名前も知らない
自分に姉がいることを、私はだれにも告げたことがない。
大学入学時からの親友である春子には勿論、付き合って三年半になる恋人の山崎くんにも、会社の同僚にも、顔を合わせれば挨拶を交わす近所の人たちにも、私を私だと認識している人間とは一人たりとも繋がっていない匿名のSNSですら、私は姉の存在を匂わせたことがない。いや、それ以前、両親すら私に姉がいることを知らない。
姉はあるときから突如として「私の姉」として私の隣に存在し始めた。姉との一番古い記憶は十六歳の夏の暮れの出来事だ。その日、私はいつのものように部屋に引きこもり、そのとき気が狂うほど好きだった音楽――今思えばそれは常に暗い顔をして世の中を呪っている、思春期の子どもが惹かれるよう上手く仕込まれた、いかにもそれらしい曲だった――を小ぶりのスピーカーから部屋の隅々まで浸透させていた。歌詞は丸暗記しているため、湿っぽい布団の上にぐったりと横たわりながらでも私はそれを歌うことができる。一番目のサビが終わり、短い間奏が始まる。下手な鼻歌でそれを繋いでいると不意に押し入れの方向から、
「アンタ、毎日毎日同じ曲ばっかり聴いて、よく厭きないよね」
若い女の声がした。
背筋が凍る。
私は三人家族で、きょうだいはおらず、そのとき母親はパートへ行っている時間だったし、同じく会社へ行っているはずの父親はあのような声を出せるはずもない。私の部屋は二階で、一階の玄関はいつものようにしっかりと施錠しているはずだが今は夏の終わりだ。もしかすれば庭に面した大窓を開けっぱなしにしたままだったのかもしれない――いや違う、確かに鍵をした、覚えている。とすれば両親の寝室だろうか? それとも客間か、風呂場やトイレの小窓から侵入された可能性だって捨てきれない。
ここまで考えが至ったところで、私は途端に滑稽な気持ちになった。ああそうか、私は一番大きな可能性を見落としているじゃないか。こんなもの、聞き間違いと判断するのが妥当だ。近所の家から漏れる話し声か、テレビか、あるいはラジオかはわからないが、そういったものがたまたまここまで届いて、私がそれをあらぬ方向から聞こえたと思い込んだ、ただそれだけの話だ。
元来私は思い込みが激しく、幼いころから両親からは見えるものこそが真実であると理解するようにと私へ強く言い聞かせていた。ここにあるものだけが本物で、つまりここにないものはすべて偽物だ。私はゆっくりと振り向く。振り向いた先には押し入れしかないとわかっていた。
「ねえ、わたしみたいに、新しいジャンルも開拓しなよ。趣味が偏るよ」
押し入れの前に、夏のセーラー服を着た若い女が立っていた。
以来、私は姉といつも一緒にいることになる。姉の姿は私にしか見えず、姉の声は私にしか聞こえないようだった。私が姉の姿を目で追うたび、姉の声に耳を傾けるたび、その様子を見た周りの人々は「いよいよこの子は気がふれてしまった」と嘆いた。
姉は、ここいるけれど、それと同時、どこにもいない。
けれど、私ははたして本当に事実なのか確かめようとはしなかった。だってそもそも私は元々姉の存在を“バグ”だと正しく理解していたからだ。姉は私の脳内にのみ存在していて、姉とは私の妄想、つまり幻視と幻聴であることを、私は端からきちんと理解していた。
姉が現れた時点で家族に相談し、病院でもクリニックでもどこでもいい、何かしらのケアーを自らに行うべきなのだったのだろうとはわかっていた。わかっていたけれど、しかし私はそれらを何一つ実行には移さなかった。
移す気がなかったのだ。だって、そのころの私はあまりにも寂しかった。友人はおらず、当然恋人もおらず、家族からは疎まれ、何もかもが恐ろしくて外へも出られず、インターネットなどで感情を吐き出す術すら知らず、ただ自分の中にある得体のしれない毒や膿や泥を“恐怖”として持て余すことだけに日々を費やしていたからだ。
だから私は姉をすぐに受け入れた。私は、姉以外の人間が同じ空間にいるときは彼女の存在を悟られないよう振る舞ったが、姉と二人きりになればすぐさま姉を「姉」として、「ここに存在する確かな者」として扱った。そんな私を見ながら、姉はいつも、
