未知なる術と、その力
水明が相手の魔法を受けたことが意外だったか。背の低い影が闇の中に走り去ってすぐ、フェルメニアとレフィールが水明に駆け寄ってくる。
「スイメイ殿!」
「スイメイくん!」
「…………」
二人の視線を受けても、水明は左腕とそこにしぶとくまとわりついている黒い靄を見詰めたまま。
そんな彼に、フェルメニアが、
「スイメイ殿……ご無事ですか? 先ほどの闇魔法を受けたように見受けられましたが……」
「ああ、喰らったよ。城壁を透過してきやがった」
と言って、水明はフェルメニアに魔術行使を維持するために突き出した左手を見せる。手袋や袖口は何ら変哲もないが、城壁を透過した黒の靄、それがまとわりついた腕と手の部分が黒ずみ、水分を失ったようにしわができていた。
「こ、これは?」
「やられたよ。おそらくアストラル・アタックの中でもかなり強い威力を持った部類に入る攻撃らしい。アストラル・ボディだけじゃなく肉体にまで大幅な影響が出てやがる」
水明がそう言って顔を険しくすると、レフィールが背伸びをしつつ覗き込んでくる。
「大丈夫なのか?」
「まずいな。このままにしておくと腐って崩れてくる」
「なっ、なんだとっ⁉」
「お、大事ではありませんか! 早く回復魔法を! いえ、そもそも回復魔法で治り得る症状なのですかこれは……?」
水明の発したまるで他人事のような言葉に、レフィールとフェルメニアが驚き声を上げる。
「おいおい落ち着けって」
「何を言っているんだスイメイくん! 壊死とはただ事ではないぞ!」
「大丈夫だって。アストラル・ボディをやられてるから、治癒魔術を使ってもすぐ
には戻らないってだけだから」
「そうなのか?」
レフィールの確認の問いに水明が頷くと、フェルメニアは安堵の息を吐いた。しわができて、見た目は酷い。だが実際の状態は――酷くないとは言えないか。アストラル・ボディに痛手を受けている時点で、重症だと言えよう。ただの怪我ではないため、元通りの状態にするには相応の時間がいる。当分左手を使う作業はできないか。
水明がもう一度左腕に目を落としたその折、警邏の笛が鳴った。
「……憲兵ですね」
★
随分と遅ればせて駆けつけた憲兵たちに事情聴取を受け、少ししたあと。
到着した彼らに何故現場に居合わせただの問われると思い、多少の面倒臭さは覚悟していた水明たちであったが、彼らも水明たちの事情についてはそれとなく知っているらしく、聴取については思いのほかすんなりと済んで――現在。
必要そうなことをかいつまんで告げると、憲兵たちにはあとはもういいとばかりに放っておかれ、その上勝手に現場に入って何やら調べ物をしていても、まさかの見て見ぬふりをしてもらえるという状態だった。
聞き込みをしていたフェルメニアが聞いた話では、どうにも憲兵たちはエリオットのことを快く思っていないらしい。彼は勇者であり、帝国で起きた事件を解決しようとしてくれる協力者だが、それでも憲兵たちにとっては自分たちが捜査をしていたところに突然入ってきて、いつのまにやら自分たちの上役になり、手足のように使おうとする部外者、という面が強いとのこと。
しかも手柄を挙げれば名声は全てエリオットのものになる。救世教会の肝いりでの協力とは言え、やる気が出るはずもない。
ゆえに、彼らは何か別の要因でこの昏睡事件が解決してくれないかと密かに思っているらしい。そしてその要因の候補に、自分たちも含まれているとのことだ。当然協力することはできないが、黙認するという形をとっているのだろう。昼間っから酒臭い憲兵が、フェルメニアに賭けをしていることも仄めかしたとか。色々と上手くいかない状況が続き、投げやりになっているのだろうと思われるが、要因はそれだけではないとのこと。
ふと水明は憲兵たちに目を向ける。忙しなく動きまわっているが、調査は無論捗ってはいない。やはり彼らも闇魔法については理解が及んでいないようで、やがて到着した魔法使いギルドの顧問も、ただただ首を横に振るばかりだった。
