<< 前へ次へ >>  更新
69/181

薄明、舞う




 お付きの騎士たちの努力の甲斐もあり、三人分の宿を確保できた黎二たち一行は、八鍵邸と帝都の宿とでそれぞれ人数を振り分ける形で、無理なく当分の宿泊場所を工面することができた。



 振り分けに関してはもちろん黎二、瑞樹、ティータニアが水明の家、騎士たちが帝都の宿ということになり、その夜は水明も黎二と久しぶりに男同士で話をし、女子たちは女子たちで何やら遅くまでガールズトークに熱中していたらしい。主に瑞樹がだが。


 そして翌日。



「私はアステルの空気に慣れ親しんでいますが、帝国も気持ちのいい風が吹きますね」


「そうだな」



 この日、水明はティータニアの申し出通り、彼女と二人八鍵邸を出て、帝都から少し西北へ行った辺りの、自然溢れる丘陵地へと足を伸ばしていた。



 見渡せば、なだらかな波を打つ緑の地平があり、時折爽やかな風が首筋を撫でる。ティータニアは小高い場所に立つと、髪を後ろに払って丘陵地の風を味わっているのか、目を閉じて静かに浸っている。出で立ちは、白で見たドレスではなく、動きやすそうな装束に身を包み、羽織った外套(マント)をたなびかせている。首に巻き付けるタイプのため彼女の口もとは見えず、この目を瞑った姿を初めて見た者ならば、彼女がお姫様とはまるで想像がつくまい。だが、絵になる場景だということには変わらないか。



 そんな印象を受けた水明だが、それも一瞬で吹き飛ぶ。ティータニアは急に大きく伸びをして、両腕を横に一杯に広げ、先ほどとはまた違うやり方で帝国の空気を満喫し始める。帝都の人いきれから解放されたからなのか、自分を繕うことを止めたからなのか、見ている方としてはこちらの方が快い。



 いまこの場所には、乗ってきた馬一頭を除けば水明とティータニア以外誰もいないからだろう。このことは黎二や瑞樹にも話してはおらず、まさかではあるが、お付きの騎士の同行さえない。ティータニアがルカに伝えた折、彼女が同行を申し出たそうだが、拒否したらしい。水明の方も、フェルメニアやレフィールにただ出かけるとだけ言い残して家を出た。



 ひとしきり丘陵地の空気を堪能したか、ティータニアは外套から口もとを出して振り向く。



「部屋のこと、ありがとうございます。私たちの分のベッドを確保するためにわざわざスイメイのベッドまで空けていただいて」


「いや、構わないさ。男は適当に広い場所があれば十分だからな」


「ふふ、そうですか。おかげで昨日の夜は楽しく過ごせました」



 口にした声音は晴れやかで、屈託ない。柔らかに微笑みかけてくるティータニアに、水明は「それは良かった」と言って肩を竦める。


 そして、こちらには心配事があると言うように、



「なあ、リリアナは窮屈そうにしてなかったか?」


「確かに、みんなで集まっている最中はどうしていいかわからないといった様子でしたが、レフィールが気にかけていましたので、それほど居心地が悪いようではありませんでしたよ。それに、ミズキもよく話しかけていましたし。あれならすぐに打ち解けると思います」


「そうか……」



 いまひと時、リリアナのことを慮る。

 一時的ではあるが、急に同居人が増え、彼女はびっくりしていたようだった。当然闇魔法のせいで人には慣れていない――要は激しい人見知りのため、わかっていたことだが、それゆえ昨日の夜、憂慮はあった。だが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。


 彼女のことは水明も気にかけているが、レフィールやフェルメニアに任せている部分が多い。女の子ということもあるし、レフィールの精霊の力(スピリット)による邪霊の排斥目的もある。心配はないが、連れてきた身としてはあれこれ気を遣うことも多い。



