都市入りの前に、一波乱
行き交う人々の多様さを眺めながら帝都フィラス・フィリアに続く街道を通り、やがて城門に到着した二人はまず都市内に入るべく、詰所で行われる入市検査の列に並んでいた。
高くなり始めた陽日のその突きさすような白光が煩わしいと、鼬の目陰を作って城門や城壁を一通り見回した水明は、レフィールに何気なく訊ねる。
「今更なんだが、このネルフェリア帝国っていうのは一体どんなところなんだ?」
そのあまりに遅ればせすぎた訊ねに、レフィールは一瞬言葉を失ったように眉を寄せてから言葉を返す。
「本当に今更な質問だ。帝国領内に入ってからもう随分と経つぞ? それで大体も掴めなかったのか?」
「俺にとってはどこも同じような気がしてならないよ。アステルから変わったと言えば、ちょっと人が多いのと、物の種類が多いくらいしかない」
と、水明は欧米人風に肩を竦める。現代人であるがゆえ、見分けが付き難いのも当然だ。レフィールからすれば道中で寄った安宿の内装や村などの状態でいろいろと把握できるのかもしれないが、現代日本から来て発展したものばかり見てきた水明にとっては、異世界にあるものが新鮮に思えることができてもその違いなんてほとんどわからない。あっても着ている物のデザインが違うことくらいがわかる程度で――
「アステルの書庫で調べてきたのではなかったのか?」
「俺の知ってるのは本だけの知識だからな、レフィールの印象が聞きたいんだ」
「私の帝国に対する印象か……」
水明の言にレフィールはしばしの黙考する。この世界の人間の率直な意見だ。判断材料にはこの上ないだろう。
やがて、彼女は導き出した答えに納得がいったのか、うんと頷き答える。
「――そうだな、ネルフェリア帝国は一口で言えば国力が強い国だな。うん」
まんまかいと、水明は引きつった苦笑い。
「……ほ、本からの知識じゃあ確かにそんな雰囲気はあったな」
「だろう。ネルフェリアの豊かさは有名だ。軍事力も他の国に比べて一頭地抜けている」
「だけど、なんかそこまで帝国って感じがないんだが、そこはどうなんだ?」
ふと提示されたのは水明が前々から抱いていた疑問である。
基本的に帝国というのは、多数の民族や国、勢力などを支配した国家を称する言葉のことだ。その名を冠せられている以上、周辺国家に絶えず圧力をかけていたりしていそうなものだが、以外にもネルフェリア帝国は統治方法の違う国と同盟などを組み、手を取り合っている。
確かに複数の民族を勢力圏内に置いている時点で帝国と呼ばれるに相応しいものなのかも知れないが、どうにもしっくりこない。
まあそのほかにも、水明にとって帝国とは大抵の日本人同様に、近世に入って確立した帝国主義や大日本帝国のイメージが強いのだが――
「ああ、それは仕方ないんだ。確かに元々は周囲の国の多くを併呑した強国だったんだが、数百年前にあった戦争でその国力の大半を失ってね。いまのような形に落ち着いたらしい」
「落ち着いたねぇ……。野心たっぷりな国だったのに、何百年経ってもそのまんまなのか」
水明の口から胡乱な思いが飛び出す。戦争が数百年前であるならば、いくらなんでもそれだけ期間があれば――と言うよりも早ければ数十年程度で国力も回復して軍備も調うはずである。そうなれば普通は、また以前と同じように侵略を開始するとおもわれるのだが。そうではないのはどうしてなのだろうか。
レフィールが首を横に振ってその疑問に答える。
「ああ。ネルフェリアには当時から続く三ヵ国間の同盟もあったし、その戦争のせいで危機感を持った他国が軍備を調え、ネルフェリアに比肩するほど強くなったんだ」
「容易には戦争を起こせない状態になってしまったと」
「うん。それに一番の理由は、やはり英傑召喚の儀が大きいだろう」
レフィールの発したその思い掛けない言葉に、水明の顔が怪訝なものに変わる。
「英傑召喚が? なんで人間の国同士の戦争に勇者が関係があるんだ?」
「当時の戦争で呼ばれたのさ。勇者が」
「ぬ……?」
続けられるレフィールの言葉に、水明の困惑は深まるばかり。確か勇者の召喚は、世界の危機に際して行われるものだと言っていたはずだ。各国の国家元首と魔法使いギルド、そして救世教会の最高機関との協議により、勇者の召喚が承認され始めて召喚が叶うものだと。なのに何故、人同士の戦争で呼ばれるような事態になり得るのか。
