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宮殿の一室にて



 ――朽葉初美は、時折変わった夢を見る。



 夢に見る場所は自分がいまいる世界ではなく、こことは全く違う世界だ。

 行き交う人々は化学繊維で編まれた服を身に着けており、道はアスファルトで舗装され、自動車が走り、大きなビルが立ち並んでいる。



 そして夢の中では自分は子供になっており、同じ年頃の子供と遊んでいるのだ。

 その夢はとても鮮明で、起きたあとはとても懐かしい気持ちになり、時間が経って薄れゆくと何とは言って能わない寂寥感が胸を満たす。



 おそらくこれは、記憶を失くす前の思い出なのだろう。

 夢の登場人物は子供の自分と、男の子の二人だけ。

 彼と自分はとても仲が良く、夢の中では常に一緒にいて遊んでいる。男の子の後ろを付いて回って、町中を駆け回ったり、探検したり。女の子の友達とはできないようなやんちゃな遊びをしてまわるのだ。



 楽しい夢だ。だが、夢の中では不思議なことが良く起こる。

 夢の中で自分が怪我をすれば、男の子がおまじないを唱えて治してくれるし、野良犬に追いかけられたときは男の子がおまじないを唱えて追い払ってくれる。



 そして彼は言うのだ。自分が危なくなったら、必ず助けに来ると。



「……て……さい」



 そして夢の最後に、彼の顔を覗き込むのだが、その顔にはいつも靄がかかったまま。どんな顔をしているのかもわからない。



「起き……だ……」



 諦めずよく見ようと顔を近付けると、男の子は急に離れ、その場から去ってしまう。名残惜しいと追いかけても、彼の口ずさむおまじないが聞こえ――



「起きて……さい」



 ――朽葉初美は不意に、自身の身体が揺すられていることに気が付いた。



「んぅ……?」



 起き抜けのふにゃりとした声を出して目蓋を開くと、目の前には仲間のセルフィ・フィッティニーの顔があった。



「起きてください、ハツミ。もう夜ですよ」


「夜……?」



 眠気眼を擦りながら、上体を起こして辺りを見回す。

 そこはミアーゼンの宮殿の四階に用意された自室、そのベッドの上だった。

 衣装箱や鏡台などの調度品は最低限に、質素にしてもらった部屋。床には暗色の絨毯が敷かれ、窓の外には広い中庭がある。



 ローブのフードを被ったままのセルフィが、静かに労いの言葉を掛けてくる。



「お疲れ様です。ハツミ」


「……セルフィ、私寝ちゃってた?」


「はい。それはもうぐっすりと。何か良い夢でも見ていたのでしょう。寝顔がとても安らかでしたよ」


「あうぅ……」



 寝顔を見られていたことに、初美は羞恥を禁じ得なかった。恥ずかしさのあまり赤面するが、セルフィはどこか慈愛の感じられる様子。顔は翳になって見えないが、グリーンのフードの中では笑みをこぼしているようにも思う。



「どんな夢を見ていたか、覚えていますか?」


「夢……」



 セルフィに訪ねに、夢の内容を思い出す。

 果たして、自分がいまし方まで見ていた夢はどのような夢だったか――



「……私が小さな子供になった夢。こことは違う場所で、男の子とかけっこをしたり、やんちゃな遊びをしたりするの」


「いつも見る夢、ですね」



 セルフィの優しげな声に、頷く。そう、その夢は、記憶を失くした自分がよく見る夢だ。剣も振るえないような小さな自分が、同年代の男の子と一緒に遊び回る。根拠はないが、過去の記憶だと思っている、記憶の手掛かりでもあった。



(ただ――)



