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カツ丼の指揮者



 翻訳に不備があったのだろうか。ディーには欠片も伝わってはいなかったんだ。

 大匙小匙ももちろん規定の分量ではなかったようだ。カレースプーンが大匙、コーヒースプーンで小匙…みたいな量り方をしたのだろうか。でも、それくらいなら多少の誤差の範囲じゃないの…?

 何なの、これ。泣きそうだよ。

「…しょっぱい。なんか、ブルッ!てくるくらい、しょっぱい。お前の国の人は味見しないの? それとも味覚が腐ってんの?」

「とりあえずレシピを与えて作らせてみたのだが…どうしてこうなったのか。あまりの出来に戦慄したので、私だけの胸にはとても秘めておけなかった、何としてもお前にも食わせずにはいられなかったのだ。…ところで、何が失敗の原因だと思う?」

「道連れかよっ…イイ笑顔だったからうまくできたのかと思った、騙されたよチクショウ! 食べ物無駄遣いするな、もったいないオバケに襲撃されたいのか。…あのね、絶対わかってないことがたくさんあるはずだから、ちゃんと情報共有してきて。そもそもこれでレシピ通りだと言うんなら、そっちの醤油はもはや僕の知ってる醤油とは別物という可能性すらあるよ」

 入れすぎじゃないと言い張るんなら、めんつゆでもないくせに三倍濃縮なんじゃないの。しょっぱさのあまり鳥肌が立つって何なんだよ。

「それからね、この豚肉すげぇ固い。なんか独特の味するし、顎がやられそうなんだけど?」

「カツ丼は豚肉を使うのか」

「ファッ!? 初めて知った、みたいな顔してるけど、そもそもこれ豚ですらないの!? 僕、トンカツって言ったよね!?」

「…それはお前…。トンカツが何でできているのかまでは聞かなかったから、な? 肉を揚げた物とだけ認識していたぞ」

「ぐうぅ、思いのほか異世界の壁が厚い! っていうか怖い、これ何、僕が今食べたのって何の肉?」

「ドング牛鬼の肉だ。よく煮込み料理に使われるのだが、揚げるとまた…随分まずくなるものだな…。とりあえず名前が一番近そうな肉を使った」

「うあぁぁ、変な生き物食っちゃったよおぉぉ!」

 牛鬼て。完全に妖怪じゃん。僕は心に深い傷を負った。恐らくこの傷は一生癒えない。

「よし、豚肉を使えば次はうまくいくのだろう。朗報を待て」

「待てねぇよ! しょっぱ死するわ!」

 そんなわけで、僕はカツ丼の指揮者となった。



*-*-*-*-*-*-*-*-*-*



 他人のキッチンなら汚れてもいい。掃除をするのが僕じゃないから。

 外道と呼ぶなら呼ぶがいい。

 そんなことを思いながら、揚げ物の用意がなされた調理場を見渡す。さすが城の調理場だけあって、妙に広い。あと、すごい大きさの鍋とかある。面白い。

「まず、カツは豚肉です。こいつがないと話にならない。どんなに譲っても鶏までです。牛鬼、ダメ、ゼッタイ」

 スーパーで買ってきた材料を並べていく。

 大匙小匙に計量カップ。醤油も砂糖も何もかも持ってきて並べた。

 検疫なんて知らない。こっちのダークマターKATSUDONより危険だなんてこと有り得ない。でも、さすがにプラスチックごみは持ち帰りますね。知らずに環境破壊してたら困るんで。

「では、始めましょうか」

 よろしくお願いします、と二人のコックが頷いた。その手にあるのはディーが書いたレシピ。一人は城にあったもので作り、もう一人は僕が持ってきたものを使う。異世界素材で出来上がりに差異があるかどうかというのも検証項目なのだ。

