閻魔、サルにしてやられる
閻魔大王が一日の業務を終えて机を片付け始めた時だった。顔面から流血している連絡係の獄卒が必死の形相でこちらに向かって走ってきた。怖い。
「大王様、江戸の商家で数え九つの女の子を連行しようとしたところ猿に変身してあっしを襲ってきやがって。すばしっこく逃げ回り、刻限がきちまいそうで今すぐ来て下せえ」
「連絡係が錯乱するんじゃない。女の子が猿に変身して攻撃するわけないだろうが」
「じゃあ、大王様がふん縛って連行して下せえよ」
二人は急いで江戸へ向かった。
現場は江戸の日本橋で天下の大店、三井越後屋近くの近江屋だ。近江から夫婦二人で出てきて間口一間の木綿の古着屋から始めて夫に先立たれてから流行物だけを扱う呉服屋としてこの辺りで店を構えるようになったとはなかなかのやりてだ。越後屋より一本裏の通りで小さな店だが立地を考えれば立派である。
店の中の壁には美人画の錦絵が多数張り付けてある。それらは江戸三美人図だの傾城絵だの様々な職業の女達の絵で、顧客の女達の憧れを煽り、流行とどういう女に変身したいかをわかりやすく示していた。気の利いたことに櫛や簪などの小間物も揃えてその場で着物の柄と合わせて買えるようになっている。女将の抜かりない商才が知れる。
二階に上がると女将の部屋と思われる箪笥や鏡台のある落ち着いた感じの部屋の真ん中に布団が敷かれ、女の子が横たわり、女将とこの家の跡取り息子と思われるやさ男が枕辺で泣いていた。
「お光ちゃん、私が悪かった。私が馬鹿だった。私が攫われたりしたからこんなことに」
閻魔は耳を疑った。
「今、このもやし男の方が攫われたと言ったか?」
「へい。町方の話ではこの何の役にも立ちそうにないへたれ息子が攫われたのをこの子と女将が助けに行って救出したそうですぜ。その時にこの子は死んだそうで」
「世の中分からんな」
閻魔大王が部屋の鏡台に命じると浄玻璃の鏡として事件の顛末を映した。
事件が起きる前、へたれ息子は二階の広い部屋で錦絵の美人画を眺めてにやついていた。絵の説明書きに楊枝柳屋お藤とある。壁から天井まで美人画が貼り巡らされているがみなお藤だ。確かに美人だがその笑顔は営業用で買い物客の誰にでも振りまくものだろうが、威力は絶大だろう。その証拠に部屋の隅には房楊枝が山ほど積んである。歯磨き用の楊枝を一生分買ったのか!
一階から女将と女の子が接客している声が聞こえているが手伝いに行く様子はない。商家では普通この年頃の男は接客だけの平手代より上の帳簿管理までする名目手代くらいになり大忙しのはずだが、何やってんの? 店からは例の女の子がてきぱきと客に商品を薦める声が聞こえた。
「縞柄は流行ですが、誰もが着ていてお客様もお持ちですよね。お客様は顔立ちがはっきりなさっているから華やかな友禅の方がお似合いです。奢侈禁止令なんて気にせず内側に着ればいいんです。縞柄より値は張りますがその価値はありますよ」
値段の高い方を見事に買わせた。客が満足顔で店を出ると女将が感心して言った。
「やるねえお光、でも、あんたもほかの子みたいに遊んできたっていいんだよ」
「ううん。私にとってはお店の仕事が一番楽しいの」
「はあ。この熱意が半分でもうちの馬鹿息子にあれば」
着物に合わせて小間物も一緒に売るというのはお光の発案で見事に当たっていた。
「大丈夫よ女将さん。いざって時は私の稼ぎで若旦那を養ってあげるから」
「はああ。お光、私はあんたを拾ったんじゃない。私の方があんたに救われたんだよ」
外から声が聞こえた。
「大変だ、江戸三美人の一人、楊枝柳屋お藤がさらわれた」
「えええ!」
息子はとるものもとりあえずあわてて店を飛び出した。
「こんな単純な手で簡単に捕まるとはねえ」
楊枝屋に向かう途中の人気のない神社の境内で拉致され、小舟に乗せられ大川の岸辺の掘立小屋に連れ込まれたのだ。縛られていて動けない。お藤はおらず、三美人の一人、笠森稲荷の水茶屋お仙が見も知らない腕っぷしの強そうな男と親しげにしている。
「こら、お仙。三美人の中でお藤の方が美人だからって攫ったのか」
「は、馬鹿だねえ。お藤なんて最初から攫っちゃいないよ。そう叫んだらあんたが店から飛び出すとふんで待ち構えていたのさ。お前さんの店には町方にたれこまないで百両素直に渡したらお前さんを無事に返すと言ってある。水茶屋で愛想振りまくのに飽きてね。ここらでぱっと荒稼ぎしていい男と江戸を離れようと思ってさ」
