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幸せな夢は確かにここに

本日も二話分の投稿なのでご注意を



 ローグから逃げ、狭く薄暗い路地を無我夢中でひた走る中、もう幾度転んだか。身体は泥にまみれ、すり傷だらけになり、着ていた服も粗末な襤褸(ぼろ)のようになってしまった。


 たどり着いたのは、闇に落ち込んだように暗澹(あんたん)とした、街の吹き溜まり。周りは背の高い建物の外壁に囲まれ、いまにも泣き出しそうな曇天に蓋をされた空からは、日の光など決して届かない。

 薄暗く、強い臭気に満たされた有様は、まるで帝都の汚濁(おだく)の全てが、ここに集まっているかのよう。逃げて逃げて、行き着くところなどこんな場所しかないのだ。ローグに見限られた自分には、もう戻るところなどどこにもない。誰にも見つからないよう、影の溜まった隅っこで、膝を抱えて震えているしかないのだ。



 ――そう、あの人に見捨てられれば、自分はこのまま朽ちていくしか道はない。

 そんな風に思うと、自然と涙が(あふ)れてくる。やり場のない思いを嘆く悲しみの叫びも、心締め付ける苦しみの嗚咽も、決して出ては来ないのに、ただ涙ばかりが目尻に溢れ、頬を伝って流れていく。いままでの生活は全てまやかしだったのだと、結局自分は一人孤独になるしかないのだと、無力にも思い知らされたようで。



 思えば、自分は物心ついたときから誰彼に疎まれてばかりだった。自分の顔を見る誰もが、生まれてきてはいけない子なのだと口を揃えて言っていた。

 どうして自分なのか、自分だけなのか。幾度そう思ったことだろう。ただ闇の力を持って生まれただけなのに、どうしてそれだけで人から忌み嫌われなければならないのかと。悪いことなど、するつもりなんてなかったのに。誰かを傷つけることなんて、本当はしたくなかったのに。それなのに誰だって初めから、そんな目で自分のことを見続けていた。



 不意に、先ほど見かけた家族連れを思い出す。帝都の街を歩きながら、みな幸せそうな顔をしていた。父も母も、そして少年も。それが当たり前のものだというように。

 父と母とその子と三人、家族の在り方は自分も彼らと変わりなかったはずなのに。どうしてあの笑顔を、女神は自分に分けてはくれなかったのか。わがままは言わない。ほんの少しだけ、ほんの少しだけでいいから、自分にも、父や母がいるあの温かい笑顔の輪を、分け与えてほしかった。



 少年は父親に、お菓子が食べたいとねだった。それに父親は困りながらも応じた。母親も口では注意したが、嫌そうな素振りは欠片も見せなかった。ただただ、その在り方が温かかった。その在り方が眩しかった。羨ましかった。



 自分はただの一度も、父や母にも、ローグにだって欲しいとねだったことなどないのに。どうして、あの少年にはそれが許されたのだろうか。苦労も、辛さも、悲しみも、まるで知らないのにもかかわらず。



「あ……」



 聞こえてきた足音に、声が漏れる。誰かが来た。こんな暗渠(あんきょ)の奥深くのような場所に。帝都の道に慣れぬ迷い人か、もしくは浮浪者か。街を巡回する憲兵か。それともローグなのか。

 振り向いた先、やがて、くぐもった光に照らされ、その風貌が明らかになる。

 そう、それは、見知った顔で――



「あなたたち、は……」


「まさかこんなとこにいるとはなぁ? 人間兵器。いーやぁ、犯罪者ぁ」


「彼に聞いた通りでしたね。いや、私たちは運が良い」



 耳に届いたのは、溢れる残虐性を隠そうともしない声音。現れたのは、ローグを良く思わない貴族に雇われ、絡んできた魔法使いたちだった。そう、あの粗野な口調の男と慇懃な口調の男。二人とも、見下す目に陰惨な光を宿している。ぎらぎらと、ぎらぎらと。



「何をしに、来たのですか?」


「決まってんだろ? んなことはよぉ……」


「君はいままで散々私たちのことを馬鹿にしてくれましたからね」


「だから、その落とし前は付けてもらわなきゃならねぇんだよ!」



 魔法使いたちが、近付いてくる。逃げた先の終着点に、これ以上の逃げ場所はなかった。立ち上がる間もなく慇懃な口調の男が魔法を唱える。風魔法で巻き上げられた辺りの物が、突風と共に飛んできた。