水明がおかしな顔を随分と横に傾けていると、間もなくレフィールがその答えを口にする。
「これは伝承で広く伝わっていることだ。当時、現在のサーディアス連合傘下にある連合自治州が置かれている地域にあった国の君主が、突然独裁政治を行い周辺の国家に戦争を仕掛けて、多くの住民を虐殺していったんだ」
「おいおい虐殺って物騒だな。なんでそんなことを?」
「さあ、そこまで詳しくは伝わっていないからな。私にも分からない。ただあまりに見境がなく、残虐で、なにより強かったため、このままでは世界の全ての人間が王の手に掛かるのではないかと、当時はほとんどの人間が危機感を募らせていったという」
「あぁ……」
レフィールが話していくにつれて、水明もそういえばと、ふと頭の片隅に仕舞ってあった記憶に行き着いた。
それについては以前、アステル王国の宰相グレスや宵闇亭の係員だったドロテアが言っていた覚えがあった。それは数百年前、世界を我が物にせんとしたと言われる暴君の話だ。その時に勇者が三人ほど他の世界から呼ばれ、暴君の野望を打ち砕いた英雄譚がのこっていると。だが、
「それで勇者が呼ばれて、その後の帝国の侵略戦争にも影響するって……あ!」
「うむ、気付いたようだな。そうだ。その戦争で、侵略国家に対抗するために英傑召喚がなされることが実証されたんだ。確かに当時のネルフェリア帝国は彼の暴君のように大量虐殺までは行わなかったらしいが、彼の国と同じように周囲の国家を征服しようというものならば、周辺国の意見が合致し――」
「勇者呼ばれて、自分たちもやられちまうんじゃないかと考えた」
「そうだ。当時のネルフェリア皇帝はその時呼ばれた勇者の力を目の当たりにして、逆に恐れおののいたという話だ。勇者を敵に回すような真似はしてはならないという言葉まで残すほどにな」
「なるほどね」
そこまで言われれば、その関連性に納得せざるを得ない。他の国の王よりも秀でた軍事力とそれに多大な影響を与えられる権限を持つ皇帝にそうまで言わしめるとは、それだけ当時呼ばれた勇者の力は絶大だったのだろう。
勇者の力ももそうだが、それに加え勇者が敵対するということは大義が失われるという不利にもつながる。大義なんぞどうでもいいと思うかもしれないが、それがない国家が戦争行為を行えば、周辺国からだけではなく離れた国からも政治的な駆け引きにより非難の対象となるため、いつかの大日本帝国のように包囲網を形成され、流通の面などで大きく不利を被るのだ。物資の面での不利、力での不利。そう見ると、勇者というのは抑止力として絶大だ。
「そんなところでも、英傑召喚の儀とやらは重要な物なんだな」
「そうだ。魔王や魔族、強力な魔獣を倒すほど戦力だ。一国の軍隊にすら匹敵すると言われている。なら、政治の掛け引きに使われないわけがないだろう?」
「だな」
「そのおかげで国同士の小さな小競り合いはあれど、国家間の大規模な戦争は随分と昔から起こっていないんだよ」
「そんなにか」
「まああったと言えば二年前にアステルとシャルドックが衝突したくらいだが、あれもアステル王国のティータニア王女殿下の活躍でアステル側の勝利に終わったとのことだ」
ティータニアの活躍。思わぬところから意外な話が飛び出てきたことに、水明の目が丸くなる。
「ティアの?」
「ティア……ああ、ティータニア王女殿下のことか。うん、当時は随分な活躍ぶりだったと聞いているぞ」
「へぇー、あの王女様がか」
少しばかりの間、はあーと呆けたように息を吐き続ける水明がとらわれるは、感嘆だった。意外である。アステルの姫君、ティータニア。活発だが清楚で、黎二の後ろや隣をいつもくっついて歩いていたあの王女様が、まさか戦場に出て獅子奮迅の活躍をするのはどうも想像がつかない。
魔術師としてはフェルメニアほど力量がなかったように思えたがその実、凄まじい力量を秘めていたのか。
――とは言い切れないか。活躍と言っても戦争には策を考えたりといろいろな貢献の仕方がある。
だが、
(いや、ティアが戦える人間だから、みんな彼女の出立に何も言わなかったのか?)