 ただいつも途中から、男の子がおまじないを唱え、転んで作った怪我を治してくれたり、野良犬を追い払ってくれたりと、不思議な夢に変わる。

 そして、最後にこう言うのだ。



 ――お前が危ない目に遭ったときは、必ず俺が助けに来る、と。



 男の子の顔は霞がかっていまだ思い出せない。だが、彼の言葉を思い出すと、懐かしさが薄れていくような、何とは言って能わない寂寥感が胸の内を満たすのだ。

 ……しかし、仮眠のつもりが深い眠りについてしまっていたらしい。我ながら寝穢(いぎたな)いことであると初美は自らに対して呆れたあと、セルフィに問いかける。



「ちなみにどのくらい寝過ごしたの?」


「そうですね、もう夜も更けていますから、かなり寝ていたかと」


「う……そんなに寝てたんだ。……確か寝ちゃう前に、今後の予定を話し合うってことにしてたはずよね?」


「ええ。ハツミの提案で」


「うっ……」



 そう、パレードとその後の会食が終わったあと、今後の魔族討伐でどう動くかを決めようということで、しばしの休憩を挟んだのち集合しようという運びになった。一時間くらいあとにしようと適当に時間を指定したはいいが、現在窓の外は真っ暗。二時間以上は華胥の国で遊び耽っていたらしい。



「時間も遅くなりそうでしたので、いま起こしたのですよ」


「もっと早く起こしてくれても良かったのに」


「いえ、疲れていたようでしたので、ここは声をかけないほうが良いかと思いまして」


「ありがとうセルフィ。それで、いまガイアスとヴァイツァーは?」


「隣の部屋で待っていますよ」


「そう、じゃあ早く知らせて――」



 初美がセルフィに伝え終わる間もなく、廊下を忙しなく歩く音が聞こえてくる。この気配は、ガイアスだろうか。起きたのを察して来たのだろう。



 彼女が来訪者を把握したのもつかの間、ノックもないまま部屋の扉が勢いよく開かれた。



「よう、起きたか? 我らが寝ぼすけ勇者殿」



 彼にとっては扉など薄板一枚なのだろう。扉の開く威勢のいい音と共に、相変わらず気の置けない笑みをかけてくる筋骨たくましい男。

 承諾も得ずに奥の椅子にどっかりと腰をかけ、我が物顔でいるそんな彼に、セルフィがフードの中から避難の眼光を突き刺した。



「ガイアス師。女性の部屋にノックもないまま入るとは何事ですか?」


「いいだろ別に? どうせ着の身着のまま寝てたんだろ? それにもしハツミがあられもない姿だったら、お前がどうにかしてただろうが」


「ええ、確かにそうですね。そのときはまずあなたに魔法を撃ち込んでいたでしょう」


「はー、おっかねぇ女」



 即答するセルフィを見ながら、ガイアスは両肩を抱いて怯えた真似をする。そんな風にも思っていないのに、ひょうきんな男である。



 一方初美はガイアスの不躾な行動を気にした様子もなく、ベッドの上で軽く頭を下げる。



「ガイアス、ごめんさい。寝過ごしちゃった」


「お前が寝過ごすなんて珍しいな」


「慣れないことして疲れたみたいね」



 初美は悪びれた様子で言う。会食は度々あったが、パレードは初めての経験だ。半日の間、カウホーンに引かれた背の高い山車の上に乗って、住民に慣れない愛嬌を振り撒くことは、彼女が思っていた以上に大変だった。



「あーまあ無理もねぇわ。ありゃあオレ様でも肩凝るしな」



 それは同じだと、自分の肩を揉みながら顔に苦さを浮かべるガイアス。豪放磊落な彼も、ああいった役作りをしなければならない場は苦手だったのだろう。パレードのときは随分と楽しそうにしていたようにも思えたのだが、実はそうではなかったか。



 そんな話をしていると、開け放たれた扉から、高級そうな織物で作られた騎士装束をまとった少年が現れる。そしてその少年は開口一番、



「――ガイアス。勇者殿の部屋に勝手に入るとはどういう了見だ?」



 と、剣幕も声音も荒々しく、ガイアスにまなじりを吊り上げて詰問するミアーゼンの王子、ヴァイツァー・ラーヒューゼン。だが、ガイアスは彼の態度にもその肩書にも気後れすることなく、耳を小指でほじって煙たがる。



