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魔族との戦いへ



 水明にしては珍しく、この日は恐ろしく寝坊助さんだった。異世界に来ても、昼まで寝過ごしたのはアストラル・ボディを損傷したときを除き、いままでなかったことだった。

 普段ならば魔術を使って二、三日寝なくても平気の平左でいられるが、寝過ごした原因は昨日の初美との話し合いにある。夜も遅くに会いに行ったことはさして問題ではなかったが、彼女が一緒に来るのを拒否したこと、その原因の一端が自分にあることなどが、懊悩となってストレスを作り出したのだった。

 彼女の意志は尊重するということで決着したが、彼女の弟ともに兄妹のように育った間柄ゆえ、こればかりは落ち着かない。師範に魔狩りに連れだされている記憶が戻っているなら、そう心配することもないのだが――



 ともあれ眠れない以上に精神に負担を強いたゆえ、紛らわそうと英傑召喚の陣についてあれこれ考え、気が付いたら昼だったというわけだ。

 部屋を出て、あくびをしながら宿舎の両階段を降りると、一階ホールに大勢が集まっているのが見えた。

 それに気付いたレフィールが、ぼけた顔で降りてくる水明に声を掛ける。



「今日は随分と遅かったな」


「ああ、昨夜は遅くまで例の最初に英傑召喚の行われたってところに行く算段を立ててたんだ。……というか随分騒がしいが、どうしたんだ?」



 ただならぬ空気が充満していることに気付き、怪訝そうに見回す水明。ホールに集まっているのは宿舎で寝泊まりしている非番のギルドの職員や、他のギルド員だった。ギルド員は鎧などを着込んで荷支度を整えており、みな落ち着かない様子。

 何やらレフィールを中心に話し合いをしていたらしい。



 すると、レフィールの隣にいるフェルメニアが逼迫した声音で言う。



「スイメイ殿、大変です! 魔族の侵攻が再開したようなのです!」



 それなら、騒ぎにもなるか。



「あー、確か魔族の将軍を倒してから目立った動きはなかったって話だが」


「攻め込む算段が着いたんだろう」


「それでか。でも、この前打撃を受けたって割には早いな」


「ルメイア殿は、魔族は元から戦力を小出しにしていたんだろうという見解だ。そうでなければ、君の言う通りいくらなんでも戦力の補充が早すぎるからな」



 その言葉に水明は頷く。魔族の領土は北部一帯だが、連合の戦場からは当然距離がある。戦力の補充にはそれなりに時間を要するため、この短期間の内に戦闘を再開できたのはおそらくそう言った理由に間違いないだろう。



「それで?」


「それで、今回は宵闇亭でも募っているんだ。さすがに動かないわけにはいかないからな」


「なるほど」



 水明が現状を把握した折、玄関のドアが開く。現れたのはリリアナだった。



「すいめー。起きたのですか」


「ああ。出かけてたのか?」


「はい。連合の軍と、勇者の動きを聞きに」


「で?」



「勇者とその仲間はもうミアーゼンを出立したそうです。進攻は小規模だそうですが、魔族の軍は四方からの他面作戦を取っているため、今度は軍を大きく動かす恐れがあるらしく、すぐに動いたようですね」


「……そうか」



 リリアナの報告口調を聞き、唸る水明。さすが勇者一行は軍隊と違い動きが早い。

 水明が唸っていると、フェルメニアが神妙な様子で訊ねる。



「スイメイ殿。いかがします?」


「俺も行く。やっぱり心配だからな。それにいずれにせよ、連合に展開する魔族たちは調査の際に無視できなくなるからな」


「召喚の魔法陣の調査ですね」



 水明が頷くと、レフィールが口を開く。



「では、我らも加わることに決定だな」


「ですね」


「悪いなみんな」



 水明は迷惑をかけることに謝罪を入れる。そんな快いやり取りが行われている最中、ふとギルドの職員が遠慮がちに手を挙げた。



「あの……」



 連絡員なのか、女性のギルド員。彼女が困ったような視線を向けてきていることに気付いた水明が、訊ねる。



「どうしました?」


「今回の連合の魔族討伐作戦の支援に際しては、召集するギルド員は規定によりBクラス以上となっています。スイメイ・ヤカギさんはDランクのギルド員ですので、ご参加はの方はちょっと……」