「うっ、ぐっ!」



 堪らず倒れ込んでしまう。そしてその痛みに悶える間もなく、次が襲い掛かってくる。

 呪文を唱えたのは、粗野な口調の男。乱暴な声音で紡がれた魔法は炎を生み出し、自身を取り囲むように陣をなした。



「あ、あ……あぐ……ぅ」



 一思いに殺すつもりはさらさらないと言うように、炎の熱で炙り、空気を奪い、じわじわと苦しめてくる。息ができない辛さにもがく姿は、さながら水から上げられた魚で、のたうつ姿は羽根をもがれた虫のよう。喉の中に飛び込んでくる熱い空気と、肌を焼く炎の熱。



 苦しみに喉を押さえ、地面を転がり、そしてどれほどの間、熱さと呼吸困難に喘いだか。気が付けば自身を苦しめていた炎の囲いは消え、代わりに魔法使いたちが自身のことを見下していた。



 降ってくる痛み。頭を、腕を、背中を、足を、男たちが踏みつけてくる。それはさながら、路上に打ち捨てられたゴミを扱うように。

 踏みつけの合間に見上げると、嗤う男たちの顔が目に映った。自分のことをいたぶるのが、心底楽しいというような顔。頭の中が、憎悪でいっぱいになった。



 そのときふと、誰かに言われた言葉が蘇る。悪意にとらわれるなと。憎しみに身を委ねてはいけないと。一度でも心を預けてしまえば、自分が自分でなくなると。



「おらおらどうしたよ? 前みたいに魔法は使わねぇのかよ⁉ あぁ⁉」


「どうやら魔力がもう底を突いたようですね。最年少の十二優傑も落ちぶれたものです」



 だが、こんな世界なら、自分を保っている必要はない。だってそうだ。自我に頑なに拘ったところで、自分の欲しいものは、決して手に入れることはできないのだから。



「何だよその目はよ! 化け物ってあだ名されるだけじゃなくて、実は正真正銘の化け物だったてかぁ⁉」



 粗野な口調の男に、蹴飛ばされた。身体は路地裏の床で跳ねて、壁にぶち当たって止まる。もう痛みはなかった。辛さも忘れてしまった。我が身を炙る憎悪の炎の熱だけが、いまの自身を苦しめる全てだった。



「お? 何だ? やる気か? そんなボロボロな状態で? っははははははは!」


「ここまで痛めつけられても立ち上がるとは……お前のような化け物は不様に這いつくばっていればいいのですよ」



 嘲笑う声はこの上なく耳障りだった。だから、どんな力を使ってでも、消し飛ばしてやりたかった。



「私は……」



 ……そうしたが最後、きっと自分はなくなってしまうだろう。だが、こんな辛いだけの世界ならば、消えてしまったところでなんの未練もない。闇にとらわれてしまえばいいのだ。そうすれば全て終わる。あの夜暴れ回ったおぞましい姿のように、壊して、失くしてしまえばいい。貴族も、目の前の魔法使いたちも、帝都の街も、住人も、あの幸せそうな家族も。なにもかにも。なくなってしまえば、きっと自分は一人ではなくなるのだから。



 だから、



「消えろ……」


「あ?」


「消えろ……消えろ……」


「何です? おかしくなってしまいましたか?」


「消えろ消えろ消えろ消えろきえろきえろきえろきえろきえろきえろ――」



 全て、なくなってしまえ。そう、どす黒い何かを呼び起こそうとした、そのときだった。



 かつ、かつ、かつ、かつ、と。不意に、耳慣れぬ音が聞こえてくる。硬質で、高音を宿した一定のそんな音は、足音なのか。魔法使いたちのいる場所からまだ先、建物の陰の奥から聞こえてくる。



 ――Buddhi brahma.Buddhi vidya.

 (――目覚めよ力。大いなる知識と共に)



「ぁ……」



 響いてきた声に誘われ、顔を上げると、伸び上った影が見えた。

 やがて、日陰になった場所が終わると、そこから一人の男が姿を現した。



 ――Asat nada Arupa-loka.

