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蜃気楼の男



 夜の帝都を駆けながら、ローグ・ザンダイクはふとリリアナと初めて会ったときのことを思い出していた。

 あの少女を見つけたのはそう、小さな村で起こったとある事件を鎮圧したときだ。

 当時、まだ情報部が発足する前のころ。まだ一介の軍人に過ぎなかったローグは、帝国北の集落で不気味な儀式を行うらしいことを聞きつけ、部下と共にその集落へと向かった。



 その儀式の内容が何なのかは定かではなかったが、儀式が終わったあとは不気味な生き物が周辺に現れ、多くの子供の死体が挙がるという。

 近くの村で調べたところ、それはその地方に古くから伝わる因習であった。邪神ゼカライアとは違う悪意に対し、数年に一度生まれる呪われた子供を生贄にするというものだ。

 件の集落に到着したのは、儀式が行われる直前だった。

 集落ではあちこちに血の魔法陣が描かれ、儀式に必要なのかその集落にいる全ての人間が、常に憎しみの言葉を吐いているという不気味な状況であり、そしてその言葉の全てが、ただ一人の人間へと向けられていた。



 その人間というのが、まだ幼かったリリアナだった。集落の人間の憎しみを一身に受け、子を慈しむはずの実の両親までもが、彼女のことを化け物のように扱っていた。

 儀式を執り行うという祠に、リリアナは押し込められ、小さくなって震えていた。ただ、その瞳だけが、獣のようにギラギラとしていたのを覚えている。



 儀式を止めようとすると、集落の人間たちが襲い掛かってきた。儀式を行わなければ、その悪意が、集落を襲うのだと言って。

 気付いたときには、集落の人間はみな正体をなくしていた。それが、リリアナの持つ闇の力の影響だったのか、得体の知れないものに対する集落の人間の狂気の末のものだったのかは分からない。

 ただ、そうあるべきではないとは強く思った。小さな子供を追い詰めて得る幸せがまかり通るのは幸せではないのだと。それは決して人の行って良いものではないのだと。

 集落の人間の暴走を鎮圧するとき、その中心となっていた祈祷師が、死の間際に残した言葉がある。




「――その娘は、呪いを持って生まれた子だ。いずれ全ての人間に害をなすであろう」




 いま思えば、その祈祷師の言葉が、リリアナを連れていった自分への呪いだったのかもしれない。この言葉をずっと頭の隅に残していたがために、自分は心のどこかで彼女を呪われた子供だと思っていたのだろう。

 そして、その呪いに打ち勝つことができなかった自分には、もうリリアナと一緒にいる資格はない。あの子にもう会うことができないのは未練だがそれでも、最後まであの子のことを信じたあの少年に託せば、きっとあの子は幸せに生きることができるはずだ。

 あの少年は言った。たとえ血のつながりがなくとも、あの子の父親であると決めたなら、最後まで父親であるべきだと。



 家族として信じ抜けという、彼の怒りだったのだろう。

 だが、自分には信じることが出来なかった。ただ起きたことばかりに囚われて、自分で助けた少女のことを、見捨ててしまったのだ。



「…………」



 ふと先ほどまでいた場所へ振り返ると、いつか聞いたリリアナの声が頭の中に響いてくる。




 ――大佐。大佐はどうしていつも、辛い仕事ばかりしなければならないのですか?




 思えば、リリアナはいつも自分のことを思いやっていたのかも知れない。




 ――大佐。私が軍人になれば、大佐の力に、なれるのですか?




 思えば、リリアナは自分のことを助けたい一心だったのかも知れない。




 ――大佐。どうして貴族たちは、大佐のことが、嫌いなのですか?




 そう、思えばリリアナが事あるごとに自身に訊ねていた言葉は、ずっと自身のことを案じてのものだったのだ。

 自身が、貴族から疎まれていると。それを耳にしたせいで、疎まれていた自分と重ねてしまったのだろう。リリアナは賢い子だ。だから、今度は自分が助けようという考えに、思い至ったのだろう。

 滑稽な話だ。いまさら、あの子の憂いを、思いやりを理解するとは。いやだからこそ、自分には彼女といる資格は、なかったのだと。



 いまはもう、あの子を責める心はない。きっとあの降り注ぐ星の光が見せた輝きに、全てが洗い流されてしまったのだろう。

 だが、まだ終わりではない。自分にはまだやるべきことがある。リリアナが平穏無事に生きていくには、貴族たちの存在は禍根を残すものになるだろう。あの少年がいるとしても、なにかしらの報復が待っているはずだ。そしてその始末は、リリアナを凶行に走らせた理由の一端である自分が、付けなければならない。


 そんな思いを胸に、静かに空を見上げた。



「思いがあっても、上手くはゆかぬものだな……」



 この世界は、どうして弱い者にばかり厳しくあるようできているのか。正しく生きようとする者にばかり痛みを与え、幸せを奪っていくのか。長く問い続けてきたが、未だ答えに至る気配はない。



