不在、だと…?
多分少ししか使わないだろうに、こんな量でいいのかなぁ。
そんな風に思う。
とりあえず、ビニール袋は除去必須だよね。そんな考えから、百均で買ったガラスのボトルに詰め換えたシナモンパウダー。「無理はしなくていい、用意できるだけ欲しい」と苦々しい顔で、それでもヒューゼルトは僕に頼んだ。
…あの、ヒューゼルトがだ。
アップルパイの力って凄い。そう思うと同時に、意外と僕は納得していた。
古来より、日本人とは、普通には食えないものさえも何とかして食おうとしてきた人種である。フグやコンニャクに至っては、お前どうしてそんなにも努力しちゃったんだと言わざるを得ないほどだ。そんな日本人から見れば、己のプライドより食い意地を優先させた様は清々しい。いや、純粋な気持ちで。別に一泡吹かせたとか一切思ってない。思ってないのに弁解すると余計嘘くさいな。ええい、もうやめた、考えない。とにかく、僕はヒューゼルトの要望にお答えして、地元のスーパーの製菓コーナーへ出かけたわけだ。
しかし田舎なので、三袋しか売っていませんでした。
買い占めると迷惑かなと思って二袋買ったんだけど…それでも正直、こんなに使わないと思うんです。だって、アップルパイ以外に使い道がわからない。
実は以前に「シナモンコーヒーが手軽で美味しい、読書のお供にオシャレで良い」なんて周囲で騒がしかった時期があったので、シナモンパウダーを買ってインスタントコーヒーに入れてみたことがあるんだけど…僕はあんまり好きじゃなかったなぁ。どうしても、コーヒーだけでいいんじゃないかって気になっちゃって。あれ、インスタントじゃないちゃんとしたコーヒーでやったら美味しいんだろうか?
シナモン一袋も飲みきれる気がしなくて捨てるかどうか悩んだくらいだ。さすがにアップルパイを自分で焼く気まではない、買ったほうが絶対美味しいだろうし。その時はちょうど貰い物のミルクジャムが開封もせず賞味期限寸前になっていたから、そこに混ぜることで何とか使い切った。シナモン自体は嫌いじゃないんだけど、甘いものと一緒になってるほうが僕には美味しくいただけるみたいだ。シナモンロールも好きだしな。
「毎日毎日、アップルパイ焼いちゃうのかな…。その内、お菓子の匂いがする近衛兵になっちゃうんじゃないのかな…。…辛い、リアルはこれだから辛い…」
シナモンを使い切る頃には、もしかしてヒューゼルトもアップルパイを見たくなくなっているかもしれないな。
しっかし自炊のできる男だとしても、お菓子作りにまで手を出すとはな…すげぇとしか言えないよ。
女騎士だとしたら、強そうなのに可愛い趣味もあるんだねって感じのチャームポイントになると思うのに…ヒューゼルトだろ。
姫も出てこないし、女騎士も出てこないし。こちらで見知った女子というと、僕を奇異なものとして見ていたスリッパ配達の侍女さんと、自称美女のレディアだけだ。
あとの知り合いといえば男で、脱走王子とその捕獲に息切れするじーさんとお菓子兵士と寸止め奴隷。うわぁ…世知辛い。せめて懐いてくれるギルガゼートが女の子だったなら…いや、年の差過ぎて全く興味がないな。というかディーの相手だけで手一杯なのに、更に子供の相手とか面倒…。
そこまで考えて、僕はふとガラスに映る自分に目を留めた。
向こうだって、着物装備の大和撫子とかが登場したら大喜びだっただろうに。これは諸刃の剣だったか。
ダメだ、女の子にしたところでこっちもツーステップでバックとかする屁っこき娘でしかないんだった。
あぁ、残念、残念。小さく首を横に振り、僕は窓を開けた。
しかし、僕は締め出されていた。
ディーの窓が閉まってる。
「…えぇ…? こんなことも、あるの?」