「あ……!」



 言われて気付き、間の抜けた声を出す水明。言われてみれば確かに、アステルの宵闇亭で取得したランクがはDであった。



「じゃあルメイアさんに言って……」


「本部の規定がありますので、いくらギルドマスターとお知り合いでも、ダメです


「そこをなんとか」


「ダメです」


「じゃあ勝手に付いてくってのは」


「ダメです。そう言った方の存在は現場での士気にも関わりますし、足手まといになる可能性もあります。重ねて言いますがダメです」


「いや俺は」


「ダメです」


「…………」



 職員の女性は取り付く島もなかった。困ったようにしている水明に、レフィールが半眼を向けてくる。



「ほらみろ。いまさらあのときのツケが回ってきたぞ?」


「返す言葉もない……というかこの返す言葉もないって台詞、昨日も言った覚えがあるなぁ……」


「スイメイ殿、どうするんです?」



 水明はフェルメニアの訊ねに返事をしてから、職員に訊ねる。



「あー、いまからランクの試験を行うのは無理ですかね?」


「はい。できません。登録の際のランクはその場で暫定的に決めますが、昇級試験については正式な手続きを踏んで、本人の力量を精査しなければなりませんので」


「あぁ……」



 昇級試験が簡単に行うこと出来ないのは、ギルド員を見合わないランクに上げてしまうこと防ぐためだろう。『やりたい』『じゃあいますぐ』という風にできるようになれば、多くのギルド員が昇級試験を受けたがり、結果職員の負担が増え、見落としや雑さが出るというわけだ。

 そう言った点を理解して、水明は肩を落とす。



「しょーがない」


「仕方ありません。ヤカギさんには諦めてもらうほか……」


「いや、それは全然ないんだけど」


「え?」



 怪訝そうに訊ね返す職員。彼女が首を傾げる一方で、フェルメニア、レフィール、リリアナはため息を吐いた。



「悪いけど、どうにか一人分席を空けてくれ。なに、アンタは俺たちの分の枠を開けておいてくれるだけでいいから」



 水明の声が不思議な響きを放つ。すると周囲の人間は虜になったように意思を喪失し、職員の女性は神妙に返事をしたのだった。



     ★




 現在、魔族の領土はガイアスの出身国である、ラルシームの領土と面している。

 もともと魔族の領土と言われていた地域とラルシームの領土の間には、どちらの勢力にも属しない空白の地域があった。だが、魔族の軍が最初の進攻の折にラルシームまで食い込むほど大規模な進軍を行ったため、境界に簡易の砦が建てられ魔族の侵攻が凌がれた。



 初美たちが魔族の軍を押し返したため、前回の魔族討伐のときに建てられた砦は、いまは前線、中継地点となっている。

 足かけ四日。初美たちは援軍より先んじて、驚異的な速度で大荒野手前のその砦に辿り付いていた。

 砦周辺は物資搬入が急がれ、慌ただしい様子。大規模な決戦に備えて、連合に所属する各国の兵士たちが忙しなく動いていた。



 そんな様子を馬に乗って眺めながら、初美たちは天幕の前で馬から降り、中に入る。

 中にはすでに連合に所属する各国の将軍、参謀たちが揃っており、今後の作戦について話し合っていた。そのほとんどが前回、前々回の戦で見た面々であり、前もって先触れの報告があったらしく、勇者の到着に驚くことなく迎えられた。



 勇者である初美の席は一番上座に置かれ、次にヴァイツァー。セルフィは初美の召喚者であるため彼女の横に控える。

 皆が席に落ち着いたのを見計らって、ヴァイツァーがミアーゼン軍の参謀に訊ねた。



「現在の状況はどうだ?」


「は! 現在ラルシーム、ミアーゼンの軍を主軸にして、両翼にも兵を配置。正面から侵攻してくると思われる魔族の軍を、包むような形に展開しています」


「襲われたという境界の砦の状況は?」


「魔族の襲撃があった砦は、北西、北北西、北東、北北東です。現在は援軍を移送済みで、ほとんどが善戦しているのですが、北北東からの攻撃が苛烈を極めているらしく、状況は芳しくありません」



