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朧月夜、闇深く


 同時刻、宵闇亭ミアーゼン支部のギルドマスターであるルメイアは、宮殿内にいた。

 スイメイ・ヤカギが連合の勇者に接触するため、宮殿に侵入するという話を聞き、時機を合わせて侵入したのだ。

 無論理由は、面白そうだからの一言に限る。彼女も立場はあるが、突き詰めるとやはり獣人であるため、生まれ持った刹那的、享楽的な性質には他の獣人たちと同様、抗えるものではなかった。

 普段なら狐耳や七本もある尻尾のせいで出で立ちが大いに目立つが、いまは金狐族に伝わる変身術によって、警備の兵になりすましている。



 途中で見失ったスイメイを回廊で捜していると、やがて風を伝って侵入者の存在を告げる声が聞こえてきた。そしてそれはやがて広範囲に広がり、明かりを持った警備の兵が怒号と共に中庭に向かってなだれ込んでいく。



「……やれやれあの坊やドジったね?」



 ルメイアは顔をしかめる。スイメイは異世界の魔法を持ち、相応の力も持っているらしい(・・・)ため失敗するなどとは思っていなかったが、まさか仕損じるとは。



(こりゃああたしが助けに行かないとマズいか……)



 実力があるのはレフィールに聞いて承知済みだが、宮殿の警備兵は質が高く、そしてここには勇者の仲間もいる。彼も異世界の魔法使いとは言え、これでは捕まってしまうだろう。

 だがレフィールの恩人であるため、無下に見捨てるわけにもいかない。面倒なことになりそうな予感に、うんざりとした息を吐きつつ中庭に向かっていると、ふと周囲の様子がどことなく変わったような気がした。



「……?」



 夜の暗さが増したことに気付き空を見上げると、叢雲が中天の月をよぎるのが見えた。夜陰が深まったのはあれのせいか。しかし、月はまだその白々しい顔を出しているため、ここまで周囲が暗くなる要因にはなり得ないとものだと思うが――

 いや、そんなことを考えている暇はないか。立ち止る時間も惜しいと、ルメイアは要らない思考を振り払って中庭に急ぐ。しかして、そこにはスイメイと警備の兵たち、ガイアス・フォーバーンとヴァイツァー・ラーヒューゼンがいた。



 役者は、もうすでに揃いきっていた。そしてスイメイは壁まで追い詰められており、舞台はもう佳境に迫っていることが窺える。



「あっちゃー……。こりゃあ最悪の状況じゃないかい」



 警備兵の中に紛れつつ、渋面を貼り付ける。追いかけられている状況ならまだよかったが、こうなっては無傷で助け出すのは厳しいだろう。他の警備兵も徐々に集まり出し、終ぞスイメイを取り囲む半円状の陣が完成した。

 もう、簡単には逃げられない。まごまごしていれば自治州きっての魔法の使い手、『風雪』までやってくるはずだ。兵が取り押さえようとする機を見て、乱入するか――

 しかし、彼女のそんな予想を裏切って、この舞台の第二幕はここから始まった。

 警備の兵たちがスイメイを捕まえようと、飛びかかるため身を竦めたそのときだ。中庭に設置された魔力灯の光や、兵が手に持った明かりが何かの前触れのように点滅し始める。

 ジジジ……ジジジ……と点滅の間隔は一定ではなく、やがてそれらは故障したかのように徐々に光を落としていった。



 予期せぬ暗がりに警備の兵たちが戸惑うのもつかの間、中庭の闇が殊更深まるのに合わせスイメイの周囲が見えない何かに揺らぎ始める。

 ゆらゆらと。それはさながら、陽炎でも立ち昇ったかのよう。



 一方、スイメイは動かない。顔は前髪に隠れたまま杳とは知れず、絶体絶命の窮地にあるにもかかわらず、ただ立ち尽くしたまま何の行動も取ろうとはしない。

 だがその陽炎に透ける彼をルメイアが目に捉えた瞬間、身体が何か得体の知れない恐怖を感じたかのように、一度だけぶるりと震えた。



 ……魔族の持つ力や外法使いから感じるような悪意はないが、いまのスイメイには何とは言い表せないような不気味さがあった。それはまるで得体の知れない恐怖でも目の当たりにしているかのようで、どこか湿り気を帯びた闇が這い出ているようにも感じる。



 不意に、スイメイを取り押さえようとした警備の兵たちが彼の周囲でばたばたと倒れ始めた。



「なっ――!?」



 なんの脈絡もない昏倒を目にして、驚きで声が出てしまう。それは勇者の仲間や警備の兵も同じだったようで、周囲が暗くなったことと合わせ、動揺を見せ始めた。

 そんな間にも、後ろにいた警備の兵たちもすぐに正体を失ったように倒れていく。

 残ったのは、ガイアス、ヴァイツァーと数人の警備の兵。勇者の仲間である二人にはなんの異変もないが、他の警備の兵はこの不気味さが支配する状況に、身体から大量の汗を噴き出させているようにも思えた。



