戦うことを決めた日
――突如自分の部屋に侵入してきた黒髪の少年は、多数の兵士、そしてガイアスとセルフィの二人を倒したあと、仲間らしき人物と共に宮殿の敷地から雲を霞と逃げ去った。
その後、自分に出来ることはなく、いまは一人、自室に戻っている。
部屋の窓から見える宮殿の敷地には、魔力灯とかがり火が焚かれ、忙しなく動く警備の兵や役人の姿があり、厳戒態勢のような有様である。いや、むしろ、そうならない方がおかしいか。侵入者に警備の兵の約半数以上が倒され、そのうえ取り逃がしてしまうという前代未聞の状況だったのだ。上も下も大揺れで、現在も外から怒号が聞こえてきている。
警備の兵の補充、侵入者の追跡そして捜索を、これから夜を徹して行うのだろう。
あのあとガイアスとセルフィもすぐに意識を取り戻し、魔法で手当てを受け、大事には至ってない。だが二人とも心――というよりは自尊心に負ったダメージは相当なものだったらしく、ガイアスは治った途端、夜中にもかかわらず鍛錬だとぶっきらぼうに言って飛び出して行き、セルフィはもともと持っていた矜持と実際の結果との落差に、自信を大幅に喪失したらしく、長く失意の表情を浮かべていた。
そして無事だったヴァイツァーはその後、あったことのありのままをミアーゼン国王に報告。国王は温厚な人間として有名なのだが、さすがに彼も今回のこの騒ぎにはかなりの危機感を持ったらしく、警備の責任者を厳しく叱責し、巡回および警備に、より一層の強化を厳命したらしい。
あれからもう一時間は経っている。だが、侵入者発見の報告は未だない。
しかし、それも無理ないことか。警備の厳重な宮殿に侵入し、あのセルフィをおして次元が違い過ぎると言わしめたほどの力量なれば、逃げに走れば見つかることはないだろうし、たとえ見つかったとしても捕まえることなどまず不可能だろう。
ヴァイツァーの話を聞くに、あの少年は選抜された警備の兵をただの人間と評したのだ。最低でも自分たちが動かなければ、戦いにすらなりはしないはずだ。
だが――
「同じ世界の人間か……」
彼は確かにそう言っていた。自分とは、幼馴染みの間柄なのだと。
同じ世界の人間。それは遥けき記憶の彼方にある者たちのことだ。それゆえに、いまは決して思い出すことのできない人々である。彼も、本当にその一員なのだろうか。疑わしいことではあるが、しかし彼は自分の名前も、剣術のことも知っていた。いまの自分は知らない名前も。諭すような物言いと、厳しい目も。
そしてそれらは全て、どこか懐かしさを感じる彼の口調から伝えられた。
だが、それを確かめるすべは、いまはない。
「…………」
後ろ向きに飛び込むように、ベッドに身を預ける。召喚されたときのことは、正直よく覚えていない。気が付くと、いま寝転がっているようにベッドの上で寝かせられており、見たことのないような家具に囲まれたこの知らない部屋にいた。
あの日見知らぬ場所で、冴えずぼうっとした頭のままでいると、部屋の扉が開き、セルフィが入ってきた。そのときに彼女からすぐ説明があり、彼女が自分を召喚した者であり、自分はいまいる世界とは違う世界から召喚された人間なのであるということを聞いた。
だが、そこまで聞いても、頭の中にある靄は晴れなかった。何者なのか、どういった人間なのか、そんな簡単な質問にも自身は応えることができず、やっと思い出すことができたのは自分の名前だけだった。
名前以外、自分が何者か思い出せないこともあり、そのときは大いに取り乱していた。
セルフィと共にヴァイツァーもいたが、静かな表情をやや心配そうに変え、身を案じてくれていたことを覚えている。
あとは、特に印象に残ったことはない。戻ることはできないと聞き、国王夫妻との食事や、セルフィと話すとき以外は、ずっと部屋にいた。
それからしばらく経ってのことだ。魔族が攻めて来たという報せが、宮殿に入ったのは。
天井を見上げながら、当日の出来事を思い出す。
