痕跡、筆舌に尽くしがたく
――その場所に近づく前に、この先に何か途轍もないものがあるのではないかという予感はあった。
近づくにつれ、鉄の臭いと
他の者は感じてはいないのか、それとも分かっていて表に出さないだけなのか、見て見ぬふりをしているのか、落ち着かなさの渦中にある兵士たち以外は冷静さを装っている。ハドリアスは泰然としたまま、ティータニアの目だけが、どこか剣呑な光を宿していた。
ふと馬上から目を落とす。落ちた葉の下から流れ出した雨水が、光の加減のせいなのか時折赤く明滅して見え、目をこすった。
やがて、木々が途切れる。
「……これは」
響く、ハドリアスの声と息を呑む音。
斥候が見た、魔族たちがいたという現場に到着した黎二たちが見たものは、それこそ目を疑うような光景だった。
「なんだ、これ……」
黎二も、馬上から見える光景は筆舌に尽くしがたいと、恐れを含んだ吐息を吐くばかり。
斥候に続いて、遠間に山並みと、広大な平原が望めただろう見通しの良い平地に出ると、そこにあったのは、巨大な地面の亀裂や、高温に曝され溶けた地面が冷えて固まったもの、天を突くような氷山、何なのかよくわからない真っ黒な沼地と、そして無数に散らばる魔族や魔物の死骸だった。
――果たして、ここで一体何が起こったのか。明るい光が透ける朧雲の下、通常では絶対に見ることのできないただならぬ光景と、亡骸の数々。自然災害が引き起こしたものとは到底思えない惨状だった。
確かにここを形容するならば、酸鼻との言葉が似合いだろう。耳を澄ませば魔族が発した断末魔の叫びその余韻でも聞こえてきそうなほど、それは凄惨な光景だった。いくら敵と言えど、こんな目に遭った彼らには同情さえ湧いてくるほどに。
そう、まさに地獄絵図と見比べても何ら遜色ないような、そこは地獄が起こったあとだった。
斥候や兵士たちを先導に、ハドリアスに続くようにして、黎二は馬に乗りながらに誰とは言わず、問いかける。
「これ、道だよね……」
目の前に続く道が、一直線に割れていた。そこだけ、血の跡も肉片も、削られたり破壊されたりした跡も何もない。まるで何かがこの一本道を突っ切ったように――いや作り出したかのように、真っ直ぐにただひたすらに真っ直ぐに、一切躊躇いに曲がることなく、見える先、山裾にある森林まで。その脇を襲い掛かってきた魔族の死骸で舗装しながら続いている。
そんな情景を見ていると、後ろに続いていた瑞樹が突然、誰に言うでもなく呟く。
「魔法のあと……」
「瑞樹?」
「うん、間違いないよ。これ、全部魔法のあとだよ」
言い切ったのは、確信があるがゆえか。慄きを孕んだ表情を、周囲に不自然に存在する氷や燃えさしに向ける瑞樹。それらを指して、魔法を使われた結果と言う。
そんな彼女の断定には、ティータニアが関心の声を上げた。
「ミズキ、良くわかりますね……」
「うん、ホント微かにだけど魔力の残滓があるし、たぶんそこにある氷とか燃えさしまでに術式の痕跡があるから」
「……本当だ」
目を凝らし、感覚を研ぎ澄ますと、黎二にもその『残ったモノ』が知得された。先ほどまではわからなかったのに、それらが内包するモノが術式だと感得すると、濃密だったもやが一瞬にして晴れるように明瞭に判じられた。
しかし、残り火や氷などの残っているものにまで細かく術式が施されているとは、よほどのことだ。魔術の根幹をなす術式が必要なのは魔族を倒し切るまでの一瞬にだけだ。にもかかわらず、残ったものにまで入念に、しかも――
「瑞樹、これって」
「うん。扱われている術式がすごっく高度で、全然なんなのかわからない……。もしかしたら、私たちが使ってる魔法じゃないのかも」
「それもそうだけどそんな高度な術を、これだけの数に使えるなんて」
――尋常ではない。まさかこれは、よほどの大軍で魔族を討ち滅ぼしたのか。
黎二の頭の中を、そんな絶対にあり得ない推測が浮かんで、そして消えた。
大軍同士がぶつかったなどこの情景を見れば、けしてあり得ないことなのだから。ここでそんな衝突があったと言うならば、当然もう一方の勢力の死体があるはずだ。しかしここにはそれがない。目に見える地平にはあの彼方まで、魔族の躯で統一されている。それにそもそも大軍を用意することも、その大軍のほとんどを高度な魔法を使える術者で統一することもまず不可能なのだ。これは何か、圧倒的なものが過ぎ去っていったとしか思えない、そんな情景。