「あんた、将来は俳優になりなよ」
と、私の演技を茶化す。
眠れない夜、いつも私は姉に「寝かしつけてくれ」とせがんだ。姉は、
「でっかい赤ちゃん」
と笑いながら私の布団のすぐ傍に座り、乱れたセーラー服のスカートの裾を細い指で簡単に整えてから、
「寝ろーよ、寝ろ寝ろ、今すぐにー」
などと、毎回歌詞の違う歌を口ずさみながら、私のくびれ辺りを繰り返しゆっくりと叩いた。姉の歌はとにかく意味不明な歌詞で、リズムも何もあったものではなかったが、姉の歌声を聴いていると私は不思議なくらい安心し夢も見ずに眠れた。
居もしない姉が出来、しばらくすると私は一人でも外出できる程度に回復した。正確には傍目では一人、というだけで、いつだって隣には半袖のセーラー服を纏った姉がいたのだが、家族は私がようやくまともに戻りつつあるのだと、それは信じられないくらい大袈裟に喜んだ。そのとき姉がぽつりと、
「冗談みたいだね」
と呟いたことを私は今でも鮮明に覚えている。
季節は冬になっていた。
それでも姉は半袖だった。
その日も私はいつものように姉と、趣味の悪い名前の、不登校児ばかりが集うスクールへと向かっていた。歩を進めるたび積もった雪が、ぐ、ぐ、と鈍い音を立て靴底で固まっていく。黒い編み上げのブーツの中の指先は氷のように冷え、感覚なんてとっくになかった。
肉厚のダッフルコートと手袋、顎までマフラーに埋もれながら、私はいつものように姉の話に耳を澄ませる。姉は、きのうの深夜ラジオで流れた複数の楽曲について、ぽつぽつと言葉を並べていた。
「特集がそうだったからまあ仕方ないとは思うんだけどさあ、わたし、失恋ソングって聴いてもあんま気持ちよくならないんだよなー。愛はー、とか、恋はー、とか、君のことが大好きだったよー、とか、そういうこと言われたって、結局それを歌ってんのって日の目浴びた奴らじゃん? 恋愛では大失敗したかもしれないけどさあ、音楽では大成功してんのね。なんか、そういうのって全然沁み込んでこない。うざいんだよね」
私には姉が話す言葉が自分のそれと同じくらい理解できた。当然だ。だって姉は私の中にしか存在しないのだから。結局姉は私で、「私」は「姉」という虚像に元来自分がやりたかった全てを押しつけている、ただそれだけの話なのだから。
私は姉に対し、うん、うん、そうだよねえ、などと壊れたレコードプレーヤーのように繰り返す。そのときの姉と私のやり取りに透き間は存在しなかった。ほんの少しでもそれを作ってしまえば、姉は私に、
「あんた、わたしにいなくなれって思ってるよね」
と切り出すことは明らかだった。そのころにもなると私は心のどこかで姉の不在を願っていた。
しかし、だからこそ私は必死に姉の言葉に相槌を打ち続けた。
だって、やはり、姉が出現したあの日から姉が消えかけているこの瞬間まで、どうしたって私は一瞬たりとも変わらずに寂しいままだった。寂しいという感情を抱え込み続けていた。「姉」という存在ができたって、結局私は寂しさをどこにも追いやることができなかった。私は寂しさを姉以外の何にも変換できなくなっていた。
姉は延々と“今時の音楽”とやらを否定してはけらけらと大声で笑っている。私は、そうだよねえ、をもう何十回も小さく呟いている。
おそらくこの日、この瞬間だけが、私が姉を消滅させることができる最初で最後のチャンスだったに違いない。そのうえで私はそれを無視した。気づいていたにも関わらず。
春がきてスクールを卒業しても、何年か経って大学を出ても、それなりに名の知れた企業に就職しても、すれ違いばかりだった家族と和解しても、気の許せる友人や恋人ができても、未だ姉は私の隣に存在している。
彼女はきょうも半袖のセーラー服を着て、ときどきスカートの裾の乱れを気にしながら、私へ向かい私の世界を乱暴な言葉づかいで表現する。私は日々少しずつ老いていくけれど、姉はいつまでも初めて私に話しかけたその日と同じ姿で私の隣に立っている。私が死ぬその瞬間まで彼女は私の隣にいるのだろう。姉は私の寂しさの寄せ集めから生まれた化け物で、私はおそらく一生変わることなどできない。
私は、今も寂しい。姉がどうかは知らない。