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月下の訪問



 星々が淡く輝く夜陰の中天に、漆を塗ったような盆のような円型(まるがた)が、ぼんやりとした薄青い光を縁になぞらせて浮かんでいる。



 ――新月の夜は、決して剣士と争うな。

 魔術師にして、剣豪との争いの縁もあった父の、ゆめゆめ覚えておけと言うそんな忠告が思い浮かぶ。刀や剣は月光をよく跳ね返す。ゆえに月夜の晩はぎらぎらと殺意を映すように光るため、折からず斬線は目で見ることが出来るのだと。だが、新月の夜ともなると話は別だ。たとい電灯はあっても、機械の光は殺意まで映さないし、神秘が産んだ光も、その在り方のせいで殺意をおぼろげに霞めてしまう。

 無論、夜は光の少ないこの異世界ではそれらもなく、まして新月であればどうなるか。推して知るべしというところだろう。



 行き違いでの初美との立ち合い、そんなことにはなって欲しくないなと、水明は夜陰の深い天を見上げて憂いとする。

 ミアーゼンの首都は新月のもとにある今宵、水明は一人、かの地にある宮殿に再びの侵入を果たしていた。



 忍び返しが突き立った高い塀を降り、ふわりと軽やかに茂みに立つ。改めて見るが、宮殿とする場所は広大な敷地である。本館、別館の他に庭が三つ、警備の兵の宿舎のほか林を挟んで礼拝堂と、一回りするともなればかなりの時間を食ってしまう。

 先日のように赴く場所が定まっているなら良いが、今夜はその限りではなし。そして今日も彼女が一人になるのか否かと言う懸念もあった。先日の一件で警戒を強め、一人にならないかもしれないが、これについては自分で確認するほかない。



「夜、一人になって水場に行く、と……」



 リリアナからもたらされたこの情報。それが正しければ、何ら難しいことはない。

 だが宮殿には七面倒なことに二つほど水場が設けられているらしく、二か所の探索を余儀なくされる。しかしてその一つ目が、いま降り立った場所にあった。

 何とはなしに、木陰に半身を隠して覗き込む。魔術でわかりにくくしているため意味はないが、身体が雰囲気に合う行動をしてしまうのは、人であるがゆえの業なのだろうか。

 井戸の周りには警備の兵の姿がちらほらあり、いまはハウスメイドが水を汲んでいる。どうやらここは多く利用されているらしい。



 そのため、可能性からこの水場は早々に除外された。一人になるのに、人気の多い水場に来るとはまずもって考えにくい。

 だが――



「水場ねぇ……そんなところで何してるんだ?」



 一番に考えられるのは水を飲むことだが、勇者として呼ばれ丁重に扱われるなら水を取りに行くなど下働きは、先ほど見た通りハウスメイドの仕事である。

 ゆえに、あと他に考えられることと言えば――



「水を使った剣の鍛錬……か?」



 剣の理はわからないが、水が必要な鍛錬があってもおかしくはない。水の抵抗力を利用した鍛錬ということも考えられるからだ。それに、剣の技術を隠さなければならないと考えているなら、一人になることも頷ける。おそらく答えはそれに間違いないだろう。

 しかしそうなると、だ。



「下手すると斬りかかられそうなモンだが……折角二人きりになるチャンスだしな……」



 別の意味としても十分取られそうな言葉を漏らしながら、水明は屋根に飛び移る。飛行の魔術を応用しながら静かに屋根に着地し、下から向けられる視線から隠れつつ移動。

 そのまま宮殿の本館らしき場所から離れ、王族のみが使用する礼拝堂の近くに向かう。

 周囲には丈高い木立があり、他の場所からは隠れるようになっているらしい。雰囲気は寂寥。こちらは巡回も少なく、一人になるにはうってつけだ。

 あとはこの辺りにあるという水場だが――



「おっと、一応こっちにも来るのか」



 女性の警備兵が一人、こちらに回ってきているのが見えた。屋根から飛び降りついでに、慌てて身を隠す。眠っていてもらおうとも思ったが、一人で結構な範囲を回っているためそこまでのことでもないかと結論し、魔術を使うのは見送った。