水明はここで、城を出る前のことを思い出してみた。
黎二たち一行を送り出す時、国王や第一王子ならびに城の人間はねぎらいの言葉を掛けたり出立を惜しんだりはしていたが、危険だからといったことによる引き留めは一切なかったのを覚えている。つまり、そういった理由があるから誰も心配の言葉一つ掛けなかったのか。王女の力量を信頼していたから――なのか。
そんな中、
「――次の者、詰所の中へ」
そんなことを考えていた折、詰所の方から呼び声が掛かった。どうやら順番が来たようだ。会話の途中であったが、水明もレフィールも一度そこで話を終わらせ、詰所の中に入る。
すると、こぢんまりとした室内にはネルフェリア帝国の憲兵が数人立っており、先に入った人間を市内側の扉に促していた。
ここで書類や徴税を受け持つ文官らしき係りの青年が、声を掛けてくる。
「入市の方ですね?」
「はい」
「うん」
二人がそれぞれ頷くのを見て、書類を差し出してくる係りの青年。名簿への記入だろう。メテールを出る時や、クラント市に入るときも同じことをしたので、水明も慣れている。
「では、ここにお名前を記入して下さい。あと、身分がわかる物があればご提示を……おっと失礼、字の方は……」
と、そう、ゆったりと歩く水明とちょこちょこと歩み寄るレフィールに質問の不備を訂正するように、係りの青年はそう訊ねてくる。
「ええ、書けますよ」
「問題ない」
「失礼しました。ではこちらに記入をお願いします。あとは、下記にある入市税と通行課金をお支払していただければ、ここでの作業は終わりです」
水明は係りの青年の丁寧な対応を受け、記入をし始めようとすると、彼はレフィールに向かって屈託のない笑顔を向ける。子供好きなのか、優しい性格なのか、水明が丁寧すぎるなと思っていると、彼は少しかがんで目線を下げ、
「じゃあお嬢ちゃんもこの書類に記入してくれるかな?」
その優しいお願いに、レフィールは気に染まぬことがあったか、肩がピクリと跳ねたかと思うと、にわかに険しい表情を作る。
「官吏殿。私はお嬢ちゃんではない。そこは訂正してもらおうか」
「あはは、そうだね。ごめんごめん。お姫様」
「なんだその言いぐさは! 子供の戯言と流すつもりか!?」
係りの青年のできた応対に、レフィールが激しく喚き立てる。
クラント市で買い物をした時もそうだが、子供扱いされると随分と反応する。些細な軽口を柳に風と流すいつものように対応すればいいものを、そんなに否定したくなるものか。
「――っ、スイメイくん! スイメイくんも何か言ってくれ!」
「え、俺!?」
「そうだ!」
とはいうもののどうすればいいのか。まさかこの場で「実はこの子、小さくなっちゃったんです」などと説明すればいいのか。そんなもの、一笑に付されてしまうのがオチだろう。
すると係りの青年は水明に向かってにこやかな笑顔を向け、
「あはは、元気いっぱいなお連れさんですね。大変でしょう」
「あ、いや、まあ……ははは」
結局は水明もそんな対応しか返せない。ここはこのまま流れに任せて乗り切ろうと思った矢先、レフィールが切羽詰まったように腰元を両手でつかんでくる。
「スイメイくん! 何故君まで話に乗っているのだ!」