 ガイアスは倒れた警備の兵たちを油断なく見回し、スイメイに訊ねる。



「……何しやがったお前?」


「見ての通り、気絶させただけだが?」


「気絶させた……だと?」



 言葉少ないスイメイの答えにガイアスが困惑する一方、言葉を叩きつけるヴァイツァー。



「胡乱なことを! 魔法も使わず、触れることもなく、人間を倒せるわけがないだろう! 貴様一体何をした!?」


「何をしたも何も、そのまま、言った通りなんだがな」


「そんな言葉でこちらを惑わそうと言うつもりか? まさか貴様、考えただけで倒れたなどとは言うまいな」


「ご名答。アンタの言うそのまさかだ」



 何のてらいもない響きが行き渡ると、ヴァイツァーが幾分呆れたように言う。

「馬鹿も休み休み言え。考えただけで人を倒すことはできないし、それにここにいる兵は連合でも指折りの精鋭たちだぞ? 肉体的の精神的にも屈強な者が、そんなことで倒れるわけが――」



 ヴァイツァーに、スイメイは至極つまらなさそうに赤く醒めた視線を向け、



「何言ってるんだアンタ? そこにらにいるのは、多少剣が使えるだけのただの人間じゃないか。そんなヤツらがなんで、俺の念に打ち勝てるって断言できるんだ?」



 その言葉が放たれた直後、ふっと辺りの空気が冷え込んだ気がした。スイメイが何かしたのか。それとも、空恐ろしい事実を聞いて、勝手にそう感じてしまっただけなのか。夜気とは別種の底冷えするような冴ゆる風は冷ややかに過ぎて、ならいの風に身を当てられたように肌がふつふつと苛らいだ。

 一方その不可思議な物言いと不気味さに気圧され、残りの警備の兵士たちが後退る。だが、すでに遅きに失していたか。また数人がバタバタと倒れていく。

 見るに、気に当てられて意識を手放したわけではない。確かに周囲は異様な雰囲気に包まれているが、それで屈強な警備の兵が倒れるかと言えば、それも頷けない。ならば本当にスイメイの言う通り、念じただけで倒れたと言うのか。



 ヴァイツァーがスイメイを睨む。


「貴様っ……」


「残ったヤツは退かせてやれよ。ただの人間が、魔術師(おれたち)に勝てる道理はないぜ?」



 呆れ声を発した水明に、しかしヴァイツァーは何かに気付いたか余裕の表情を見せた。



「だが我らは倒せないようだな」


「そうだな。オレたちはピンピンしてるぜ?」



 ガイアスも不敵な笑みを浮かべ、スイメイに言い放つ。

 確かに彼らの言う通り、戦力の要である二人は健在で、警備の兵もまだ残っている。

 だが、危機に瀕していることが何故彼らにわからないのか、同じ男を見ているルメイアには不思議でならなかった。自分が彼らの立場なら、スイメイの周囲で起こる不可解な現象とスイメイ本人の不気味な立ち振る舞い、そしてこの底冷えするような言い知れぬ気配に、尻尾を巻いて逃げ出しているだろう。潮目はもうすでに、スイメイの方にある。おそらくこれはどんな策を講じても変わることはないだろう。



 ……おぼろげな月光のもとで見詰めるほどに、スイメイの姿は暗がりに落ちていく。まるでいまは闇の中の住人であると言うように、暗い影が付いていた。



「ヴァイツァー! ガイアス!」



 不意に後ろから、女の声が響き渡る。他者を案じるような優しい声は、透き通るような高音で美しい。やがて現れる、見目麗しき容貌。流れる金髪、意志強き緑の瞳。やけに長細い剣を携えているが、おそらくこの少女が勇者なのだろう。