 参謀の忙しない報告に、ガイアスが唸る。



「戦力は十分置いてあったはずだがな」


「魔族の数は配置していた兵の数を上回っていました。そのため、先ほど撃退には要援軍とのことになりました」



 そう言って、参謀はさらに詳しい状況を説明する。しかして、その状況を総合するに。



「お粗末な作戦ね」


「やはり、勇者殿も陽動か分散作戦のどちらかだと?」



 敵の動きをそう評する初美に、ヴァイツァーが確認する。彼女が心得顔で頷くと、セルフィも頷いた。



「おそらくハツミの予想は当たりでしょう。魔族は本隊で連合の軍に睨みを利かせておいて、いくつか別働隊を動かす陽動作戦。もしくはそちらに連合の兵を――勇者を引き付け、戦力を分散させる作戦」

 セルフィの言う通り、それが初美の予想だった。



「ただ――」


「あまりにお粗末な作戦なのが如何ともしがたいところ、ということですね?」


「ええ、これがそう言った作戦であることくらい誰でも簡単に分かるもの」



 セルフィの訊ねに、初美が頷く。そう、このように誰でも容易に見破れるゆえ、お粗末な作戦と評したのだ。

 だがそれが、他に何か意図があるのではないかと勘繰ってしまう要因にもなる。

 そこで、ガイアスが参謀にいかつい顔を向けた。



「各砦を襲っている魔族の軍の規模は?」


「北北東以外がおそらく配置してある兵の二倍ほど、北北東は常に戦力を注ぎ込んでいるらしく、三倍から四倍の数はいるのではないかと予測しています」


「多いな……」



 連合の兵は砦を拠点に戦っているため、数が少なくても応戦は可能だ。持ちこたえる余裕はある。だが、北北東に攻めてきている魔族の数は砦を落とすことができるほどいる。守るには多くの援軍を向ける必要があり、撃破するには相当の戦力を注ぐ必要があった。



「……つまり、連中は単にオレたちの戦力を分散させようって腹なんだろうな。単純だが、効果はある。策があるようで特に何もないってのが連中の策なんだろ。偽計だな」


「そうね。普通に考えてそうだと思う」



 ガイアスの結論に、同意する初美。現在わかっている情報ではそれしか判断できず、それ以外の策があるかどうかについては、判断できる状況ではなかった。

 すると、参謀が渋い表情を見せる。



「……いまは持ちこたえてはいますが、北北東の境界砦が落ちるのは、時間の問題かと」


「このままではまずいですね」


「うん。穴が開いたら、そこから一気に魔族が流れ込んでくる」



 敵の動きについての判断が終わり、ヴァイツァーが訊ねる。



「それで、援軍の攻勢についてはどうなった?」


「は。主案にこちらから再度援軍を向かわせる策を。そして腹案が……申し訳ありませんが勇者様に援軍を率いていただき、砦に向かっていただく策を用意いたしました」



 策を提示した参謀は畏まっている。最も確実な策を腹案にしているのは、おそらく勇者に対し遠慮しているというアプローチなのだろう。本来ならばそれが最善手だが、直に勇者に戦いに行けとはいくら軍の参謀や将軍とて命令することができないのだ。



 それを察し、初美は決然と頷く。



「私たちが動かないわけにはいかない。他の砦に援軍を送ってるから本隊の数は限られてるし、魔族の本隊が動いたときのために救援は多くは割けない」


「つーことはだ」


「動きやすく、十分な戦力である私たちが動かざるを得ないというわけですか」


「そうなるよな」


「話はもういい? 準備ができ次第動くから、用意の方をお願いします」



 初美が遜った態度で頭を下げると、居並ぶ将軍たちも慌てて頭を下げたのだった。



     ★

     