 だが降りた場所の近くに、水場にありそうなものはない。



「ということは礼拝堂の裏手か?」



 独りごちては警備の兵の視線をかわしつつ、裏に回ると、礼拝堂の建物とは質の違う石作りの壁があった。衝立の役割をしているのか、だが横側は解放されているため、隔てるように造られているといえば随分とおざなりである。



 衝立の向こうから、思った以上に大きな水音が聞こえる。それなりの量の水を撒いているような音だ。バシャン、……バシャンと間隔はまちまちだが、誰かが何かに使っていることは間違いようがない。

 水明は周囲に誰もいないのを確認して、滑り込むように衝立の向こう側に立ち入った。

 石塀の裏は水はけを考え石畳で舗装されており、数人が同時に使うための配慮か設置されている井戸は数個、その上には梁が渡されており、木桶を掛ける金具が並んでいる。

 しかして、そこにいたのは――



「……え?」


「え……?」



 一糸まとわぬ姿の、朽葉初美だった。

 間の抜けた声を出してしばし、見とれたように動かなくなる。

 隔世遺伝によって日本人離れした金の髪は水で濡れており、視認した大部分を占めたのは、したたるほど水滴が残る彼女の健康的な肌。身体は目に毒過ぎるほど魅惑的な曲線のラインを作っており、女性的なふくらみが強く印象に残る。



 彼女は目の合ったそのままに、呆気に取られたような顔をして、桶に汲んだ水を肩口から流していた。

 ――改めて考えれば。それもそうである。ここは礼拝堂の裏手なのだから、身体を清めるための水垢離の施設ということも念頭に入れておかなければならなかったのだ。

 異世界では風呂文化が一部地域にしか浸透していない。そのため、身体を洗うときは大抵清拭になる。しかしそれでは自分たちのような風呂に馴染んだ人間は身体を洗った気分にならないため、このように沐浴を考えることは十分にあり得ることだった。



「あの、ええと、これはその……」



 水明はしどろもどろになりつつも、咄嗟に言い訳をしようとする。ちがう、別に覗こうとしたつもりではない等々。無論そんな場合ではないのだが、それは結局初美が悲鳴を上げようとしたときに気付くことになった。



「――っ、この変た……」


「ちょ、ちょっと待てぇー!」



 叫ばれ、人を呼ばれてはたまらないと、水明は初美に向かって駆け出す。そして彼女が投げようとした木桶を払いのけ、やにわに彼女に組み付いた。



「うぐっ!」


「ちょ、ちょっと静かにしといてくれ! 頼むから!」



 水明は器用に後ろに回って、背後から抱きすくめるように押さえつけ、声をだせないように右手で彼女の口をふさぐ。急なことでバランスを崩し、二人して尻もちを突いたが、それは気にならず。それよりもなによりもまだ付近に巡回の警備兵がいるため、女の響く甲走りを出される方が、気が気でなかった。

 ここで叫ばれたら、警備の兵が飛んでくるだろう。他の兵も集められるだろう。そうなれば前回の二の舞だ。それではチャンスを棒に振ることになる。何としてでも避けたかった。

 無論初美は抵抗した。腕の戒めから逃れようともがき、それを水明は左腕を後ろから回した左腕を締めるようにして、拘束を強くする。魔術は何よりも結界の製作に費やすため、組み付いて押さえるしかなかった。



「んー! んー!」


「だから暴れんなっての頼むからっ……」



 ――ぎゅむ!



「んっ! ひゃむぅ……」


「くそっ! あと少し……」



 焦りに前後を挟まれながら、魔術を使う。あらかじめ仕掛けておかなかったのは不用意だった。今更悔いても仕方ないが、いまは早急にファントムロードを形成する必要があった。

 ……結界の製作に意識のほとんどを費やし、やがてそれが完成する頃には、初美も幾分落ち着いたか、暴れる気勢は失われていた。周囲から自分たちのいる場所を隔離する結界が完成すると、水明はほっと安堵の息を吐いて初美の口を押えた手を放した。



「悪いな。こうするしか……」


「何がこうするしかよ! 変態!」



 まだ水明に抱きすくめられたままの初美は、噛みつかんばかりの勢いで歯を剥いた。



「そ、そんなこと言ったってな、まさかこんなことしてるなんて思っても……」


「いいから離しなさいよ! いつまで胸を掴んでるつもりよこのバカ!!」


「へ――?」



 胸を掴んでいる。その言葉で、水明は自分がやっと何をしているのかに気付いた。抱きすくめての拘束は無論意識の内にあったが、左手で、彼女の胸を、もろに鷲掴んでいるのには、全くもって気付いていなかったのだ。