「ハツミか!?」


「勇者殿!」


「これは、え――?」



 駆けつけた勇者ハツミはガイアスとヴァイツァーに返事をして、この惨状を目の当たりにした。当惑気味に辺りを見回して、キッと厳しい視線をスイメイに向ける。



「あんたがやったの?」


「ああ。だが心配するな。単に気を失ってるだけで、それ以外は何ともない」



 ……どうも二人の間には、険悪な雰囲気が流れているようだ。スイメイの話では幼馴染ということだったが、口振りと態度からとてもそうは思えない。何かあったのだろうか。



 ハツミに続き、自治州の魔法使いセルフィ・フィッティニーが現れる。



「これで、四人揃いましたね」



 そして体勢を立て直す勇者たち。一方、スイメイはハツミに向かって静かに訴えかける。



「初美、話を聞いて欲しい」


「大人しく捕まったら、聞いてあげないこともないわ」


「そういうのは趣味じゃないんだよ」



 御免こうむるとばかりのスイメイ。確かに、この状況で大人しく捕まるのは善手ではない。捕まったところで、いまのミアーゼンの王室が丁重に扱うかと言えば、否なのだから。

 神妙な態度に僅かな困惑を滲ませるスイメイ。そんな彼とハツミのやり取りを聞いていたガイアスが、彼女に訊ねる。



「さっきから言ってるが、知り合いなのか?」


「知らない。でもこの男、私の幼馴染みって言ってるの」


「はぁ?」



 素っ頓狂な困惑の声を上げたガイアスは、呆れたような視線をスイメイに向ける。



「おい兄ちゃん、嘘つくならもっとマシな嘘を考えろよ? いくら勇者に会いたかったからって、いまどきガキだってそんな嘘考えないぜ?」


「そうやって端から否定されても困るな。ハツミはいま記憶喪失なんだろ? 嘘かどうか判断できるヤツなんて、ここには存在しないんだぜ?」


「にしても召喚された勇者の幼馴染みってのはどう考えてもおかしいだろうが」



 ガイアスはそうスイメイの言い分を否定する。しかし、一方スイメイはそれ以上は黙ったまま。反論はせずあたかも並んだかぼちゃ頭か石頭の前にいるかのように、益体もなさそうにため息を吐いた。



 そんな彼に、セルフィが訊ねる。



「で、どうするのです? 大人しく捕まって頂けるのですか?」


「それは御免だとさっき言った」


「では、抵抗するという風に受け取って構いませんね?」


「…………」



 黙然と向き直ったスイメイに、セルフィは今度は脅し文句を投げかけた。



「先に訊ねておきますが、あなたは私たちに敵うと思っているのですか? 私たちはこれでも魔族の軍を破り、魔族の将を討ち果たしているのですよ?」


「だから強えって? それはいくらなんでも思い上がりが過ぎてるだろ?」


「じゃあ、試してみるか?」



 ガイアスから侮るような言葉がかけられる。抵抗するということは、戦うのか。

 しかしスイメイは不用意に後ろを向いた。



「あ?」


「興味ない。一旦帰るわ」


「はぁっ!? おい、お前そこまで言って逃げるのかよ!?」


「無駄に暴れる気はねぇよ。出直すから、ここは寛大に見逃してくれ」



 下手に出るような物言いで、一同を一顧だにする水明。この状況だが、意外にも大人しく退くらしい。幼馴染みのいる手前、あまり暴力には訴えたくないのだろうか。



 すると、ガイアスが動き出した。



「だからはいそうですかってわけにはいかねぇんだよ!」



 気合いの声と共に、ガイアスが繰り出したのは豪拳だった。一足でスイメイの間合いに飛び込んだと思うと、踏み込むその足が地面を抉り、十全に力の乗った拳が空気を巻き込んでスイメイに向かって伸びていく。



 スイメイはあの華奢な身体だ。当たれば無事では済まないだろう。

 しかし、ガイアスの打ち出したその一手はあまりにも無謀に過ぎた。



「ふん、父さんの拳に比べれば、ぬるすぎるな――」



 鼻を鳴らす音と呆れの声が耳に伝わると同時に、水明は滑らかな動きでガイアスの懐に入り込む。踏み込みに出された右足はそれだけでガイアスの拳に込められた力を超える威力を地面に伝え、かつ豪快に叩き割り、体勢は腰を落とした状態。ズドン――と腹に響く音が大地から伝播し、砕けた土の欠片が吹き飛ぶのもつかの間、突き出されていた右手右腕に、魔力と帯状になった緑色の魔法陣がまとわりついているのが確かに見えた。



「なんだと――」



 ガイアスに至っては、まさか魔法使いにお株を取られるとは思っていなかっただろう。彼の驚きを掻き消すように、スイメイの気合いが中庭に鳴り渡った。



「はぁっ!!」



 武術師顔負けのスイメイの正拳が、ガイアスの腹筋に叩き込まれる。次いで空気がしびれを伴うような振動を起こし、ガイアスの身体が宮殿の壁まで吹っ飛んだ。

 壁が壊れたか。豪快な衝突音のあと、固いものが砕けるような音が辺りに響く。



「馬鹿な……」


「うそっ! ガイアス!?」



 セルフィと勇者の驚きが響く。声には出さなかったが彼女たちの隣にいたヴァイツァー王子も、驚愕に目を丸くしていた。

 残された惨状は、まるで爆裂でも起こしたかのように砕けた地面と、スイメイの魔力の残滓で構成された圏内。そして腰を落として拳を突き出した体勢のままいるスイメイ・ヤカギ。一撃の余韻に揺蕩うか。ひゅーと深い呼気を発するその顔は、先ほどのように前髪に隠れて杳とはしないが、おそらく静かなものであるだろう。