 砦で軍議をしてからの初美たちの行動は迅速だった。本陣までの行軍の疲れをゆっくりと癒すこともなく、引き連れて来た兵士は本陣に置き、将軍たちによってあらかじめ用意されていた部隊を率いて、目的の境界砦へ。

 現在は魔族の攻撃が激しいとされる境界砦に到着していた。

 森と山の間にある小高く開けた場所に、黒鋼木製の柱をいくつも建てて作られた防壁がある。四方には見張り塔が設置され、要害に作られた頑健な砦とはイメージは遠いが、それでも通りやすい道を塞ぐように置かれているため、砦の体面は成されている。



 だが北部方面の境界砦は大荒野手前の本陣が置かれた砦とは違い、一度魔族に奪われ、それをまた奪い返したという経緯があるため、破壊に破壊が重なり、修復はなされているが状態は芳しくない。頑健な黒鋼木の防壁もところどころに大きな傷があったり、一部穴が開いていたりと、見るからに頼りない。

 そんな境界砦は現在、思いのほか静かであった。いまは魔族が攻めの手を止めたのか。戦ったあとの慌ただしさは見受けられるが、目下攻撃を受けている様子はない。



 セルフィを率いてきた部隊に残しつつ、初美たちは先行。一足早く砦へと入城し、ヴァイツァー、ガイアスらと共に、見張り塔へと登った。

 塔の上では指揮官自ら周辺の状況を観察しているらしく、上から指示を飛ばしている最中にあった。肩当てや服装から、ラルシームの将兵らしい。指揮官のもとまで行くと、彼は畏まった様子で膝をついた。

 すぐに楽にしていいと言う指示を出したガイアスが、彼へと訊ねる。



「状況はどうなってる?」


「は。いま魔族との戦闘は膠着状態に陥っています。魔族共も攻めあぐねているようで、攻めの手が緩んだいまのうちに、怪我人の治療、砦の補充などを急がせています」



 わずかだが興奮気味に報告をする指揮官。先だっての戦闘の昂揚がまだ抜けきっていないのだろう。そんな彼に、ガイアスは気風の良い笑顔を見せる。



「粘ったな。偉いぞ」


「もったいないお言葉です。フォーバーン将軍」



 軽く頭を下げ、ガイアスに謝意を示した指揮官。そんな彼に初美が訊ねる。



「それで、魔族はあれですか?」



 初美が訊ねると、指揮官は昂揚した様子で首肯した。見張り塔から見える丘の裾野。初美が目を向け、指揮官が前方を示すと、その先には魔族の軍団があった。砦のある小高い丘のすそ野を包囲するように、広がって陣らしきものを構えている。

 人間の軍のように営地を造っているわけではないが、地面を掘り返して塹壕のような穴を作り、木石などを壁になるように設置して、一応陣地らしきものを形成しているらしい。全て見渡せるわけではないが、かなり周辺を荒らしているようだった。



 おそらくは、荒らすことによって、仮に撤退したとき、こちらの足止めとなるようにしているのだろうと思われるが――それはともかく。



「これ見よがしに布陣してる」


「こちらから手を出せないのを良いことに、ああやって圧力をかけてきているのです。時折鬨の声を上げ、土地を荒らし、我らの疲弊を狙っているようで……」



 自分たちが来るまで、数が少なかった。その状態でちょっかいを出せば、攻勢を掛けられ落とされる可能性がある。援軍を待つよりほかなかっただろうが、その待っていた時間は気が気でなかっただろう。魔族以外にも、いつ何時攻め込まれるかもしれないという不安と、戦わなければならなかったのだから。だが――おかしい。



 魔族の動きは戦略的には真っ当な手段だ。理に適っている。だが、その動き方は魔族にしてはらしくないとも言えた。弱みを見せれば、一気に攻めてくるのが魔族の気性だ。なのに砦攻めの戦闘が膠着しているからと言って、ただ圧力をかけているだけとは。向こうも再度攻めるための援軍を待っているのかもしれないが、どうもおかしい気がする。