「レイジ様とミズキは今頃どうしているでしょうね?」


「レフィールに帝都を案内してもらうとか言ってたな。何も今日行かなくてもいいのに、苦戦するぞあれは」


「そうですね」



 ティータニアは笑っている。声を漏らさぬよう努める仕草から、上品さが垣間見える。



「――で、そろそろ大事な話ってのを聞きたいんだが? お供も付けないで二人だけっていうんだから、よっぽどなワケがあるんだろ?」


「そうですね。ここでならいいでしょう」



 笑い顔から一転、顔に厳しさを含ませるティータニアは、どこか見落としを探すように周囲を見回す。

 他人の目が気になっての言葉という感じではないが、それはともかく。向き直った彼女はどこか冷たさの宿った真剣な表情になっていた。



「スイメイ。あなたに頼み……いえ、違いますね。あなたにはこれから、なさって頂きたいことがあります」


「いきなりだな」


「唐突なのはわかっています」


「つまり、して欲しいことか」


「そうですね……欲しいというよりも、強制的にやってもらうと言った方が正しいでしょうか」



 ティータニアは静かな態度そのままに言い直す。随分と勿体ぶった……というよりは配慮に回った言い方だが、要は、



「別に遠慮しなくてもいい。命令って言えよ」


「では――スイメイ、いますぐ王国へ戻りなさい」



 ティータニアは告げる。確かに遠慮するなとは言ったが、こうも厳しい言葉を放たれるとは。それに、いますぐ王国に戻れとは



「……ホント突然だな」


「確かに、急なことです。ですが、私がそう言わざるを得ない理由は、簡単にわかることだと思いますが?」


「一応ティアの口から聞きたいな」


「ハドリアス公爵のことです」



 やはりそうだったか。なんとなく予想はついてはいたが、



「このままでいれば、あなたはレイジ様の足かせになる。ですから、すぐに王国に戻り、お父様のもとで大人しくしているのです。お父様があなたに様々な計らいをしているのなら、戻っても無下に扱われることもありませんし、事情をお話し、お父様の庇護下に入れば公爵も手を出しにくいでしょう」



 ハドリアスが仕掛けてくる。黎二がそれをいちいち気にすれば、当然今後の行動にも差し支えが出てくる。それは、彼が一度アステル領内に戻ったことから明白だろう。



「まあ、言う通りっちゃあ言う通りだわな」


「リリアナの件も鑑みれば、無茶なことではないと思いますが?」



 ティータニアはその正当性、合理性を示すが、水明は頭を振る。



「だけどそれじゃあ、俺が困る」


「何故です?」


「昨日黎二にもさらっと話したんだがな、俺は元の世界に戻るための手立てを探しているんだよ」



 目的を改めて彼女に告げ、水明は肩を竦める。



「それで、わかるだろ? ティアの言うことを聞くと、俺は元の世界に戻る手立てを探せなくなるんだ」


「そうですね。ですがそれは、いますぐにはということでしょう? そのうちレイジ様が魔王を倒します。そうすれば、ハドリアス公爵も手を出してはこなくなりますし、スイメイも思う存分元の世界に帰る手段を探せるというもの」


「じゃあ、つーことはだ。それまで俺に待てって言うのか? 黎二が魔王を倒してこの世界への脅威がなくなるまで? それは一年か? 二年か? もしかしたら五年後や十年後だってこともあり得るぞ? それじゃあ遅すぎる」


