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影からの逃走



 帝都フィラス・フィリアは、もともと城砦都市として機能するよう造られているため、その構造は複雑である。地区ごとに整理され、区画という概念が存在し、一見整然とした都市を思わせるがその実、迷路のような路地と袋小路がいたるところにあるため、構造を把握していないと攻めるのは容易ではない。古代の罠、家のあるなしに関係なく造られた袋小路、古水道、危険な場所はいくつも残されたままである。


 厄介な造りだが、それは外部の人間だけでなく、内部の人間にとっても同じことだ。都市を囲む城壁は背が高く、出入り口は北と南に一か所ずつ。都市外への夜間の出入りは厳しく制限され、区画ごとに憲兵が常駐しており、見方を変えれば牢獄のようなものとさえ言える。



 そしてそれは、終わりのない逃走を余儀なくされた彼女にとっても、そう。

 ――黒のローブを目深にかぶり、帝都の住人たちの視線から忍び初めてから、いったいどれほどの時間が経ったか。容疑者の手配書が出回ったせいで、どこか落ち着かないフィラス・フィリアの街を、昼夜の境なく逃げ続けなければならないリリアナ。十分な休息も取れないまま、魔力の残り具合を気にしながら、予断のできない日々を過ごしていた。



 先述のように迷路のような路地であるため経路は慎重に選ばねばならず、不用意にわかりやすい大きな道に出ることも許されない。

 憲兵や一部の軍人が動き回っているだけでなく、住人までもみな彼女のことを話し、警戒しているのだ。

 通り沿いで耳を澄ませば「人間兵器が昏睡事件の犯人だった」「帝都の中を逃げ回っている」「街中で暴れるかもしれない」などと、そこかしこで聞こえてくる。特徴を知られている以上、ローブだけでは身を隠しきれなかった。



「…………」



 リリアナはこれまでのことを回顧しながら、雲の掛かった空を見上げる。ローグの失脚を狙う貴族たちを襲ったこと、スイメイ・ヤカギと戦ったこと、そしてあの夜、背の高い影の言葉に従ってしまったことだ。



 ……あれで、本当に良かったのか。捕まることの恐怖と、目的を成し切っていないことへの懸念から、スイメイ・ヤカギの優しさを振り切って逃げ出してしまった。

 確かに自分にはやらねばならない理由がある。大事な人のために、その脅威を取り除くのだ。だが、もしあの場で自身が犯した罪を認め、闇魔法を捨て去り、彼と友達になることができれば、もしかしたら真っ当な道に戻れたのかもと、そんな夢想が脳裏をよぎる。



 あの夜、闇魔法を使い続ける自身に、それでいいのかと問いかけ、その道から解き放とうとした人。言葉を交わしたことなど殊更多いわけでもないのに、ずっと拒絶してきた自分のために、闇魔法を受けて傷だらけになった。思えば、いままでそんな人などいなかったのではないか。闇の力が暴走したときも、その身を顧みず助けてくれて、安堵の笑顔をかけてくれた。



 自分に笑顔で接してくれたのは、彼が初めてだった。だから、あのとき差し伸べられた手を思い出すと、言い知れぬ焦りと口にするには能わない郷愁が、胸を締め付けてくる。

 あれが、最後だったのではないかと。自分に向けられる優しさは、あれっきりのものだったのではないかと。



「スイメイ・ヤカギ……」



 知らず、彼の名前を口にしていた。もしかすればそれは、彼の到来を願う、本心だったのかもしれない。

 この遅すぎた憧れが、後悔だということはわかっている。だが、願わくはもう一度――


 ――戦えリリアナ。そうすることによって、お前は必要とされるのだから。


「うぅ……うぅ……」



 いつか聞いた、背の高い影の言葉が、呵責となって心を責める。戦えと。そうしなければ、自分の居場所などどこにもないと。誰も必要としないと。自分の生は誰かを傷つけることでしか、意味を成せないものなのだと。強く。



 そしてその声を、自分は振り払うことが出来なかった。建物の石壁に寄りかかって(うずくま)ると、やがて揺れていた心がいつかの思いを取り戻す。先ほどまで胸の内を占拠していた憧れも切なさも、どこかに消えてしまっていた。



「私、は……大佐の、ために」



 戦わなければならない、と。あの影の言う通り。闇の力を持つ自分は、決して誰にも受け入れられないのだから。

 そう、自分は、生まれたときから誰彼に疎まれていた。住んでいた村の人間に限らず、父親や母親からも、いつもおぞましいものを見るような目を向けられていた。



 そしてそれは、帝都に来ても同じだった。街のどこを歩いても、自分に憎しみの視線が向けられるのは変わらなかった。

 なら彼も、スイメイ・ヤカギもきっとそうだろう。自分が油断した途端に、差し伸べたその手のひらを返すのだ。だって彼は、昏睡事件の犯人を捕まえるために、動いているのだ。