人間が発する緊張や当たりの雰囲気の機微に敏感な馬は、しきりに啼き声を上げている。そんな落ち着かない馬たちを優しく宥めながら、まだ乾ききってはいない小道を先に進んでいると、こんどはティータニアの息を呑むような声が聞こえる
「これは……!?」
目を瞠る彼女の声に、ハドリアスの声が追随する。
「ベイマスまでもか……」
その低いうなり声を伴った言葉に促されるように、黎二たちも視線を向ける。そこにあったのは、巨大な魔物の死骸であった。
「お、大きい……」
驚くような慄くような、そんな瑞樹の声が聞こえてくる。
全長はおそらく、二百メートル以上。まるで真っ黒なクルーザーが丘にでもあがったようなイメージをふと湧かせるそれは、厚皮獣が持つような分厚くしわがれた皮膚を持ち、身体の大きさに釣り合わないほどの重厚な四肢と巨大な角を持っていた。
緋色に濁った巨大な目は見開かれ、おどろおどろしい。力への恐怖よりもまず、不気味さが背筋を凍えさせるようなそんな恐ろしさがある。
ただ、いまはこの魔物も、瑞樹が言う何らかの魔法により、まるで身体の斜め半分が地面の下に埋まっているかのように、綺麗に無くなって倒れていた。
「特二級の魔物になります。まさかこんなものまで倒されているとは……」
その魔物を区分する名称がどれほどのものなのかという説明さえ忘れて、驚愕に心とらわれたままのティータニア。呆然とした息が吐き出される。
周囲の魔族や魔物に比べ、向ける驚きの様相が甚だしいため、このベイマスなる怪物は相当な魔物なのだろう。周囲の兵士やグレゴリーたちも、ハドリアスでさえ面持ちが険しい。
そんな風に誰しもが驚きに呑まれていると、やがて先まで確認しに行っていた兵士が、近づいてくる。
よたよたとする姿は、疲れからくるものではなく、この酸鼻な周囲に当てられたものなのだろう。
「も、……申し、上げます。……やはり、魔族は全滅している模様。その総数はおそらく」
膝を付いた兵士が言わんとする言葉を固唾を飲んで待つ一同。
もったいぶるというよりは、彼自身もその言葉を発するのに戸惑いがあるようにも見える。それに、ハドリアスは顔の強張りを崩さぬまま、
「どれほどいたのだ?」
「は、はっ! おそらく万は超えていたのではないかと……」
誰もが時を忘れた瞬間だった。万と、その耳を疑うような膨大な数に、その場にいた全員の呼気が聞こえなくなる。
そして、徐々に正体が戻ってくると、ハドリアスが声を驚愕に染めて、
「ま、万だと……」
「し、しかし万を超える数の魔族がいたとして、それでは死骸の数と合わないように思えますが?」
「恐れながら。魔族や魔物の動いたあとやこの攻撃が及ぼした範囲から算出して、その数が妥当なのではないかと思われます」
斥候の言葉を聞いて、再びハドリアスが険しい顔で言う。
「千前後、ではなかったとはな……」
驚きにどこか途方に暮れたような感情が混じったような声。もしその数と戦っていたらとつかの間の想像を馳せているのだろう。どれほど悪い予想を立てていたとしても、その数は想像の埒外にあるものだ。
そんなハドリアスに、ティータニアが視線を向けると、彼は表情を繕う。
「魔族の規模を見誤っていたとは。奴らがもしメテールやクラント市に攻め入ったと考えるとぞっとしますが――」
「一体何者が、いつの間にこのようなことを成したのか、ですね。ハドリアス卿にお心当たりは?」
ティータニアの言に、ハドリアスは瞑目して考える。やがてその答えにたどり着いたか、彼は静かに口を開いた。
「……何者か、というのは見当がつきませんが、七日ほど前に激しい雷の日がありました。魔族が全滅したのはおそらくはその日でしょう」
「雷の日……」
ティータニアの呟きを追ってハドリアスは眉唾ものだと言うように「救世教会の司教などは女神が怒りに震えているなどと申しておりましたが」と付け加える。天の意が具現したのは雷だと、この世界でも考えるのは一緒か。
だが本当に女神アルシュナが倒してくれたのか。否、まさかそんな都合の良い話、あるはずもない。そんなことが起こり得るなら、まず勇者はいらないはずだ。
しかし謎は深まるばかりだった。いつ頃とは見当がついたが、結局何が起こったかというのは皆目わからない。