「く、なんて情けない。だが、うちの近所には千両でも軽く払える大店の三井越後屋があるんだ。あっちの息子をねらえばいいだろ」
「ああ。でもあっちは家訓として主人の子供も決して特別扱いしないで番頭、手代の下で他の丁稚達と同じ生活をさせてびしびししごいて育てるんだ。こんな単純な手で誘い出せるわけないだろ。そういう根性の入った大店の土蔵は頑丈で耐火措置も万全で土蔵破りも難しいしね」
「なんてこった! おっかさん、お光、すまない。一生懸命働いて得た金をこんなことで」
夕方となり店を閉めようとした時女将は近所の子供から手紙を受け取り青ざめた。
「どうしようお光、うちの馬鹿息子が攫われて身代金が百両だってよ。さっきの客が気前よく買ってくれたんであたしゃ気をよくして近江の兄のところに追加の仕入れ代金として店の有金百両送っちまって今手元にいくらもないんだよ。金貸しはもう店を閉めている時間だし番屋に行くなってあるし、支払期限は今日の戌の刻で深川神明宮だよ。その頃は木戸だって閉まる時間だ。どうすりゃいい?」
火事で親を亡くして泣いていた小さなお光を偶然みつけ、引き取ったのは女将だが、しっかり者で頭のいいお光は寺子屋での勉学では飽き足らず店の仕事もどんどん手伝いかつ覚え、今や女将の優秀な右腕で自慢で頼りにしていた。
「若旦那はお藤さんが攫われたって店の外で男が叫んだんで飛び出していったんです。お藤さんのところに行ってみましょうよ。何か手がかりがあるかも」
楊枝柳屋も夕方で店を閉めていたが、房楊枝を一生分買いこんだ近江屋の息子の緊急事態だと告げると扉を開けてくれた。
「うちの息子見ませんでしたか」
「いえ今日はいらっしゃいませんでした。だから房楊枝が山ほど売れ残っちまいましてさ」
お光がじれったそうに下から口出しした。
「お藤さんは無事ですか」
「ああ。いつも通りずっと店にいて客の相手をして、愛想振りまき過ぎて顔が疲れたとか言って、今奥にいるよ」
「お願いです。お藤さんを呼んでください。聞きたいことがあるんです」
「どうしたの、騒々しい」
「ひいい! その顔!」
女将は気絶しそうになった。美貌で知られる女の顔が目と口以外緑色だったのだ。
「鶯の糞をへちま水でといて塗ったの。色白になれるのよ」
「はああ」
お光は冷静で鶯の糞と見抜いており驚かなかった。同じく美白効果があるとされるへちま水とともに店で置いたらどうかと提案するつもりだった。二つ重ねて使うとはさすがお藤。顔が疲れるだけのことはあるわ。
「うちの若旦那が攫われたんです。近所に三井越後屋って大店があるのに小さなうちを狙うなんて変なんです。手掛かりになるようなこと何か知りませか」
「さあねえ。身なりがいい上に房楊枝山ほど抱えて歩いていて大金持ちと思われたとか?」
「でもここにお藤さん目当てでめかしこんで房楊枝を買いに来る男の人は山ほどいるし、金持ちも多いだろうに何で近江屋の若旦那を狙ったんでしょう?」
「さあ。あ、そういえば私、お花見の時日本堤で偶然笠森お仙と会ったのよ。二枚目の男といちゃついていて私に生意気な口きいたからわたしにも山ほど房楊枝買いに来る近江屋の若旦那がいるって言ってやったわ。まあ関係あるかどうかわからないけどね」
「その男、どんな男でしたか」
お光の目がきらりと光った。
「二枚目で若くてがっしりしていて、そうだ、船頭みたいだった。舟遊びで花見をする客が大勢取れるのになんでこんな稼ぎ時に舟に乗っていないのか不思議に思ったんだった」
それ以上は聞き出せなかったので二人は礼を言って店を出て、大川へ向かった。
「あの声はいつもの号外売りのがらがら声じゃなかった。朗々としていて節回しがあった。きっと歌なんか歌いつけてる船頭よ。川のこちら側は舟を持つ船宿が沢山あるけどお客さんも沢山出入りしていて人目に付く。大人の男の人の若旦那を縛り上げて運ぶなんてことできないわ。川のあちら側の日本堤側の人気のない小屋に連れ込んだんじゃないかしら。騒いでも人気がなくて聞こえないようなところ。金の受け渡し場所の神社も近いし」
「ありがとうね。お光。あんたがいてくれなかったらどうなっていたことか」