 そんなことを考える中、訊ねてくるヴァイツァー。



「勇者殿。どうします?」


「蹴散らしましょう。いつも通り。なんだけど……魔族たちにおかしな動きは?」


「いまご報告したこと以外に重要な情報はないと思われます。周囲にも魔族はいません」


「なら問題はなさそうね」



 そう結論した直後、見張り塔の下からセルフィの声がかかった。



「ハツミ、伝令が」


「何かあった?」


「魔族の本隊が動いたそうです。現在連合の軍が動き、応戦していると」



 遂に来たかと、周囲にどよめきと緊張が走る。そしてその報告に、ヴァイツァーが苦々しそうに吐き捨てた。



「やはり戦力を分散させる策だったか。小賢しい」



 連合の部隊が離れたタイミングを見計らって、本体を一斉に動かしたのだろう。結局向こうの流れに乗せられたが、これで目の前に居座っている魔族の部隊が戦力を分散させるための囮だということが確定したとも言える。



「早く倒して戻りましょう。あとヴァイツァー、こっちが終わったら連れてきた兵たちをここに預けて」


「防衛の補てんですね。承知いたしました」



 畏まるヴァイツァーの一方、ガイアスが判断を仰いでくる。



「どうするんだ?」


「こっちから打って出るつもり。早いところ無力化して、すぐに引き返す。それが一番いいと思うけど、どう?」


「私は賛成です」


「戦術的には良いとは言えないが……ま、いまはそれしかないだろうからな」



 そう、ガイアスの言う通りそれしかないのだ。時間的な猶予がないため、籠城や敵を釣ったり、別の場所に兵を配置するなど、時間を要する策を取ることができないのだ。真っ向から攻めれば被害はかさむかもしれないが、その分は自分たちがカバーするしかなかった。

 方策を確認したヴァイツァーが、指揮官に訊ねる。



「指揮官、砦に残っている兵の状態は?」


「怪我や疲弊が重なった兵が思いのほか多く、防衛戦ならば四分の三ほどの兵を出せますが、攻めに加わるとなると約半数ほどに減るかと」


「セルフィ、我らが連れてきた部隊の疲弊はどうだ?」


「行軍中に休息は挟んでいましたので、これからすぐ戦闘になっても問題はないかと」


「では、すぐに戦闘の用意をさせろ。展開している魔族の部隊に対し、我らは部隊を三つに分け、右翼、左翼の部隊で両側を止めつつ、勇者殿率いる本隊で魔族軍を切り崩す。砦前で陣形が整ったらすぐに攻めるぞ!」



 ヴァイツァーが指示を飛ばすと、他国の兵にもかかわらず、ラルシームの兵が動き出す。事前に王室が、彼が勇者の仲間であることを広め、根回しを万端にしているためだ。

 その一方で、指揮官と話し合っていたガイアスに、初美は声を掛けた。


「私たちもすぐに出ましょう。ガイアス、準備はいい?」


「おうよ。腕が鳴るぜ」



 ガイアスはそう返事をして、拳を手のひらに打ち付ける挙動を見せる。

 彼が見張り塔を降りるのを見て、初美も手すりに足を掛け、塔の脚を蹴るように降りていく。普段ならば兵士たちが湧き立ちそうな行為だが、いまは誰もそれに視線を呉れる余裕はない。編隊や隊列の形成に忙しなく動き回る兵たちの間をくぐり、門の前まで駆ける。

 門の前で待っていると、やがて魔族を攻める準備が整い、開門の合図が響き渡った。

 その後開門と同時に、整列した兵士たちの方へ振り向く。見えるのは、勇者と戦を前に興奮気味の兵士の顔。これから魔族と戦うことへの不安は一切ない。

 この士気の高さも、これまで自身が魔族との戦いで連戦連勝だったからだろう。そう言った事実があるゆえに、みな勝利を確信しているのだ。



 この期待に応えなければいけない。そんな思いが、胸の内に湧き上がってくる。

 その思いをよく噛みしめ、彼らに眼差しを送った。

 そして、ヴァイツァーが兵たちの前に一歩歩み出る。



「これより我らは、砦に攻めかける魔族を討つ! 我ら連合の軍は援軍を含めても奴ら魔族の数には後れを取るが、我らには万の援軍に匹敵する力を持つ勇者殿がいる! 彼女が我らと共に戦ってくれる限り、決して我らに負けはない! 女神アルシュナの御光(みひかり)を与る勇者殿と共に戦える誉れを、みな誇りにしてこの一戦に臨むのだ!」