就寝時間後から夜中特訓前という微妙な時間帯にはいないことはわかったけれど、その他の時間帯なんていつ開けても大体ディーがいた。いないと信じて開けた夜中にさえディーはいたので、僕が開けるときには必ずディーはいるものだと勝手に思っていた。というか、彼の手が空いているときは窓を開けてずっと待たれているような気さえしていたので何時に窓を開けるなどという約束はしたことがなかったのだ。うわぁ、自意識過剰だった、恥ずかしい。転げ回りたい。ビンのフタ取れてシナモンぶちまけそうな気しかしないからやらないけども。
それにしても。お暇王子のはずだったのに、何かあったのだろうか。
ちらりと部屋の掛け時計を見上げる。午前十一時。シナモン買ってきて詰めたりしたから、いつもよりは遅めかもしれない。けれどお昼ご飯には早いし、土曜の僕が休みだということは知っているはず。もしかして、昼食会的な公務が入っているのかもしれない。
…そうなのかもしれないの、だけれど。
焦りにも似た妙な気分で、携帯電話を取り出した。
友人知人に会社、近所の弁当屋や歯医者の電話番号に混じって、簡素な『ディー』の文字。ロングなほうで『ディーエシルトーラ』って登録してあげたほうがいいのかな。いや、カタカナで長いとお店の名前と見間違えそうだからやっぱりやめよう。うっかり飲み会の予約とか入れそうになったら困る。ディーの名前だと何屋なのかな。長いカタカナ。オシャレレストランかな。まさかの居酒屋でも面白いけど。ケーキ屋っぽくもあるか。
あれ、変だな、混乱してるかな。
コール数が十二を超えたところで、プツリと繋がる音。
繋がった。
なんだよ、部屋にいるんじゃないか。
安堵した僕は、次の瞬間には頬を引きつらせていた。
ガサガサとしたノイズに混じるディーの声。その背後で渦巻くようなバトルクライ。
『マサヒロか?』
僕だよ。携帯電話でお前に電話かけるのなんか僕しかいないでしょうが。何やってんのさ、騎馬戦?
そう軽口を叩こうとして、けれども言葉が出ない。
「…どこ」
やっと搾り出した言葉はそんな一言だ。
部屋じゃない。向こうは。ディーがいるのは。
『今か。ちょっと討伐をしている』
コンビニ行ってるみたいな口調で言うな。
なんで。何なの、戦争? そんな話、全然聞いてないですけど。
王子様自ら行くもん?
昨日の夜には部屋にいたじゃないか。
どうして部屋の外で電話が繋がってるんだよ。
おかしいじゃないか、と。色んなことを思いながらも…どれも言葉にできなかった。向こうは戦場なのだ。ディーの声はいつもと変わらない。けれども、BGMは怒号に剣戟。完全に緊迫していて、空気の読めない僕にさえ軽く言葉を発することが憚られる。
『マサヒロ。悪いが後でかける』
言うなりディーは電話を切った。
僕の前には閉ざされた窓。音の聞こえなくなった電話。
出ないでくれたほうが心配しなかったかな。
それはそれで心配だったかな。
「…し…シナモン爆弾ってどうかな!」
意味もなく叫んで、僕はぶんぶんと頭を振った。固まっている場合ではない。
何と戦っているんだろう。討伐は…あんまり他国との戦争には使わないかな。魔物が出ると言っていたんだから、魔物退治なのかも。
窓が開いていなければ向こうにもいけない。こじ開けても窓を割っても不審者扱いされそうだ。むしろ壊した場合ってどうなっちゃうの? 風通し良好と共に常に繋がった状態になるのか…ゲート破損扱いで空間自体が繋がらなくなってしまうのか。その場合って新しいガラスを入れて、ちゃんともう一回繋がるのか?
…そうじゃない、行ったところで僕は戦えないのだから、足手まといだ。
防犯グッズは自衛手段でしかない。
「…どうしたものかなぁ…」
悶々としていても、時間は過ぎていく…。