「スイメイ。あなたの事情はお察します。ですが、これはこの世界に確固とした平和をもたらすため必要なことなのです」


「この世界この世界。なんど聞かされたモンか。特に最近はそればっかりだよ」



 その訴えに、水明はため息と共に吐き捨てる。しかしティータニアは斟酌する余地はないと、一切の思慮もなく彼に答えを催促する。



「それで、お答えは?」


「――断る。そっちの勝手で呼ばれてこんな目に遭ってるんだ。俺が勝手をさせてもらえない道理はないな」


「先ほども言いましたが、あなたが勝手をすることでレイジ様にも迷惑が掛かるのですよ?」


「ハドリアスってヤツのことだな? そっちは上手くやるさ。黎二が無用に気にしだしたら、俺のことなんざ気にするなってティアの口から言っておいてくれよ」


「そう言ってお優しいレイジ様が聞くとでも?」


「俺はあいつのお節介まで考慮するつもりはねぇ」



 水明が厳しい口調で一蹴すると、ティータニアは悩ましそうなため息を吐いた。



「……このままでは平行線ですね」



「にしては、落ち着いてんな」


「なんとなくですが、こうなるだろうとは思っていましたから」


「なら、次の手の用意もあるんだろ? で、俺を動かす言葉はなんだ?」



 こちらの答えと議論の行方を予測していたのならば、言葉を引き出す用意があるはずだ。まさかここまで言っておいて無策で臨んだはずがない。

 水明が訊ねると、ティータニアは決然とした瞳を向けてくる。



「私の命令に快く従っていただけないのでしたら、力ずくで聞いていただきます」


「は? おいおい……」



 それは水明も予想外の言葉だった。てっきり、「こちらで探しておく」とか、「手勢に探させる」などの言葉が出てくると思っていたのだが、さにあらず。



「この先、スイメイが元の世界に戻る手立てを探すというのなら、レイジ様ほどではありませんが、困難が立ちはだかるでしょう。魔族や魔物然り、ハドリアス公爵然りです。なら、私ごときを倒せないようではこの先もとの世界に帰る手段を探すことなどできません。それは、道理でしょう?」


「確かにそうだが……」


「ですから、これからスイメイは私と戦って、私に力を証明するのです。無論、あなたが勝てば、あなたの行動を認めましょう」


「それで力づくか、乱暴だな」


「乱暴で結構です。どうします?」


「断る」



 水明が一言のもとに断じると、ティータニアは似合わぬ嘲笑を口元に作る。



「それでは臆病者とのそしりを受けますよ? それでもいいのですか?」


「ティアにか? 俺は別に何言われても構わないが……それで終わる話じゃないよな?」


「もちろんです」



 ティータニアの断言に、水明は顔をしかめて低く唸る。



「……で、なんだ? 力ずくってのは、魔法で決めるっていうのか?」


「いえ、これです」



 そう言うと、ティータニアは馬に括り付けた袋から一振りの剣を出した。



「は? 剣でだと? ティアお前そんなモン使えんのかよ?」


「多少なりと、心得は」


「俺が剣術使えるって黎二から聞いてるんだよな? 当たり前だが、俺の方が有利だぞ? それじゃあズルくならねぇか?」


「構いません。それで、ご返答は如何に?」



 問い詰めるように訊ねを重ねてくるティータニア。その腹積もりはなんなのか。口もとはいつの間にか外套に隠れて見えず、その冷たく硬質な表情に機微が現れることがないため、意図するところは読み取れない。剣を使えば、魔法使いであるティータニアは不利になるはずなのに。その算段は霧に紛れて見通せない。



 ……さてどうするか。勝負などしたくないが、そうはさせてくれないだろう。魔術を用いて、催眠暗示をかければ、切り抜けることはたやすいが――



 ――はい。これで私たち四人は友人ですね。



 ……いつか聞いたティータニアの言葉が、水明の頭の中に蘇る。彼女とは付き合いなどほとんどないし、かわした言葉もそう多くない。だが、あのとき彼女が口にしたあの言葉は、心の底から出てきたものに違いないのだ。それを思えば、やはり相手を惑わせる類の魔術に訴えるのは、どうしても気が引ける。