 やがて、彼は体勢をもとに戻した。そして、



「おいおっさん。生きてるか?」


「お前……魔法使いじゃ……」



「俺は魔術師だ。接近戦ができないと思って油断したのは失敗だったぞ?」



 と、不敵に言って退けるスイメイ。どうやら一応手心は加えていたらしい。

 他の面々はその会話で、先ほどの一撃にとらわれた心を取り戻したか。自治州の魔法使いであるセルフィが動き出す。



「セルフィ!」


「勇者ハツミ、お下がりを。攻性魔法であの男を追い詰めます」


「え? でも……」


「勇者殿、こちらへ」



 彼女はただ捕まえるだけと思っていたのだろうか。攻性魔法と耳にしていささかばかり戸惑ったような声を出した勇者。そんな彼女はヴァイツァーに引かれて後ろへ。

 一方、自治州では『風雪』とあだ名される魔法使い、セルフィ・フィッティニーは魔力を湛え、前に出る。



「だから俺は」


「ここまでしておいて簡単に終わると思っているのですか?」


「はぁ……仕掛けてきたのはアンタらからだからな?」



 スイメイはそうため息をこぼしたまま、動かない。セルフィはすでに動いているのに、どうしたというのか緩慢な動きにとらわれたまま、億劫そうに彼女へと身体を向ける。魔力は高まっているにもかかわらず、呪文も唱えず、逃げもせず、対抗策を取ろうとしない。



 そんなスイメイに巨大な杖を向けるセルフィ。



「――風よ! 汝、悠久なる力を持って、陣を為せ」



 彼女が詠唱を開始すると、それと連動するように黒鋼木の杖の先端に嵌められた宝石が輝き始める。

 その一方で、スイメイはと言うと、



「騒がしき暴君だな。ふん? 規模は結構デカ目か」



 詠唱で魔法の種類のみならず、規模も察したか。ほう、と感嘆の息を吐きつつ、しかしまだ動かない。もたもたしているのか。それとも彼にとっては急がずともいいだけなのか。



「――其は暴虐なる陣。数多の破壊を空に生み出し、我が敵に殺到するがその正義。ノイズドタイラント!」



 詠唱が終わり、鍵言が口から解き放たれると、セルフィの身体を中心に渦風が巻き起こり、凝縮された空気が蟠ったような揺らめきの場がいくつも現れる。

 その数は十。いや、二十。――それ以上に増えていく。そして、強烈な豪風が吹きすさぶかの如く一斉に、スイメイへと殺到した。



 だがそのみぎり、おもむろに彼が何かを呟き、手をかざすと、赤い糸のような光の線が幾条も発生する。かと思うとその赤い光条は直角な軌道を描いて幾度も屈折を繰り返しながら、恐ろしい速度で風の中を突き抜けていった。

 そして、その光の筋の全てがセルフィのもとまで突き抜けると、風はまるでもとから吹いてなどいなかったというように消えてしまった。



「なっ!? ――うぐっ!」



 響く、セルフィの驚きの声と、苦悶の喘ぎ。相殺ではなく、消し去られたことが驚きだったか。だが、その後に顔を険しくさせたのは、痛みが走ったようにも思える。

 その苦悶に対してか、スイメイは、



「リターンオーバーの対策はしておくことだな。疎かにしてると、いまみたいに返礼風(リバウンドエア)を喰らうことになる」


「っ、何を、したのです!?」


「術式を(ほど)いただけさ。その魔法は前に見たことがあるからな。そんでアンタがいま痛い目見たのは、術式を成立前に強制解除されたせいだ。ま、失敗の一部はエレメントが肩代わりしてくれているようだがな」



 そう言ったあとすぐ、スイメイが右腕を振り上げる。それと同期して、先ほどのガイアスを倒したときに踏み込みで砕けた土砂が、突然真上に吹き上がった。土砂は砕いたもの以外にも地面から剥がれ出しているのか。かなりの量が空中に舞い上がり、渦を巻くようにうねりながら、お返しとばかりにセルフィへと殺到する。