 (――あまねく声はいと高く天にあり)



 見慣れぬ黒衣をまとったその男は、呟くように何かを口ずさんでいる。その(そら)んじる姿はどこか寂しさと共にあって、まるで今際の際にいる者を迎えに来た死神のよう。



 ――Kalabingka mahamaya om karuma sam kri

 (――甘美なる響きを持ちて汝が原罪を解き放つ)



 男は止まることはなく、やはり、かつ、かつと足音を鳴らして、歩いてくる。



「……お前らも懲りないな。誰かをいたぶることが、そんなに楽しいことなのかよ?」



 呆れ果てたような男の声が、路地裏に響く。俯き加減で(よう)として知れないその表情には、一体どんな思いが隠れているのか。(さざなみ)の一つさえ立たぬ水面のように静かで、しかしやるせないものを嘆いているかのよう。

 振り向き、彼の姿を視界に捉えた粗野な口調の男が、目を剥く。



「テメェは……」


「あのとき私たちを邪魔した田舎者ですか……こんなところに何の用です?」



 慇懃な口調の男が訊ねると、粗野な口調の男が思い出したように口を開いた。



「あぁ! そういやテメェ昏睡事件の犯人を捜してるんだったよな?」


「そういえば、勇者と争っていると聞きましたね」



 粗野な口調の男が、顎をしゃくってくる。



「ほら、この化け物がその犯人だぜ?」


「君が捜している犯人というのは、彼女だったんですよ。帝国のために働いていると見せかけて、とんだ悪党です」



 嗤い声が聞こえてくる。それに、黒衣の男は、面白くもなさそうに鼻を鳴らして、



「悪党? 悪党はお前らの方だろうが?」


「んだと?」


「何を言っているのかよくわかりませんね。いまの言葉は、一体どういった意味で言ったのですか?」


「聞かなきゃわからないとは重症だな」


「何ぃ⁉」


「――耳まで悪いのか? 本当にお前らみたいな度を越した馬鹿は、どうしようもないな」



 冷徹に断じた彼に敵意を感じ取ったか、魔法使いたちが身構える。



「おい! それ以上近づいて来るんじゃねぇよ!」


「まさか……犯罪者の肩入れでもするつもりですか?」


「ああ、お前の言う、そのまさかだよ」



 その言葉に、慇懃な口調の男は(あざけ)りをあらわにして、肩を竦める。



「なら、仕損じましたね。先ほどの声は、呪文の詠唱のようにも聞こえましたが、さっさと魔法を紡いで後ろから撃てばよかったものを」


「今度は二人がかりだ。テメェもここでぶっ殺してやるよ」



 魔法使い二人が、黒衣の男に死刑宣告を()れる。しかし彼は、その宣告ではない他の言葉にこだわっているのか、まるで見当違いを指摘するように呟いた。



「仕損じた……か」



 俯きが、言い知れぬ怖気を駆り立てるものへと一転する。それと同時に、周囲がどこからともなく吹いた風によって、にわかにざわめき始めた。



「な……?」


「なんだぁ⁉」



 辺りの変化に戸惑う男たち。そんな彼らに聞かせるように、黒衣の男は口を開く。



「……俺たちが住まう大地より、はるか彼方にある天――極楽浄土には、迦陵頻伽(かりょうびんが)と呼ばれる人頭鳥身の生物がいるとされる。その声ざまの美しさは、妙声鳥とさえ謳われるほどこの上なく比類なきものとされ、隠秘学においては、人間が次の段階(ステージ)に進むための高次のエゴ(しんかようそ)を発散するときに耳にする、一種の啓示とされる」


「テメェ!」


「またわけのわからないことを……!」


「この魔術は、その空想上の生き物である迦陵頻伽の(いなな)きを地上に再現するものだ。通常、高次のエゴの発散は高位の魔術師にしか起きえないものであり、迦陵頻伽の嘶きを聞けるのもまた、高位の魔術師でしか成し得ない。そんなものを、もし未熟な魔術師が耳にしたとしたら――さて、どうなると思う?」



 訊ねる物言いとは裏腹に、挑発的な声音ではなかった。気が付けば黒衣の男――スイメイ・ヤカギの瞳は、燃え上がるような真紅に染まっていた。

 まるで許されざる敵を見据えているかのように、そこに灯っていたのは、強い憤りの意志。



 ――Samadhi kalpa devanagarai.