 いつになく熱意のこもった彼の口上が終わると、一際大きな鬨の声が上がった。

 それが終わると。ガイアスとヴァイツァーがすぐに脇に付く。ヴァイツァーの掛け声と共に、兵士たちと砦から出陣。そして一気に坂の上から駆け下り、魔族との距離を開けて、隊列を保ったまま行軍を停止した。



「……魔族もこっちの様子に気付いて、動き出したみたいね」


「我らは丘の上に陣を取っているので、向こうからもわかりやすいのです」



 ヴァイツァーの説明のあと、後方から指揮官の声が響く。



「陣形整いました! いつでも攻撃可能です!」



 仲間たちと顔を見合わせ、うんと頷く。すると、ヴァイツァーが指示を飛ばした。



「魔法使いの部隊は詠唱の準備をしろ!」



 ――平地での衝突、数にものを言わせての戦闘など、策を用いない戦いでは、魔法使いの部隊が先制で打撃を入れるのが定石となっている。彼らがありったけの魔法を撃ち込んだあと、次いで弓兵、そして騎馬兵や槍兵などが攻めかけるのだ。



「魔法を撃ち込み終わったら、攻めるぞ! 正面隊は全員腹に力を込めておけよ!」



 そんなガイアスの声が響いたあとすぐ、魔族側からも不気味な唸り声が聞こえてくる。

 ヴァイツァーがセルフィに呼び掛けた。



「セルフィ、先制の魔法攻撃が終わったら」


「部隊を側面に回して援護ですね。弁えています。――魔導隊、詠唱用意! 炎の魔法と風の魔法で魔族に打撃を与えます!」



 彼に承知済みだと答えを返したセルフィは、直後魔法使いの部隊に指示。やがて呪文を紡ぐ声が輪唱のように響いたあと、風の魔法で煽られた炎の魔法が一斉に魔族の部隊に飛んでいく。丘を取り囲むように広がった魔族に、第一撃目が衝突する。



