戦いの準備、魔術法則
会議が終わったあと、フェルメニアは水明に声を掛けられ、現在は開かずの間として扱われている彼の研究部屋を訪れていた。
特に説明もなくただ来てくれとだけ言われたため、先ほどから眉間にしわが寄っているフェルメニア。特殊な術で閉じられた戸を開けると、呼び出した本人は部屋の奥で何やらごそごそと研究道具を整理していた。
「スイメイ殿。フェルメニア・スティングレイ、参りました」
「お、来たか。じゃあ適当なところに掛けてくれ」
顔を見せずに、手振りだけで指示をする水明。フェルメニアは彼の言う通りに、置いてあった椅子に腰かける。すると、物品の整理が終わったか、水明が近づいてきた。
「毎度毎度悪い」
「いいえ、構いません。それで、一体どうしたのですかスイメイ殿。私だけ呼んで?」
「ああ、これからあんたには別途で伝えておきたいことと、今夜の立ち回りについて話しておこうと思ってな」
「私だけに、ですか?」
フェルメニアの怪訝そうな訊ねに、水明は首肯する。先ほどの打ち合わせで、黒幕を倒しに行く組と、グラツィエラ、エリオット率いる帝国の部隊と相対し、足止めをする組とに分散させることになったのだが――
「俺はさっきも話した通り、リリアナと行かなきゃならないからな。あの危ない女とナンパ勇者の方はあんたに仕切ってもらうことになる」
「え、それって……」
思いもよらぬ言葉を聞いて素が出たか、いつもの調子と少し違う表情になるフェルメニア。彼女が思いついた予想を、口にする。
「そうだ。グラツィエラの対応は必然的に、あんたにしてもらおうかなと」
「わっ⁉ 私が⁉ 私がですかっ⁉」
「他にあの危ない女の相手ができるのはティアくらいだが、その手はあの調子じゃ使えないだろうからな。レフィールももう少しかかりそうだし、そうなるとやっぱり実力から言ってあんたしかいないんだよ」
「ででで、ですが⁉ 私ではグラツィエラ皇女殿下を相手にするのはいささかばかり力量が……」
「できないって?」
「当然です! 無茶です! 相手は帝国最強の魔法使いでなんですよ⁉」
フェルメニアは首を横に思い切り振って、ことの甚だしさを訴えた。
「だけどあんただってアステル最高の魔法使いとか言われてただろ?」
「帝国には魔導院が置かれているため、魔法学は大陸でも最高峰なのです!」
フェルメニアはいつになくたじろいでいる。彼女にとってグラツィエラは格上と言う認識なのか。
そんな彼女に、水明は少し呆れたように半眼を向ける。
「……この前スゲーかっこよく啖呵切って逃げただろ?」
「あ! あれは弾みというやつです! 二回目は売り切れです!」
彼女は勢いで水明に叫ぶと、すぐに「あうう……」と言って憂慮に潰され消沈した。
「不安が残るか」
「……はい」
「俺は大丈夫だと思うんだがな……。以前だったらさすがにヤバいが、いまは色々と魔術のも覚えているし、俺が言った通りに動いて、黎二たちに指示が出せれば問題なく対処できるはず……」
「ほ、本当ですか?」
「ああ」
水明はフェルメニアの訊ねに頷いて、説明を開始する。
「まあいい。当日の立ち回りについては後回しにしようか。まずこれからフェルメニアには、魔術概論において重要な法則の一つ、隠秘学的エントロピーについて勉強してもらうことになる」
「い、隠秘学的えんとろぴぃ……ですか? ……何かとてもすごそうな名前ですね」
魔術と聞いたフェルメニアは、先ほどの萎縮ぶりから一転して、かぶりつかんばかりに身を乗り出してきている。ついさっきまで重責に不安を感じていたのが嘘のようになったのは、彼女が神秘に興味が尽きない性分だからであろう。
「そうなんだが、その話をする前にまずおさらいとして、俺たちの世界にある魔術というものが何なのか、そしてそれらを行使するのに必要な動作が何なのかを、口頭で言って欲しい」