そんな中、瑞樹がふと心配そうな声で、
「水明くん、大丈夫だったのかな」
「どうなんだろう……」
不安そうに俯く彼女に、黎二の心も同調する。
水明の行方はいったいどうなったのか。彼らが魔族に遭遇する前に、魔族が倒されていたのであればいいが――
「魔族だ! 生き残りがいたぞ!」
「――!?」
後ろの方から掛かった声に、一同が振り向く。周囲を探索していた兵士が、魔族の存在を悲鳴のように告げていた。
死骸の中に混じっていたか。それとも近場から飛んできたのか。残党らしき魔族が数体、飛び上がって猛烈な勢いで向かってくる。
それに、いち早く声を上げたのはハドリアスだった。
「――こちらに来るぞ! 全員戦闘態勢を取れ!」
馬上で剣を引き抜きつつ、周囲の兵士に号令をかける。彼の声を聞き、間断なく行動に移る兵士たち。槍を持った兵士が先んじて陣形を整え、その後ろに魔法使いたちが列を成して、呪文の詠唱をし始める。
ハドリアスの声に続き、黎二はすぐさまルカの方を向いた。
「ルカさん、瑞樹を!」
「承りました」
「れ、黎二くん!?」
「僕も加勢に行く。瑞樹はルカさんとここで待ってて――ティア!」
「はい! レイジ様!」
「ティアは僕の後ろについて魔法の準備を! 馬を使って横から回り込む!」
取り急ぎそう叫んで、黎二も剣を抜く。
見るは魔族と、魔族を迎え撃とうとする兵士たちの陣。その横合いを目指し、黎二も馬を駆る。それに追随する、ティータニアとロフリー、グレゴリー。
その間にも、ハドリアスの指揮が兵士たちへ飛んでいる。
黎二たちの馬が追い付くと、兵士たちはすでに魔族を取り囲んでいた。槍兵が飛びかかろうとする魔族を牽制し、怯んだ隙に魔法使いが魔法を打ち込む。統制がとれ、なおかつセオリー通りに戦いを運ぶ見事な用兵である。兵士一人一人の練度も高く、このままいけば何の損害もなく魔族を封殺できる。
(いや……)
かに見えたがしかし、魔族も必死であった。本隊が全滅し、彼らはもはや死兵だった。
死兵。戦場においては、往々にその存在が確認される者たちだ。敗北が決定してなお止まらず、ここが死に場所と見定めて、ただ敵に一矢報いんとその一念を以て喰らい付いてくる。戻る場所も、行く先にも死しかないため、死を厭うことはない彼ら。腹の決まった兵は強く、御しがたい。
兵機を見て死兵にはかからぬものと、そんな言葉まであるほど、彼らは戦場では危険な存在だ。
やがてそんな命を顧みない戦いぶりが、陣形にゆるみを作り、兵士たちの囲いを崩した。
一人でも多くの道連れを作りたいか、滅茶苦茶に暴れる魔族。
混戦に持ち込まれそうになり、兵士たちが危うくなる。
「さがれ!」
それを見て、巨大な黒馬を駆るハドリアスが駆けつける。兵士たちに命を下しつつ、真正面にいた魔族が剣の一振りで両断されるが、しかし、それでも数体の魔族が脇を抜けていった。
そう、ルカと瑞樹の方へ向かって。
「しまった!」
反対側を抜かれた。そう思った時にはもうすでに遅かった。飛来する魔族たちの速度は速く、みるみるうちに瑞樹たちとの距離が縮んでいく。瑞樹を入れても二対三。彼女をかばいながら戦うのでは、ルカには分が悪過ぎる。
「グレゴリー!」
ティータニアが反射的に発したその言葉を聞くか聞かぬかの内に、グレゴリーの馬が反転する。しかし――
「くっ! ミズキ殿、しっかりお掴まりなっていて下さいませ」
「う、あ、うん!」
ルカが馬を操り、魔族の急襲から逃れようとする。だが、泥の地面が馬の脚を取り、回避の足の邪魔になる。ぬかるみ程度たかが知れたものだが、そのほんの少しの邪魔ったるさがここでは大きな命取りだった。もたつく旋回と出足。馬の脚から滑らかさが奪われている。
「くそっ――ステインスカーレット!」
悪態をつきつつも、黎二は炎の魔法を放つ。それに続いてティータニアも魔法を放つが、生きることを諦めた魔族には当たらない。
(まずい! このままじゃ……)
瑞樹たちに魔族が迫る。瑞樹も魔族に向かって魔法を放つが、絶命には至らず魔族は火だるまになって向かって行く。
助けに行くにはこの場からでは遠すぎた。ジン、と凍みるような嫌な予感が、背中を這い上がってくる。