 次いですぐに二撃目、三撃目が放たれ、火の手が轟々と上がった。



「風使いは風向きの制御を! 味方が常に風上になるよう、調整を怠ってはなりません!」



 再度、セルフィの指示が飛ぶ。一方、右翼、左翼では絶え間なく魔法が放たれ、魔族の足止めをしている。

 正面の魔族が火の中から攻め上ってくるのを見計らって、剣士たちが動き出す。

 正面隊の兵が抜刀をしたのを機に、ヴァイツァーが高々と剣を振り上げた。

 陽光が掲げられた剣の切っ先に反射した、その直後、



「よし、一斉に――」



 ヴァイツァーが突撃の指示を飛ばそうとしたそのときだった。悲鳴のような報告が、右翼から上がった。



「ヴァイツァー殿下! 右側方より、魔族の援軍です!」


「なっ!?」


「このタイミングで!?」



 ヴァイツァーと初美の驚きが重なる。次いで、ガイアスの怒号交じりの訊ねが、伝令に放たれた。



「そっちは山側だぞ! どういうことだ!?」


「羽根つきの魔族共です! 空を飛んでこちらに向かってきています!」


「伏兵を用意していたってのか……?」


「だけど指揮官の人はそんな様子はないって……」



 言っていた。周囲に魔族がいる様子はないと。ならば、どういうことなのか。

 初美が話ながら思考を巡らせていると、ヴァイツァーが険しい顔を向けてくる。



「いまは議論していても仕方ありません。正面の兵をいくらか割いて、応戦をしなければ。――兵は直ちに前に出て正面を支えろ! 正面の魔導隊は急いで右翼側に回り援護!」



 彼が取り急ぎ指示を出した途端、追い討ちをかけるように兵が報告に駆けてくる。



「伝令! 左手側北方面より魔族が現れました! 数はこちらを大きく上回ります!」


「な――そんな?」


「馬鹿な! 見計らったようにいまだと……!?」


「嘘だろ。どこにそんな大軍を用意してたんだよ……」



 ガイアスが困惑に呻く。援軍が両側から、丁度攻めようとしたいま現れるとは。こちらの動きを読んでいたと言わんばかりに、あまりに出来過ぎたタイミングだった。

 これでは、こちらの部隊は挟まれ、正面、両翼共にぶ厚い魔族の軍に半包囲されたということになる。

 響く、ヴァイツァーの焦りを含んだ怒号。



「応戦は!?」


「かっ! 数が違い過ぎます! もともと倍近くいたのが、この援軍で数倍に脹れあがったのです! 全てが衝突すれば我が軍はひとたまりもありません!」



 左手側は森があるため、近づかないと確認できないが、山側方面の魔族は視認できる。



「うそ、あんなに多いの……?」



 切り立った山肌が赤黒い蠢きで覆われるほど、羽根つきの魔族が飛来してきている。その数は多く、現在右手側に割いている兵の数では到底対応しきれないほどの数が攻め上がってきていた。左手側の森も、伝令の表情から見るにかなりの数がいるのだろう。

 ……だが謎だった。襲撃が開始された直後に多くの援軍を呼び寄せるなど不可能だし、もとから伏兵を潜ませているなど意味がない。この大軍があるならば力押しで攻めれば容易く砦は落とせたはずだ。伏兵など策を用いる必要などない。



 それでもこちらの軍を釣ったということは、援軍が来るのを予期していたとしか思えないが、それはそれで腑に落ちない。こうまでして援軍を叩く意味がどこにあるというのか。

 すると、ガイアスが、



「ちいっ! 魔族は境界砦の別働隊と本隊だけじゃなかったのかよ!」



 ――その吐き捨てるようなガイアスの言葉に、初美にはふとピンとくるものがあった。



「そうか、別働隊……」



 そんな初美の気付きの声は、周囲から聞こえてくる悲鳴にかき消された。

 すぐに真横から、ヴァイツァーの指示が聞こえる。



「全軍陣形を保て。いま隊列を崩すと魔族に付け込まれるぞ! 急げ!」



 陣形を保つ。つまりこのまま応戦するということか。だが陣形を整えて防戦に移ったとしても、この数ではどうにもならないのは目に見えている。

 そしてそこが、決断の岐路だった。どう考えても対応しきれないと悟った直後、初美は思い切り叫ぶ。



「逃げて!」


「え?」


「勇者殿!?」



 困惑の声が周囲から上がる。それをもっとも顔に表していたのは、ヴァイツァーとガイアス。そんな二人に、命令めいた指示を告げる。



「みんな逃げるの! いま前に出ている部隊は全部転進させて!」


「ですが勇者殿、それではこの砦の防衛線が崩れてしまいます!」


「そうだけど、数が多すぎる! このまま魔族と戦っても全滅するだけよ!」


「し、しかしあっさりと退いてしまっては士気にも影響が……」



 確かに、これまで勝利が続き、連合全体の士気が高まっている。そのうえで勇者のいる部隊が簡単に引き下がってしまうようでは影響が出ないとも限らない。だが、



「士気のために被害を受け入れるなんて私はいいとは思えない」



 そうきっぱりと口にすると、ヴァイツァーはそれ以上食い下がろうとはしなかった。彼も、このまま無策に戦い続ける愚かさはわかっていたのだろう。



「……わかりました。では急いで殿軍を編成し、砦の防衛能力を使い……」


「いいえ、砦の兵士もすぐに退かせて」


「砦の兵も退かせるのですか?」


「おい、それじゃあ足止めはどうするんだよ? 殿軍がなけりゃあ逃げるのだって……」



 そう、ガイアスの言う通り、逃げるには足止めをする部隊が必要不可欠だ。それは初美も理解しているため、ここは頭を振った。



「もちろん殿軍は集める。でもその殿軍は余力がある部隊と、私たちがするの。砦には立てこもらずに、放棄を前提にして動いて」


「放棄って……」


「砦を守るために人の命を捨てるなんて、意味がないでしょ」



 言葉を聞いて二人は押し黙ったが、同じ気持ちだろう。確かにここ境界砦は、魔族からの侵攻を押しとどめる重要拠点だが、このまま砦の防衛に回っても、いずれにせよ陥落は忌避できない現状にあるのだ。ならそうそうに見切りをつけ、撤退することが肝要だろう。