 言われて数秒。頭の中で整理して数秒。随分と遅ればせて思い至ると、水明は真っ赤になって手を放し、飛び退いた。

 そう言えば先ほど、拘束を強くした際、柔らかいものを強く握った覚えがあった、と。



「わわわわわわわ、悪い!」


「悪いじゃないでしょ変態! この前は人の部屋に勝手に入るわ今度は水浴びしてるところに入ってくるわおまけに人の胸揉むわ! 完全に変質者の所業じゃない!」


「ひっ!! か、返す言葉もございませんです……」



 素っ頓狂な声で返事をした水明は、いつになく神妙になって正座する。一方初美は、警戒と肌を隠すことの両立が難しいか、腕と手だけでは隠しきれない身体に難儀している様子。腕を回してはいるが桃色の先端が片方、腕の上から覗いているのにも気付いていない。

 羞恥に顔を赤くして睨んでくる初美を見て、やっと気付いた水明は、



「……そ、その、これをどうぞ」



 そう言って畏まりつつ、掛けてあった彼女の服を取って差し出す。頭はしっかりと下げ、目を開けても地面しか見えないにもかかわらず、水明は顔がくしゃくしゃになるほど目を思い切りつむっっていた。

 初美は警戒しながらも、水明から服を受け取る。



 やがて水明は衣擦れの音が収まったのを見計らって、視線を戻した。最悪斬られているところだが、どうやら手元に刀はないらしい。沐浴が、ある意味幸いだったのかもしれない。

 すると、彼女は何かに気付いたか。怪訝そうな表情で急に辺りを見回す。



「随分叫んだけど、人が来ない……?」


「ここら一帯魔術で隔離してるんだ。叫ぼうが暴れようが何しようが、音が外に漏れないから、誰も来ない」


「つまり、私はあんたに捕まったってわけ?」



 初美はギンっと刃物のように鋭い視線を向けてくる。訊ねる声もかなり剣呑な声音。そんな彼女に、水明は両手を挙げて害意がないことを示す。



「あー、えー、あの。俺はお前に危害を加えるつもりはないぞ?」


「……もういまのでかなり加えてると思うんだけど」


「すいませんごめんなさい許して下さい完全に不可抗力だったんです」



 平伏して何度も平謝りをする水明。前回侵入してきたときとはまったく違う彼の雰囲気に、初美は毒気を抜かれたか、大きなため息を吐いた。



「……で? あんた今日は何しに来たのよ?」


「だから前言った通り、話をしにだな」


「例の幼馴染みってやつ?」



 初美の問いに、水明は「そうだ」と言ってしかつめらしい顔で頷く。しかし、彼女は前にも指摘したと以前のやり取りを引き合いに出して、



「だからそれについてはこの前否定したと思うけど? どうして幼馴染みが異世界に会いに来れるのよ?」


「俺もこの世界に呼ばれたからだ。他に可能性があるとしたらそれ以外ないだろ?」


「どんな確率よ……つまりはあんたも勇者ってこと?」


「いや、俺は黎二の……友達の召喚に巻き込まれてこっちに来るハメになったんだ。アステル王国で召喚のとき事故が起こったって聞いてないか?」


「そういえば聞いた覚えがあるけど……」


「それでいまここにいるんだよ」



 水明は星の巡りの奇妙さにうんざりしたように言う。

 しかし初美はまだ不審そうな目を彼に向けていた。

 そんな彼女に、しかめっ面になってまくし立てる水明。



「じゃあ何を話せば信じてくれる? お前の家族の名前とか、特技とか趣味とか好きなものとか……あとはそうだな、人には言えない秘密とか恥ずかしい過去でも言おうか?」


「恥ずかしいってなによ!? 恥ずかしいって!? 人には言えない秘密とかどうしてそんなことまで知ってるのよ!?」


「そりゃあガキの頃からの付き合いだし。お前は俺の家の隣に住んでるいとこだぞ?」


「え? いとこって……そ、そうなの?」



 身内と聞いて驚く初美に、水明は首肯する。

 一方彼女は水明の真摯な口振りや身内という告白で、頑なだった不審の顔が幾分崩れるが、まだ表情には不安そうな色が残っていた。



「やっぱ信じられないか?」


「……ほいほい何でも信じれる立場だと思う?」


「まあそりゃあそうだわな……」



 いまの彼女は、記憶喪失の勇者だ。危険はもちろん色々な勢力に狙われたり、利用されたりしやすい位置にいるため、自然警戒は強くなる。信じろと言ってそう簡単に信じられるわけもない。他者を判断する材料が欠如しているゆえに、彼女とて苦労しているのだ。