 ティータニアの視線に根負けした水明は、困ったようにため息を吐いた。



「……拒否したいところだが、その場合は斬りかかってきそうだな」


「おわかりなっているのでしたら、答えは一つでしょう」



 ティータニアはそう言うと、一転、声のトーンを落として、



「……私もスイメイにこのような仕打ちはしたくありません。しかし、私にもやるべきこと、その責任があるのです」



 他に手はないと懺悔するように俯いたのは、無視できない呵責があるからか。



「別にいいさ。この件については俺も勝手やってるんだ。なら、たとえそっちの勝手で呼ばれたのだとしても、ティアが勝手しちゃあいけない道理はない」


「変わったところが優しいのですね」


「変わったは余計だ」


「これがミズキの言う、『つんでれ』というやつですね」


「おいやめろマジで」



 不思議そうに目を丸くさせるティータニアに、苦い表情を作った水明は一転、真面目な調子を取り戻して、



「――最後に一つ訊く。それで後腐れはねぇんだな?」


「はい。女神アルシュナの御名に誓って。私が負けたら、今後スイメイの行動には一切口も手も出さないことを約束しましょう」


「わかった。それで、俺の剣は?」



 水明がそう言って手を出すと、ティータニアは手に持っていたその剣を放ってきた。

 自分のものは他に用意があるのか。水明は投じられた剣を拾う。勝算あってのことだろうが、こちらとて剣術は子供の時分から学んできた。いくらなんでも負けはすまい。

 すると、ティータニアはもう一つの包みから、二振りの長剣を取り出した。



「――あ?」


「これが私の得物です」



 そう言って二振りとも鞘から引き抜く。材質は黎二の持つものと違い、銀の素材。こんなところでお目にかかるのは意外だが、おそらくは腐食銀を扱ったものと思われる。二刀とも引き抜いたということは二刀流なのだろうが、剣の理に反して刀身は両方ともに長い。通常はどちらかが守りになるため、扱いやすいよう短いものを用意するのが常だが、どちらもその長さは揃えられている。否、魔術師の眼には、ほんのわずかな違いだが、左の方が長く映ったように見えた。



 そして、水明が怪訝な視線を向ける中、ティータニアが構えを取ったそのときだった。



「な――⁉」



 ティータニアがマントで口もとを隠し、剣を交差させた瞬間、水明の全身が総毛立った。



「――さすが、剣技を修めていると言うだけあって、構えれば力量はわかるのですね」



 こちらの同様の機微を見抜いたか。称賛めいた言葉がいまは悪魔の声のように耳に響く。負けはすまいと剣を拾った先ほどの、どれほど迂闊だったことか。

 獰猛な笑みが発する威圧という名の虚妄の風に、焦りを隠した笑みを作る。



「は――いまは構えられなきゃわからない自分の未熟さを呪ってやりたい気分だよ。なんだお姫様? アンタ魔法使いじゃなかったのかよ?」


「確かに魔法も使えますが、私の戦いの根幹をなすものはそれではありません。私は幼少のみぎりより、剣を振るって参りましたので」


「マジかよ……似合わねぇなおい」


「これで分かったでしょう? スイメイがズルイということはないのです。なぜなら私の方が、剣に秀でているのですから」


「……やれやれ俺は上手いことハメられたってわけか。したたかな王女様だよホント」


「褒め言葉として受け取っておきましょう」



 ティータニアはそう言うと、両方の剣をまるでバトンを回すように手の中で回転させる。ひゅんひゅんと風鳴りの音が辺りに生まれ、やがて先ほどのように彼女の前に交差される両の剣。そして、一際強烈な武威を解き放たれると共に、彼女を中心にしてさながら春疾風を思わせる強烈な力の波が周囲に吹き散らされた。



 武威が錯覚させる虚妄の風が通ったあとには、静かな緊張が周囲を締め上げる。やがて寂然と変わった丘陵地に響く、高らかな名乗り。




「――七剣が一人、薄明のティータニア・ルート・アステル。参ります」



 相対する水明の背は、武威に当てられ粟立ったまま。間合い一歩手前ギリギリの場所にいることに今頃気付き、口もとに虚勢の笑みを浮かべた。



「へ、堂に入りすぎてマジで怖ぇっての……」



 そう、嘯いた水明は遅ればせて構えを取る。

 総身を圧す武威は強く鋭く、魔族と戦うときのレフィールにも匹敵する。剣を交差させて構える目の前の少女。魔術師の眼で見ても、隙らしい隙はない。



 二刀流の構えで有名どころを挙げると、両方の太刀を大きく掲げ、相手を威圧する両上段の構え、攻防両面に適した十字の構えなどがある。ティータニアは身体の前に腕を伸ばし、両方の剣をバツの字に交差させた構えをとっているので十字の構えであり、そこから剣撃が繰り出されるのには間違いないだろうが、いまは身を大きく沈めており、下段も下段、最下段の体勢にある。さながら豹が如くか。ならば警戒するべきは、その速度と突撃力だろう。



 だが、あの長剣二刀。片方が短くないため扱いにくいはずである。通常なら素人剣法と揶揄されるべき部分だろうが――


 否、突撃力と速度共に、こちらの予想を上回った。頭の中に描いた初手を写す青図面は儚くも裏切られ、予測をはるかに超える速度で目前に到達される。


 そればかりか、振るわれた剣の軌道が曲線を描いた。



「ちょ――⁉」



 水明は慌てて身を引いて剣を防御に出す。

 振り抜かれた銀鈴の光芒が去っていくと同時に、水明は間合いの外まで飛び退いた。そして改めて自分の剣を見て、目を疑った。見れば、受けようと咄嗟に出した剣の刀身、その上半分がなくなっている。しかも切り口はあたかもプリンをスプーンですくい取ったかのように、滑らかな断面を残していた。



