精霊使いとて回復魔法が効かねば困るはずだ…何か方法があるのかも知れんな』
どうせ僕は精霊使いでもないので、参考にならないんですけどね。
風邪薬も全然効いてる気がしないしな…あ、いや、インフルではないはずだ。僕は未だかつて一度もかかったことがないからな。予防接種もしたことがないし。
あれ、そう考えると実は結構免疫力高くない?
でも、大抵酷くはならないものの、風邪はメチャクチャひく。何なのか。インフルエンザにだけやたら強いのか、僕の免疫よ。
そろそろと遠慮がちに下りてくる瞼を止められない。
ああ、そろそろ本当に天に召されそうになってきた。…パトラッシュの代わりに、わん平が迎えに来…ないな、わん平は腹出して寝てるな。
『…、…ヒロ…、マサヒロ!』
「お?」
『おい、起きろ。窓を開けておけ、しっかりしろ!』
「…おぉ?」
若干、意識を喪失していたらしい。ディーが真剣な声を出している。
死にはしないから。寝かせてくれれば一番いいんだけどなぁ…。
そんなことを思いながら、何とかベッドから這い出して窓を開け…る前に一応マスクをしておこう。異世界に持ち込んで、何かあっては困る。
ぐおぉ、いつもより窓が重い気がするぞ。うでぢからが失われている。
ちょっと窓を開けただけで、素早く向こうから全開にされた。今日は助かりましたけど、これ、防犯対策したほうがいいのか悩むな。
真顔で唇を引き結んだ金髪碧眼に、僕はそっと片手を上げる。
「おいっすー」
「…なんだ、それは…?」
マスクのことだろうか。それとも、挨拶のことだろうか。判断がつかないので、とりあえずスルーしておく。
「目が死んでるな」
余計なお世話だ。
二十秒に一回くらいズビッと音を立てる僕を不憫そうに眺め、ディーは眉を寄せた。
「医者を連れてきてやろうか。異世界人とはいえ人体の構造には変わりあるまい」
どうかな。そっちは魔力とかいう謎物質を所持するのが当然という生き物達だからな。人体構造がどこか違っていてもおかしくない。心臓、肝臓、魔臓、みたいな。え、今の何?って周囲が二度見する臓器がこっそりありそう。
しかし、その医者、王子の主治医とかじゃあるまいな?
異世界人の治療になど当たらせて、「こっちは王族の主治医なんだよ、この下々め!」みたいな対応をされたら凹む。
弱っている今なら、僕はきっと言ってしまうだろう。「我が家の風邪薬に、お前ごときが勝てるとは思えぬ!」と。
ちなみに須月家で愛用の薬は、全国展開の薬局チェーン店では見かけない。昔ながらの薬屋さん…で、入れ歯の高齢店主が背後に守っている風邪薬だ。言わないと取ってくれない。
刷り込みか思い込みだとは思うのだが、コレじゃないとなんか効きが悪くって…まぁ、今回はそれすら効かないんだけどね。
病院? 土日は休みだよ。やっぱり昔ながらの個人病院で、ヤブと噂のとこだけは土曜も開いてる。そして隣町の病院まで出かける体力はない。
病を得て知る、過疎地の恐怖…いや、普通に昔から知ってたな。田舎育ちだもの。
祖父母の民間療法とか出てこないだけマシなほうだ。祖父母が同居の友達の家では未だに残っているからな、梅干を額に貼る的な奴が。脈々と受け継がれていくのだろうな。
「いや、いいよ。寝かせといてくれればそのうち治るから」
だから休ませてくれたまえよ。
なぜ窓枠を乗り越えているのかね。
乗り越え終わったディーの全身が明らかになる。
ツッコミを入れる体力がないというのに、上が中世服で下がジーンズという謎の出で立ちをやめるんだ、腹筋が死ぬ!
「なんっ、なんでジーンズ、ふへっ…」
「大丈夫か、お前」
お前だよ、大丈夫じゃないのは。
軋む身体に鞭打って、クローゼット全開。タンスの引き出しを開けてTシャツを…、間違えた、ここ靴下の引き出しだった。ディーが覗き込んだ気配に慌てて全閉。えぇと、Tシャツ、Tシャツ…。
「コレ着ろ、コレ! お前、上下の異質さハンパないから!」
「…そうか?」
「なんでそっちでジーンズ履こうと思ったのか、一応訊こうか」
放られたTシャツに素直に着替えながら、ディーは少しだけ眉を寄せた。
雰囲気だけなら重々しく、口を開こうとする。
「今日はそちらへ行くつもりだったので、着替えていたのだ。しかし先程うっかりと上を汚してしまってな」
なんで最初から来る気だったのか。
着替えているということは外に出るつもりだったのか? 僕の体調を知っていながら?
そして、わん平Tシャツに何があったのか。
言いたいことはあれども、喉を守るため、僕は一つ頷くに留めた。彼の説明の続きを待つ。
「仕方がないので上だけ別のものに着替えたのだ」
説明の続きは特になかったようだ。
がっかりだよ。
「コーヒーでも零したの?」
魔法世界では染み抜きも容易なのだろうか。
先日ディーがカップを引っ繰り返したことを思い出して口にすると、青い目が伏せられた。
「いや。ホットドッグを食べていたのだが、ケチャップが付いてしまった」
ちゃっかりホットドッグも作ってたよ、異世界人。もしかして食パンレシピ要らなかっ…
「最近、兄の希望でサンドイッチとホットドッグがとても良く作られているのだ。作られているのなら私だって食べたいだろう?」
あ、ケー王子のブレない欲張りコースでしたか。
「まさかレタスがあのような動きを見せるとは…油断してはいけないな」
レタスの動きとか。
どれだけ油断せずに生きていこうとしているのか。
頬の内側を噛んで笑いを堪えつつ、僕は発熱と笑いとマスクの息苦しさで失いかける意識を引き止める。