 水明は肩を落とし、困ったように頭を掻く。話しても駄目ならば、これ以上はどうあっても証明する手立てがなかった。何か物証でもあれば話は別だが、もうあとは彼女の記憶が戻ることを祈るしかない。

 そんなことを考えながら腕を組んで唸っている水明を、初美はまじまじと見詰める。



 やがて、どこか観念したような声音で、



「――わかった。信じてあげる。私を陥れるつもりなら、こんな回りくどいことなんてしないだろうしね」


「いいのか?」


「私に危害を加えるつもりはないみたいだし、それにあんたは私しか知らないことや私の知らないことも知ってた。あとは……そうね。私の名前フルネームで呼んでくれる?」


「朽葉初美」


「あなたの名前は?」


「八鍵水明だが?」


「八鍵、水明……」


「一体どうした?」



 水明が不思議そうな顔をしていると、ぶつぶつと名前を呟いていた彼女はやっぱりと言ったような、認めざるを得ないという表情を見せる。



「……しっくりくる」


「へ?」


「あんたが言うとしっくりくるのよ。この世界の人たちが呼ぶ私の名前よりも言い慣れてるみたいに発音がしっかりしてるし、私もあんたの名前を呼びやすい。なにより、口の動きが耳に聞こえる言葉と全くおんなじ。それに人種も同じで、歴然としてる。よく考えれば、信じなきゃいけない要素のほうが圧倒的に多かったのよ」



 彼女はそう区切って、続きを述べる。



「この前私が疑ってたのは、きっとあんたがいろいろ知り過ぎてて、すぐに受け入れられなかったからだと思う。あとあんたの不法侵入でびっくりしてたから」

 確かにそうだ。勝手に入ってきた知らないヤツを信じろというのは、難しいことだろう。

 だがやっとここまで来ることができたと、水明は安堵の息を吐く。これで、本来はすぐにでもするべき本題に、今更ながら移れる。

 しかし初美は、再び厳しい視線を向けてくる。



「――だけど別にあんたに気を許したわけじゃないからね」


「あ?」


「当然でしょ?」


「は……はぁっ!? そこまで信じてくれるんだろっ!? どうしてだよ!?」


「当然でしょ? 私とあんたが知り合いで、あんたが私に厚意を持ってても、私があんたを信頼していたかどうかなんてわからないのよ?」



 確かにそうか。たとえ知り合い、友人、いとこ同士だとしても、信頼にたる人物であるかどうかは彼女にとってまだ不明なのだ。警戒が解かれないのも無理はないか。

 すると、彼女は少し責めるような口調で訊ねる。



「それで? まずどうして宮殿に侵入なんかしてきたのよ? 私を訪ねてくる方法なんて他にもあるはずでしょ?」


「それか。どうも勇者には容易に面会ができないようになってるらしいんだ。いま俺は宵闇亭っていう冒険者ギルドのギルドマスターのところで世話になってるんだが、その伝手があっても無理らしくてな」


「そうなの?」


「ああ。なんでも王室が取り次いでくれないそうだ」



 困ったもんだと肩を竦める水明を見て、初美は怪訝そうに眉をひそめる。



「…………王様たちはみんなよくしてくれるけど」


「それについては俺は知らん。だが――」



 そう口にして、水明は思案顔で口ごもる。果たして、この先のことを口にしていいものだろうかと。その先の話というのは、王室が彼女を利用している節がある、というものだ。確定ではないし、彼女のことを守るっているというのも十分考えられるため、いまそれを告げることが肝要かどうか躊躇したのだが――