「おい⁉ ちょっと待てこりゃどういう技だ⁉」


「どうもなにもこういう技です。私の剣撃は他の剣士と違って邪道の剣。普通は真っ直ぐな太刀筋でなければ絶対に物を斬ることはできませんが、私の剣撃は剣閃が弧を描いていても斬れるのです」



 太刀風をひゅんと鳴らし、しれと言い放ったティータニアに、背中が改めて粟立った。

 通常、そんなことは物理的にできないことだが、確かに例外は存在する。向こうの世界でもいわゆる剣豪と呼ばれる『至った者』は至ったがゆえに、普通の剣の理が括っている範疇の外にある剣技を使うのだ。



 おそらくはお姫様と呼ばれるこの少女も、その場所にいる者に違いない。

 そして、水明がその思考に要したのは二秒にも満たなかっただろう。だが、そのわずかすぎる合間に、ティータニアは離した距離を詰めてきた。



「早えってのっ!」



 水明は文句を垂れながら、横飛びを敢行する。だが、常識内にある回避だったため、ティータニアの視線からは一瞬も逃れることができず、すぐに踏み込みと同時の横薙ぎが振るわれる。短くなった剣で受け流し受け流し間を繋ぐが、当然行き着く先は劣勢。どれほどあがいても、ジリ貧になる未来は回避できなかった。



 不意に緩やかに、ティータニアが右の剣を振りかぶる。上段からの打ち込みを悟り、ついいつもの調子でそれに反応してしまう水明。緩やかな軌道に合わせ、剣を上からはたき落すように打ち下ろした。



「その手は、甘いですね」



 刃が閃く前触れのような冷たい指摘。そう、先ほどの一手は目にも留まらぬ攻防の中に、突如、反応しやすい一撃を交ぜる妙手だった。見事にひっかけられた水明がしまったと、咄嗟にもう片方の剣の軌道に素早く合わせる。



 受け止めるのは間に合ったが、急に足が崩れた。



「なに――⁉」



 足を払われた。悟ったときにはもう遅い。水明は体勢を保つことができず、不様に地面に尻もちを突く。そして、目を刺したのは剣に反射した銀色の輝きだった。反応は出来たが、体勢が最悪だった。首筋に添えられる、銀の光。



「……健闘とさえいきませんでしたね。さあ、これで決まりです。スイメイ、あなたには負けを宣言していただきましょう」



 降ってきたのは、やはり冷たい言葉だった。研ぎ澄まされた武威が条件を飲めと容赦なく首に詰め寄ってくる。だが――



「……悪いがそういうわけにもいかないのさ」


「勝敗は決しましたよ?」



 ティータニアが改めて告げるが、しかし水明は首肯しない。



「何故です? 何故そこまで頑なに拘るのですか?」


「俺には、向こうの世界に戻って果たさなきゃならない約束(こと)がある。それに、こっちでもまだやらなきゃならないことがあるんでね」



 ティータニアを見上げたまま、口にする。そう、自分は帰らなければならないのだ。それに、レフィールやリリアナの問題もある。簡単に負けを認めるわけにはいかない。



「そうですか……なら残念ですが多少痛い目を見ていただきます」


「痛い目? 一体どうするってんだよ?」


「スイメイが怪我をすれば捜索の続行は不可能です。あとは白炎殿によしなにして頂ければよいこと」


「ホント乱暴だな……」


「謝罪はしません。これは私が被るべき私の業なのですから」



 ティータニアの瞳の輝きが冷たいものへと変じる。だがその瞳が変化したであろう時機である瞬き、その秒にも満たない時間の間に、水明は彼女の眼前から忽然と消え失せていた。



「な――⁉ どこに⁉」



 一瞬の気の緩みの間に消えた水明の姿を求め、左右を見回すティータニア。しかし彼の姿はどこにもなく、ただその声だけが響いてくる。



「見誤ったなお姫様。決着と決め付けるには、少しばかり早かったようだぜ?」


「どこです⁉」


「ここさ」



 先ほどよりも決意に満ち、より涼やかになった声が響く。それと同時にティータニアの周囲を、地面をめくるほど強烈な爆裂が数度巻き起こる。ティータニアは構えつつ飛び退くと、水明は先ほどまでいた場所の後ろにいた。彼女には見慣れぬだろう黒のスーツをまとって。どうして、指を鳴らし終わったあとのように右腕を伸ばして。