「まずは、醤油をオーサディ四杯分…」

「待って! いきなり失敗の原因が判明したよ! オーサディって何!」

「工芸品の酒杯ですな」

 だばだばとカップに醤油を注ぎ始めたコックを全力で止める。

「疑問を抱いてよ、料理人なんでしょ!? 大匙だよ、これだよ、これ!」

「しかし王子がこの通りに作れと仰る以上は…」

「ディー、レシピ修正! 己の間違いは己で正しなさい! コックさん達は材料も僕の持ち込んだものと比較して、差異が顕著なら報告してね!」

「…私はマサヒロが言った通りに書いたのだぞ」

「うるさい、オーサディという酒杯は僕の知識に存在しない。腕輪翻訳が間違えたというよりは、聞こえた音をそのまま脳内変換したディーが悪いと思う」

 醤油をカップ四杯入れたら、そりゃあしょっぱくもなるわ。もう醤油飲んでる状態だわ。

「大体ディーも、どうしておかしいと思ったら訊かないんだよ?」

「料理などわからないから、何がおかしいのか理解できなかったぞ」

「…ぐぬぅ」

「マサヒロ先生、こちら片付けておきますね」

 僕の切った野菜の皮とかがいつの間にか消えていた。てきぱきとコックさんが周囲を綺麗にしてくれている。作業しつつ洗いものも片付けるなんて、さすがはプロだな…不思議と安心して作業を見ていられる。僕はまとめて最後に洗う。だから菜箸とかスプーンがいくつも出てくる。都度洗うのも溜めて洗うのも、総量は変わらないはずなんだけどな。同じスプーンを二回洗うか、二本のスプーンを洗うかってだけで。

「次に水、五十シィキィ…」

 いやいや、全く安心できないじゃないか。

「待って! 五十シィキィは、どんな量?」

「これに五十杯ですな」

「…耳かきかよ! 五十回繰り返すとか船幽霊レベルの根気強さだよ! これに五十も入れるくらいなら、もっと効率的な量り方があるだろ!」

「しかし…」

「わかっているとも、悪いのはそこの残念王子だよ!」

 堪え切れないこの胸の内をどうしてくれよう。僕は両手を握り締め、だんだんと調理台を叩いた。シィキィは恐らく調合用品、小型の薬匙的なものなんだろう。どう見ても調理に使うものではなさそうだ。っつーか料理にここまでの小回りは要らないよ。こんな差異、少なくとも僕には感知できない。

 泣きそうになりながら計量カップを示す。

「シィキィじゃなくて、ccだよ。この線まで水入れてね。…ディー!」

「ああ、直した直した」

 気楽な調子のディーの傍らで、コック達は興味深そうに僕が持ち込んだ調理道具を手に取っている。

 ccが単位ではなく計量カップの名称として認識されている気がするな。違うんですよ、コックさん達…。

 レシピの危険部位は全てディーの誤認が原因だったようで、コックさん達の手際には問題などなかった。揚げ物も上手だったな。念の為に用意した温度計付きの天ぷら鍋が出番なし。ちなみに母が「天ぷらのプロになりたい」と温度計付きの鍋をわざわざ買ったのだが…結局「使い慣れた鍋のほうが上手にできる」と二回くらいの使用でお蔵入りした鍋です。

  …というわけで完成したカツ丼がこちらです。

「美味しいじゃないか。でも、やっぱりこっちの肉は少し固いかな? あと、比べると醤油がなんか…ちょっと生臭い感じがするかも。そして砂糖も、より甘いような…?」

 大差というほどでもないけれど。僕の言葉に、周囲はうーんと唸って俯いた。

 しかし肉も現代人ならまだしも、こちらの世界の顎が強靭な人達には然したる違いではないのかもしれない。高級肉ならまだしも、スーパーの特売品だしね。一応国産を選んだんだけどな。

 もぐもぐと咀嚼しながら、コックの一人が呟いた。

「ミリンがどうしても翻訳されないのです。もしかするとこちらには存在しないのかもしれないですね」

「そうなの? リキュールの一種みたいだってどこかで聞いた気がするけど。原材料コメだからかな。まぁ、いいじゃん、なくても死なないよ」

「いや、入っているほうが美味い。何なら今後のためにこれを買い上げてもいいぞ」

 使いかけのみりんを片手に、軽々しくそんなことを言ったディー。僕は彼に人差し指を突きつけ、冷酷に言い放った。

「日本円を用意してから言ってくれよ。こっちのお金なんて僕には必要ないからね」

「くっ!」

 みりんは、あげました。使いかけだしね。

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