「私も、心当たりがないわけじゃない。多少利用されている感はあるし」



 表情の機微から読み取ったか、水明の抱いた危惧を代わりに口にする初美。



「でもそれを言ってしまえば、勇者召喚なんてその最たるものよ。口にすればきりがない」


「そうだな。ま、そう言った理由で、俺はこういう手を使うしかなかったんだよ」



 水明がこの経緯の理由を簡素に述べたあと、ふと初美が訊ねる。



「……あんた、私のことが気になって?」



 その訊ねに、水明は何を当然のことを訊いているんだというような顔になって、



「当たり前だろうが。家族だぞ」


「家族……」



 血縁としては、所詮いとこ同士という間柄だ。距離感は家庭によって違うだろうが、それでも家族のいない水明にとっては、身近に住み、幼い頃から付き合いのある親族はほとんど家族も同然だった。日本にいるときは初美の両親が自分の食生活を心配して夕食に招いてくれるし、初美も時々だが料理を振る舞ってくれる。そんな人間を放っておくなど冷たいことなど、水明には到底できることではなかった。

 家族とまで言い切ったせいか、初美は驚きで目をぱちくりさせている。



「なんだよ?」


「べ、別に! 何でもない!」



 水明が訊ねると、初美は恥ずかしそうにそっぽを向いた。そして、ある程度面映ゆさが取れたあと、どこか恐る恐ると言ったように訊ねてくる。



「……あんたが家族とか言い切るのはどうだっていいとして、私に他に家族はいる?」


「ああ、父親である鏡四朗師範に、母親である雪緒さん、弟の馳斗がいるよ。急にいなくなって、みんな心配してるはずだ」


「……そう、そうよね」



 家族がいると聞いては、さすがに堪えるものがあるのか。帰りを待つ者は事情をしらぬため、要らぬ心配をかけているというそんな事実に、彼女は気を揉んでいるのだろう。

 そんな彼女に、水明は手を差し伸べた。



「初美、俺と一緒に来い」


「あんたと?」


「そうだ。いま俺は俺たちの世界に戻る方法を探してる。俺がミアーゼンに来たのもそのためなんだが……俺たちと一緒にいれば、見つかったときすぐにでも向こうの世界に戻ることができる。だから」

 だから、一緒に来い。そう言った。だが、初美はその誘いに頷かなかった。彼女はさながら厚意に背を向けてしまったときのように、気まずそうに目を逸らす。



「でも、私は魔族と戦わないと……」


「別に、戦わなきゃいけない理由はないだろ? 勝手に呼び出して、戦ってくれって言われたところで、そんな義理はない」


「…………」



 そう、初美だけではなく、これはこの世界に呼ばれた勇者全てに言えることだが、魔族と戦う義理などそもそもないのだ。それに記憶を失っている初美の場合は、魔族との戦いは成り行き上、そうなる可能性が十分高かったと言える。水明としてはそこに彼女の意志の介在があったとは思えなかったのだ。

 だが、半ば強制的な状況でも頷くことができないということは、



「もしかして、いままで一緒に戦ってきた仲間を裏切ることになるからか?」


「それもあるけど……でもそれだけじゃなくて、この戦いは私から始めたものでもあるから、途中で投げるわけにはいかない」


「自分から始めた? どういうことだ?」


「あんたの言う通り、私には記憶はないし、戦わなきゃいけない理由はない。初めもそう言って、ずっと部屋に引きこもってたのよ。でも、魔族が襲って来たって聞いて、助けて欲しいって人たちがいたから、私がやらなきゃいけないって思ったの」



 滔々と理由を述べる初美に、水明は口を閉じる。彼女が口にする理由は、黎二の言っていたものとどこか通じる部分があった。



「そのあとは連合の人たちやセルフィたちと一緒に戦って、魔族を追い払ったの。みんな喜んでた。私が戦ったからじゃなくて、沢山の人やその人たちの家族が助かったから。だから」



 ――今更投げ出すことはできない。自分で戦い始めたのに、帰れると聞いて投げ出すのは、ムシのいい話ではないか。



 そう、初めて心の内を吐露するかのように、彼女はゆっくりと吐き出した。

 だがそれは、結局は余儀ないことではないのか。良心に付け込まれ、必要に差し迫ったから戦う羽目になったのではないか。なら、その戦いは自分の戦いではない。人の戦いに巻き込まれたに過ぎないようにも思う。