そんな中、後方で現場を封鎖していた憲兵の集団がにわかに騒がしくなった。間もなく憲兵たちの人垣が割れて、そこから軍服をまとった男が通ってきた。
「――奇遇だな。勇者を相手取っている者がいるとは耳に挟んだが、まさか君だったとは」
その声は聞き覚えのある声。見た目はについてももちろんのこと同じく。現れたのは、先日図書館を探した折にリリアナを連れて行ったあの男であった。
「確か……先日お会いして以来ですか。帝国軍の方とお見受けしましたが、何故ここに?」
と水明が問うと、男は顔色一つ変えず瞑目して、
「それを君に答える必要はない。君がいまやることは一つ。私にここであったことを話すことだけだ――スイメイ・ヤカギ」
名前はリリアナから聞いたのか。そう命令にも近い口調で言葉を浴びせられた水明は、居住まいを正して問いかける。
「失礼、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「帝国軍通信大佐、ローグ・ザンダイクだ」
その名には聞き覚えがあったか。レフィールが驚きに眉をひそめて、名状しがたい呟きを放つ。
「七剣の、一人……」
★
魔力灯が発する目を焦がすような橙を背景に、多数の影か忙しなく踊っている。
昏睡事件の現場にて。居合わせた水明たちを帰してから、いまは調査に追われる憲兵たちを見詰めるローグの前に、軍服をまとった小さな影が現れる。
「――どこへ行っていた、リリアナ」
振り向きもせずかけられたローグの声に、リリアナは畏まった様子で、
「少し、夜の風に当たりに……」
「無用に外へ出るなと言い含めておいたはずだが?」
「申し訳、ありません……」
叱責のようなローグの言葉に、リリアナはさらに小さくなる。そんな風に錯覚してしまうほど、彼の前で縮み上がったリリアナに、ローグはまた顔色も変えずに言う。
「まあいい。状況については?」
「憲兵たちから、あらかたのことは聞いて、把握、しています」
「そうか。憲兵たちの様子はお前から見てどうだった?」
「相変わらず、です。犯人の標的が、評判の良くない貴族ということもあり、碌な調査もせずカードに明け暮れ、何やら勇者がどうだのと、いまは賭けまでしているらしく」
「評判の良くない……か」
らしくなく復唱をしたローグに、リリアナは頷く。
憲兵たちはいつも通り、この件に関してはやる気を出していない。無理もないことだ。帝国の上層部も救世教会も、盛んに手を出してくる割には憲兵のやる気を削ぐことしかやっていないのだから。
最近捜索に加わった勇者も、憲兵たちを効果的に扱うことはできず。後手後手に回るばかり。こちらにとっては勇者も貴族もなんら脅威にはなり得ない。
彼らはと――そう、何食わぬ顔で現場に戻ってきた彼女は思うが――
「私には都合がいいことかもしれんが、おかげで最近は周りがうるさくなるばかりだ」
「大佐……」
そのぼやきは、この事件の弊害が彼の頭を悩ませているためか。
そう。今日彼女が倒した貴族も、これまで彼女が倒した貴族たちも全て、平民からの成り上がり者であるローグを快く思っていない連中だ。快く思っていないだけならまだしも、彼を蹴落とすために工作まで仕掛けている始末に負えない者たちばかり。そんな連中が立て続けに事件に巻き込まれれば、余計な勘繰りをする者も出てくるだろう。
弊害はある。あるがしかし、それを恐れて奴らの排除を怠れば、いずれにせよローグは貴族共の嫉妬ややっかみに埋もれ、潰されてしまう。
だから、たとえ自分になにがあろうと大佐は。そう、自分を拾って育ててくれた養父だけは。と、そう決意を固くする一方、心の中でローグに謝罪していると、
「リリアナ」
「は、はい」