その日は朝から、ヴァイツァーが部屋に訪ねてきていた。彼は毎日、自分の部屋に挨拶に来る。彼にも予定があるため時間が決まっているわけではないが、その日は朝から顔を出し、他愛ない話をしていた。
……そんな話が終わったあとに、ふとヴァイツァーが訊ねてきたところをよく覚えている。
「――勇者殿、生活に不備はありませんか?」
椅子に腰かけ、そう気遣いを掛けてくれるヴァイツァーに、自身は笑顔を見せて答える。
「大丈夫。ハウスメイドのみんなは良くしてくれるから、不自由とかはしてない」
「そうですか。ですが、何かあればすぐに言って下さい。勇者殿は国賓。遠慮なさる必要はございません」
「じゃあその勇者殿って言うの、やめてほしい」
「え……?」
まず自分に求められるとは露ほども思っていなかったのだろう。ヴァイツァーは呆気に取られた表情を見せる。
「それは……その……」
おそらくは彼にとって「勇者殿」は敬称含めての呼び名、ということになっているのだろう。王族であるため、ほとんどの相手を呼び捨てに出来るが、かといって勇者を蔑ろになどできない。それゆえの勇者殿なのだ。
さすがにこれは意地悪になるかと、その話題を取り下げる。
「わかった。考えておいて」
「承知しました」
こちらから話を有耶無耶にすると、ヴァイツァーは軽く頭を下げる。下手に出るというよりは、やはり敬意の感じられる態度だ。自分のことがわからないため、勇者だからといって無条件でこういった態度を取られるのは、どうもしっくりこない。
それゆえ、ふと彼に訊ねてみた。
「ねぇ。私が勇者って、本当なの?」
意味の無い訊ねだ。だが、それでも彼は落ち着いた表情に自信を滲ませて言う。
「はい。救世教会の監督のもと、宮殿の敷地内で執り行った英傑召喚の儀によって、勇者殿が召喚されました。間違いありません」
「そう言われてもね」
勇者と呼ばれても、抽象的過ぎる。確かに魔族を倒すために召喚され、目的ははっきりしているが、そうだと言われたところで頷けるものでもない。
するとヴァイツァーは、
「英傑召喚で呼び出された勇者には、女神から加護が与えられると聞きます」
「加護って言われてもね。具体的には?」
「言い伝えによると、人知の及ばない力を得るとか。おそらくは誇張されている部分はあるでしょうが、身体に何らかの変化があるはずです」
「う……ん」
「ありませんか?」
「前の自分とは比較ができないから。でも――」
「やはり、何かあるのですか?」
「たぶんだけど、他の人よりもよく動ける気がする。あと、力も強いと思う」
そう言って、ヴァイツァーに手を差し出して握手を求める。その挙動に応じ、ヴァイツァーが手を握るのを見計らって、手を握り返した。
「……これは」
思いがけず強い力で握り返されたことに対し、驚きを表情に表すヴァイツァー。普通の少女には出せないような握力であるため、やはり驚いたのだろう。だがすぐに納得の表情になったのは、これで勇者であると言う確信が持てたためか。
「おそらくはこの力が女神の加護の賜物なのでしょう」
「怪力娘って正直複雑」
「我らにとっては喜ばしいことです」
それは、勇者だからだろう。彼らにとっては天から遣わされた聖人のようなものなのだろうが、こちらの心境は微妙なものだ。
そう思っていると、ヴァイツァーはどこか思うところがあると言うような表情を見せる。
「――ただ、私個人的には、あなたのような方を戦場に向かわせるのは気が進みませんが」
「……うん」
表情を察し、彼なりに気を遣ってくれているのだろう。結局快い返事は出来なかったが。
そんな中、ヴァイツァーの表情が引き締まる。これは彼が公務に赴く前の顔だ。
「勇者殿。今日は申し訳ありませんが、兵の訓練場を視察に赴いて頂きます」
「昨日話があったあれね」
「はい。我が軍が誇る将兵たちが、是非勇者殿に訓練の様子をお見せしたいと」
もちろん、ただ訓練を見せたいだけではない。兵士の鼓舞もそうだが、それを見せることにより、勇者が触発されるのを狙ってのことでもあるのだろう。国王は乗り気ではないらしいが、この視察については周囲からせっつかれたのだと、セルフィから聞いている。
