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翻訳について考える。



 窓を挟んで、僕らは器の中のミニトマトを延々と食べ続ける。



「だからぁ、基本のひらがなだけならそんなに苦労はしないと思うけど、それにカタカナと漢字があって。漢字なんてどれだけあるのか知らないし、僕だってキーボードでちょちょっと変換の世代だから読めても書けないって漢字いっぱいあるよ。あとは数字と…アルファベットだってちょっとくらい使うでしょう。そう考えたらディーには現実的じゃないよ」

「しかし…マサヒロは発想が大胆すぎる」

「どうしてさ。魔法がある世界の人なんだから、魔法で何とかしたらいいじゃないか。この腕輪みたいに言葉を通訳してくれる魔道具だってあるんだから、文字が変換して見える翻訳メガネとか作ればいいんじゃないの?」

 とんだディスカッション。カツ丼のレシピの話から発展し、文字を覚えて僕の所持する本が読めるようになりたいだとかそっちに話題が流れて行ってしまったせいだ。ちなみにレシピは既にディーの手の中。コックと相談して足りないものがあれば(例・めんつゆ)進呈するという話になっているが、大っぴらに異世界の食品を勝手に持ち込むのはダメなのかもしれないね。検疫的な意味で。

 しかしレシピにしても大匙だの小匙だのを異世界人がどう判断するのか、僕にはわからない。今度百円ショップで計量器具を見繕ってあげたほうがいいのかな…ディー、何ccとかそういう単位も特に問い返さず普通にメモってたけどちゃんと翻訳されたのかな…。えらいしょっぱいカツ丼作って怒られたらどうしよう。アフターケアの足りない僕のせいになるのかな。

「わかっているぞ、マサヒロ。どうせお前は面倒くさいから私に文字を教えようとしないのだ」

「だって…、じゃあこれを見なよ」

 その通りですよ、とは答えずに。僕は紙に思いつくまま「まさひろ」「マサヒロ」「柾宏」「MASAHIRO」と並べて書いた。

「とりあえず、僕の名前の表記としてはどれも間違いない。「マサヒロ」って読むんだよ。そんで、前の三つが僕の国の言葉。ひらがな、カタカナ、漢字。漢字は僕の名前に使うのはこれだけど、同じ音でも違う漢字は山のようにある。例えばこれ、こう「正弘」って書いても読んだ音は「マサヒロ」。後ろのはアルファベットっていう…外国語だけどとてもポピュラーな文字。効果音とか略語とか、漫画の中にだって出てくることのある文字だ。本が読みたいなら、ローマ字読み程度は理解したいだろう?」

 さぁ、面倒だからやっぱりなかったことにする、と言いたまえ。ディーだって面倒くさがりだから脱走しているんだろう。毎日顔を合わせるとはいえ、日本語レッスンともなるとバイト代を貰ってもいいぐらいのお仕事だ。そして僕には仕事を掛け持つ体力はない。ゴロゴロしたい。

 じっと紙を見つめていたディーが、ゆっくりと首を横に倒した。

「…お前は頭がおかしいのか?」

「えぇっ? 突然の暴言に、返す言葉も浮かばないな!」

「…外国の文字というのは理解できる。しかし、なぜ自国で己の名前を示すのに三種類の文字があるのだ。意味がわからない」

 そう言われてもな。あるものはあるとしか言えない。普通に今まであったんだから疑問になんて思ったこともなかったよ。

 目を瞑ってこめかみを押さえる。仮名の成り立ちか。いつかどこかで聞いた覚えはあるけど、異国の方にきっちりと説明できるほど明確には覚えていない。

「確か…元々僕の国には文字がなかったんだよ。それで、近くの国から文字を輸入したのがこれ、漢字。でも難しいから、そこから崩して簡単に使えるようにしたのがひらがなとカタカナ。カタカナは坊さんとかが使ってたんだったかな…ひらがなはより簡単で使いやすいって話だった気がする。…あれ? 丸っこくて親しみやすい、だっけ? まあ、何にしたって、ひらがなだけでもカタカナだけでも漢字だけでも読みにくいってのが日本語ってものだよ。僕は英語…こっちの文字よりずっと好きだけどね」

 日本人は曖昧だなんていいながら、ごめんもすみませんもイクスキューズミー一つで済ませる英語のほうがよっぽど曖昧だ。僕は高校の英語の授業で「ビッグブラザー」を大きい弟と訳し、「大きい兄弟なんだから兄だろ!」と皆の前で怒られた生徒である。教室は爆笑に包まれ、それでも僕には何が悪いのかわからなかった。オールドなら年だと理解できたかもしれないけど、ビッグだぞ。わざわざビッグをつけてまで表す特殊なブラザーなら、どう考えてもガタイのでかい弟だろ…。

 僕は日本から出ないよ、と海外に対しても拒絶心が芽生えたのは懐かしい思い出だ。

 過去に思いを飛ばしていた僕の傍らで、ディーはさらさらと不可思議な文字を紙に書き留める。

「ディーエシルトーラ。これが私の名を表記したものだ」

 ミ・ミ・ズ!