「――っ! 風よ。汝は我を守る堅固な盾なり。その苛烈なる渦の前に全てを弾け。ボルテックスオブスタクル」



 冷静にセルフィが唱えると、多方向から彼女の前に風が吹き込み渦を成す。その激しい風の流れに遮られそして弾かれ、大量の土砂が辺りにまき散らされた。



「呪文の詠唱もなしに魔法をっ!」


「いまのは術って言うほどのものでもないだろうが。ただ土塊を持ち上げただけだぜ? ブルドーザーやパワーショベルがあれば不可能なことじゃない」



 言い回しはよくわからなかったが、あの口振りではあの程度のことなんでもない技なのだろう。

 一時攻防に区切りが出たが、スイメイは動かない。ガイアスを倒したのだ。やろうと思えば魔法に寄らず、もっと絶え間ない、連続的な攻撃を組み立てられるはずだ。それでも、積極性がないのは、やはり戦う気がないからだろう。待ちの体勢にあるスイメイ。彼の力を見せ付けられても、セルフィは諦める気はないらしい。



「いいでしょう。私も本気で臨みます」


「そこまでやる気になられてもこっちは困るんだが――って、聞いちゃいねぇし」


「――風よ。汝、凍てつく氷河の祝福を受けし魔風。風巻き、風巻いて、我が敵を絶佳の檻へと追い落とさん。舞い降りし氷牢は何人たりとも這い出ることを許されない、風雪の洗礼。――フェミュールエルイレイズド!」



 彼女が風雪と呼ばれるに至った代名詞とも呼べる魔法だ。行使すると広範囲を雪氷の交じった暴風が、それこそ敵意を漲らせ、渦を成す。しかしてその効果はそれだけではない。この風雪の檻にとらわれた魔法使いは、身体を固められ、詠唱もできなくなってしまうという。そして対抗策を講じることなく、風雪によって抹消されてしまうのだ。



 動かないスイメイは、当然のように暴風雪に包まれた。氷の礫と雪がスイメイ・ヤカギの周りで渦を巻き、巨大な檻を形成する。風雪が渦巻く範囲は一瞬の内に真っ白になった。



「終わりです」



 そんな、セルフィの声が無慈悲に響いた。



「ちょっとセルフィ! いくらなんでもこれはやり過ぎよ!」


「心配なさらないでください。死なない程度には加減してありますから」


「で、でも……」


「吹雪が晴れれば、地べたを這うあの男の姿があるでしょう。あとは捕まえるだけです」



 セルフィはそう断言する。終わりだと。だが、この光景を見せられてもなお冷汗が引かないのは、一体どんな理由が根にあるからか。

 その抱いた疑念の通りだったのか。風と氷が風巻く中、その奥からかすかに聞こえる声があった。



「――Fiamma est lego.Vis Wizard」

(――炎よ集え。魔術師が叫ぶ怨嗟の如く)



「!?」


「そんな⁉ この氷雪の中では口を動かすことなどできないはず!?」



 勇者が驚いて振り向き、セルフィは驚きに叫ぶが、なおもスイメイの詠唱は止まらない。



「――Hex agon aestua sursum.Impedimentum mors」

(――その断末魔は形となりて斯く燃え上がり、そして我が前を阻む者に恐るべき死の運命を)




 周囲に赤い小魔法陣が大量に生まれ、スイメイのいるだろう地点を中心にして、大魔法陣が回転する。やがて吹雪の向こう側その奥に見えてくる、微かな影。その影が右手に火色の輝きを掴んだ。




 ――Fiamma o asshurbanipal

(――ならば輝け。アッシュールバニパルの眩き石よ)



 火焔が、爆裂する。幾条もの火線が小魔法陣から放たれ、高速で回転していた大魔法陣が真っ赤な炎を噴き上げた。そして火線と噴き上がった炎が交わった瞬間、反応で巻き起こった爆轟が風雪の白を全て吹き飛ばして、夜陰の黒も何もかもを赤く赤く染め上げた。

 警備の兵に紛れているルメイアを含め、余波である熱波が勇者たちを襲う。だが、それすらも加減できるというのかあの男は、衝撃波が産んだ強風は発生するが、伴うはずの火焔と高温の熱は、温風と呼べる程度のものに減衰されていた。



 そして、紅霞が晴れたそこには、まるで何事もなかったようにしてそこにあるスイメイの姿が。足もとの地面はふつふつと沸騰し、まるで溶かした鉄の海の上に立っているかのよう。爆裂の真っただ中にいたにもかかわらず、熱で絶えず揺らぐ景色の内にあってなお平然としているのには恐れ入るというほかない。



「くっ……!」



 己が矜持とする一撃を何の危殆もなく消し去られたことに、苦々しげに呻くセルフィ。そんな彼女に、スイメイは褒めるような口振りで、



「セルフィっつったか? あんたかなり有能な魔法使いだな。いまの魔法には込められた魔力も大きかったし、威力もある。それに対象を拘束する力と、詠唱を封印する力も働いていた。これまで会ってきた魔法使いの中じゃあ、結構なモンだ」


