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三人目の勇者



 今日も、地平線の向こう側から、黒い海が押し寄せてくる。黒い海の正体は、生き物の群れだ。それは人々の敵であり、何もかもを破壊し尽くそうとする悪意の塊でもある。

 つまりは、魔族。

 土と、わずかながらの緑しかない褐色の荒野が、魔族のまとう黒い力に染められていく。

 布に染料が少しずつ染みていくように、じわり、じわりと。

 連合北部、ノウルフォークの大荒野を一望できる南の丘から、連合の勇者である朽葉初美は、しばらくその様子を眺めていた。



 ふと時折、北部特有の乾いた涼しい風が、緩やかに吹きつけてくる。それと共に伝わるのは、肌を刺すような痺れにも似た感覚だ。その正体は、向かって来る殺気に確かに入り混じる魔族たちの焦燥だろう。あの黒い魔族の海から、これまでになかった必死さが空気を伝って感じられる。

 あの魔族たちは、先の戦いで劣勢に追い込まれたのだ。他の部隊からも見捨てられ、もう取り返しがつかないほどの窮地に立っている。だからいま、自分たちの名誉を取り戻し、確かな結果を出そうと、死にもの狂いで襲いかかって来ているのだ。



 機が、戦いの機運が着々と迫ってきていることを鋭敏に感じ取り、初美は背後を顧みる。

 彼女のすぐ後ろ、森の中に身を隠すようにいるのは、呼び出されたときからの付き合いの仲間と、連合の兵士たちだ。

 右後ろに控えるは、連合は一国ラルシームの武術師『ガイアス・フォーバーン』、左後ろに控えるのは自治州きっての女魔法使い『セルフィ・フィッティニー』。そして自身の真後ろで瞑想を行っているかのように静かに跪く、連合宗主国はミアーゼンが王子であり剣士である『ヴァイツァー・ラーヒューゼン』。



 いずれも三国に名が通った、そしてその名に恥じぬほどの腕前を持つ猛者たちである。実力のほども証明済みだ。これまで四度あった魔族たちとの戦いで、何度も背を預け、何度も助け合って来たのだから。

 合図のように頷くと、ガイアスは豪快な笑みを浮かべ胸板を叩き、セルフィは静かに首肯。ヴァイツァーはいつものように、弁えているというように忠義顔を貼り付けていた。

 そんな最後の意志確認を終え、初美は崖の上から飛び出す。

 先駆けの言葉はない。付いて来いという旗振り役の言葉もない。だが、不備はない。魔族に真っ先に斬り込むのは、剣士ばかりだ。言葉がなくてもみな、付いて来てくれる。同じ剣を持つ者として意志はもう一つなのである。



 ゆえに、顧みもせず駆け下りる。まるで一ノ谷の逆落としのように。常ならば不安を覚えるような斜面も、英傑召喚の加護があるこの身には、瑣末なことだ。どれほど早く駆け下りたところで、斜面に足がついて行く。

 後ろにいる仲間たちも兵士たちも、自らが先を切れば、その気勢に乗って付いて来る。

 だからここには、不安も憂慮も危惧も一切何もかも、存在し得るものではない。

 駆け下る勢いのまま、荒野に広がりきった魔族の軍のどてっぱらに切り込んでいく。魔族たちは予期していない方向からの急襲に、対応が遅れ混乱し始めた。



 朽葉初美は剣を抜く。右手で引き抜いた得物は、ドワーフの鍛冶匠に鍛えてもらったものだ。物語の中にしか出て来ないような素材を、これまた物語の中にしか出て来ない鍛え方で作られた逸品、打刀。刀身の長さは百二十センチメートルもあるミスリルの大太刀である。

 その白銀の光沢を持つ刀身と、初美が持ちうる剣の技量があれば、魔族など薄紙も同然だ。一閃すれば、肉だろうが鉄だろうがなんの抵抗も感じないほど容易く分かたれ、脂はおろか血糊さえ刀身に乗ることはない。



 振るうだけでいいのだ。ただ身体の動くまま、刀と腕の赴くままに。身を任せていれば決して負けることはないのだから。

 真っ正面で体勢を立て直すのにまごついている魔族の群れに向かって、刀を振るう。袈裟がけの一閃で前の魔族を真っ二つに斬り裂いた。そして流れそのままに、身体を一回転させ隣の魔族の首を飛ばす。