 いや、字が下手なのかこういう文字なのかわからないな。でもアラビアンな文字よりは一文字が個々として認識できるかな…。まぁ、アルファベットだって筆記体は「適当に書いたよね?」って言いたくなるもんな。あれ、アルファベットにだって大文字小文字があるんなら、日本語だけ頭おかしいとか言われる謂れなくない? 訂正を要求しようかと思ったけど…どうでもいいか。教えなくて済むならそれに越したことはない。

「…これで? どこがディーでエシルでトーラなんだかわかんないなぁ」

「お前…。マ・サヒロって呼ばれるようなものだからな、今の切り方は」

「…おお…部族の戦士っぽいな、マ・サヒロ…」

 しかし恐らく部族内で最弱であろう。そのうえ人を怒らせることだけは得意なので、多分すごく死ぬ確率が高い。人にも野生動物にも狙われそう。

「結局はお前の大胆な案のほうが、まだ現実的だということか…」

 溜息をついたディーがミニトマトを口に放り込む。そういう油断しきった食べ方すると、口の端から汁が飛ぶ危険があるのに。

「どさくさに紛れてボールペンを着服するのやめてよ、ディー。お前は本当に手癖が悪いな」

「お前が興味深いものばかりを気軽に出してくるからだろう。仕事中は完璧に素を隠しているので諸外国にはばれていない、安心するといい。ここまで人目を気にせず楽しめることもそうそうないしな」

「…マロックとヒューゼルトは、ディーがこんな予想以上に残念なことを知ってるの?」

「多少はな。全開で曝したことはない。漏れ出ている程度だ」

「漏らすなよ…」

「護衛なんて四六時中近くにいるのに、隠し続けるのは面倒だろう。マロックは元々私の教師だったからな、こちらも似たような事情だ…っ…」

 ほら、トマトの汁が飛んだ。カッコつけた顔してただけに痛々しいな。無言でウェットティッシュを差し出すと、ディーは目を逸らして受け取った。少し頬が赤い。

「すまん」

「…いいけど。ディー、妹いないの、妹」

「いない。どうした、急に?」

「…いや、別に…」

 僕にも何かご褒美がほしいなぁと思っただけだよ。返す返すもこれが姫だったなら、頬の汚れを拭ってあげるとか、キャッキャウフフの可能性があっただろうに…。

 いや、トマト汁を噴出する姫はやっぱりダメかな。愛があるわけでなし、「わっ、汚ねぇ!」って思わず言って嫌われる未来しか見えない。ディーはもう残念なのがわかってるから「ほら見ろ」くらいの感情の動きしか起きませんけど。美女であればあるだけダメージでかいよね、口から物出るなんて失態。

 ふと僕は左腕についたままの腕輪に手を触れた。そういえば、これ、一生取れないものなんだろうか。今のところ認識阻害の魔法を定期的にかけるという手段で日常を過ごせているけど、マロックじーさんが年でポックリ逝ったりしたら、僕は今後成金小僧として名を馳せてしまうんじゃないかな。

 マロックの顔が思い浮かぶ…どう見てもじーさんだ、おじさんではない。

 つまりまさに、今、そこにある危機。

「魔道具…」

「うん? どうした?」

「魔道具職人は知り合いにいないの? メガネ作ろうよ、メガネ。そして腕輪を交換しよう」

「腕輪とメガネは交換しないが…。言葉が通じなくなるじゃないか」

「間違えた、翻訳メガネのついでに、この腕輪じゃないのも作ってもらおう。もっと目立たないの」

 ああ、そういう意味か、とディーは理解を示した。

 しかしその口からは期待とは違う言葉がこぼれる。

「もう面倒だからそれでいいじゃないか」

 ぐうっ、やっぱりディーも面倒くさがりだ。

「…嫌だから言ってるんですけど。あえて触れないようにしてきたけどね、見なよ、この半袖Tシャツに成金腕輪。僕、大分我慢しているほうだと思うよ? あんまり我慢させると窓を閉めたまま一週間くらい旅に出てしまうかもしれないよ」

「それは困るな。この息抜きの時間がなくなると胃を傷める可能性があるので…そうだな、私も共に行くことにする」

「…いや、一週間くらい我慢しようよ。主に脱走してるくせに胃を傷めるとか図々しいな」

 そもそも僕が拗ねて窓を開けなくなる話をしているのに、なんでついてこようとするか。

 ディーは器に残った最後のトマトを躊躇いなく自分の口に入れた。さすが王子様、他人は全てを自分に譲ると思っていやがる。既にトマトの食べ過ぎでお腹がタプタプの僕は、特段それについて言及することなく皿を室内に引き込む。ふぅ、と満足げな息をついてディーは僕を見つめた。

「では、マロックに連絡を取ってみる。マロックは魔道具収集を好むが、弟子が魔道具を作れるようになったと以前自慢していたからな」

「…ちょっと楽しそうだなぁ。魔石を使うんなら、魔力のない僕でも作れるってことはないの?」

「ない」

 悩む隙もない。

 そうですか…やはり僕はライターで火遊びするくらいしかできないのですね…。

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