「……それで褒めているとでもいうのですか?」


「全然。それでもいまのフェルメニアや帝国の危ないお姫様ってほどじゃあないからな。まだ俺たちの土俵には遠いぜ――」



 スイメイは言い終わる間もなく、次の手を講じたか。急に倒れていた警備の兵たちの身体が浮き上った。



「な――」



 セルフィの驚きの声が全て響く間もなく、浮き上がった警備兵たちの身体が、セルフィ目掛けて飛んでいく。

 ――警備の兵は味方。その意識が、彼女の判断を鈍らせた。味方を傷つけずどうやって凌げばいいとその判断に数秒を要したのは、致命的だったのだ。



 結果、魔法を使わずに逃れるという選択をした彼女は、身を投げ出すほかなかった。地面を転がるようにして回避するセルフィ。飛んでくる警備兵の身体を一つ、二つ、かわしていく。セルフィの動きにはキレはないが、飛んでくる速度がそうでもないため、当たらない。



「こんな攻撃でこの私が倒せるとでも……」


「ああ、思ってないさ。別にこれは攻撃じゃない」


「え――?」



 かわしてかわして、スイメイから向かって右横合いにまで逃れたセルフィ。しかし、彼女が逃れたその場所までも、彼の手のひらの上にあったらしい。

 あたかも逃げ道を自分で指定していたが如く、彼女のいる方向に右手を突き出すスイメイ。その右手はまるで指を鳴らすような動作のする直前の形を取られている。

 そしてそのまま、スイメイは彼女を一顧だにするもことなく――



 パチン。



 スイメイの中指が親指の付け根を叩き、宮殿の夜に慈悲なき音を響かせる。破裂するセルフィの目の前の空気。彼女はその振動で頭を揺さぶられたか、気を失ってその場に昏倒した。



「セルフィっ……」



 信頼する仲間がことごとく敗れたのを見て、息を呑むハツミ。しばし驚きにとらわれそのままの状態だったが、やがてスイメイに鋭い視線を向け立ちはだかる。

 剣を向ける彼女に、スイメイはいままでの醒めた表情から一転、渋い顔付きになる。



「俺はお前とは戦いたくないんだって」



 難題にのしかかられたように額に手を当て、顔をしかめるスイメイ。幼馴染みの無事をいつまでも尊重しようとする彼の心情を察することなく、ハツミは怒りを滲ませて言う。



「仲間を倒されて黙ってると思う?」


「いまのがか? これは正当防衛だろ? 先に手を出してきたのはそっちだし、攻撃には少なからず殺意があった。俺は帰るつもりだったんだぞ?」


「それは……でもっ!」



 いまの言い分に共感する部分はあったらしいが、だが仲間を倒されたことの方が強かったか、再度厳しい視線を向けるハツミ。しかしスイメイも今度は黙っていられないらしく、困り顔を聞き分けのない子叱り飛ばすような厳顔に変えた。



「で、斬るのかよ? いまのお前が振るう剣には確固とした正道なんかないのにも関わらず。朽葉流の流儀に反して剣を振るってるのを鏡四朗師範(せんせい)が見てたら、どやしつけられるぞ?」


「う……でも私は……」


「記憶喪失だからって言い訳でもする気かよ? よせよ、俺の知ってるお前はそんな芯も筋もない女じゃない」



 スイメイの気迫に気圧されたのか、それとも言い返せないことだったのか。ハツミは顔を辛そうにゆがめる。腰もいつの間にか引けていた。



 すると、ヴァイツァーがスイメイのとハツミの間に割って入る。



「黙れ。侵入者が分際で勇者殿を唆すな」


「ホント外野は黙ってて欲しいんだってマジで……」



 スイメイはそう呆れ返った口調になり、厳しい態度をわずかに崩すが、次の瞬間にはその双眸を鋭くして勇者とミアーゼンの王子を見据えた。だが、当然しきりに周囲を伺っており、これ以上ことを構えるのには彼には相当難があるらしい。



 ――割って入って、この辺りか。



 ここが時機と踏んで、紛れた警備の兵の中から飛び出した。



「ちょいとごめんよ」


「何者――くっ!?」



 駆けつけ一閃。走りざまにヴァイツァーに牽制の剣を振り、彼を遠ざけると、勇者たちと相対するように位置を取った。



 即座にヴァイツァーの怒鳴り声が響く。



「貴様警備の兵でないな! 貴様もその男の仲間か!?」


「さぁてね?」


「なに!?」



 道化よろしく、ヴァイツァーをおちょくるように肩を竦めて、スイメイに視線を送る。



「おい……あ?」



 彼もこちらには困惑の表情を向けていたが、一応それで気付けたらしい。「どうしてここにいる」とでも言わんばかりにまだ驚きを表情に浮かべているスイメイに、さっくりと引き上げの算段を切り出した。