だが――
(……女の子にそんなの見せてどうだって言うのかしら)
男の勇者ならまだしも、女が見て触発されると考えるのは難しい。戦う意志がないため、苦肉の策ということも考えられるが、どうも考えがズレているとしか言いようがない。
もしかしたら、単に格好いいところを見せたいという心情の表われなのかもしれないが。
「セルフィは?」
「彼女は他に用があるので、僭越ながら私が同行いたします」
意外だった。いつもならばセルフィが同行してくれるのだが、今日は彼だとは。
「私についてくれてていいの? 王子様なんだから、他にやることとかあるんじゃない?」
公務はいいのか。そう訊ねると、ヴァイツァーは頭を振る。
「これが私の成すべきことです。勇者殿の護衛ができるなど、身に余る光栄――無論、責務だからというだけではありません」
気遣ってくれているのだろう。彼に責任があるわけでもないのに、律儀なことである。
「ありがとうヴァイツァー」
「お礼の言葉などとんでもない。この程度のことなどいくらでも。勇者殿のためなら私は命も惜しくはありません」
「それは言い過ぎよ」
「いえ、そんなことは――」
彼が言いかけた折、部屋の外、廊下から忙しない足音が聞こえてくる。
その足音は段々と近づいてきており、部屋の前でピタリと止まった。
「どうしたのかしら?」
「……宮殿ではよほど緊急でない限り駆け足はご法度です。ということは」
「そのよほどのことがあった?」
目元を険しくさせたヴァイツァーはこくりと頷き、扉の前に向かう。すると、ちょうど部屋の扉が叩かれた。
追って、部屋の外で待っていた彼の護衛から、声がかかった。
その言葉に応じたヴァイツァーは扉を開け、護衛となにやらささめき合う。
……やがて話し終えたヴァイツァーは、護衛を下がらせ、自身の前で膝を突いた。
「勇者殿。急で申し訳ありませんが、少々席を外します」
落ち着いた表情のまま中座する旨を告げる彼に、訊ねる。
「何かあったの?」
「いえ、勇者殿が気にするようなことではありません」
「……そう」
とは返事をしたが、この様子では何かあったことは確実だろう。気にはなるが、詮索するわけにもいかないか。そのままヴァイツァーを見送る。だが、護衛の顔に険しさがあったことがやけに気にかかり、遅れて彼のあとを追いかけた。
途中途中でハウスメイドたちにヴァイツァーの行方を訊きながら、彼の足取りを追って行く。そして行き着いた先は――謁見の間だった。
扉を守る警備の兵に軽く挨拶すると、不意に中から怒鳴り声が聞こえてきた。
……何やら誰か喚き立てているようだが、扉越しのせいかはっきりとは聞こえない。だが扉一枚隔てていても聞こえるほど、中は騒然としているらしい。
警備の兵に訊ねる。
「これは?」
「その、我らの口からは……」
困り顔を見せる警備の兵。どうにも要領を得ないため、彼らの前に出る。そして、
「開けてもらえないかしら?」
「で、ですがいまは!?」
「お願い」
頼むと、警備の兵は仕方なさそうに両開きの扉を開いてくれた。さすがに勇者の頼みとあれば、逆らうわけにはいかないのだろう。
扉を守る二人に、無理を言ったことを謝りそして礼を告げ、謁見の間に入る。
そこでは、色黒で筋肉質の男がミアーゼン国王に向かって必死に何かを訴えていた。
「――こうしている間にも、ラルシームは攻められているんだぞ!」
「わかっておる。だが、急に軍を出してくれと言われても、はいそうですかと言えるわけがなかろう」
「だからこうしてオレが頭を下げにきてるんだ!」
男はまさに飛びかからんばかりの勢いだ。それほど、何か逼迫した事情があるのだろう。一国の王に対する口振りにしては不遜だが、場の誰も何も言わないのは、その事情を察しているためか。国王も困った様子を滲ませ、しかし王らしい厳しい態度で答える。
「フォーバーン殿。貴殿の心情は察しておる。だがもう少し落ち着かれよ」
「なら!」