「なんだお前も説教かよ……いいじゃねぇか、話し声が聞こえたんだからよ。俺も早いとこ不景気な話なんて終わらせて酒が飲みたいんだ」


「お前は世界の平和よりも酒が優先だというのか?」


「当たり前だ」



 そう胸板を叩いて、ガイアスは豪快さんっぷりをあらわにする。

 彼の不遜な物言いに呆れて額を押さえるヴァイツァーは、これ以上の会話を不毛なものと判断したか。一転表情を柔らかくして、初美の方を向き会釈をした。



「寝起きに騒がしくしてしまい、申し訳ございません勇者殿。よく眠れたでしょうか?」


「ええ。ありがとう。あと、待たせてごめんなさい」


「いえ、魔族討伐の疲れがまだ残っていたのでしょう。無理をさせてしまったのは我らに責任があります。勇者殿はどうかお気になさらず」


「うん……」



 こちらに恥をかかせないよう下手に出てくれるところは、相変わらず紳士である。

 しかしこれから真面目な相談をするのに、いつまでもベッドの上ではいけないと、初美は椅子に移ろうとする。それを悟ったのかセルフィが手を貸してくれようとすると、何故かヴァイツァーが彼女を制した。



「セルフィ、ここは私が」


「……なるほど、わかりました」



 一瞬ヴァイツァーの行動に疑問符を浮かべたセルフィだったが、彼女はすぐに何かに勘付いて嫋やかな所作で身を引いた。



 そのやり取りに、今度は初美が疑問符を浮かべていると、彼が近寄ってくる。



「ヴァ、ヴァイツァー?」


「さあ勇者殿、私の手を」


「え? あ、うん……あ、ありがとう……」



 支えの手を差し出してくるヴァイツァー。気遣って、優しげな表情を見せてくる彼に、初美は面映ゆそうに礼を言って目を逸らす。彼のこの手の行為はよくあるが、さすがに今回のはかなり恥ずかしかった。

 一応、彼の手を取って立ち上がると、



「おー? 一気に攻勢にかけてきやがったぜ?」


「ふふふ……」



 一方、何がおかしいのか、笑っている他の二人。そんな彼らを余所に、ヴァイツァーが自分を椅子へと導き、そして訊ねてくる。



「勇者殿、今日の会食はいかがでした?」


「う、うん。お食事はおいしかったんだけどね……」


「何か、気に入らない点でもありましたか?」


「そうじゃなくて、私あまりああいった場は得意じゃないの。あ、別に国王陛下や皇后さまが嫌いってわけじゃないんだけど。ね?」



 その二人に限らず、宮殿の人間はよくしてくれる。だが、堅苦しい場で食事をするのは居心地が悪いと言うか、落ち着かなかった。



 しかし、ヴァイツァーは彼女の言をどう解釈したのか、訳知り顔を作る。



「記憶を失われているので、そうお思いになられるのでしょう。不安が付きまとうとああいった場は落ち着かなくなるものです」


「いや、そう言う意味じゃないんだけど……」


「すぐに慣れます。食事の席での勇者殿の立ち振る舞いはいつも美しいですから」



 ヴァイツァーの称賛に、やっと返せて「う、うん……」と、ぎこちない返事。そういった世辞をストレートに言って来るのはどうしたものか。



 やがて椅子に座ると、やけにニヤついたガイアスが目に入った。

 一方でセルフィも忍び笑いを漏らしている様子。二人は何がそんなに面白いのか。



「……ねえ、二人ともときどきそんな感じだけど、一体何?」


「いえ、何でもありませんよ?」


「そうそう、微笑ましいなってな」



 二人は嬉しそうだが、何故かヴァイツァーの方は気を悪くした表情。しかしガイアスは彼のそんな態度も可笑しいのか、笑みのしわを増していた。



 ヴァイツァーが椅子に座るのを見計らって、ガイアスが訊ねる。



「で、これからどうする?」


「どうするも何もないと思うが?」


「おいおいそれを言っちゃあ話をする意味がねぇだろうが? お前なに怒ってんだよ?」


「別に」



 とは言うが、ヴァイツァーはまだ何か怒っているらしい。そんな二人のやりとりは置いといて、初美が切り出す。



「魔族の討伐は当然のことだけど、これからどう動くかよね」


「そんなの、いつも通り兵と連携して行軍じゃねぇのか?」


「勇者殿、私もそれが手堅いと思いますが?」



 やることは変わらないと言うガイアスの案に、珍しくヴァイツァーも同意する。ということはそれがセオリーなのだろう。しかし、初美には別の考えがあり、



「そうなんだけどね……」


「ハツミ、何か思うところでも?」


「うん。折角私たちっていう独立した戦力があるんだから、もっと別の運用法があるんじゃないかって。ほら、兵の方はもう大きな勝利を挙げたから、鼓舞する必要はないでしょ? なら、戦場は各将軍たちに任せた方がいいかなって」