そんな時だった。視界の横合いから、幾条もの白い炎が渦を成して、空を引き裂いて飛んできた。真っ白な炎。それが瑞樹たちに襲い掛かろうとした魔族たちを、一瞬の内に包み込む。
白い炎が瞬く間に空に拡散し、あっという間に魔族を焼き尽くした。
「え――?」
「まさかこの魔法は!?」
黎二とティータニアの声は、驚きと気付き。
それが何なのか、何によるものか悟ったと同時に、遠間から馬が鳴らす蹄の音が聞こえてくる。
何者かが、馬を駆って近づいてくる。しかもその速さ、尋常ではない。おそらく馬に魔法でも掛けているのか。まさに流星が如く速さであった。
やがてはっきりと見えるようになったその人物に、ティータニアが歓声を上げる。
「――白炎殿!」
そう、馬に乗って駆けつけたのは、黎二たちをこの世界に呼び出した純白のローブまとううら若き宮廷魔導師、フェルメニア・スティングレイだった。
黎二がフェルメニアに向かって叫ぶ。
「先生!? どうしてここに!?」
「勇者殿! お話しはあとです! 先に残りの魔族を!」
「は、はい!」
フェルメニアに指摘され、黎二は馬を返し、まだ残った魔族に斬りかかる。
すれ違いざまに一体、オリハルコンの剣で上下に分断すると、再びハドリアスの声が上がった。
「魔法使いは再度魔法を放つ準備をせよ!」
雄々しい指揮が飛ぶ。やがて兵士たちは手際よく魔族を追い詰め、魔族は魔法を放つ準備をしていた魔法使いたちにより、殲滅された。
多数の魔法が一気に炸裂したせいで、塵や土が飛び、煙や蒸気が巻き起こり、周囲の視界が悪くなる。
もう辺りには魔族はいない。遮られた視界の向こうにも。生き物の気配は皆無である。
やがて、下馬したフェルメニアが、馬を引き連れ近づいてくる。
「姫殿下、そしてレイジ殿にミズキ殿。ご無沙汰しております」
瞑目して満足そうに頷くティータニアと、フェルメニアの挨拶に応じる黎二と瑞樹。
「お久しぶりです。先生」
「フェルメニアさん。ありがとうございます。助かりました」
フェルメニアは「いえ、ちょうど通り掛かって良かった」と言って、瑞樹の手を優しく撫でる。すると瑞樹は笑顔になって、フェルメニアに再度の礼を口にした。
そしてフェルメニアはハドリアスに向き直り、彼にも一言二言かけ、頭を下げる。彼とは顔見知りと言う程度か。親しさもティータニアのような嫌悪もなく、挨拶は事務的なもので終わった。
すると、ティータニアが彼女に向かって改めて礼を言う。
「白炎殿。ご助力感謝します。しかし、どうしてあなたがここに?」
「ふむ、確か貴公は、陛下に宮廷魔導師の任を解かれたのであったはずだが?」
と、会話に加わったハドリアスにフェルメニアが神妙な表情を向ける。
「は。現在、宮廷魔導師の職務に代わり、国王陛下の命を受け、その任の最中にあるところです」
「勅命か……」
宮廷魔導師の任を解かれたのは黎二にも意外だった。だが何か理由があるのだろうし、代わりに国王アルマディヤウスの直々の命令が介している。ということは――
「もしかして僕たちを助けに?」
「いえ、そうではないのですが……」
「白炎殿。どうされたので?」
「…………」
ティータニアの訊ねに、フェルメニアは言い難そうに口ごもる。その命は王女の訊ねにも答えにくいことなのか。まあ確かに国王よりの命令であれば、そういったこともあるのだろうが。
と、そんな中、一人の兵士が息せき切って駆けてくる。
「ほ、報告します!」
また魔族かと周囲に緊張が走るが、しかし皆がそこで怪訝に思う。報告と駆けてきた兵士が、何故か自分たちが来た森の方からやってきたのだ。そちらには魔族はいない。
その兵士に、ハドリアスが問いかける。
「どうした?」
「て、帝国より、第三皇女グラツィエラ・フィラス・ライゼルド殿下が一隊を引き連れて国境を突破したとのこと!」
危急の報せ。むせ込みながらもどうにか伝えた兵士その報告の内容に、ティータニアの表情がにわかに愕然としたものへと変わった。
「グラツィエラ皇女殿下がですか!?」
「は、は! 殿下は駐留軍の制止も聞かずアステルの国境を強引に突破。既にクラント市を越え、恐ろしい勢いでこちらに向かっているとのことです」
「そんな、なぜ」
「――そんなことは自明のことだと思うが? 薄明殿」
「な!?」
割り込んできた確かな威を感じる声に、ティータニアが驚きと共に振り向く。
収まり始めた煙の中より、その女は現れた。