男は何かを求めてるようだが、国王は頷かない。それでも男は引き下がることなく、何かを国王に求めている。
大臣や将軍と共に脇に控えているセルフィの姿が見えた。静かに彼女のもとまで向かう。
「ハツミ!? どうしてここに!?」
「ヴァイツァーがのっぴきならない様子で部屋から出て行ったから気になって」
そうあらましを説明して、驚いたままのセルフィに訊ねる。
「それでセルフィ、どうしたの?」
「……どうやら魔族が、ラルシーム領内に攻め込んできたらしいのです」
「魔族が……」
連合の領土を北に行くと、魔族領でも人間領でもない空白地帯を挟んで、魔族領がある。そこから北部のラルシームに攻めて来たのだと思われるが、しかし魔族はノーシアスを攻めてから動きを見せていなかったはずだ。
「大人しくなったと見せかけておいて、連合まで軍を進めていたようです」
「それで、あの人は?」
「ラルシームの将兵の一人です。ラルシーム及び付近の国の兵だけでは間に合わず、援軍を求めてここまで赴いたとのこと」
「でも、国王様はいい返事をしてないみたいだけど」
その指摘に、セルフィは頷いた。しきりに頼み込む男に、国王は落ち着けと言っては煙に巻こうとしているようにも思える。しかし、援軍を出さずにいいのだろうか。
「このサーディアス連合って、北方の国々が協力し合うって声明を出した、いわば共同体なのよね。こういうときって助けに行かないといけないんじゃないの?」
「その通りです。他の国が危機に陥った際、ハツミの言う通り助けに行かなければならない。ですが、軍はすぐには動かせるものではありませんので」
「そっか……」
ミアーゼンもご他聞に漏れず、と言ったところなのだろう。動かすものが軍隊という大きな組織ゆえ、動きが鈍重になりがちなのだ。
……だが男はいまもなお国王に向かって叫び訴えている。ヴァイツァーが間に入った。咆哮のような声に、ヴァイツァーの冷静な声が突きつけられる。
助けてくれ、手を貸してくれという言葉。男は傷だらけだ。おざなりに包帯が巻かれている。彼もここに来る直前まで戦っていたのだろう。
「あ……」
そんな中、国王や重鎮がふとこちらを見た。勇者である自身に向けられたのは、すがるような眼差しのようにも思えたが、すぐにその視線は外された。事情を知っているゆえ、頼れないと結論したのだろう。
男はなおも訴えている。周囲の警備の兵が止めに入るが、大柄で筋肉質な男とは体格差があり、引き下がらせることができない。
「う……」
飛んでくる怒号が、頭を揺らす。まるで、内なる自分が彼の代わりに頭の中でがなり立てているように。重く響く、巨大な釣鐘の中で声が反響している。
そしてあのヴィジョンが見えたのは、まさにそんなときだった。
「あれ……」
立ちくらみが起きたときのように視界が揺らめき、かと思うと灰色の背景に黒の砂嵐が巻き起こったような映像が見えた。
いつしか身体の前後左右はなくなっており、見えるのは目の前のそれだけ。やがてテレビの砂嵐は止み、目の前に像が蘇った。
見えているのは怒号飛び交う謁見の間ではない。おそらくは、どこか他の場所で執り行われた葬儀の様子だった。
動くことはできない。その様はさながら、眼球だけが別の場所へ飛んでいって、その出来事を見ているかのよう。
参列する者はみながみな、黒い衣服に身を包み、消沈し、神妙な態度でその場にいる。葬儀の形式は西洋式。日本人、外国人を問わず多くの人がそこに来て、多くの人がその人との別れを惜しんでいた。亡くなったのが誰かとは、いまの自分にはわからない。
だがそれでも一つはっきりわかったのは、沢山の人たちの前で弔辞を読んでいたのが、よく夢で見る男の子が大きくなった人物で、彼がもっとも、その人との別れが辛いはずの人物だということ。弔辞を読む彼の口から、父と言う言葉が聞こえてきた。そして、たった一人の家族とも。なら、悲しみのほどはいかばかりか。その歳で肉親を失うことの辛さは、一言では言い表せぬものだろう。
だがそれでも、その人は前を向いていた。これから一人歩いていくがゆえに、俯くことなく、弔辞を読む姿にも、悲しみの嗚咽に邪魔されるたどたどしさはない。