 驚愕にとらわれたティータニアの顔を見詰めながら、水明は小さく、諦めの息を吐く。



 ……魔術師でもない友達に魔術は使うことの後味の悪さは、いままで胸に留めて忘れないようにしてきたことだ。よほどのことがない限り、もう決して使うまいと決めた取り決めでもある。しかし、背負ったものは解決する義務があるのだ。こんなところで、足踏みなどしてはいられない。

 背広の裾を、ばさりと翻す。



「――いいだろう。俺も名乗ろうじゃないかお姫様。俺は結社が魔術の(ともがら)、魔術師、八鍵水明」



 刹那、雷鳴が如き轟音と共に、強大な魔力が辺りを呑み込んだ。



     ★



 ――いま思えば、この少年の行動は、不思議なことだらけだった。

 英傑召喚の儀の事故によって、勇者以外に呼び出されてしまった者の一人で、勇者であるレイジの言葉に反し、同行を拒否した男。自分だけ争いから離れようと、利己的で我がままな発言をし、ともすれば勝手な行動を何度も取っていた。普通ならば二人から責められてもおかしくないはずなのに、意外にもレイジやミズキからの信頼は厚いまま、一度も悪い話は聞かなかった。



 それはまだわかる。たとえ一度不義理をしても、彼らがスイメイのひととなりを良く知っているから、彼の行動を許せたのだろうと。

 だが、あれほど険悪だったはずのフェルメニアと知らぬうちに仲良くなっていたこと。一時は掴みかかるまでいった父アルマディヤウスの信用を得ていたこと。安全である城やメテールを出たこと。道中のハドリアスの仕掛けた策に嵌まるも、難を逃れたこと。異世界の、しかも異国という勝手のわからぬ土地で拠点を作っていたこと。追われる身となった帝国軍の少女を匿っていること。耳にした行動や伴った結果は全て不可解で、しかしその全てが、誰しもの信頼に繋がっていた。



 おそらくはその答えに自分を導く糸口の一つが、目の前で起こっていることなのだろう。



 緑の丘と青い空がどこまでも広がる爽気に満ちた帝国の丘陵地はいま、濃密な魔力の嵐の中に堕とされている。そして、それは未だかつて見たこともないような、途方もない力の具現だった。周囲に干渉する力は恐ろしいほど強く、世界が変わったとしか表現できない有様であり、爽やかだった風は全て、女の上げる悲鳴のような音を鳴らして、魔力によって整合性を失った気流同士としてぶつかり合っている。



 場の危うさを察知したか、遠間にある木の上でいささかの休息と羽を休めていた鳥たちは一斉に飛び立ち、虫や小動物も無防備に姿を見せては、なりふり構わず逃げていく。



 それを引き起こしたのが、目の前にいる少年スイメイ・ヤカギ。剣士や戦士のように武威は発しないが、代わりに底冷えするほどの戦慄と、破格の魔力を湛えている。いままで出会ったどの魔法使いの力も、いや、それら全てを掛け合わせても目の前のこれには遠く及ばないだろう。これが魔法を覚えたばかりなど、ありえない話だ。