「あ?」



 ガイアスが察しの悪い一方で、ヴァイツァーは初美の提案をしっかりと理解する。



「つまり、我らは魔族に対して独自の動きを取った方がいいと」


「ええ。それで出来ることがあるんじゃないかって。魔族の将軍を狙い撃ちにして奇襲をかけるとか。ちょっと危険な動きになるかもしれないけど」


「そうですね。ですが、成功すれば戦場の兵たちの負担は格段に下がるでしょう」



 そう、戦力はこの上ないほど整っているのだ。魔族と正面から渡り合える前衛が三人に、それを完璧にサポートできる後衛が一人。四人ならば隠密行動にも適しており、別行動をとって魔族の将軍や有力な魔族を叩くことができれば、人間側が有利になる。



「……もちろんみんなが危険を承知で戦ってくれるならだけど」



 危惧する通り、これは危険な作戦だ。初美も仲間に無理強いはさせたくなかった。

 しかし、ヴァイツァーは答えなど決まっているとでもいう風に、



「無論、我らは勇者殿に付いて行く所存です」


「ヴァイツァーが良くても、ガイアスやセルフィはどうかわからないでしょ? 二人とも自分の国のことがあるんだから、強制はできないし。そういう逃げ道を失くすような言い方はしないで。それに、はっきりこの策でいいって決まってもいなし」


「も、申し訳ありません」



 窘めの言葉に、ヴァイツァーはらしからぬ慌て振りを見せながら謝罪する。彼が動揺したのは、言葉が厳しさを帯びていたためだろう。失態と思ったか閉口しているそんなヴァイツァーを余所に、ガイアスは頼もしい口ぶりで言う。



「オレは一向に構わねぇぜ。後手に回るのも飽きてきたところだし、危険は望むところだ」


「私も付いて行きますよ。いまさら役目を放棄するつもりはありませんから」


「二人共、ありがとう」



 二人とも、いや三人共か。頼もしい限りである。

 すると謝意を示した初美に、ガイアスがおかしなものでも見るような視線を向ける。



「にしてもハツミ、お前、前はそんなんじゃなかったのに、よくそんなにやる気になったな」



 そんなんじゃなかったのにとは、急に攻撃的な案を提示したからか。当初は記憶を失ったショックで部屋に引きこもり、魔族の討伐を拒否していたのだ。それを引き合いにだしたのだろう。だが――



「その話はしない約束でしょ? もう……戦っている内に、魔族は倒さなきゃってきになっただけよ」



 そう、魔族と戦っているうちにいつからか、あれは見過ごしてはいけない害悪だと思うようになった。あの害意の強さを見れば一目瞭然だろうが、どうして倒さなければならないという気がしてならないのだ。



 それに、守りたいとも強く思う。この世界の人たちもそうだが、一緒に戦うこの三人の仲間も、自分には大事な人たちなのだ。



「――ねぇセルフィ。これからミアーゼンでやらなきゃいけないことはある?」


「特には。ただ何度か夜会に出席して頂くということを心に留めておいていただければ」


「夜会って……いわゆるパーティーのことよね? どうして?」



 パレードなどは民を慰撫するために行わなければならないとは思うが、これ以上のおもてなしは正直必要なものとは思えなかった。



 初美がセルフィに訊ねると、それにはヴァイツァーが答える。



「我らと親睦を深めていただきたいのです」


「みんなとなら、もう十分ってくらい仲良くなってるじゃない?」



 初美にとっては三人共、初陣からの付き合いだ。出会ってからまだ短いが、戦場では共に戦い、助け合い、気心の知れた仲となっている。それゆえ、必要ではないと思うが、



「少々語弊がありました。我らとは、つまりサーディアス連合の人間ということです。父上や母上、ミアーゼンの重鎮たちやほかの連合の国の者にも覚えを良くしていただかねばならないのです」