「――七剣が一人、帝国軍情報部通信大佐、ローグ・ザンダイク殿とお見受けする」



 そんな声が聞こえ、視線を正面に戻すと、どこから現れたのか一人の男が目の前にいた。

 紫の長髪を持った、浮世ばなれした雰囲気の男。出で立ちは見たことのないもので、しかしどこか気品がある。細面だが、どの国の貴族の衣装にも通じない流れをもった衣服の下に、鍛えられた肉体があるように思える。

 ローグがその男に警戒の視線を突き刺していると、彼は何の脈絡もなく訊ねてくる。



「貴公は、この世界の在り様をどう思う?」



 にわかに投げられた問答は、一体何を意図してのものか。ローグは男に訊ね返す。



「どう、とは?」


「貴公もこの世界の在り様が、理不尽だと、そう思っているのではないか?」


「…………」



 心の中を見透かされた気がして、身体か一瞬強張った。だが、すぐに取り繕い、男の言葉を戯れ言だと受け流す。



「女神アルシュナの作った世界に、文句などあるはずもない」


「それは偽りだ」


「何故そう思う?」



 わけ知った顔で言う男に問うと、彼はやはり同じ表情のままに言う。



「そうであろう。それが偽りでなければ、娘を思い、叶わぬ願いを請い、毎日欠かすことなく女神に祈りを捧げに行った貴公自身の行動を、それこそ偽ることになる」


「知っているのか……」


 言い当てられたことに呆気にとられ、男の言葉を認めてしまう。そう、男の言う通りだ。身体が蝕まれていくリリアナの回復を女神に願い、毎朝必ず救世教会に足を運んでいた。いくら祈っても、結局その願いは通じることはなかったが。



「貴公のこの世界に対する思いは、僭越ながら理解しているつもりだ」



 男はそう言って、その鳶色の瞳を向けてくる。



「この女神の作った箱庭は、理不尽でできている。それは魔族が存在しているからではない。女神の存在自体が、理不尽の塊だからだ」



 女神を崇拝するのが善とされるこの世において、一切の憚りなく女神の存在を貶める男。他者に聞かれれば不審がられることは間違いないにもかかわらず、高らかにそう謳い上げることができるのは、どんな理屈があるからなのか。



「ザンダイク殿。貴公の力を、(われ)らに貸していただきたい」


「私の力を求めて、どうするというのだ」


「知れたこと。女神が理不尽を布くならば、女神の思惑を打破し、この世界の在り様を世界を変えるだけ」



 男の口から飛び出したのは、恐れ多くも女神をその頂から引きずり下ろすという企みの宣言だった。聞けば誰しもが面食らうもの。それはローグも同じであり、いつの間にか訊ねる声には、戸惑いが混じっていた。



「馬鹿な。女神に抗するというのか? そんなもの生半なことではできぬどころの話ではないぞ?」


「理解しているつもりだ。そして、その望みを叶えるために、貴公の助力を願いたい」



 ローグは男を見据える。目の前に立ち、女神を腐して、助力を求めてきた男。その在り様は巌のように硬質で、厚みのあるもののように思えた。

 この世界を変える。この世の理不尽を正す。詐欺師の虚言と思わせない何かがあった。

 いまの自分には、行く当ても、待つ者もない。やるべきことを終たあとのことも、考えてはいない。だがこの男が提示するものが、自身が嘆いたことを打ち破るものならば、乗ってみるのも悪くはないのかもしれない。



 男の求めに頷く用意をして、ローグはゆっくりと口を開く。



「ならば一つ、頼みがある」


「申されよ」


「私の娘のことだ。いまあの子には、まだ取り払えぬ脅威がある。その脅威を、なるべく早く取り除いてほしい。それができるのであれば、私の剣を貴公に預けよう」



 口にしたのは、そんな条件。無茶な要求をしているのはわかっているが、女神に一杯食わせてやるというのなら、この頼みも簡単なことだろう。いや、これが簡単にこなせなければ、大言もいいところ。

 試すような意味合いも込めたその求めに、しかし男は何の逡巡もなく頷いた。



「貴公の願い、承った。明日の朝までには、リリアナ・ザンダイクを疎む者はこの帝都からいなくなっているだろう」



 言い切った。その自信が一体何に裏打ちされたものかは知らないが――それは、朝になってみればわかることか。

 そう考えて、ふと、まだ訊かなければならないものがあることに気が付いた。



「すまないが、もう一つ」


「なんだろうか」


「私が剣を預ける人間の名を、聞いていない」



 その問いに、男はふっと口もとに笑みを浮かべる。喜悦の笑みか、それとも純粋な嬉しさなのか。その機微は杳としてはわからないが、男は静かに口を開く。



(われ)の名はゴットフリート。貴公も、そう呼んで頂きたい」



 男はそう言って、その身を翻したのだった。





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