考えごとに没頭する中、突然名を呼ばれ、聞き損なった失態を露呈させてしまう。しかしローグはそのことに叱責を浴びせることはなく、まるで誰かの消えた方向を見詰めて、
「この前の、スイメイ・ヤカギのことだが」
「あの男が、なにか」
「あの男について情報が欲しい。接触して調べておけ」
養父であり上司である男が下した意外な命令に、リリアナは怪訝そうに訊ね返す。
「スイメイ・ヤカギに、ですか?」
「そうだ。どうやら事件の犯人に接触したらしい。捜索中に偶然見つけたと言っていたな」
「大佐は、その、彼が犯人だと?」
「そうは思わないが、気になってな」
「……承知いたしました、大佐」
そうローグに了承の旨を告げ、リリアナは憲兵たちの調査の中に入っていくローグに続くのだった。
★
昏睡事件の犯人との接触から数日後。あれからまんじりともしないまま腕の治療や闇魔法の考察に明け暮れていた水明はこの日、帝国が誇る大図書館の一角で、本の背表紙を睨みつけていた。
「闇魔法ねぇ……」
闇魔法。こちらの世界の魔法の専門家であるフェルメニアから聞くところによると、八属性の中でも特に扱いが難しく、特殊なものだという。フェルメニアも専門ではないゆえ、知っているのは受けた時の状態や効果などに止まり、アステルにも闇魔法を使う者がいたが、その人物もあまり他者とは関わり合いになりたがらない
ならばと蔵書量が破格である帝立大図書館に来ても、闇魔法について書かれた魔導書は少なく、あっても闇を操る魔法だとか、エレメントの中でも異端だとか、強い適性がないと扱えない、術者の身を滅ぼすなど、参考になるものはほとんどなかった。
フェルメニアやレフィール曰く、闇魔法の使い手は歴史を通して見ても少ないらしく、先述の術者の身を滅ぼすということから早死にしてしまい、自著なども残ってないからではないかとのこと。
「…………」
水明は左手に巻いた包帯を緩め、中身を見る。
絢爛なる金色要塞の城壁を透過して、自身の身体を害した魔術。じっとりとした、どこか生物的な湿り気を帯びたあの黒い靄は――闇。受けた手や腕には後遺症が残り、干からびたようにしわだらけになって、いまは黒ずんだ痣が浮き出ている。
これは果たして、何なのか。
火、水、風、雷、土、木、光、それらについては物質的に存在するものであるが、エレメントの闇に関してはエネルギーとも物質とも特定ができないものである。
普通、闇といえば、光を吸収してしまう物や、何もない空間のことだ。その空間に光が欠如しているだけであって、「闇」というなにかがあるわけではない。
確かにこの世には、ダークマター、ダークエネルギーなるものが存在すると考えられている。これらはいわゆる、物理法則が正しいことを証明するために存在しなければならない、理論上あるはずだとされる「みかけの物質」「みかけの数値」のことだ。
それを以て闇の力とするならば、作り出す術もある。数秘術で、虚数を用い、そのこの世には存在しえない数値の組み合わせで、存在しえないものを再現させればいいのだから。
だが、数学も発達していない世界で、近世代で発見されたその虚数という概念や「みかけの数値」などあるはずもないだろう。それに発生させられたとしても、闇魔法のような効果は決して望めるものではない。
もう一方の絶対の虚無――無明などは再現できるわけがないし、それにあの闇魔法にはアストラル・ボディに直接影響がある攻撃でもあった。ならば通常の考え方で割り出せるものではない。
術式に干渉する能力。光を遮る力。精神体に直接的にダメージを与えるアストラル・アタック。その様々な特性を併せ持つ単一の力など、果たしてこの世に存在するのだろうか。
そんなことを考える最中、自然と水明の口から笑いが漏れる。
「ふ、ふふふふふ……」