灰色の曇天に向けていたのはそう、決然とした黒の瞳だった。
ただ最後、全てが終わったあと、どこかの家のリビングで、その人がまどろみの中で口にした言葉がある。
――俺は、進まなくちゃならない。父さんが俺に説いた夢を、必ず見つけるために。止まったら、そこで終わりなんだ。だから、俺は助けにいかなくちゃならないんだ。
だから、あの悲しみを悼む場所においても、弱みを一切見せずいたのか。前を向いて、毅然と歩いていたのか。ふと思い立ち問いかけると、彼は静かに寝息を立てていた。
葬式、告別式、故人に別れを惜しみに来た者への挨拶回り、一連のことで疲れてしまったのだろう。覗き込んだ安らかな顔には一筋、涙の粒が伝っていた。
……果たしてそのフラッシュバックは、自分が持っているはずの記憶だったのか。再びの砂嵐のヴィジョンのあと、やがて全ての音が戻ってくる。
ラルシームから来たという男の怒号と、割って入るヴァイツァーの姿。
先ほどとは変わりない、謁見の間。
「あ……」
「大丈夫ですかハツミ? どうしたのです?」
「え、ええ。うん……大丈夫」
一瞬前後を見失ったためか、隣にいたセルフィから気遣いの声が掛けられる。だがヴァイツァーと男のやり取り、言葉の後先から、映像に途絶えていた世界は、全て一秒にも満たない回想だったことがわかった。
ただその秒にも満たないやり取りの中で、自分の腹は決まっていた。
セルフィの手からそっと逃れ、前に出る。そして、ヴァイツァーと男のもとへ歩いて行き、
「――私が行きます」
「あ? 誰だお前?」
男は突然話に割り込んできた女に、怪訝な表情を向けている。そして自分で名乗るまでもなく、ヴァイツァーが驚きの声と共に、自分が何者であるかを口にした。
「勇者殿!?」
「あ? 勇者だと?」
「ええ。私の名前は朽葉初美。連合で呼ばれた勇者だそうよ」
そう言うと、男は顔を険しくさせ、侮ったように鼻を鳴らす。
「ふん? 確か呼ばれた勇者ってのは、呼ばれてから全く動こうともしない臆病なヤツだったんじゃねえのか?」
「貴様! 勇者殿に向かって何という口の利き方だ!」
「はっ! 事実だろ? じゃなきゃなんでこの大変なときにこんなところにいるんだ?」
「そ、それは、勇者殿には事情が……」
男の指摘に、ヴァイツァーの語調が途端に弱まる。
「臆病……ね」
確かに、この男の言う通りだ。たとえ理不尽な状況に置かれようとも、何かをするべきであったのに、自分は何もしてこなかった。安全な場所にいて、嫌なことが全て終わるまで、ただひたすら待とうとしていた。あの人は違ったのに。立ち向かったのに。
ならきっとあの人が、こんな自分の姿を見れば、惰弱と一言断じるだろう。
男に視線を向けると、苛立ちの語気が返ってくる。
「んだぁ? 文句でもあるのか?」
「ええ、もちろん。だから私が戦えるかどうか、いまから試してみる?」
「ハツミ!?」
「勇者殿!?」
「テメェ……」
セルフィとヴァイツァーが驚きの声を上げる一方、男が歯を剥いた。戦場から真っ直ぐここに来たり、国王に食ってかかったりと続き、かなり興奮しているらしい。
男は警備の兵を力ずくで振り払う。もともと取るに足らなかったのか、彼らは簡単に弾き飛ばされた。
自身はそんな男に向かって鷹揚に歩み出し――そしてヴァイツァーが腰に提げていた剣を引き抜く。
ゆっくりと目の前に構え、切っ先は相手の目元。正眼の構え。それだけで、剣の振り方、使い方が、頭の中に蘇ってくる。
「な――!? 私の剣が……」
それに遅ればせて、ヴァイツァーの驚愕の声が聞こえる。切っ先が魔力灯の光に照らされ切って、やっと剣を盗られたことを悟ったか。緩慢な歩みの内にあって、静かに、そして素早く剣を抜いたことで惑わされ、さしもの彼も気付くことができなかったのだろう。
彼が止める間もない。男も、いま一瞬の出来事に、困惑を浮かべるので精一杯。そんな男に構えなど取らせるつもりはないと、一足で懐に飛び込む。