 (――汝よ聞け、方一由旬終わらぬ声を)



「く、くそ!」


「風よ! 汝が悠久なる力をもって、陣を――」



 紡がれ始めた声の前に、魔法使いたちは危うさが強さを増したことを感じ取り、動き出す。

 だが、もう遅い。



 ――Samadhi Kalpa nada.

 (――汝よ聞け、方一由旬尽きぬ響きを)



 舞い降りた光条が、巨大な緋色の魔法陣を足元に描き焼き付けていく。図形に留まらず文字記号までもが血のような発光まとい、その影響か石畳は黒い影に沈み、まるで仄暗い暗渠の底に足を踏み入れてしまったかのよう。その中で、赤い輝きだけが強く眩く、目に残った。


 男たちは動けないでいる。場の異様な雰囲気に、いま一瞬、思考さえ縛られていた。

 そして、



 ――Vahana amanasa samskara buddhi karanda trishna.

 (――汝よいまその身を三界にまつろわぬ理と昇華し、甘き声の渇きにその身を委ねよ)



 迦陵頻伽の甘美なる嘶きの音。その鍵言がスイメイ・ヤカギの口から解き放たれたと同時に、一際強い輝きが溢れ、目が眩んだ。


 それはさながら、天地上下の見境の付かない光の中に落とされたかのよう。気が付けば白光で満たされた広漠な視界の中に、巨大な飛鳥にも似た輝きの輪郭が一瞬、甘い声の嘶きと共に舞い上がっていったのが、目眩(めくるめ)(まにま)に見えたような気がした。



「あ……」



 目蓋の外から焼き付けてくる光の収まりを機に目を開けると、魔力のほとんどを奪われ、石畳に伏している魔法使いたちの姿があった。彼らが動く気配は一向にない。

 つまり、あの飛鳥の昇天と一緒に、何もかも持っていかれてしまったのか。



「……未熟な魔術師にとって早すぎる福音など毒でしかない。低位の魔術師は高次のエゴの働きにより、低次のエゴである我欲の暴走を抑え切れなくなり、欲望(のぞみ)を体現させる力である魔力、そしてその手段である術式の制御を手放してしまう。迦陵頻伽(クラヴィンカヤ)の甘き声。こいつはお前らみたいな対魔術師用の魔術だよ」



 スイメイ・ヤカギはそう言って、男たちを一瞥する。



「二度と自分たちが強い魔術師などと、錯覚(・・)しないことだな。阿呆(あほう)共め」


 そして、哀れみ混じりの呆れをこぼして、二人の魔術師を捨て置いたまま歩み寄ってくる。かつ、かつと石畳を鳴らして、ゆっくりと、鷹揚に。

 やがて、目の前で立ち止まった。



「……遅くなっちまったな」



 放たれた声には、謝罪と安堵が含まれていた。

 来て、くれたのか。怪我をした身体を、押してまで。その彼の姿に、申し訳なさと、失われていた温かさが心に湧き上がってくる。



 こぼれた吐息には、ああ……、と知らず万感がこもっていた。やはりこの人は、変わらずにあった。闇の力で傷つけても、彼の思いから背を向けて逃げても、こんな化け物のような素顔を見られても、助けに来てくれたのだ。嬉しかった。それが、とても嬉しかった。

 それなのに、どうして自分は、(とげ)を含んだ言葉を口にしてしまう。



「……私を、捕まえに来たのですか?」



 だが、そんな言葉にも、スイメイ・ヤカギは頭を振って、



「いいや」


「憲兵に、突き出すのでしょう? あなたは事件の犯人を、捕まえたいはず、です」


「そんなことはしないさ」


「では、私を殺しに、来たのですか?」



 スイメイ・ヤカギはまた、頭を振った。そんなことをするつもりはないと。



「ではあなたはここに何をしに、来たのですか」


「迎えに来たんだ」



 その言葉にまた、吐息が漏れる。予想した通りだったのだと。やはり、彼は自分を助けに来てくれたのだと。あの夜と、同じように。だが、



「こないで、ください」



 口について出たのは、そんな拒絶の言葉だった。

 ここでこの人の手を取っても、また同じことの繰り返しなのではないかと、心の中の自分が囁いたから。

 それでも、スイメイ・ヤカギは歩み寄ってくる。



「こないで……」



 まとわりついてくる幸せを振り払うように、首を横に振って、頭を抱えた。


 ――来て欲しくない。そう、そんなのは嘘だ。ただ、自分は変化が怖いのだ。こんなこの上ないことを受け入れれば、また、大きな絶望が襲い掛かってくるような気がしたから。込み上げてくる嬉しさよりも、自分の気持ちを裏切られるのが、怖かったのだ。