「退くよスイメイ。五秒だけ時間を稼ぐ。食い止めている間に屋根に乗ったら、あたしを上手いこと引っ張り上げな。できるね?」


「……わかりました」



 大人しく頷くスイメイを見送ると、間髪容れずヴァイツァーが踏み込んでくる。



「逃がすか!」



 怒号と共に繰り出されるのは、七剣に名を連ねるに相応しい鋭い剣撃だ。

 だがこの縦一閃のあとがこの男の剣の妙。剣はただ一本にもかかわらず、一呼吸の間にそれ以上の斬線が襲い掛かってくる。

 縦、横、斜め、斬撃は縦横無尽。普通の剣士ならば捉えどころがないとすぐに首と胴が泣き別れの憂き目に遭うところだが、四十の歳を食ってもこちらも七剣の一人である。



「攻撃的な剣だねぇ……よっ! ほっ!」



 そんなおちゃらけた声を出しつつ、剣撃を一つずつ丁寧にいなす。そしてお返しとばかりに、全く同じ数、全く同じ軌道の剣撃を呉れてやった。



「くっ! 姑息な剣を」


「紫雲と呼ばれるあんたに言われたかないねぇ――はぁああああああああ!」



 そう気合いを込め、技巧を駆使した剣捌きから一転、獣人の膂力を以って繰り出す剛剣により、ヴァイツァーを間合いの外まで弾き飛ばす。紫雲と呼ばれる男は正面からぶつけられた威力をいなすこともできず、こちらが頭の中に描いた青図面の通りの場所に着地した。



「馬鹿な……貴様何者だ?」



 ヴァイツァーは自分の剣が一兵卒に弾かれたことに驚きを隠せない様子。いま目の前で起きたことが信じられないと、目を瞠って自分の剣とこちらを交互に見比べている。

 すると、準備が整ったか、屋根の上から月を背後に、スイメイの声が中庭に鳴り渡った。



「引き上げます」


「よろしく頼むよ」



 軽快に返事をすると、間もなく身体が浮き上り、見えない力によって屋根の上に引っ張り上げられる。即座に眼下から、ヴァイツァーの声が追い縋った。



「待て!」



 制止の言葉など聞く耳持たんと背を向ける。そして屋根から次の屋根に飛び移る直前の別れ際、スイメイは一度だけ振り向いて、下にいるハツミに視線を送った。



「初美、また来るからな。そんときは今日みたいに斬りかかって来ないでくれよ?」


「私は……」


「じゃあな」



 そう心配そうな感情の滲む別れの挨拶をして、スイメイは屋根に飛ぶ。自身もそれを追いかけ、同じく屋根に飛び移った。



 敷地外に出るため屋根の斜面を急いでいると、スイメイが走りながらに礼を切り出す。



「ルメイアさん、改めてご助力感謝します。……ですがどうしてこんなところに?」


「結局侵入するって話になったからね。面白そうだから見に来たんだよ」


「……冷やかしですか」


「監督ってお言いよ。そんな風に言うと野次馬みたいに聞こえるじゃないか」


「自分でいまそう言ったくせになんだよそれは……」



 難しい顔をして呆れ声を発するスイメイ。恨めしそうな顔が随分と様になっているのは、十余年分の理不尽がかさんだためか。これまでの気苦労がなんとはなしに垣間見えるそんな彼に、ルメイアは先ほど聞いた話を思い出す。



「しかし失敗したと思ったら、記憶喪失だとはね」


「ええ、迂闊でした。まさかこんなことになっているとは」


「それで、これからあんたはどうするんだい? いくら記憶がないからってこのままってわけにもいかないだろ? むしろ記憶がない分心配のタネが増えたんじゃないかい?」


「はい。ですが、やはり話をするしかないかと。あとは気になることもあるので、もう一度ここに入る前に調べ物もしておこうと思います」


「次に入るときは面倒だと思うよ?」



 そう脅しかけるように忠告すると、スイメイはなんてことはないと言う風に、



「そうでしょうが、魔術師も居ませんし、警備の兵が増えるだけなら侵入もそう厳しくはないでしょう」


「大層な自信だ」


「罠も結界も張ってないような敷地に入り込むのに、失敗なんてできませんよ」



 傲岸さなど見当違いだと言って退けたスイメイは、そのあとに「死んだ父さんに呆れられます」とおどけたように付け足した。



 そして前を行く彼は、途中の屋根で急に進行方向を変えた。



「スイメイ、そっちは通りがあるよ? 川沿いの方に向かった方がいいんじゃないかい?」


「いえ、あっちは大丈夫なんです」



 妙な自信を覗かせる物言いに半信半疑でいながらも、スイメイに付いて塀の下に降りる。



「ここは警備がいないね。それにやけに暗いが――」



 降り立った場所は宮殿の敷地と塀で隔たれた通り。まだ安全圏ではないはずだが、探っても人の気配が全くない。それどころか、やたらと暗く、異常なほどの静寂に包まれていた。