 両脇の魔族にはそれぞれ、ヴァイツァーとガイアスが飛びかかった。武術師の拳が、剣士の剣が、それぞれ魔族を絶命せしめる。



 手近な魔族を斬っていると、やがて方々から鬨の声が上がった。遅ればせて、左右に別れた部隊がぶつかったか。伸び切った布陣の横っ腹を、剣士たちが裁断していく。魔族はあっという間に分断。それを見計らって、背後から魔法の援護が繰り出される。

 セルフィが指揮を執る魔法使いの部隊が、予定通り分断された魔族の部隊に追い討ちをかけたらしい。やがて隊列も陣形も崩された魔族は練達の剣士たちにより、こちらの目論見通りに確固撃破の憂き目にあった。

 初撃が上手くいけば、あとはズルズルとこちらのペースになる。

 魔族は一度隊列が崩れると、個々の力量が高いせいか、協力して戦わなくなるのだ。魔物も合わせた混成部隊だからというのもあるだろうが、すぐに自分の力に訴えようとする。



 戦においてスタンドプレーは、致命的な障害になる。



 だから、あとは同じように患部にメスを入れるかの如く、膿を取り除いていくだけだ。こちらの結束力は勇者である自身の存在により盤石なのだ。

 しばらくすると、他の魔族たちとは桁違いの格を放つ魔族が前に出てくる。

 魔族の将軍だ。魔力を持った剣を得物とする、外套をまとった細身の魔族の剣士。名前は確かマウハリオ。『烈風瞬迅』という名で呼ばれ、その剣技で幾多の連合の兵士の首を落としてきたらしい。



「連合の勇者ぁ!!」



 出会い頭に浴びせられたのは咆哮だ。あの細い外見からは予想もつかないような大声が、荒野を震わせ、砂粒を舞い上げ吹き飛ばす。そしてそのただ一声で、連合の兵士の動きが鈍くなる。気当たりにやられたのだろう。気迫に心を射抜かれ、動きに淀みが出ているのだ。

 その咆哮を受けてまともに動けているのは、数名の将、そして仲間と自分のみ。

 そんな一手を浴びせてきたのもつかの間、マウハリオは瞬く間に自分の間合いに入ってきた。そして繰り出される魔風を伴った斬撃。



「おらぁあああああああ!」


「せああ!」



 それに合わせ、大太刀を振るう。空気を孕んだ切っ先が、ひゅんと鋭い音を立て、魔族の剣を弾いた。

 するとマウハリオは一瞬で詰めた間合いを一瞬で離す。そして目にも留まらぬ速度で左横に回り込み、剣撃に及んでくる。

 ミスリルの刀身を防御に出すと、戛然(かつぜん)とした音が響く。そのまま自分よりも背の高い魔族が、刀身ごと圧し切らんとするように剣を押し込んでくるが、競り合いは膠着。筋力の少ない女の身だが、拮抗できるのは英傑召喚の加護で力が高まっているためだ。



「連合の勇者! 今日こそは貴様を倒し、ナクシャトラ様にその首を捧げてやろう!」


「っ……悪いけど、私こんなところで死ぬつもりなんてないのっ」



 間近で聞こえる怒号をうざったく感じつつ、マウハリオの剣の下にもぐり込むようにして剣をいなす。そしてそのまま斬撃に移ろうと思いきや、マウハリオは危機を察したか、反対方向へ離脱していた。

 切っ先が決して届かない場所で剣を構えるマウハリオ。動きを捉えることができないほど、恐ろしく早い。


 ……この魔族の剣士は速度に力を置くタイプだ。こちらの切っ先が届かず、一足で飛びかかれないような距離で、かつ向こうが一瞬で飛び込んでくることのできるこの距離は、普通に考えれば不利である。

 それでも、泣きごとなど言っていられない。

 足は軽く開いて、左足の踝に右足の踵が向くよう意識し、撞木立ちに。剣を首の後ろに隠すように右肩に担ぐ。うなじへと空気越しに、金属のひんやりとした感覚が感じられた。

 剣を構える魔族の将軍まで、目算およそ八メートル。こちらの剣の刃渡りは、一メートル強。速さと突撃力に頼みを置くあの魔族の将軍には、おそらく絶好の距離だろう。傍から見れば間合いに入って来る者を迎え撃つような格好に、マウハリオも喜悦が交じった嘲笑を浮かべている。

