もしかして:翻訳不能
静かに手元を見つめている男のことを忘れてはならない。
無視しようかなぁ、なんて思ったりもしたけれど。
「…ねぇ、ヒューゼルト。具合でも悪いの?」
声をかけると、少し眉をひそめたヒューゼルトが「いや、特に悪くない」と答える。
逆に怖い、睨まれないことが。
この人、今日は一回も僕にビームを放って来ないんですけど。
「でも、なんか変だよ?」
「…何が変だと言うんだ」
お前の目がピッカァってしてないことだけど、直接言う勇気はちょっとないです。
ドキドキしながらヒューゼルトの隣の椅子を引く。睨まれないと落ち着かないというのも、おかしな話だ。友好的なほうがいいに決まっている。
「たい焼き、気に入らなかった?」
背びれを食われた鯛が、物悲しい感じで彼の手に収まっている。毒見でちょびっと齧ったヤツだ。たい焼きをテーブルに広げてから結構時間が経っているのに、彼は手の中に包んだまま、食べ進める気配がない。クリームと餡とチョコがあるんだ、どれか気に入らない味に当たったのかとも思ったんだけど…見たところヒューゼルトは背びれしか食べていないので。その中身が何なのかさえ、全然見えてないので。
僕は目を細めて、並んでいるたい焼き達を見つめた。あいつは端に餡が透けている。ということは、左右は餡の可能性が高い。僕が狙うのはクリームだが、さて、どれが当たりなのか…。
これだ!と素早く引き寄せたたい焼きを齧ると、チョコだった。無念。
「別に。お前の世界には随分色んな菓子があるとは思うが」
「アップルパイじゃないから怒ってるわけじゃないんだよね?」
冗談のつもりだったのに、カッとヒューゼルトの目が見開いた。起動スイッチ押したか?
…えー…でも、お土産に不服申し立てってどうなの?
助けを求めて、ちらりとディーを見る。あ、駄目だわ、ニヤニヤしてる。完全に面白がってますね、コレ。
目を見開いたヒューゼルトはぎしぎしと音を立てそうなほどぎこちない動きで、たい焼きの頭を口に入れた。やたらと一口がでかい。喉詰まっちゃうぞ。
「そろそろ聞いてみたらどうだ、ヒューゼルト?」
「…お断りします」
「ちょっと話を聞くだけでも大きなヒントになるのではないか? なにせ、異世界の料理なのだからな」
おお、ようやく本日のビームが出ました。
不本意なことを言われても主を睨むわけにはいかないという生真面目さには脱帽だよ。なぜその目をこちらに向けるのかは別にしてもね。
「何の話。ヒューゼルト、アップルパイ作ってんの?」
「…くっ…」
「え、マジで。自作しちゃったの? そんな気に入ったの? 案外甘いもの好きだよね、ベビーカステラも鬼のように食べてたし。警戒と書いてヒューゼルトと読む、みたいな生き物だったのに、お菓子の魅力に屈しましたかぁ。ほほぅ。好きな食べ物はアップルパイなんですかぁ。何だか屈強な兵士から、急にイメージが素朴で可愛い感じになってしまいましたねぇ」
「ニヤつくな! だから嫌だったんだ!」
痛恨、悔恨と言わんばかりのその態度に苦笑する。ちょっとからかってはみたけれど、ディーと違ってヒューゼルトをいじるつもりはあまりない。デジカメの連射にも捉えられないような速度で動く兵士に殺意なんて持たれたら、僕の人生が普通に終わる。
「それで、マサヒロ。ヒューゼルトはどうも納得のいくアップルパイにならず悩んでいるようだが、何か思いつくことはあるか?」
止めを刺されてヒューゼルトは項垂れた。あまりにも容赦のないディーである。僕は少しだけヒューゼルトに同情した。全然気にしてくれてないけど、僕に頼るのはイヤだって言ってるんだよ、ディー…部下の気持ちも気にしてあげてください。
「そうはいってもな…あれは砂糖で煮たリンゴをパイ生地で包んで焼いたものだと思うんだけど」
お菓子とは買うものだ。だから、作り方なんか知らない。
リンゴが煮られているというのは、祖母が昔リンゴのコンポートをやたら作ってくれていたことを思い出して言ったに過ぎない。苦行だったな…リンゴ、砂糖の味しかしないんだ。ばーちゃん、すげぇ甘党だから。何かにつけて砂糖使いすぎで。でも、笑顔で出されたら断れない。僕はわりと、じーちゃんばーちゃんに弱い。祖父母とは心と家の距離が近い田舎の子だからな。
「砂糖と、リンゴと、パイ生地はわかっている」
ヒューゼルト…パイ生地も作ってるのかな…。休日に一人黙々と? それとも仕事上がりに疲れた自分を鼓舞しながら? 目からビームの出るパティシエ近衛兵なの?