 だから、自分は戦わなければならない。ローグというたった一つの居場所を守るために。



 ……背の高い影は、未だ接触してくる様子はない。逃亡を促したあと、一度も連絡を寄越しては来なかった。切り捨てられたのだろうか。そんな懸念が脳裏をよぎるが、だからといって、もう立ち止まることはできなかった。



「――っ⁉」



 そんな風に考えを巡らす中、不意に肩が跳ねた。それは、人を恐れるがゆえ身についた警鐘だ。背後に、誰かの気配がある。見つかってはまずい。急いで物影に身を隠す。

 しばらくしても、自分に向けられる声や気配はなかった。見つからなかったか。恐る恐る顔を出して、いままでいた場所の様子を窺う。

 見ると、そこにいたのは憲兵や軍人ではなかった。



「お父さん、お母さん、早く行こうよ~!」



 目に映ったのは、(むつ)まじく歩く、一組の家族。父親と、母親と、その子供であるまだ幼い少年の三人。これからどこに向かうのか、歩くのを急かす少年に父親は「わかったわかった」と言って少年に追いついて手を繋ぎ、母親は「ちゃんと前を見て歩かないと危ないわよ」と、その姿に後ろから優しげな視線を送っている。



 表情に浮かぶのは一様に笑顔。危機孕む帝都の中にあっても、みな楽しそうに笑っていた。



 ――もうすぐ勇者様のパレードだ。今日はどこに行こう。大通りで大道芸をやっている。そんな声が聞こえてくる。



「ねえねえお父さん、ぼく、お菓子が食べたいよ」


「さっき家で食べたばかりじゃないか……」


「食べたいー」


「うーん……でもなぁ」


「こら、あまりわがままを言っちゃダメじゃないの」


「でも……」


「しょうがないな。通りに出たら何か探そうか」



 父親の言葉に、少年は「やったー!」と両手を目一杯伸ばして喜びを表す。それを見ていた母親は呆れた息を吐いたが、決して不快そう顔はしていなかった。



「…………ッツ!」



 気付けば、逃げ出していた。その在り方が、いまの自分とあまりにもかけ離れ過ぎていたから。そして、いたたまれなくなったから。

 後ろから追いかけてくる、楽しそうな家族の声が、心をかき乱す。



 一刻も早く、その場から離れたかった。さもなくばあって当たり前の家族の姿が、自分の中に巣食うどす黒い何かを、呼び起こしそうになるから。

 一心不乱に逃げて、気が付くと本通りに出ていた。手配されているにもかかわらず、あまりに不用意だったが、しかしこれで心の安寧は取り戻すことができた。



 安堵の息をほぅと吐き出す。もう、ここにはあの家族はいない。楽しそうな男の子の声も、それに心ほだされた父親の嬉しそうな声も、優しげに見守る母親の笑い声も。多くの足音と、多種多様な音の交ざり合う雑踏では聞こえてこない。

 やっと心に戻った安寧。しかしそれも、長くは続かなかった。



「――おい、そこの黒ローブ」


「ッ――⁉」



 厳しい声音に振り向くと、そこには数人の憲兵が立っていた。

 ……見つかった。心の中で呻いていると、隊長格らしい憲兵の一人が、前に歩み出る。



「都市内を警戒中だ。お前は手配中の者と背格好が似ている。フードを取れ」


「…………」


「どうした? 取らぬのか? ……まさかお前!」



 命令に従わないことで、憲兵たちがにじり寄ってくる、反射的に後ずさると、それを憲兵は逃亡と判断したか、他の憲兵に号令をかける。



「捕えろ‼」



 言葉に合わせて、魔法の呼び笛が鳴らされる。やがて、通りのあちこちから、それを耳にした警戒中の憲兵たちが、わらわらと湧いてきた。通りの真ん中で、あっという間に囲まれてしまう。にわかに起こった捕り物に雑踏は騒然となり、自分を中心にして憲兵の垣根、それを取り囲む市民の垣根が出来上がった。



 憲兵たちは魔法を警戒して踏み込んでくるのを躊躇っている。だがいくら待ってもこちらが魔法を行使しないのを見て、彼らは杖を構えて飛びかかってきた。

 それを、軽い足さばきでかわしていく。魔法は簡単には使えない。魔力も残り少なく、無駄遣いはできなかった。だが、このままでは、打つ手が限られていき、行動に貧することになる。そう考えると、焦りが身体を内側から熱していく。マズい。そんな言葉しか、頭の中に浮かばなくなってくる。



 そんな思考にとらわれていたせいか、憲兵が旋回させた杖の柄に当たってしまう。



「きゃっ!」



 跳ね飛ばされた拍子に、被っていたフードが外れた。隠されていた顔があらわになり、素顔を見た憲兵たちが息を呑んだ音が聞こえた。



「……やはりか」



 隊長格の男が唸ったのにあわせ、憲兵の囲みの隙間から見える後方でどよめきが起こる。聞こえてくるのは「おい、あれ手配中の……」「人間兵器だ……」「事件の犯人だぞ……」と、そんな畏怖のこもった声。周囲の憲兵も、まるで魔族や魔物を見るような目付きで、自分のことを見詰めている。