 おそらくは、こちらが賭けに打って出たのだと思っているに違いない。先に斬るか、斬られるかの勝負と判じ、そして自らの勝利を悟った顔だ。



 ……目算でも確かに、切っ先を伸ばしたとして、相手の身体まで有に六メートル以上の開きがある。剣の先は決して届かない距離だ。

 しかし、そんなものはこちらにとって些細な問題である。

 一方でそれをわからない魔族の将軍にとっては、致命的な問題だったのだろうが。



「死ねぇええええええええええ!」



 猛々しく、そして物騒極まりない魔族の将軍の気合いの声。殺意の塊のような音の波が先触れとなって押し寄せてくるが、心は止水の境地にあり。外界から己が内に入ってくる情報は全て瑣末な事柄へとなり下がる。

 いまこのときだけは、殺意の咆哮も、魔族の歓声も、兵士の悲鳴も、仲間の焦りの声も、心に波紋を作る一石にすらなりはしない。

 しかして、自身がここで打つ一手はそう。



 ――倶利伽羅陀羅尼幻影剣(くりからだらにげんえいけん)絶刃(ぜつじん)の太刀。



 そしてカッと目を見開くと共に、気合も呼気も全て魔族の向こう側に払うように、担いだ剣を一閃。

 遠間。魔族の将軍の背後から聞こえる風鳴りの音。振り抜かれた切っ先と同時に、誰も彼もの予想のことごとくを裏切って、魔族の将軍の下半身が凄絶な速度で己の脇を転がっていき、塵と風と上半身とその血液とが、逆方向へ一緒くたになって吹き飛んでいった。



 一歩も踏み出すことのないまま、敗北を喫したマウハリオ。

 そして、あとに残ったのは、無音。

 直後わっと上がる兵士たちの歓声。倒した様を見ていたのがかなりの数いたのだろう。

 だが、周囲の魔族は動けない。自分たちよりも上位の魔族が倒された事実を突き付けられたこともあるだろうが、まず第一に何故あの状況で倒し得たのかわからないからと言うのが強いからだ。