あぁ、ダメだ、ヒクつくな口の端。笑ったら本当に命がないかもしれないんだぞ。
「…あっ。もしかして、シナモンかな?」
ヒューゼルトが顔を上げた。不思議そうな顔をしている。
「シナモンがないとアップルパイじゃないって言う人もいるよね。僕はシナモン強くても入ってなくても美味しくいただける派だけど」
あの特徴的な香りが気に入った要因だというのなら、砂糖煮のリンゴだけでは納得できないだろう。
「それは何だ?」
ディーが小首を傾げた。僕は首を傾げ返す。
「何だろう…調味料…違うね、スパイスかな?」
スパイスというと胡椒とカレー粉のイメージだけど、シナモンの所属はそっちだよね、きっと。
ヒューゼルトの眉間にしわが寄っている。
「…え、なんで怒ってんの?」
「シナモンとは何だ?」
「だからスパイス…」
「何からできているのかと聞いているんだ」
「…何から…? 何だろうな? シナモンは…ニッキ…」
「ニッキ…? それは何だ」
「ええぇー? ニッキは…、あっ、桂皮!」
ディーとヒューゼルトが眉を寄せたまま「シナモン…ニッキ…ケイヒ…」と呪文のように繰り返している。シナモンの正体は僕にはわからない。粉しか見たことない。
しかし僕は気づいてしまった。彼らの繰り返す呪文…どこか、アクセントがおかしい。
もしかして:翻訳不能
「シナモン、ないのかな、こっちに」
呟くと、ヒューゼルトが項垂れた。わぁ、落ち込まれた。睨まれるほうがマシだよ。
「多分スーパーの製菓コーナーとかに売ってると思うな。トーストにかけて焼くだけって粉が一時期流行ってたし、そん中にもシナモンシュガーあった気がする。シナモン食いたいだけなら、最悪それでトーストにかけて食べればいいんじゃないかな」
ヒューゼルトはやはり、不思議そうな顔をした。そんな素の顔されると、仲良くなったように錯覚する。
「…どしたの?」
「トーストとは…何だ?」
「…な、何ってなんだ…あぁっ、トースターがないのか! だから異世界でトーストは通じな…いや、トーストする機械だからトースターなんだよな、別にトースト自体は焼かれた食パンとしてトースターの前に存在するんじゃないか。食パンはあるんだよね?」
「ショクパンとは何だ?」
「ファッ!?」
横からディーまで参戦してきた。僕は驚愕の表情を貼り付けたままだ。
この人達のいうパンってどんなんだろう。コッペパンかな、バターロールかな。フランスパンとかあるんだろうか。フランスってついてるくらいだし無理かな。むしろトーストどころか食パンが通じないということは…フレンチトーストもシュガートーストもないんだろうな。蜂蜜かけたり、イチゴジャム塗ったりもできなくて…え、待って、食パンがないってことは、まさかサンドイッチも…ってことはクラブハウスサンドが…ホットサンドが…カツサンドが…わぁ、損してるなぁ! こっちの人達、すげぇ損してる!
でも、僕に用意してあげられるとしたらトーストまでである。
「…シナモン、買ってあげるから。頑張ってね」
僕にはそう告げることしかできなかった。
各種美味しいパンは、存在がバレたときに外食に連れて行くことを考えよう。