 見れば、あらゆる場所からそんな視線が注がれていた。



「うぅ……」



 ……どうしてみないつもそんな目で自分を見るのか。そんなおぞましいものを見るような目で。自分は何もしていないのに。好きでこんな力を持って生まれてきたわけではないのに。誰かの不幸など何も、望んでなどいないのに。



「ひ――⁉」



 そんな慄いた声と共に、再び周囲の人間の顔色が一変する。どうしたのか、一気に表情が恐れを増した。そして、自分の思考が彼らの表情を変えただろう理由に行き着く前に、その答えが周りから溢れてきた。



「なんだ、あの目は……」



「ば、化け物! 化け物の目だ!」



 にわかに上がった叫び声。気が付けば、右目を隠していた眼帯が地面に落ちていた。

 杖が当たった衝撃で、眼帯の紐が切れてしまったのだ。そのせいで、闇の力で変質したおぞましい瞳があらわになっていた。

 反射的に周囲を見回してしまう。

 気が付けば目に見える全ての人間が、驚きと恐怖をその目に宿していた。



 ――そう、それはいつか、自分を厄災と恐れ(うと)んだ村の人々が向けてきた目と同じ、沢山の恐怖の目。黒い感情のこもった目、目、目、目、目――



「あ、あああああああああああああああああああああああ!」



 胸の奥底、過去の記憶の深奥へと押し込んでいた心的外傷(トラウマ)が、(せき)をきって溢れてくる。二度と思い出したくなかったあの頃の記憶。自身を全ての人間の不幸の源だと決めつけた、あの悪意が。



「待て!」


「逃がすな!」



 自分は、走り出していた。後ろから鋭い声がすがり付いてくる。追いかけてくる無数の足音。人垣を抜けることができたのは、右目が衆目に晒されたことで、虚を突くことができたかららしい。そのまま路地に飛び込み、ひたすらに走る。



「はぁ、はぁ……」



 ……どこをどう逃げたか、自分でもわからない。どこかの路地で、走れなくなって、切れた息を整えている。どうやら、撒いたか。いや――



(まだ誰か、いる……)



 背後に気配があった。憲兵たちの内の誰かが追い付いてきたのか。しかし、その予想に反し、気配は限りなく薄かった。この巧みな絶気(ぜっき)、憲兵が持てる技術ではない。

 振り向くと、建物の陰から、黒い影が一つ伸びていた。そしてその影は建物の陰から這い出るように伸びていく。やがて影が伸び切ったあと、現れたのは、



「――ここにいたか、リリアナ」


「た、大佐……?」


 養父であり上司でもある、ローグ・ザンダイクであった。彼の姿を見て、胸が熱くなる。もしや、帰ってこない自分を探しに来てくれたのかと。

 だが、彼はどうして、腰に差していた剣を引き抜いた。



「リリアナ、覚悟はできているな?」


「え……?」



 困惑の声が口から漏れる。どういうことなのか、わけがわからなかった。



「リリアナ」


「待って、ください。覚悟、とは……どういう」



 ことなのか。迎えてくれるはずの自分に、一体何の覚悟が必要なのか。自分を助けに来てくれたのに、どうしてそんな張り詰めた表情をしているのか。一つ問うても、二つ問うても、返事は来ない。ただ、冷たく硬質な足音が、近づいてくるばかり。



「たい……さ……何を……」



「決まっているだろう。私は、私の果たすべき責任を取りにきたのだ。罪を犯したお前を、罰するために」



「そんな……大佐、そんな……」



 どうしてと、問いたかった。自分はローグを、目の前にいる人を守るために奔走し、悪事に加担してきたのに。それなのに、どうして自分は罰を受けなければならないのか。



「大佐! 私は、大佐のために!」



「言いわけは聞きたくない。お前も帝国の軍人であるならば、自分の責任を自覚しろ」



「い、いや……そんな……大佐……」



 後ずさる自分に、仮借(かしゃく)なく迫ってくる白刃。その切っ先が自分に落ちてくる。殺されてしまうのか。そう考えたとき身体が勝手に動いた。


 ――死にたくない。


 そんな生への執着が自分の身体を突き動かす。気付けば、ローグの剣をかわしていた。



「……リリアナ」



 ローグが、自分の名前を呟く。振り向いた表情は、影になって見えなかった。いや、見たくなかった。だって、彼の顔までもおぞましいものを見るような表情であったら、心がおかしくなってしまいそうだったから。

 ローグの鷹揚(おうよう)とした、緩慢(かんまん)な動きが目に映る。

 また、刃に映った光が閃いた。剣に先んじて目を刺す光のあと、切っ先が突き出された。


 ……このまま、殺されてしまうのか。大佐と呼び、父と慕う男に。この世で一番、大事な人に。



「いや……いやぁああああああああああああああ!」


「――ッ⁉」



 ローグの突きが、すぐ横の壁を抉った。そんな隙を隙とも考えられぬ思考のまま、自身は再び、走り出していた。


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