 一方、死に切れていなかったか。地面を転がったまま、マウハリオは口から血を噴き出して驚きの視線を向けてくる。



「馬……鹿な、剣の間合いは確かに」



 そう、確かに剣は魔族の将軍の身体に届いていなかった。だが、先ほども述べた通り、それは些細な問題である。

 もう二度と起き上っては来れない魔族の将軍の前で見せつけるように血振るいをして、冷ややかな視線を落とす。

 そして、



「――剣士のクセに何言ってるのかしらねあなたは。間合いの内でしかものを斬れない剣士なんて、二流もいいとこでしょ?」



 素っ気なく言い放った言葉は、相対した者からすればぞっとするような言葉だったのかもしれない。だが魔族の将軍はその戦慄を感じる間もなく、絶命したのであった。

 ……やがて、魔族と人間の戦が終わる。人間の――連合側の勝利によって。

 方々から聞こえるのは、剣士や魔法使いの歓声だ。戦いが終わったことの証左である。

 しばらくすると兵士たちの垣根を割って、一人の少年が歩いてくる。

 出で立ちは騎士装束。連合の宗主国ミアーゼンの王子にして七剣の一人、ヴァイツァー・ラーヒューゼン。彼が足もとに跪く。



「見事な戦いぶりでした。勇者殿」


「その勇者っていうの、やめて欲しいって何度も言っているはずだけど。ヴァイツァー」



 頑固生真面目を地で行く少年、ヴァイツァーから掛けられた世辞に、朽葉初美はそう辟易とした息を吐いた。

 しかし彼は気にした様子もなく、初美の手を取ってその甲に口づけをしようとしてくる。

 彼にとって儀式なのか。初美もその行為に悪い気はしないのだが、何故か今日も直前で逃げるように、掴まれた手を引いてしまう。



 見上げてくるヴァイツァー。怜悧な鉄面皮がわずかに残念そうに動く。



「勇者殿……」


「だからヴァイツァー」



 すると、反対側から、初美の仲間の一人、セルフィ・フィッティニーの声が掛かる。



「仕方ないでしょう。ハツミは事実、勇者なのですから」


「セルフィまで……」


「そんな困ったようなお声を出されても、事実を捻じ曲げることはできませんよ」


「むうぅ……」



 むっつりとした語調で断じるセルフィに、そう唸る。

 薄緑色のローブをまとい、フードを目深にかぶった魔法使い然とした彼女。どうやらフードの中では忍び笑いが漏れているらしい。

 と、気付けばどこから出て来たのか、ヴァイツァーの後ろに大きな影が立った。



「今日もフラれたか。王子様」



 そして、やけ快活そうで大きな声がヴァイツァーに降り注ぐ。彼の後ろに立ったのは、筋肉が歩いているようなイメージを持つ男、ガイアス・フォーバーン。

 彼は古傷が刻まれた手で、ヴァイツァーの肩を気安く叩く。仲間とはいえ王子相手なのだから遠慮はあった方がいいと思うが、それはともかく。ヴァイツァーの尊敬を表す口づけを、どうも彼は勘違いしているらしい。

 ヴァイツァーはガイアスに向けた鋭い目を、わずか恨めしそうに細める。



「……私は別に拒絶されているわけではない」


「ほーお? オレが見るに、いつもああだったと思うが?」


「くっ……」



 ガイアスのとぼけるような言い様に、ヴァイツァーの目元が苛立ちにわずか吊り上がる。



「べ、別に私はヴァイツァーのことが嫌いってわけじゃないのよ? ただそういうことされるの、慣れてないっていうか、慣れてないような気がするっていうか……」


「でもなぁ。嫌がるような素振りに見えたのは確かだしなぁ」


「ガイアス、黙らないか。――勇者殿。私は純粋に勇者殿のことを尊敬して……」


「二人とも、ハツミを困らせてはいけませんよ」



 セルフィがむっつりとした苦言を呈する。だが二人はまだ自分の言い分を口にし足りないらしく、それぞれ不服そうな表情を作って「へーい」「はい……」と返事をした。



「ま……なにはともあれ、みんな、お疲れ様」



 初美はねぎらいの言葉を掛ける。その気遣いの言葉に、返事をするなり手を挙げるなり、三人はそれぞれ快く応じた。



「でも、思っていたほどの数じゃなかったのは意外だった」



 得心がいかず眉をひそめる初美に、答えたのはセルフィ。



「今回魔族たちの軍団は、三つあるうちの一つしか現れませんでしたからね」


「やはり、いま我らが倒した魔族の軍団は、捨石にされたとしか」



 現在連合に攻めてきている魔族の軍は、三つある。一つはいま倒したが、その軍以外にあと二つ魔族の軍があり、いま戦った軍よりも規模が格段に大きいのだ。



「だけどいいじゃねぇか。今日の戦いもまた良い結果になったんだからよ」


「先ほど勇者殿が倒した相手は魔族の将軍です。これ以上の戦果は、高望みというもの」


「でも……」


「ハツミよぉ、そこまでにしとけって。それ以上言ってくれるとハツミが来るまで苦戦してた俺たちの立場がなくなっちまう」


「ええ。あなたが来るまで、連合の軍は魔族の軍一つに押されていたのに、あなたが戦場に立った途端、押し戻すはおろかその後に現れた援軍とまで渡り合うことができています。そして今日」


「三つの軍の内の一つを撃破し、将の一体を討ち取った。全て勇者殿のお力があったからこそです」


「あ? 全てだって? じゃあオレの倒した分はどうなんだよ?」


「魔族の軍団を打ち破ることができたのも、魔族の将軍を倒せたのも、ガイアスが魔族の軍を倒せたのも、全て勇者殿のおかげだ」



 ヴァイツァーはきっぱりと断じる。そんなにべもない彼の物言いに、ガイアスの目が怒りで三角になる。またケンカになるのかとため息を吐く初美は、話を逸らしに掛かった。



「ヴァイツァー。こっちの戦力が十分に整ったから勝てたってだけだから、私のお陰ってわけじゃないでしょ? それに、難しいのはこのあと」


「……そうでしょうね」



 同意の声を出したのはセルフィだけだった。

 そう、今回倒した魔族は、自分の力に強い自信を持っているタイプの魔族だった。ゆえに、軍の運用も力任せで単純な、単調な攻めしかしないため、比較的与し易い相手だったのだ。