 だがそれでも、スイメイ・ヤカギは変わらぬままで、



「リリアナ。ここで小さくなっていれば、確かに楽になれる。それもきっと、お前の望んだことなんだろう。だけどな――」



 へたり込んだ自身の前に、スイメイ・ヤカギが立ち止まる。見上げると、そこにはいつか自分に向けてくれたような笑顔があった。

 ……ここにいる彼の姿は一時の夢ではない。優しくかけられた声は、今際の際に聞こえる死神が発した空音でもない。



「……リリアナ。ここには、お前が欲しかったものはどこにもない。だから」



 そう、だから私は、



「――だから帰ろう。お前の帰る場所も、戻る場所も、もう誰も奪えやしないから」



 幸せな夢が全て朽ちていくその前に、この人から差しのべられた手を、掴んだのだった。



     ★



 雨が降る。ぽつり、ぽつりと。空知らぬ雨に呼ばれたように、石畳に濡れ色の染みを作っていく。冴え返る心など保てるはずもないだろう。雨粒がしみていくように、己の心にもまた言いようのない寂しさが染み透ってくる。


 ――いつも思う。どうしてこの世界は弱者に厳しくできているのだろうかと。

 救われぬ誰かを助けてあげることが、すくい上げることが。否と、否と否定され続ける世界なのだろうかと。それを、是とする世界なのかと。



 悲しみの涙がもたらすものは、悲しみでしかないのに。やり場のない怒りがもたらすものは、消えることのない絶望だけなのに。

 だがそういった理不尽こそが、この世の理なのかもしれない。自分がやっていることは、その理を真っ向から否定することだ。合理のなさを、条理の不如意(ふにょい)を良しとせず、魔術を用いて自然の流れを変え、抗う。



 それが、摂理に反したこと、許されざることだというのはわかっている。それは父がたどった末路を考えれば自ずとわかることなのだから。

 自分も家族を失いはしたが、それもいままで疎まれ続けてきた彼女の比ではないだろう。それを救ってやりたいだのという思いは、ただただ恵まれた者の(おご)りでしかない。


 だけども、少しでも、ほんの少しだけでも、この悲しみは。せめて、この孤独の辛さだけは、取り払ってあげたかった。

 腕の中で泣く少女。いままで流せなかった涙を溢れさせ、上げることのできなかった悲しみを叫ぶ声を、張り裂けんばかりに天に向かって訴えている。まだ頑是ない面影のある彼女のどこに、不幸を受け入れなければならない謂れがあったのか。誰もが持っているものを与えられず、苦しんで、辛い思いばかりが高く、呪いのように堆く積み上げられた。



 それでも、優しさを胸の内に確かに残して、生きてきたのだと思う。そうでなければ、誰かのために悪事に走ることなどないのだから。

 そんな彼女を一体何が凶行に駆り立てたのかは、いまはまだわからない。だが、



「……泣けよ。泣きたいときは思いっきり泣けばいい。それが終わったら、美味いモンたらふく食って、眠っちまえ。そしたら、嫌なことなんて全部忘れられる」



 そう涙を流す(そら)に向かって静かにこぼし、ひしとすがり付く少女の頭を優しく撫でる。慈しむように。この一時だけでも、安らぎになればと。

 ……もしかすれば、自分がここに来たのは、随分と遅かったのかもしれない。もっと早く、それこそ、この世界に召喚されるもっと前に彼女のもとに来ることができたのなら、結果は違っていたのかもしれない。いずれにせよ、詮無きことに過ぎないが。

 だけど、それでも、



「まだ、間に合うさ。だって俺の魔術は、そのためにあるんだから……」



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