「それは……仲良くできればいいとは私も思うけど、そう急ぐことでもないし……」


「いえ、現在の連合には急務なのです。いまは勇者殿がいて頂ければ」


「それは、私に連合がまとまるためのダシになれっていうこと?」


「――い、いえ! 別にそういうわけでは!」


「魔族にも襲われているし、必要だとは私も思うけど……」



 必要だとは理解できるが、それでもなんとなく胸に蟠るものがある。



「違うのです勇者殿! これは決して勇者殿を利用するといったことではなく……!」



 初美が複雑そうな顔をしているためか、機嫌を損ねてしまったと思ったヴァイツァーは半ば取り乱したように、必死な様子で言い直す。

 一方、ガイアスがまた先ほどのような含みのある笑いを初美に向けた。



「まーそろそろ察してやれよハツミ。な?」


「察するって、何?」


「ハツミ、ヴァイツァー王子の好意にですね……」


「厚意って、確かにそれは、よくしてもらいすぎて少し悪いなとは私も思ってるけど」



 呼び出されてからは、彼だけでなく宮殿の人たちにもよく面倒を見てもらっている。彼らが呼び出した方であるため、当然と言ってしまえばお終いだが、感謝の念は忘れていない。

 それを伝えたのだが、ガイアスは的外れなことでも聞いたように、呆れの息を吐いた。



「……なんつーか、はっきり言ってすげー鈍いよなお前。なんかこの前一緒に食事したひょろい兄ちゃんを思い出すぜ……」


「……?」



 物言いはよくわからなかったが、多少落ち着いたヴァイツァーがどこか観念したように、正直な考えを口にする。



「……確かに勇者殿のおっしゃる通り、連合のためということは少なからずございます。ですが魔族を倒したあと、記憶を失ったあなたが平穏に暮らせるようにするために、必要でもあるのです。不安であれば、私があなたを生涯支えます」


「でも……私はヴァイツァーたちにそこまで迷惑をかけたくはないし」


「わ、私は別に迷惑などとはっ!」


「でも……」



 簡単には頷けなかった。いくらなんでも、ヴァイツァーの人生を奪う気はないし、そこまで責任を負ってもらうつもりもない。



 それに、自分には帰る世界があり、そしてそこに帰らなければならないはずなのだ。

 そう、夢に出て来た男の子に、自分はきっと会わなければならないのだから。



「…………」



 記憶喪失の不安が頭の中を占拠しはじめるとダメだ。靄で隠された奥にある届かない思い出と、思い出さなければいけない誰かばかりに思いを馳せてしまい、頭が働かなくる。

 顔色でこちらの心の機微を察したか、ヴァイツァーが心配そうな表情を向けてきた。



「……勇者殿」


「ごめんなさい。話も終わったし、少し一人にして」


「ハツミ」


「うん。大丈夫。ありがとうセルフィ」



 声を掛けてくれるセルフィに、心配するなと微笑みかける。申し訳なさそうにするヴァイツァーに「気にしていないから」と口にすると、やがて三人は部屋から出て行った。



 三人が出ていってしばらく。初美は椅子から立ち上がり、ベッドに身体を放り出す。そしてタペストリーの貼られた天井を見上げながら、ふと思い浮かんだことを口から漏らした。



「……私は、もと居た場所に戻らなきゃいけない」



 仲間のことも大事だが、記憶のことをこのままにしたくはない。自分が何者なのかも知りたいし、帰るべき場所だって、待ってくれている人だっているかもしれないのだ。



 だから――



「――よいせっと」



 思案の最中、不意い窓際からそんな軽快な声が聞こえてきた。

 窓は開け放している。外の声でも入ってきたのだろうかと寝そべったまま頭を傾け、窓辺の方を見ると、窓の桟のところに乗っかるようにグリーンの衣服をまとった黒髪の少年がしゃがんでいて――