間合いが一瞬で詰まったことにより、男が目を見開いた。
だが、横薙ぎに振り切った刃は男を捉えずに、ただ空を斬った。自身の足は男の懐に飛び込んだあと、右脇をすり抜けさらに先にまで踏み出していたのだから。
「これでいい?」
訊ねると、男は一連の動作を見切れなかったことに歯噛みする。
「いまので俺は死んでたってことかよ? さすがは勇者だが――」
苦言でも言おうとしたのか。男が言いかけた折、どん、と重い音が彼の後ろで響く。
後方、謁見の間の入り口近い場所にあった旗を飾るために立てられた石柱が、真っ二つになって崩れ落ちていた。
そして、頭の中に蘇る技の名。
「――倶利伽羅陀羅尼幻影剣、絶刃の太刀」
遅れて音源に向いた者はみな、絶句していた。間合いから遠く離れた石柱を、刀身を触れさせずに真っ二つにしたのだから、驚きなどかくあるべしであろう。
「はっ、柱が!」
「まさか、いまの一振りで……!?」
辺りからどよめきと共に、息を呑む声が聞こえてくる。そんな、見当違いな驚きを見せる彼らに、ふと訊ねた。
「あれが、私が倒さなきゃいけない化け物なんでしょ?」
途端、どさりとくずおれる音が謁見の間に響く。
再度その方向――石柱の場所に視線が集まり、しかしてそこには、断ち切られた異形の姿があった。
まるで物語に出てくるデーモンや鬼を模したような醜悪なフォルムを持つ、生き物だった。羽根つきで、肌は赤く、しかし噴きこぼれる血も赤。白目を剥いて、絶命している。
「魔族だと!?」
「まさかここまで尾けられてたってのか……」
ヴァイツァーの驚きの声と、己が不覚に苦渋を滲ませる男の声。
やがて、ヴァイツァーが、
「お気づきになられていたのですか?」
「剣を抜いたらわかったのよ。ヴァイツァーだって剣を持つと感覚が鋭敏になるでしょ?」
「それはそうですが……」
例えにしては少し極端だったか。戸惑い気味に答えた彼を尻目に、男に訊ねる。
「これでもまだ、私の腕に不服がある?」
「……いや。さすがは勇者サマだ。恐れ入ったぜ。さっきの言葉は全面的に撤回する」
男は嘆息して、いままで身体から滲ませていた敵意を霧散させる。一方自身は、まだ放心気味のヴァイツァーに、引き抜いた剣の柄を向けた。
そして、悪びれたような表情を見せ、
「勝手に抜いてごめんなさい」
「いえ、勇者殿! 見事な技、いえ神技! 感服いたしました!」
「神技って、それは言い過ぎよ」
「そんなことはありません! 魔法も使わず、何の変哲もない一振りであの大きな柱を斬るなど、到底できることではないでしょう」
珍しくやや興奮気味のヴァイツァーに、何とはなしに口を開く。
「何言ってるの? 間合いの内でしか物を斬れない剣士なんて……」
「……?」
「え? あ……!」
気が付けば、口が動くままに任せていた。「二流もいいとこ」誰かの口癖をそれ以上口にすれば、おそらくはだいぶマズいような気がする。
言いかけて止まった自身の様子を不思議がるヴァイツァー。
「どうかなさいましたか?」
「う、ううん。何でもない。それよりも」
ふとそこで言葉を止め、いましばしの黙考を挟む。
いいのか。この戦いに自ら踏み入っていいのか。後悔はないか。そんな言葉たちを思い浮かべ自問する。
そして、夢の中の彼の言葉をいま一度思い返し、言い放った。
「――それで、助けに行かなきゃならない人たちは、どこにいるの?」
そうあの日、そんな言葉が、驚愕に静まり返った謁見の間に谺した。
……それが、過去を失った自分の――朽葉初美の異世界での戦いが始まりだったのだ。
夢の中に出てくる彼の、あの言葉を思い出したから、自分は歩き始めた。再び彼に会ったとき、恥ずかしくないよう。
進まなくてはいけない。彼の言ったように。
ふとそこで、とある事実に思い至った。
「……そっか。言葉」
思い出すのは、昨日部屋に侵入してきたあの少年のこと。
そう、彼の口調にどことなく懐かしみを感じたのは、彼の言葉と喋り方が、夢の中の彼のものとそっくりだったからだ。
続きはまた明日からになります。