そして克服した。
外で襲撃に遭ったあの日から、僕は窓枠の向こうへ行かなくなった。
今までも決して頻繁に足を踏み入れていたわけではない。というか、玄関から靴を持ってくるのが面倒なので、そんなにちょくちょくは行ったりしてない。
それでもせっかく城の中を歩く許可を貰っていることだしと、誘われれば簡単にホイホイついて行ったし、たまには点火棒と魔操棒で遊ぶのに訓練場にも行っていた。ディーが四種の魔法を使いこなすので、今では水の玉、火の玉、そして土の玉とも戯れている。土玉は結構重いので操るのに気合がいることがわかったり、風玉は見えないので全くダメだったりもしたが、僕はいまや三種混合玉でジャグリングをこなせるほどの腕前となっていた。誰にも自慢できないけどね。
ディーは幾度か魔道具製作の様子を見に行こうと、僕を誘った。僕は断った。
彼はまた、訓練場や調理場のコックとの交流(新たなレシピ入手が目当て)にも誘った。しかし僕は、やはり断った。
「そっちは危ないから。そのうちにね」
そう答える僕に、ディーは少し困惑げに「わかった」と頷く。
絶対に行かないと言い張るのなら「あぁ怖かったんだな、平和な国の人畜無害を名乗っているもんな」くらいに思ってもらえるのかもしれない。けれども僕は「そのうちに」と答えた。日本人ならそれがNoと同義であると無意識に思うかもしれないが、僕は本気だったんだ。本気で機を待つつもりだった。
口に出しはしなかったが、多分ディーは「外が怖いとしても、城の中くらいいいんじゃないの?」と思っていただろう。僕自身、何度かそれを自問自答している。
それでも僕は準備が整うのを待った。中途半端では良くない。城の中にいても暗殺者に出会う確率はゼロではない。窓に弾かれた暗殺者の存在を、僕はまだ忘れていない。
…僕は今後も誰かと戦うために剣を取ったりはしないだろう。
これも何度も考えてみたんだ。だけど僕は異世界から帰って来れなくなったわけじゃない。僕の生活は常にこちらの世界にある。アウトローな生き方をする予定は一切ない。他人を傷つけることを躊躇わなくなるのは、困る。それにどれだけ身体を鍛えたところで、結局は本職の人に敵うわけがないと思っている。戦えば負けるんだ。つまり、僕は万が一前回のような状況になっても、怪我をせずに逃げ切りたい。
トレーニングを始めたところで、怠惰な僕では三日坊主にしかならないだろうしね。
そんなことを考えながら、僕は今夜も窓を開けた。
「機は満ちたよ、ディー」
「ん? 何の話だ?」
「レディアと魔道具の様子はどうかな? 都合がつけば、また行ってみたいと思ってるんだ」
そう口に出すと、ディーは青い目を真ん丸にした。
どれだけ誘っても頷かなかった僕が手のひらを返したことが、理解できなかったようだ。しかし、さすがはディー。二秒くらいで持ち直し、フンと笑って至極簡単に答えた。
「そうか。ではお前の次の休日には会えるよう手配しておく」
何も聞かない男らしさである。僕が誘いを断り続けても「わかった、ではまたにする」と返し続けただけのことはある。僕が本気で発したように、彼もまた「そのうちに」という言葉をきっちりと信じたのだ。僕の言葉や態度はしょーもないんだけど、それに対するディーの一貫した姿勢は評価に値すると思う。
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本日のお土産はベビーカステラです。理由はやっぱり、包装が紙だから。
「いやー、もっと違うものを考えてたんだけど、道端にベビカス屋さんがいたら買わずにはいられないからさぁ」
ショッピングセンターの駐車場に移動販売が来てたんだよね。だから、つい。
城で事前にヒューゼルトに毒見(と、ディーにも味見)させたので今回は文句あるまい。
「あぁ…美味しい匂いがします。異世界のお菓子はなぜこんなにいい香りなのですか? 今日は期待していたのでクッキーなんて焼きませんでした」
うっとりと紙袋から立ち上る匂いを楽しむレディア。気持ちはわかるけど、冷静になったほうがいい。焼き立ては何だって美味しい匂いがするものだ。レディアのクッキーだって、焼いとけば美味しい匂いがしたと思うよ。
「それで、魔道具はどんな感じ?」