 水明がそう諭そうとしたとき、初美が不意に口を開く。



「……ねぇ? いつかはわからないけど、お葬式がなかった? あんたが喪主をやって、誰か大事な人が亡くなったこと」


「そうし……三年前、父さんの葬式をやった。喪主は鏡四朗師範が代わってくれるって言ったけど、一番近い血縁が俺だから、俺がやった」



 何かしら推測が当たったのか。見つけてはいけないものを見つけてしまったように、諦めにも似たため息を吐く。



「やっぱり……」


「つーかどうしてそんなこと知ってる? お前記憶喪失なんだろ?」


「フラッシュバックしたのよ。まだその記憶の中の人たちの顔は判然としないけど。さーっと映像が頭の中に流れたの」


 そういうこともあるのか。水明がそう思っていると彼女は、



「それで、そのお葬式が終わったあと、あんたが言ったの。進まなくちゃいけない。助けに行かなくちゃいけない……って」


「俺が?」



 思わず訊ね返した。思い返してみても、そんな覚えはない。



「わからない? ……そう。たぶん疲れてまどろんでたときだから、覚えてないんだと思う。文脈も妙だったし。でもそのときのあんたは、どうしてもやらなければならないことがあるんだって感じだった。だから、あれはきっと、ただの夢なんかじゃない」



 その頃は、色々なことがあった時期だ。父が死に、その後始末に追われ、それでも父の最期に約束したことを守らんと、魔術師としての道を歩いて行こうと確かに決意した頃。

 弱ったときに、思い掛けなくそんなことを漏らしていたとしても、おかしくはない。



「ガイアスが援軍をくれって宮殿に駈け込んで来たとき、その記憶が蘇った。だから私は戦い始めたの。記憶の中のあの人は、腐らず前に進んだから。だから私も、立ち止ったままじゃいけないんだって」



 ――あんただってわかって、少し腹が立つけど。

 彼女は最後にそう恥ずかしそうに付け足した。それについては気にならなかったが。

 しかしそれでも、額を押さえ、湧き上がる遣る瀬無い思いに懊悩する。まさか理由の一端に、自分の言葉があったとは。これを因果と言わずしてどう言おうというのか。自分が口にしてしまったその一条をあだおろそかにしなかったがために、いま差し出した手を取ることが出来ぬというのだから。

 ふと、初美は水明が頭を抱える理由に気付いたか、



「別にこれはあんたのせいってわけじゃ……」


「……そうだな。お前が記憶喪失じゃなくても、戦っていた可能性はある。誰のせいだってことは言えないな」



 そんな風に素気なく言ったものの、罪悪感は拭えない。記憶を失う前の初美ならば、魔族との戦いに出た可能性は十分ある。彼女が修める流派の流儀は、魔を討つための術に他ならないのだから。

 そんな彼女に、水明は静かに訊ねる。



「……ここで戦うのか?」


「ええ。私が始めたんだから、途中で投げ出せない」


「そうか……」



 その言葉が絞り出したような声で紡がれていたのは、案じる心が強かったからだろう。魔族と戦うことは生半なことではなく、これから多く大変な目に遭う。人と人とのしがらみもそうだ。勇者と言う立場にあるなら、ままならぬこともあるだろう。それに記憶を失ったまま立ち向かおうというのだから、やはり案ずる心もひとしおだ。



 だが――



「わかった」



 そう言って、水明は立ち上がる。心配だからと言って彼女の決意を蔑ろにすることは出来なかった。それにたとえここで彼女を無理やり連れて行ったとしても、それは単なる心配の押し売りだ。自分の心を慰めるために、彼女の望みを諦めさせるわけにはいかなかった。そして自分も、自分のやるべきことを諦めるわけにはいかない。ゆえに、



「俺も一緒にいてやりたいが、俺はもとの世界に戻る術を探さなきゃならない。見つけたら、そのとき教えに来る」


「うん」


「当分この街の宵闇亭の宿舎にいるから、用があったら遠慮なく訊ねて来い。俺に会うのは気が進まないかもしれないがな」



 そう優しげに口にして、ふと思い出したように手を叩く。



「あと、そうだ!」


「なに?」


「偉いヤツに会ったら言っておいてくれ。勇者の友人だって知っても俺に手を出そうって言うなら、今度は目的が別になる。一万だろうが二万だろうが、全滅覚悟で来なってな」



 水明は冗談交じりにそう言って、初美のもとをあとにしたのだった。





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