「……昨日、魔法は白炎殿から教わったと伺いましたが、あれは嘘だったのですか?」



「いいや、嘘じゃないぜ? こっちの世界の術はちょくちょくフェルメニアに教えてもらっているからな。ただ、もともと魔術を使えるってことは言ってないだけだ」



「スイメイたちの世界には、魔法はないと聞きましたが?」



「それは黎二たちの知ってる範囲での話さ。科学の発達に埋もれて表に顔を出さないだけで、ちゃんと存在してる。こうやってな」



 そう言ってスイメイは、隠されている事柄なのだと淡々と白状する。

 だがしかし、自らを称するのが魔法使いではなく、魔術師とは一体――



「……魔術師? ――っ、まさかラジャスの言っていた黒衣の男とはっ⁉」


「そういや、あのデカブツが最後にそんなことのたまったってフェルメニアが言ってたな。――ああそうさ、連中は俺が全部ぶっ倒したのさ」


「ぜ、全部……一万はいたあの軍勢を、スイメイただ一人で」


「らしいな。気にする余裕なんかなかったから、あとで聞いて驚いたモンだが」



 目の前の男はそう嘯くと、「ククク……」と笑い出す。雑魚を蹴散らしたときの不敵な笑いではなく、まるで自分自身の迂闊さを嘲笑っているかような、そんな自嘲。



「……それほどの力があるのなら何故レイジ様との同行を拒否したのですか?」


「それはそっちにだって言えることだろ? それだけ強いんなら勇者なんていらないように思えるが?」


「いまのは質問の答えになっていません」



 ぴしゃりと断じると、スイメイは面白くなさそうに鼻を鳴らして、



「さっきも言ったろ? 俺は元の世界に戻りたいのさ。そしてその目的を達成するためには、この世界で魔王を倒すっつーのは正反対の目的だ。そうだろ? なら、別れて動くしかないじゃないか」


「レイジ様とは友人でしょう?」


「そうだな。だが、友達だからっていっても、やってやれることとやれないことがある。黎二に望みがあるように、俺にも希望(のぞみ)がある。守らなければならないものがある。今回は、ただ俺の望みと黎二の望みを乗せた両天秤が俺の方に傾いただけってことさ」


「それは」



 言いかけた折、注がれたのは鋼の切っ先のような鋭い眼差し。



「――それは道理が立たねえとか言うんじゃねぇぞ? 黎二はお前らから事情を聞いて、魔王を倒すことにした。内容の吟味についてはどうだったのかは知らねぇが、それは全てあいつが選び取ったことだ。あいつは俺の意見(ことば)を勘定にいれなかったし、それなら当然あいつも俺をその勘定には入れてねえはずだ。なら、俺が面倒見るのもお節介だろうよ」



 確かにそうだ。あのとき、レイジはスイメイの意見を聞かず、独断で魔王討伐を決めたのだ。どちらが先に不義理をしたかと言えばレイジだし、そんなことをした彼も、スイメイには無理に助力を求めなかった。



 ならば彼らの道が分かれたのは、確かに道理と言えるだろう。



 スイメイは上着の下襟を掴んで、佇まいを整える。履き心地を直さんと、綺麗な黒い靴の先を芝生にとんとんと打ち付けた。



「仕切り直しだ。ティアが剣技(ちからずく)でくるのなら、今度は俺も魔術(ちからずく)で行かせてもらう」



 その言葉が発せられた直後、魔力が爆発した。四周に対し強烈な突風が生まれ、空気がまるで見えない壁になって押し寄せてくる。



 ――来る。



 そんな予感が脳裏をかすめた瞬間に、気が付けば走り出していた。動きを阻害する風に抗い、斜めに抜けるように。狙いはスイメイの横合い。速度は全速。回り込んで狙いを定め切ったその刹那、両の剣を逆手に持ち替えて芝生を蹴る。中空で十字に交差させた剣を前にして、無防備に立つスイメイへと飛び込むと、鷹揚に包帯が巻かれた左手が突き出された。



「――Primum excipio!!」

(――第一城壁、局所展開!!)



 スイメイが呪文を唱えた瞬間、金色の魔法陣が左手の先の虚空に描かれた。

 次いで二つの剣の切っ先が魔法陣に衝突する。しかし、剣はまるで盾に当たったように阻まれ、擦れ合っているかのように火花を散らす。虚空に描かれた魔力光の陣は、防御の魔法なのか。何もないはずなのに、切っ先は一分一厘も動かない。



「くっ‼」



 ……飛びかかったせいもあり、マズいことに魔法陣に乗り上げる形になっている。この状態では体勢を変えることができず、このまま大地の力に引かれ切ってしまえば、着地時に隙が生まれるのは避けられない。

 体勢を整え直すことも可能だが、動き出した彼の右手がそれを許しはしないだろう。



「――Permutatio Coagulatio vis lamina!」

(――変質、凝固、成すは力!)