「はい、もう話したくて仕方なかったんですよ! あの、CDプレーヤーが面白くて面白くて。革新的ですよぉ。試作してみようにもまずは円盤の中身のほうから何とかしないといけないもんですから、酒場にいた吟遊詩人の方に協力を…」
「そっちじゃないよ、翻訳ドッグタグのほう!」
「違うぞ、翻訳メガネのほうだ。前回あれだけ検証項目を指摘したのに、遊んでいる場合か」
それぞれの思惑がぶつかり合う。三者三様の言い分の横で、魔道具には関係のない護衛兵が一人黙々とベビーカステラをつまんでいた。ヒューゼルト、そんなペースでカステラを口に入れたら喉が詰まるんじゃないかな。
ああでもないこうでもないと盛り上がり始めたディーとレディアは結構仲良しなのかもしれない。ちょっと目を放した隙に会話に混ざれなくなっていた。白熱討論会セカンドが開催されていた。
…CDプレーヤーに夢中で、頼んだ魔道具はあんまり進んでないってことはわかったんだから、もう聞く話もないんだけどね。
しかしこの世界の人はこんなにフリーダムでいいんだろうか。もっとちゃんと仕事し…た結果がヒューゼルトか。クソ真面目かサボリストの二択…中間がない。
「良かったのか、マサヒロ」
ぽつりとヒューゼルトが呟く。
「うん?」
「しばらく、こちら側に出て来たがらなかっただろう。…別に、私はそうしてくれたほうが助かるのだが」
どうしたのさ、ヒューゼルトのツンデレは要らないよ。需要なんかないよ。
そう軽口を叩きそうになったが、一応あの日は世話になったので僕は適切な言葉を探した。心配してくれているのはわかる。
「敵意とか殺意に出会うなんて、あんまりなかったからね。攻撃されるなんて怖いし、自分が攻撃することだって怖い。今も、有り得ないって思ってる」
死ねばいいのにとか、居なくなっちゃえよとか言っても、自分の手で殺してやるとまではなかなか思わないもんだよね。そういう、優しい環境に生きてこれたのは幸せだと思う。
「だが、黙って殺されてやるわけにもいかないのじゃないか。考えてもみろ、森に入っただけでも似たような状況は起こるだろう。相手が人か動物かというだけだ」
…森に入るということは、野生動物と出会う。殺される前に殺す、危機に対する基礎ができているということなのだろうか。
「あのねぇ。僕の国では、生き物の命を自分の手で奪う機会があまりない人が多い。もちろん肉も魚も食べるんだから、そういう仕事に関われば別だよ。でも僕みたいなのは多くて、使いやすい形に切られて売ってる肉や魚をただ買うんだ。肉だって、畜産業だからね。野生動物を狩る人は少ないよ、お肉用の動物は牧場で育てられてるんだよ」
こっちの人は買い物もするけど狩りや採集もするんだ。そして「今晩はガッツリ肉を食べよう」と思ったら普通に森とか行っちゃう。行動力、ハンパない。ちょっとなら買うのもいいけど、忙しい人や金持ち向けみたい。狩ればタダだ。大物なら剥いだ皮も売れてむしろ得だ。そんな環境。
「…お前、狩りもしたことがないのか」
「ないよ。魚釣りならしたことがあるけどね。釣っただけで、さばいたのは親だったしね。今でも釣りました、いざ調理って言ったら魚を殺すところがキツイと思うね。ギャーギャー言いながら自分を鼓舞すれば、魚なら何とか頑張れるかもしれないけど…鳥肌は免れない。死んでてくれたほうが楽」
理解できないというようにヒューゼルトは眉を寄せた。そりゃあ狩りが当たり前の国で、かつ兵士であるヒューゼルトには僕の胸の内なんて理解できるはずがない。さぞやチキンにしか見えないことだろう。むしろ他の日本人と比べてもチキンなので何も言えない。
「言ったでしょ、僕に危険性だけはないって。環境が違いすぎて無理なんだよ、他人を物理的に害すということが。こっちが害される段になってもなお、相手がどうしてそんなことをしようとするのか理解できないんだ。何せ自分がしないことなんだからね。もちろん僕の国にだってできる人はいるよ。ただ、僕には無理。多分、今後もね」
そうこうしている間にディーとレディアの会話も終わったようだ。というか、途中からディーがこっちに聞き耳を立てちゃったから、ふわっと終わっちゃった様子。レディアが不完全燃焼の顔をしている。
僕は、とりあえず微妙な顔をしているディーとヒューゼルトに笑って見せた。
「次は大丈夫。戦えないけど、意表を突く方向で頑張るから」