そう、これである。神秘を追い求める途中で不意に壁にぶち当たるこの時だ。まさに未知を追い求めていると感じることができる。これがあるからこそ、自分が不可能領域に手を伸ばす者、神秘学者だと実感できると。そして、再確認する。やはり自分は追い求め続けなければならないのだと。この闇魔法についても、そう。
この世界の文明レベルは、向こうの世界に比べて低い。ならば、理論や法則の常識も、そのレベルに合わせ戻す必要がある。熱素や燃素があった時代。いや、それよりもはるかに昔。その上で、なにかあるか、と。
通常、アストラル・アタックといえば
そう、呪術だ。だが、この世界の魔法は全てエレメントを利用しているという前提がある。それを踏まえると、例外を除いて呪術の使用は考えられない。
(だが、あれは、あの時左手から昇ってきたのは確かに怨嗟だったはずだ)
――そうだ。あの時思わず口に出していたが、感じたはずだ。あの神経を冒すようなおぞましい感覚が何なのかを。あの力は確かに憎悪や怨嗟と言った負の力。むき出しのまま人が扱ってけないものだ。あの自分を省みない術に怒りを覚えただろう。あんな小さい身体、幼いはずなのに。そんなものを使っていることが。
ふと頭の中にリリアナの姿がよぎる。犯人も同じくらい幼かったらどうだろうか。ないのならば、魔術師としてあるべき道に正したほうがよいのではないか――
(頭の中が混乱してるな。整理しないと)
思考が理路整然とまとまっていない。しばしばあるように、覚えたての関連性の薄い事柄同士が、些細な共通点で勝手やたらに繋がって、さも真実のように変わり頭の中に鎮座してしまう。いまのもきっとそんな前触れ。予知めいた予感など自分には降ってくるはずもない。だからリリアナがあの影なんてことはないし、闇魔法の使い手でもない。間違った魔導の道を歩んでいることも、ない。
「……ス……メイ……の!」
だからよく考えろ。いまは闇魔法の話だ。あれは確かに負の方向にある力だった。ならば、エレメントを利用するとは何なのか。いや、そもそもこの闇魔法と言うのは、エレメントを用いた魔法なのか。もしやすれば、その前提が最初から違うのではないか。となれば、それを操る術は、神秘の歴史を遡った先に――
「……スイメイ殿!」
「――⁉ あ、ああ、フェルメニアか」
耳元で出された大声に、考え事で俯かせていた頭を跳ね上げ、まるで飛び起きたが如く反応してしまう。声の主は、フェルメニアだった。
声を掛けてきた彼女は、少し呆れたように訊ねてくる。
「フェルメニアか、ではありません。一体どうなされたのですか?」
「いや、ちょっと考えごとをな」
答えると、「……お邪魔でしたか」と詫びを入れようとするが、それを手をひらひらと振って遮り、調べ物のため陣取っていた机の一角に彼女を促す。
そして、魔導書を読むために持ってきた魔術品をあらかた整理しながら、水明も訊ねた。彼女には、引き続き聞き込みの方を頼んでいたのだが。
「どうだった?」
「はい、私の方はあまりふるいませんでした」
「そうか。やっぱり協力はしてくれないか」
「帝都の住人には、敬虔な信者たちから情報が伝わっているらしく、そこからそれとなく話が流れてきているのかと」
話すフェルメニアの顔は渋い顔。当初考えていた通り、聞き込みで成果を挙げるのは難しいか。やはり、協力者たちに見張っていてもらうのが一番有用だろう。
「ただ憲兵たちは比較的協力的でした」
「なんでだ?」
「どうも憲兵たちにはエリオット殿を快く思っていない節がありまして」
「ほう?」
「勇者殿と勝負をし始める少し前から、勇者殿が犯人の捜索に加わっていたことはスイメイ殿もご存じのことでしょうが……勇者殿が捜索に乗り出すことになった折、憲兵たちも彼に協力することになったらしいのですが、いざその時になると勇者殿は背後にある救世教会と勇者の名目で、憲兵たちから情報を全て提供させ、彼らを使って捜索しているらしいのです」
確かに、勇者の名前と教会という後ろ盾を使うのは有用な手だろう。とかく使われる方の感情の悪化は否めないだろうが。