「わかりました。……スイメイ殿の世界の魔術は、いわば現象です。雷や嵐が気候の条件を満たせば巻き起こるように、要は魔術も魔術師が創り出した
「そうだな」
「そして魔術の行使、つまり魔術師が創り出した現象を発生させるのに必要なのは、術式の構築、必要魔力の注力、身振り手振り、魔法陣の作成、呪文詠唱、
最後まで自信を持って答えたフェルメニアに、水明は正解だと頷く。
雷を起こす魔術をあらかじめ作ったとして、その魔術を発生させるのには呪文の詠唱と魔法陣が必要だとしよう。ここで言う魔法陣が雷雲の発生で、呪文の詠唱が放電のトリガーと、動作が対応しているようなものなのだ。その中に、事象の操作や改ざんが含まれる。
水明が頷いた通り、フェルメニアの答えは正しい。だが、
「それ以外に必要なものがあるが、それは」
「はい。一つの魔術でそれらの行為を、決められた手順通り決められた時間内で行うことも必要になりますね」
「その通りだ。……うん、魔術の行使については問題ない」
そう満足そうに頷いた水明は、少しの間考え込むような動作を取る。
「あと……言及しておくとだ。その魔術を行使するという行為は、通常、常識からかけ離れたものと定義される」
「え? 魔術の行使が、常識とかけ離れたものなのですか?」
「ああ。まあ、この世界の人間には合点のいかないことだろうが、前提としてそういう風に覚えておいて欲しい」
「はぁ……」
水明の言及に、フェルメニアは眉をひそめたまま返事をする。水明たちの世界では、あまりに常識的なことだが、彼女が得心のいかないのも無理はないことだ。
この世界の人間はまだ知識の積み重ねが浅いため、物理法則と魔術の法則とをしっかりと分けられていないのだ。だから、向こうの世界では常識的な法則である『リンゴを手から放すと地面に落ちる』といったことと、詠唱すれば魔法が起こることも、彼女たちにとっては同じ括りにある常識なのだ。
そして、これから言うことは、それらをきっちり分けて考えなくてはならない。
「――さて、そろそろ本題の隠秘学的エントロピーについて話すことにしよう。ここではこれをエントロピーと略すが、これは一定の場の『神秘的な法則を確立させようとする要素』と『科学的な法則を確立させようとする要素』が交ざって、ごっちゃになった状態の尺度のことを指す。とまあ、ここは魔術概論におけるスタンダードな定義だな」
「は、はあ」
フェルメニアは、よくわからないといった風。だが、水明は説明を続ける。
「まず第一に、『科学的な法則を確立させようとする要素』について触れておこう。科学を知らないあんたに判りやすく言うとだ、これは『魔術で起こる現象』以外の現象を引き起こそうとしてくれる、目に見えない存在のことを言う」
「目に見えない存在、ですか」
「そうだな。概ねこの世界で言うエレメントを想像してくれればいいかもしれない。そしてもう一方の『神秘的な法則を確立させようとする要素』については、これは言葉の通りだな。さっき説明したものとは反対で、魔術を含む神秘的な現象を引き起こそうとしてくれる、目に見えないが存在のことだとされる」
「ああ! それでエレメントと! 要は魔術やそれ以外の事柄を発生させる手助けをしてくれるものなのですね?」
「ちょっと違うんだが……まあ大きく外れているわけでもないしいいか……」
水明の困ったような口ぶりに、フェルメニアは首を傾げる。だが水明は、そのまま、
「世界というのは、基本的に『科学的な法則を確立させようとする要素』で満たされていると考えられている。そのため、神秘的な現象が簡単に発生することはなく、その代わり……すごく極端な話をすると、物が地面に落ちたり、物と物をこすり合わせたりすれば熱くなったりといったことが簡単に起こるようになっている」
「そちらの要素で世界が満たされているのでしたら、その『神秘的な法則を確立させようとする要素』というのは一体どこにあるのですか?」