「それで、殿軍のことなんだけど、二人共嫌なら無理はしなくて構わないわ」



 無理強いをしないという選択肢は出した。だが、やはりといえばやはり予想通り、二人は嫌とは言わなかった。ヴァイツァー、ガイアス共に、顔に汗を滲ませながらも、兵の撤退を支えることに心強く頷いてくれた。

 そんな中も、後方から再び兵士の悲鳴が上がる。



「右翼! 支え切れません! 左翼ももう間もなく突破されます!」


「早い……」


「釣られた。完全に。刀を抜く暇もないなんて……」



 見こされているかのように、流れに乗せられていく。全て魔族の術中にあったと言うことか。こちらが対応しきれないほど、状況の変遷が激しい。このままでは正規の撤退戦などできはしないだろう。

 魔導隊を指揮していたセルフィが駆けてくる。



「ヴァイツァー殿下、こちらの状況は?」


「いま方策が決まったところだ」


「応戦ですか?」


「いや……撤退に決まった」



 苦渋を噛みしめるヴァイツァーとセルフィ。そんな二人のやり取りが終わったところで、初美は口を開く。



「ヴァイツァー、ガイアス、セルフィ」


「はっ」


「なんだ?」


「ハツミ」


「今後は分散して戦闘、ある程度時間を稼いだら、みんなで散り散りになって逃げましょう。三人はそれぞれ部隊を率いて撤退を。私は単独で動くから」


「単独ってお前」


「ハツミ! それはいけません!」



 セルフィが、語気も強く拒否を示す。心配してくれているのだろう。しかし、そうしなければならない理由はある。



「私には英傑召喚の加護がある。だからみんなよりも体力も持つし、どうとでもなるから」


「だからって一人になるのはいくらなんでもよ!」


「下手に兵士を付けてもらっても足手まといになるだけよ。そうでしょ?」


「そ、それは……確かにそうだが」



 言葉に詰まるガイアスとは対照的に、ヴァイツァーが真剣な表情で首を横に振った。



「いえ、勇者殿。私も供を致します」


「ダメよ。私たちは分散しないと。そうじゃないと誰が兵をまとめるの?」


「私は国王陛下よりあなたの助けになることを命じられています。それに、私はあなたの助けになると――」


「ヴァイツァー」


「勇者殿……」



 彼の名を呼んで、しばし瞳を見詰める。決意が固いことを眼差しで訴え、それでも譲ろうとはしない彼に対し、初美は卑怯な手段に打って出た。



「私なら一人で大丈夫。だからヴァイツァーは殿軍と一緒に本陣まで逃げて。勇者の命令って言えば、聞いてくれる?」


「勇者殿!? それは!?」


「ハツミ……」


「おいおいそいつは……」



 勇者の命令とあらば、頷くほかない。彼にとっては、決して出して欲しくない言葉だったろう。この言葉を告げられれば、彼の選択肢はなくなるのだから。



「……く、承知しました」



 頷くのは辛いのか。ただ勇者という呼ばれ方をするだけの女には、もったいないことだ。

 彼は少しの間俯いたあと、毅然と顔を上げ、周囲の兵に向かって叫ぶ。



「これより我が軍は撤退戦に移る! 砦は放棄! 余力のある者は我らと殿軍を! そのほかのものは急いで大荒野前の本陣まで撤退しろ!」



 その号令と共に、混戦気味になった戦場で各部隊の指揮官が部下に命令をし始める。

 気付けば、まとわりつくような不快な冷や汗が、首筋に垂れていた。






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