「まあ、話を聞いた憲兵はやさぐれて酒を飲んでいましたし、悪意がある言い分が多かったゆえ、エリオット殿は普通にことを運んでいるにすぎないのでしょうが」
勇者エリオット。話をしたのは宵闇亭の時だけだが、どうやら思った以上に生真面目な性格とのことだ。今回の弊害も、信者たちが担いでいるせいで地道な捜索には加われず、かといって本人もその弊害をきちんと把握していないからなのだろう。
「じゃあなにか、憲兵たちはその腹いせに俺たちを使うと?」
「どうももう賭けまでしている始末でして」
「随分やる気ねーのな。自国民が被害に遭ってるっていうのに」
フェルメニアの吐いたため息に釣られ、水明も自分のこめかみを人差し指でぐりぐりと押し込む。すると、フェルメニアは憲兵たちの無気力さにはまだ理由があるというのか、
「それについても少しあるのですが、それは裏が取れた時にお話しします」
「わかった。あと、俺たちが駆けつけた時にいた貴族はどうなった」
「いまは自宅で療養されているようですが、意識は他の被害者と同様、まだ戻ってはいないとのこと」
背の低い影の魔術を受けたらしい男は、憲兵にすぐに連れて行かれ、水明も状態については遠間から見ただけである。調べ物が済んだら、そちらも見に行かなければならないか。
「そうか。引き続きよろしく頼む」
★
フェルメニアの報告を聞いてから一休みと、二人並んで図書館の椅子に腰を落ち着けると、水明は何気ないことがふと気になった。
「そういや思ったんだが、俺たちの会話って問題なく通じたり、本も読めたりするのはどうしてなんだ?」
ここ最近、会話や文にかかわる気づきが多い。エリオットとの会話の齟齬や、言語の違う図書館の本が問題なく読めることだが――
「英傑召喚の加護があるからですね。確か前にも似たような話をした覚えがありましたが」
「そこまで気にしてなかったことに気付いてな。細かいことは聞いてなかったけど、結局コレ、言葉が通じるのはどうしてなんだ?」
「英傑召喚の儀で呼び出された者には、言語が変換される術式が自動的に掛かりますが、これについては召喚者の知識に準拠するものになるようなのです」
「ほう?」
「スイメイ殿たちの場合、私の知識ですが……スイメイ殿の世界にあるもので、私の知っている概念と照らし合わせて一致するものがあれば、言語が変換されますし、元々スイメイ殿の世界にないものについてはこちらの言葉がそのままスイメイ殿の発音に合わせます。無論私の知らないものも、そちらの発音に合わせて理解されることになりますが」
ということは存在する概念、ない概念で変換に限界が出てくるということか。確か以前フェルメニアと戦った時、口にした「結界魔術」という言葉は、彼女には理解できなかったものだ。それも変換できる限界なのだろうし、闇魔法についてはあちらの世界にもない概念だが、単にこちらの世界でも闇と魔法という言葉をくっ付けたものだからそう変換されるのだろう。
そんな風に考えを馳せていると、フェルメニアは何が誇らしいのか自慢げにその豊かな胸を張る。
「ふふふ、つまり勇者殿やスイメイ殿の会話や読み書きを助けているのは、私の知識ということになりますね」
そう言う彼女の横で、「うまくできてるんだなー」と感嘆の吐息を漏らす水明。そんな彼に、フェルメニアはいままで聞きそびれていた話題を引っ張り出す。
「そういえばスイメイ殿、結局のところ調べ物はいかがだったのですか?」
「ダメだ。参考になりそうなものは全っ然ねーんだこれが」
と冗談めかしてお手上げ状態を作ると、フェルメニアは残念そうな表情をする。 自分とフェルメニアとの受け取り方の度合いに差があったことに気付いた水明は、すぐに冗談だとわかるように一転して真面目な声で言う。
「だが対策についてはいま考え中だ」
「対策ですか?」
「それもだが、あれが何なのかってのもな」