 唱えられたのは着地したのとほぼ同時だった。右手の試薬瓶から出た銀色の液体が剣に変わり、その変化を見越して振り抜かれた右手が、過たず剣を握り取った。魔法陣が消えたと同時に、真横から鋭い太刀風が襲ってくる。

 だが、不利を承知で剣撃に移行するとは思えない。果たしてその予想は当たりだった。



 ――パチン。



 スイメイの左の指が小気味良い音を鳴らすと、自分とスイメイとの間の地面が爆裂する。最初に地面を吹き飛ばしたのは、この技か。詠唱の存在しない、凶悪な魔法。間一髪後ろに飛び難を逃れたが、土煙が晴れたそこには――



「――Ad centum transcription.Augoeides maximum trigger!」

(――光輝術式最大稼働。爆装は一番から百番までを連続展開、絨毯爆撃!)



「――⁉」




 スイメイの声が、それに伴う自身の驚きが、次に用意していた行動の予定のなにもかもを吹き飛ばした。アウゴエイデス、マキシマムトリガー。宙に残るそんな言葉の強烈な余韻。スイメイの頭上の虚空に、待ち構えていたかのように魔法陣が敷き詰められてあった。煙が流れていく端から次々に、魔力を孕んだ円図形が顔を出す。


 見れば、スイメイの後ろにある青い背景が、魔法陣の輝きに塗りつぶされていた。そう形容するしかない。そんな戦慄に背筋がうそ寒くなるような光景に、言葉はおろか吐く息さえも絶えて果てた。


 圏外から逃れる、という選択肢はない。どこまでが射程圏内にあり、どれほどの速度で魔法が撃ち出されるのかが判然としないからだ。だから、大きな回避行動に移れない。そう、魔法陣は、敷き詰められているのだ。その総数はおそらく百。横を抜けるには、数秒では距離が遠すぎる。



 できることと言えば一つ。光が飛び込んでくる前触れのような煌めきと、魔力の気配から予測して、その場で回避行動を取るしかなかった。



 ……降り注ぐ魔力の輝きの雨の中、どれほどの舞踏を強制されたか。気が付けば、暴力的な音楽を奏でていた魔法はその音と共に止まっていた。



「――いやさすがの腕前だ。足さばきといった方が正しいかね。いまのを見切ってかわせるなんて、人間の技じゃあない。正直言ってなんで黎二を呼んだのかわからないくらいだ」



 うそぶく男の顔は素っ気なく、空々しい。全てかわし切ったことを褒めたつもりなのだろうが、その前後にあった致命的な隙を考えれば、まるで嬉しくも思えない。



 ――マズい。これまでの経験に基づいて築き上げられた戦闘勘が、警鐘を鳴らしてやまない。魔法の力量、そしてスイメイの扱う魔法でさえも、こちらの世界の魔法とは比べ物にならない。威力は言わずもがな、行使の速さ、汎用性に至るまで、全て上をいっている。

 そんなことを考えた自身の顔色を見たか、スイメイはお節介にも忠告してくる。



「メニアにも言ったが、俺たちの世界の魔術とこの世界の魔法では目標(めざすもの)が違うからな。一緒に考えない方がいいぜ?」



 魔術師と名乗った男は瞑目しながら、そう言い放った。

 やがて、双眸が開かれる。あらわになった、その灼熱した意志強き瞳に映るのは、彼の言う望みなのか。



 昨日話したとき、レフィールは助けてもらったと言っていた。リリアナも助けてもらったという話だった。フェルメニアはその在り方に憧れたと言っていた。では、この途方もない魔力と万象を従えた男が元の世界に戻らなければならぬ理由とは、彼を待ち受けるものとは、一体何なのか。



 ……改めて目の前の男を見る。いつも斜に構え、三枚目を演じ、冴えなかった風貌が、いまは才気走った顔立ちへと変わっていた。

 もし彼がこの雰囲気をまとい、あの場に現れていたならば、自分は彼が勇者だと信じて疑わなかっただろう。いまのスイメイには、そう思わせるほどの格があった。



「……私たちは、勇者になる前の人間と、すでに勇者だった人間を呼んでしまったということなのですね」



 そんな、聞こえるとも知れない焦り混じりの呟きが、耳に届いたか。不服そうに鼻を鳴らすスイメイ・ヤカギ。そんなものになったつもりはないと言うように、どこまでも不満顔を崩さない姿は、迷いなく信念を貫き通す者のようにも見えた。



「俺は俺だ。どこにでもいる、ただの魔術師でしかない」



 三回戦目を告げる号砲たる言葉は、やけにつまらなそうな響きに聞こえた気がした。


<< 前へ次へ >>目次  更新