 初美が戦場に立ったあとは、劣勢を覆し、優勢に持ち込むこともできた。だが、その後に援軍が来てから、趨勢は均衡を保つようになった。策を弄する敵の将が現れて、戦いにくくなったのだ。その援軍さえなければ、もっと早く領地を取り返すことができただろう。

 初美が難しい顔をしていると、ヴァイツァーがそんなことは取るに足らないというように、表情に自信を滲ませて言う。



「勇者殿がいれば、魔族の軍団など恐るるに足りません」


「そういうこった。あとオレもな」



 胸板をどんと叩き、相変わらず自意識過剰気味なガイアス。そんな彼に、ヴァイツァーと、今度はセルフィまでもが鋭い視線を向けていた。

 そんな彼らの昂揚ぶりとは対照的に、初美は少し暗い表情を見せる。



「……ねぇ、みんなは私のこと、何者だと思う?」



 そのあとに思い出したように、「あ、勇者って答えはなしだからね?」と付け足す。すると三人は顔を合わせ、そしてそれぞれ答えを口にしていく。



「勇者って呼べなかったら、とびっきり別嬪の剣士だろ?」


「種族で言えば、人間の女の子でしょうね」



 ガイアス、セルフィ、二人の答えのあと、ヴァイツァーは胸に拳を当て至極真面目な表情で、初美の方に向き直る。そして、



「勇者殿は、我らの姫です」


「――ひっ!? ……ヴァイツァー、そういうのすごく恥ずかしいんだけど」


「ほほーう! だが、言われて嫌ってわけじゃなさそうだなぁ、おっひめっさまぁっ!」


「だからガイアスまでっ! もうっ」



 面と向かって言われては面映ゆすぎる台詞を言われ、顔を溶け出した夕日のように真っ赤にさせる初美。だが、すぐにどこか気落ちしたように俯いた。



 ――そういうことを聞きたかったのではない。

 そんな風に不安そうに瞳を揺らす彼女の顔を、下から覗き込むように、セルフィが近寄って膝を突く。



「記憶がないことは、やはり不安ですか?」


「……当たり前でしょ。覚えているのは名前と剣の技だけなのよ? 不安にならないわけないじゃない」



 そう、連合にて呼び出された勇者、朽葉初美は、召喚された部屋でのこと……つまりは勇者として呼ばれたところまでしか過去の記憶を遡れなかった。つまり、記憶喪失に陥っており、自分がそれまでどこにいて、何者で、何をしてきたのかが、まるでわからないのである。



 ただわかっているのは、朽葉初美という自分の名前と、自分が扱う剣術のみ。

 そのため彼女には、不安で地に足がついていない感覚がいまでもあった。

 歩み寄ってきたガイアスが、初美の肩を気安げに叩く。



「オレたちがいるぜ。な?」


「それは、そうだけど……」


「勇者殿。記憶がないというのなら、これから作っていけばいいのです。私たちと共に」


「ヴァイツァー……」



 ヴァイツァーが優しげな笑みを浮かべて語りかけてくるが、それでも不安は拭えない。

 するとガイアスが、まるで他人の恥ずかしいところを吹聴するかのように口もとに両手を添え、



「おー、ヴァイツァーのクサいセリフが始まったぞー!」



 言い触らそうとしている彼の後ろで、ヴァイツァーが静かに剣を抜いていた。

 そんな勝利の嬉しさを中にある彼らを尻目に、初美は空を仰ぐ。



「…………」



 記憶は失われてしまった。だが時折、この世界に来る前のものだと思われる情景を夢で見る。見えるものはいつも同じ夢で、この世界にはないものが数多くあり、いつも同じ人物が現れる。目が覚めたときには全ておぼろげで曖昧なものに変わってしまうが、それが言い様もない不安を自身に煽るのだ。

 それは決して忘れてはいけない、とても大事なことなのだと言うように。

 そんな気がして、いつも自分の胸を埋火のように焦がすのだ。





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