「闇魔法については私たちにとっても未知の部分が多いものですが……スイメイ殿の世界の知識のみで解析できるのですか?」
「できないことはないと思ってるさ。この世にある全ての事柄ってのは、解き明かせないはずがないからな。ま、一応目星はつけているよ」
と少し楽観さを匂わせた口調で、これまで得た情報から、これではないか、というものはあった。あとは実地でもう一度観察し、見極めるしかない。するとフェルメニアが、わずかに首を傾げつつ、言う。
「それとは別に気になっていることがありまして」
「なんだ?」
「あの闇魔法使いの唱えた呪文の最後に付け加えられた言葉です。あれは私も聞いたことがないものなのです。ええと……」
頭の中の引き出しから言葉を出せずに顔をしかめるフェルメニア。そんな彼女の代わりに、水明が言う。
「オルゴ、ルキュラ、ラグア、セクント、ラビエラル、ベイバロン……だな」
「あ、そうです。あのような言葉、私も聞き覚えがありません。あれは一体……」
尻すぼみな言葉を口にして、フェルメニアが思案顔を増して険しくさせていると、背後から声が掛かる。
「失礼。よろしいでしょうか?」
その声に二人が振り向くと、図書館の職員の制服を身にまとった、色の白い一人の男性が立っていた。
彼は水明が初めて図書館に来た時に知り合った顔見知りであった。
「司書さんか。今日も色々と調べ物に使わせてもらってます」
「ヤカギ君……でしたね。今日も熱心ですね」
そう勤勉さを褒めるように、にこやかに対応する司書に、水明は「まあ」と微妙そうな笑顔を見せる。
すると、彼のことを知らないフェルメニアが訊ねてくる。
「森の人、ですか。スイメイ殿この方は?」
森の人、とはつまりエルフのことを指しているのか。以前司書からは自分がエルフという紹介を受けたため、おそらく別称だろう。
「この人は司書をやってるローミオンさんだ。この前ここに来た時、図書館の中のことを説明をしてもらってね」
「そうなのですか。珍しいですね。森の人はあまり人間とは関わり合いになりたがらない者が多いと聞いていますが」
ローミオンの方を向いてもの珍しそうに眉をひそめるフェルメニア。彼女の言葉に、図書館司書の彼は苦笑を見せる。
「変わり者とはよく言われますよ。生まれた森から出て生活していますからね」
などと自嘲気味に言うあたり、こちらの世界のエルフの在り方は向こうの世界によくあるエルフの話と似て、彼らも森に住んで、閉鎖的な暮らしをしているのだろう。ま、それについてはさておき、
「それはそうと、なにか?」
「いえ、近くを通り掛かったら、闇魔法などの話をしていたものですから気になりまして」
興味が惹かれたというローミオンに、フェルメニアが意外そうに目を開き、
「ご存じなので?」
「ええ、まあ僕もそこそこの時間を過ごしていますから、多少なりとは」
★
意外なところで闇魔法についての話が聞けることになり、ローミオンを加えて机を囲むこととなった。席に就くと、すぐにローミオンが切り出す。
「闇魔法。一口に言えば、火、水、風、土、雷、木、光、闇の八属性の中でも強力な魔法です。いえ、凶悪な魔法……と言った方が正しいかもしれませんが。それでお二方は何故闇魔法をお調べに?」
「ちょっと、こいつがね」
そう指し示すように言った水明は、左手に巻かれた包帯を取って見せる。するとそれを見たローミオンが、表情を驚きに変えた。
「これは……それで闇魔法を調べていたのですか……」
わずかにずり下がった眼鏡の位置を指で戻し、険しく唸るローミオンに、今度はフェルメニアが訊ねる。
「見て分かるということは、症状のこともご存じなので?」
「この図書館に来る前は魔法医をしていたこともありまして、闇魔法を受けた方の治療も以前に引き受けたことがあるのです。ヤカギ君、少し見せていただいても?」