二人は顔を見合わせ、何か目線で通じ合った。そして城に戻る支度を始めた。
…いや、大丈夫ですって、そんなに心配してくれなくても。
だって、こないだの今日でまた襲撃を受けることなんてないだろう。毎回外出するたびに暗殺者に狙われるんじゃ大変だもんな。
そんなことを思いながらレディアに手を振って、家を出ると。
ザザッと視界を遮る影。再び現れる、黒ずくめ。
「…えー…? 何なの、このデジャヴ?」
嫌そうな僕の声に、ディーが申し訳なさそうな顔をした。
黒ずくめは二人一組が基本なのかな。今回も二人だ。前後を挟んで、剣を構えている。ヒューゼルトは落ち着いた様子で、剣を抜いた。
うん。大丈夫。こんなこともあるんだってわかっていれば、あそこまでの無様はさらさない…多分。
前回は僕が必死すぎて見えていなかったけれど斬り結ぶヒューゼルトには危なげがないし、ディーの動きにだって余裕がある。彼らにとって、そんなに危機的な状況ではないんだ。
「マサヒロ!」
前回と同じように、僕が危なそうだとディーが引っ張ったりして立ち位置をずらしてくれる。これは、その、申し訳ないなと思うんだけれど。僕にはどっちに逃げたらいいかとか、ちょっと判断が難しい。そしてディーが僕を背に庇い。襲撃者がその正面に来た。好機。
「ディー。ごめん」
僕はディーの顔面を左手で掴んで僕のほうに引き寄せた。体勢を崩すディーと、それを逃すまいとした黒ずくめ。そして。
恐ろしいほどの絶叫が響き渡った。
「殿下!」
異変を感じたヒューゼルトが相手を切り伏せ、慌ててこちらへ振り向いた。その目が見開かれる。
悲鳴を上げ続けながら地べたをゴロゴロと転がる黒ずくめと、きょとんとして僕を見ているディー。僕の右手には銃…型の催涙スプレー。避けたつもりだったんだけど、風向きが悪かったんだろうか。僕の目と鼻もちょっとツンとする。涙出てきた。いやぁ、念の為に濡れタオルも用意しておいて良かったですなぁ。リュックを下ろしてビニール袋から出したタオルで顔を拭いていると、ヒューゼルトが呆れていた。あ、うん…僕までギャアアとか言いながら転げまわっていたら笑いごとでは済まないもんな…自爆についてはもっと真面目に考えなくてはいけないようだ。
「ディー、それの先は人に向けちゃダメだよ。あと、風向きが悪いと僕みたいに自爆するから気をつけてね」
「ふむ。マサヒロ、これは何だ」
「防犯グッズだよ。メッチャ辛い汁が出る、らしい」
警備兵が駆けつけてきた。前回といい今回といい、これは早いんだろうか、遅いんだろうか。誰かが通報してくれているのだろうから、早いのかなぁ。電話なんてないから詰め所まで走って行ってくれてるってことだもんね。うん。きっと優秀なんだ。そう思おう。
そしてやっぱりヒューゼルトが警備兵の対応をしている。黒ずくめが泣きじゃくっている惨状に、警備兵は引いていた。
「暗殺者はどうしたって完全に排除することはできないと思っている。だから今までは放っておいたというのが実情なんだ。しかし…前回のことがあって、片付けられるものは片付けておこうと…まぁ、囲い込みの最中だったというか…。すまなかった。今日の襲撃も、実は予想はしていたんだが…せっかくお前が行きたいと言うのに水を差すのはどうかと…」
神妙な顔をしてディーが言う。ジト目の僕に、必死に言い訳しようとしている。王子なんだから「何が悪い」くらいの強気で来るかと思ったのに、これだから憎めない。
だから僕は、にっこりと笑って見せた。
「馬鹿だなぁ、ディー。無理なことはしないのが僕だよ。ダメだと思ってたら、まだ出て来てない」
ズボンのポケットやポーチから、僕は今回使用しなかった防犯グッズ達を取り出した。
「ほらね。怪我をさせるとか殺すとかは無理だけど、多少は逃げられる余裕を作ろうと思ってるんだよ」
「…そうか。何にせよ、怪我がなくて良かった」
苦笑するディーに、僕は頷いた。
あの時、僕は確かに本気だったんだ。本気で、もう窓を乗り越えるのなんてやめようと思った。だけど。
まぁ、色々考えたんだよ、僕も。
何とかなるでしょう。女の子かよ!と言われようとも、腕っぷしのない人間のために防犯グッズがあるんだ。文明の利器に期待する。
…喉元過ぎれば熱さを忘れるとは、まさに僕のためにあるような言葉だよね。