「よ!」


「え!? え!? えぇえええ⁉」



 突然現れ、手を上げてやたらと親しげな挨拶をしてくる少年に、初美はベッドに預けていた身を起こして盛大に驚いた。



「ちょ、ちょっとここ四階!」


「ん? 別に四階くらい頑張れば昇ってこれるだろ? こう、出っ張り掴んでよじ登ればさ。俺はやってないけど」



 身振りしながら、あっけらかんと言う少年。確かに昇ってくる手段はいくらでもあるかもしれないが、その前に問題がある。



「ど、どうやって宮殿の敷地内に入ってきたのよ!?」


「んなモンちょちょいとだな……」



 と言って、少年は親指と人差し指をくっ付けたり離したり。そんな挙動で侵入が簡単だったことを示したあと、当たり前のように窓際から部屋の中に入ってくる。

 何者なのか。そんな疑問は一時放り出して、近くに立てておいた刀を取る。そして、いつでも斬りかかることができるように腰だめに構えた。



「動かないで!」



 警告する。すると少年は、こちらの言っていることが理解できていないのか、しばらくの間時間が停止したように固まったあと、素っ頓狂な声を上げる。



「……は?」


「は? じゃないわよこの不法侵入者! 斬って欲しいの!?」



 血の巡りの悪い間の抜けた顔を向けてくる少年に、鯉口を切ってもう一度警告する。すると彼はしばしそのままポカンとしたあと、こちらの殺気に気付いたか、遅まきに慌て出す。



「き、斬るぅ? 斬るっておまっ、何言ってるんだ? お前そう言ったタイプの冗談言うヤツじゃないだろ?」


「ええ良く知ってるわね。冗談じゃないもの」


「じょ、冗談じゃないって何言ってるんだよお前!? 本気で俺を斬るつもりなのかよ!? あ、あれか? もしかしてレディの寝室に急に入ってきたから怒ってるのか? それは確かに俺が悪いけど……」


「違う」


「じゃあなんでそうなるんだよ!? 突っ込み待ちか!?」



 と、目を三角にして突っ込みを入れてくる。どうして驚いているのかこの少年は。自分のしたことを鑑みれば、どうなるかなど明白だと言うのに。



「言われなきゃわからない? 知らない人間が突然自分の部屋に入って来たら、普通誰だって警戒するでしょ」


「知らない、だって……?」


「少なくとも私はあなたに見覚えなんて……ないわ」



 そう、自分はこの世界に来て、この少年には会ったことも知り合ったこともない。なのに何故、知り合い然としてそんな困惑顔でいるのか。まるで意味がわからなかった。



 しかし、少年はいまの言葉でかなり動揺したらしい。



「じょ、冗談はよせよ……。んなモンこんなところで言う冗談じゃないだろうが」


「だから冗談じゃないってさっきから言ってるでしょ? 私はあんたなんか知らないの」


「知らないわけないだろ! 俺は水明だ! お前の、朽葉初美の幼馴染みの! 八鍵水明!」


「お、幼馴染み?」


「ああ、そう。幼馴染みだっての。頼むからこういう冗談は勘弁してくれよ……」



 そう苦しげな声を出して頭を抱える少年、八鍵水明と言ったか。幼馴染みと口にするのは意外だし、確かにそれらしい親しげな態度を見せている。だが、その言い分には極めておかしな部分があった。



「何言ってるのかしら。私は異世界から呼ばれた勇者なのよ? この世界に幼馴染みなんているわけないじゃない」



 そう、それがこの少年――八鍵水明なる者の言葉を否定する、曲げられない事実である。確かに自分には幼馴染みはいるかもしれない。だが、異世界から召喚された自分には、この世界で幼馴染と会うことは絶対にできないのだ。何が目的で侵入し、そんな嘘をついて近付いてきたかは知れないが、手管としてはお粗末すぎる。



 一方、そんな事実を叩きつけられた少年は、まるで信じていたものにでも裏切られたかのように、愕然としていた。



 やがて何かに勘付いたような表情を見せ、



「おいお前、もしかして記憶が……ないのか?」


「確かにあなたの言う通り、私は記憶喪失よ」


「おいおい、マジかよ……」



 言って退けると、少年は驚愕の事実を知ったとでも言うように、目を丸くしていた。




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