「それは一部の地域、要は
「なるほど」
「そして魔術を使うごとに、空間に『神秘的な法則を確立させようとする要素』が増え、当然一つの空間に二つの要素が存在することになる。そしてこの『神秘的な法則を確立させようとする要素』ってのは、もう一方の『科学的な法則を確立させようとする要素』のことが大嫌いで、生まれるとすぐもう一方の要素にケンカを仕掛けにいっちまうんだ」
「要素同士がケンカ……ですか?」
「想像しにくいなら、その二つの要素は目に見えない小人だと思ってくれればいい。それが乱戦を起こすんだ。これがさっき言ったごっちゃになった状態だな」
「小人……そう考えるとしっくりきますね。……ですが、その小人同士が争い出すと、どうなるのですか?」
「要素の小人同士がケンカをし始めるとだ、大雑把に言えば、魔術以外の現象がちゃんと起こらなくなる」
「物が落ちたりという現象が起きにくくなるというのですか?」
「起きにくくなるというよりは、他の結果が生じやすくなるといった方が正しい。概ねそれは失敗という形で現れるから……起きにくくなるでもいいんだが」
「では、物が落ちなかったり、あらぬ方向に飛んでいってしまうこともあり得るということですか?」
「ほんと大雑把に言えば、だな。実際はよっぽどのことがない限り者が落ちると言ったような単純な法則には影響は出なくて、もっと高度な物理法則の方から順に影響があるんだが……」
と、水明はそこで言い淀む。科学を理解していないフェルメニアに、高度な物理法則の説明をするのは手間であるし、いまここではあまり関係がない。
「なんとなくはわかりました。要約すれば、魔術を使うだけで、結果に乱れが生じやすくなるということですね?」
「そう。そしてそのケンカがデカければデカいほど、エントロピーが大きいってことだ。ま、ケンカの規模の指標だよ」
水明はフェルメニアの答えに首肯する。だが、何故か彼女はすぐに眉間にしわを作って、首を大きく傾げた。
「ですがそうなってしまうと、ずっと結果が乱れたままなのでは? 小人は争いをやめるのですか?」
「いや、そんなことはないんだ。隠秘学的エントロピーは不可逆なため、
水明はそこで一度句切って、また説明を開始する。
「魔術を使うと、要素と要素が交ざりあい、場のエントロピーが増大する。その増加量は、起こす結果が大きい魔術であるほど甚だしい。起こす結果が大きいと、『神秘的な法則を確立させようとする要素』を多く生み出してしまうからだ」
「結果が大きい魔術について補足をお願しても?」
「了解した。魔術で起こす結果が大きいか小さいかを決めるのは、魔術を使わないで同じような結果を求めたとき、どれほど起こしにくいものなのかで決まる。火を起こすことはそう難しくないことだが、大岩を粉々にするということは簡単にできない。そう言った違いだな」
「確かに、難しい魔術ほど手順が多いですしね」
「そう。それでエントロピーが増える。そして俺が使う現代魔術理論で編まれた魔術も、エントロピーを大きく増やしてしてしまう魔術に分類される」
「現代魔術理論が? 何故です? スイメイ殿は以前、現代魔術理論で編まれた魔術は他の体系の魔術よりも手順が少ない、とおっしゃっていましたが?」
「現代魔術理論で編まれた魔術は、他の魔術で同じ結果を求めるときよりも、早く行使でき、少ない手順で威力の向上も見込める。行使から発動までの時間が、他の魔術よりも少ない。時間が限られてるってことは、起こしにくさも増すだろう? 結果として、『求める結果』が大きくなるんだ」
「あ、なるほど」
と、納得するフェルメニアに、水明はいままでの話をまとめるように口にする。
「まあ細かく話したが、ここではさっきも言った通り、魔術を使うとエントロピーが増えるってことを覚えてくれればいい。でだ、今日の授業の本題はここからだ――」