 不自然な状況を訝しんでいると、ふと闇の中からやたらと薄まった人の気配を感じた。人よりも発達した嗅覚がなければ、おそらく気付けなかっただろうが、しかしここまで近づかないと察知できないとは、いま闇の中にいるのは何者なのか。



 その疑問はすぐに氷解した。やがて、どことも知れぬ闇から溶け出すように眼帯を付けた少女が目の前に現れる。



「リリアナかい。お前も来てたのか」


「……どちら様、でしょう?」


「あたしあたし」



 変化したのが看破できず、ひいては困惑を浮かべているリリアナに少しおどけてみる。するとすぐにわかったか、一瞬驚いた顔つきになり「ルメイアさん」と一言口にする。



「で?」


「――はい。成功、失敗の如何にかかわらず、すいめーの支援で。それにしてもルメイアさん、どうして、こちらに?」



 すると、スイメイが顔をしかめて口を挟む。



「今回の件、冷やかしにきたんだと」


「そう、ですか。ルメイアさん、お疲れ様です」


「ああ。すまないね」



 労いの言葉を掛けてくれるリリアナの頭を撫でると、スイメイはその話の流れが納得いかなかったようで、疲れたようにうな垂れる。



「いや、なんでそんな会話になるんだよ……」



 呆れることもないだろうに、言外に手伝ったことを見抜いたは彼女の純真ゆえのものだ。だがこの男が頼りなさげに肩を落としている姿を見ると、やけに人心地着いた気分になる。あの不気味さからの落差のせいなのか。やはりスイメイはイジられる運命にあるのだろう。

 一方でリリアナにも、敷地内の騒ぎは聞こえていたらしく。



「作戦は失敗したようですね」


「ああ、それについては非常に面目ないわ」



 スイメイは情けなさを露呈してしまったことに肩を落とす。すると、リリアナは愛らしく首を傾げる。



「侵入は成功したと、思いましたが?」


「そのあとに他の不都合が発生してな。詳しくは戻ってから話すよ」


「わかりました。あと、外周の警備の兵には、魔術で作った闇で寝てもらっています。門も当分は開かないよう、工作してあります。いまの内に、いきましょう」



 そこまでしているのか。さすが十二優傑である。いや、本人の才覚もそうだが、孤影の剣将ローグの仕込みということが大きいだろう。ここにいればそつのない男だと褒めただろうに。

 さて通りから立ち去る前に、スイメイが一度だけ宮殿の方に振り返る。名残惜しいのか。塀のすぐ上の夜陰を、思い出を馳せるかの如く見据えていた。



「随分こだわるね。知り合いって言っても、ただの友達なんだろ」


「おかしいですか?」


「ま、友情に固いってのはわからないわけじゃないが、かなり気にかけてるようだからね。別にあんたのコレってわけでもないようだし、ちょっと気になるのさ」



 興味の有無を匂わすと、スイメイは複雑そうな表情で告げる。



「初美は、俺の従妹(いとこ)なんですよ」


「ご親類、なのですか?」


「ああ。母親の妹さんの娘だ。それで子供の頃から仲良くしてたんだよ」


「なるほど身内だったとはね。まあそれなら心配にもなるか」


「ええ……」



 目を伏せるスイメイその姿に、以前執務室で見たような年甲斐は感じられない。憂いに(まなこ)を細くするその面影は、どこか故郷を失った老兵の如き憐憫が映し出されていた。

 故郷に帰れない男ゆえに間違いではないのだろう。だが、後ろ髪引く手を振り切って走り出す姿に、声を掛けずにはいられなかった。



「ねぇ?」


「はい」


「あんたさ、生き急ぎ過ぎちゃいないかい?」



 スイメイは立ち止り、振り返る。そして、



「訊ねるまでもないことです。守りたいものを守るためには、生き急がなければ仕損じるのが道理でしょう?」


「……そうだね。あたしとしたことが、飛んだ愚問を投げたもんだよ」



 そう笑い飛ばして、スイメイ、リリアナが飛び込んだ闇に突っ込んだのだった。





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