「ううん女将さん。私を拾ってくれて食べさせてくれて着させてくれて寺子屋にも通わせてくれてありがとうございます。お花見の日、私に髪飾りを買ってくれて自分は拾い子だからこの先いいことなんて何にも無いなんて思うんじゃないよ。努力と才覚で何でも出来るって言ってくれてすごくうれしかった」
「あんたって子は・・・。本当の娘だと思っているよ。いやそれ以上だよ」
女将はお光をぎゅっと抱きしめた。
橋を渡り日本堤方向にしばらく歩くと岸辺に掘立小屋が見えた。わずかに明かりがもれている。
「女将さん。そっと近づいてあの小屋を調べましょう。もし若旦那がいたら町方を呼んで受け渡しの神社に向かわせて下さい。私はあの二人が受け渡しの神社に行ったすきに若旦那を助けます」
二人が戸の隙間から覗くと笠森お仙と船頭が見えた。若旦那は隅で芋虫のように縛られて猿轡をされていた。わずかながら動いており生きているとわかる。
「女将さん町方を呼んできて。女将さん?」
女将は息子が縛られている姿を見て逆上し、自分の役割を忘れ、力のありそうな船頭がまだいるというのに踏み込んでしまった。
「うちの息子に何するんだよ!」
船頭に渾身の力で体当たりすると重量のある者同士がどんと壁にぶち当たり壁が揺れほこりが落ちた。お光は若旦那に駆け寄り準備していた裁縫鋏で腕と足の縄を断ち切ったが、若旦那は体が痛むらしくすぐには立てない。船頭が立ち上がろうとしている若旦那に向かってきたのでお光は手にしていた巾着袋をぐるぐる回して船頭に何度もぶつけた。
「若旦那をいじめる奴は私が許さない」
「痛えな、何しやがる、石でもいれてあったか」
「私がちまちま貯めてた小遣いと給金よ。働かないで百両なんて許さない」
「お仙、この猿を何とかしろ」
お仙がお光にむしゃぶりつくと
「そうはいくか、お光に触るんじゃねえ、この性悪!」
若旦那はやっと立ち上がり、お仙を引きはがすと、思い切り船頭に体当たりして二人とも壁に激突。壁は音を立てて向こう側に倒れ、屋根が一気に落ちた。
「お光、どこだい、みんな探して遅れ」
船頭とお仙は騒ぎを聞きつけた町方に捕らえられ連行されていった。女将と若旦那、それに町方が必死に材木をどけると、巾着袋を握りしめた女の子の遺体が出てきたのだった。
「お光、お光、だれか助けておくれ、医者呼んでおくれ、神様、仏様、天神様!」
閻魔と獄卒が浄玻璃の鏡と化した鏡台をしんみりと眺めていると、箪笥の陰から手首に巾着袋を提げた猿のようにすばしっこい女の子が飛び出し、閻魔の手にしていた閻魔帳を一瞬でひったくり、閻魔の懐に細い腕をさっと突っ込み筆を取り、閻魔帳をさっと開いて素早く自分の名前を線を引いて消した。
「あ、こら、何をする! 子供が勝手に書き換えていいもんじゃない」
「へへーん、帳簿見るの大得意だもんね。若旦那は私が稼いで養ってあげるって女将さんに約束したんだもん。死ねないわ」
追いかける閻魔に閻魔帳と筆を投げつけると憎々しいことにべろべろべーまでしてから布団から飛び起きた。
「お光!」
母と息子は少女をぎゅっと抱きしめた。
「ああよかった。神様、仏様、天神様。ありがとうございます。あんたはうちの娘なんだから親より先に死んじゃだめだよ」
「ごめんよお光。これからはお前を見習い私ももっともっと働くからね」
「それなら早速店に鶯の糞とへちま水を置いてお客さんに薦めましょうよ。両方混ぜて塗る方が効くって言えばきっとみんな両方買いますよ」
「まあお光ったら」
三人は元気よく笑った。
「大王様を出し抜いて自分でよみがえるとはすえ恐ろしいくそがきだ」
「く、くそがきにしてやられた」
閻魔が地団駄を踏んで悔しがる姿は獄卒以外には見えない。敗北感で打ちひしがれてとぼとぼと地獄に帰る閻魔の足取りは重く、今回の教訓をかみしめた。江戸の町の人々は血はつながらなくても助け合いながら生きている。そのこと自体は素晴らしい。だが、最近の江戸は無風流な拝金主義者が増えており、地獄で千年以上仕事をしている閻魔にも予測不能の事態は起こりうるのた。毎日が勉強になるのお。俺様も精進して成長しなくては。自分が何千年生きたかすっかり忘れたが、生あるものは毎日勉強し、成長し続ける必要があると悟ったのだっだ。