特に断る理由はないと、水明は頷いて包帯を取った左手を差し出す。ローミオンは彼の左手をしばらくの間観察していたが、やがて感嘆とした表情で「ほう」と息を吐いた。
「……状態が安定していますね。普通ここまで強い闇の力の侵食を受ければ、状態が身体の中心にまで進行するというのに……ヤカギ君はこれをご自分で?」
「まあ、自分の知っている治癒術を応用しただけですが」
「いえ素晴らしい処置の方法です。ここまで見事な施術は私も見たことがない」
そうローミオンは言うと、今度は表情を厳しいものに一変させて訊ねてくる。
「どこで闇魔法を受けたのです?」
「いま世間を騒がせている事件の犯人が使ってましてね」
「――まさか襲われたのですか⁉」
そう驚きと共に訊ねてきたローミオンに、水明たちはかいつまんで事情を話す。女神のお告げが発端でエリオットと競うことになったのと、数日前に犯人と接触し、戦ったこと。
それを静かに聞いていたローミオンが、険しい顔を作る。
「……そうですか、そんなことが……確かに勇者様と勝負をなさっている方がいるとは噂で聞き及んでいましたが、それがあなた方とは」
と、水明たちが置かれた状況に気を揉んでいるような息を吐いてすぐ、ローミオンは姿勢を正す。そして彼は真摯な視線を向けながら、
「こう言ってはなんですが――おやめなさい」
「やめろとは、犯人を捜すことを、ですか?」
「ええ。私のような部外者が口を出すべきことではないのでしょうが、犯人が闇魔法の使い手では相手があまりにも悪すぎます。下手に闇魔法を受ければ死病にかかる可能性はもちろんのこと、受けた衝撃で命を落とすこともありえます」
「それでも、俺には仲間が懸かっていますので」
「ですが、命に代えられることではないでしょう。勇者様に付いて行くことは確かに危険でしょうが……」
そう言ってからローミオンは、少し区切って。、
「それに先ほど、ヤカギ君はベイバロンという言葉も仰っていたでしょう?」
ローミオンの訊ねに、フェルメニアが眉をひそめ問いを重ねる。
「それについても……?」
「その言葉も、随分と昔に聞いた覚えがありましてね」
「ご存じであるのなら、それについてもご教示いただけますか?」
フェルメニアの請いに、ローミオンは重く頷いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「それは、蛮名というものです」
「ばんめい、ですか?」
「ええ。蛮名とは、闇魔法と同時にこの世に生まれ、古の時代に失われたという呪われし言葉であり、これには特定の属性――つまり闇の属性の力を増幅させる効果があるのです」
「増幅させる?」
「はい。この言葉を付け足された闇の魔法は、普通の闇魔法を放った時と比べて威力が数倍になると言われます。察するに、その闇魔法の使い手が、闇魔法の呪文に付け足していたというところでしょう」
「では、闇魔法の使い手は」
「おそらく相当な威力の闇魔法を使えるのだと思われます」
ローミオンが披露した説き明かしに、フェルメニアは息を呑む。
「もう一度言います。おやめなさい。命がいくつあっても足りませんよ」
「でも、俺たちはやらなきゃならない」
「仲間のため、ですか」
水明が頷く姿を見せると、それ以上の説得は諦めたか、ローミオンは呆れ混じりのため息を吐いた。
「そこまで言うのなら、止めても無駄なのでしょうね」
「ご教示までしていただいたのに、申し訳ありません」
「分かりました。闇魔法の危険性、ゆめゆめお忘れなきよう」
ローミオンはそう言ってすぐ「失礼します」と会釈をして、業務の方へ戻っていった。
「闇魔法に蛮名……スイメイ殿?」
フェルメニアが渋い顔をして思案に顔を傾ける。そして、悩み事を漏らすように呟きつつ、水明の方を向くと、彼はここではないどこか遠いところに視線を彷徨わせながら、
「蛮名……か」
そう、図書館の天井を見上げたのだった。