「いや……そりゃあさ」
どうにもできないこの状況をどうか察してくれと、そう言いたい。そんな風に水明がしがみついてくるレフィールに戸惑っていると、係りの青年がまたレフィールに微笑み掛ける。
「お嬢ちゃん、あまりお兄さんに迷惑をかけちゃいけないよ?」
「別に私はスイメイくんに迷惑など……」
問いかけると、何か思うところがあるのか一度言葉を止め、やけに小さな声で、懊悩を漏らす。
「……ダメだ。いっぱいありすぎて否定できない……」
レフィールは項垂れたまま、言い返せないことに愕然とする。小さくなってから、剣を運んだり呪いの抑制をしたり等々、いろいろ助けてばかりだったゆえ、否定するのが憚られたらしい。
そんな彼女を尻目に、係りの青年が水明に朗らかに笑いかけてきた。
「このくらいの子はこうやって背伸びしたがるんですよね。私も年の離れた妹がいるので、わかりますよ」
うんうんと頷くのは、経験があるからか。周りを見れば、レフィールの行動に他の憲兵たちもにこにことしており、緊張感が必要なはずの詰所にほっこりとした空気が充満していた。
「く……もういい。さっさと記入してここから出よう」
そう言って、やっと諦めたか、レフィールはいつもの穏やかな調子に戻り、書類に記入しに行く。が……
「うーん、うーん」
「どうした?」
何故か机に取り付いたまま、書類に手を伸ばし、踏ん張る時に出すような唸り声を上げているレフィール。そんな彼女に水明が訊ねかけても、レフィールは目の前の何かと格闘するばかりで返事はない。ただ、難儀そうな声を上げ、実体のないものを仇としている。
「く、こんなことが、こんなことがっ!」
「……?」
「まだだっ! まだ私は諦めない! 私にだって矜持が! 捨てられないものがあるんだ!」
そんな大袈裟なことを口にして己を奮い立たせ、一人頑張っている小さなレフィール。ひとしきり努力したようだが、やがてどうにもならないことを悟ったか、その場にペタンと女の子座りをして、絶望を口にする。
「か、紙まで手が届かないよう……」
ぐしゅと鼻を啜り、レフィールはそんな愛くるしい涙声を放つ。机の上に背は届いているのだが、なかなか際どい位置のために、いまの彼女にはかなり書きにくい状態らしい。そんなことで、あれだけ頑張っていたのか。
すると、先ほどの係りの青年が彼女の隣に来て、
「はい、お嬢ちゃん。これを台代わりに使っていいよ」
と、彼はそう言って、椅子を彼女に差し出した。
「わっ! 私は……」
係りの青年の優しい行いに、レフィールは再び気色ばむ。しかし――
「私は……」
机と椅子とを交互に見比べ、徐々に意気消沈していく。やがて、それ以上言葉を発することなく、項垂れたレフィールはすごすごと台に乗って、記入し始めた。
ポニーテールがゆらゆら揺れる小さな背中に、哀愁が見える。要は、なにがあっても小さくなった自分を認めたくなかったのだろう。
水明が慰めるように彼女の肩を叩くと、「みぢめだ……」と言ってつらつらと羽ペンを紙の上に走らせていた。
やがて記入も終わった頃、突然市内側にあるもう一つの扉から少女が入ってきた。
係りの者に促されたようでもない入室を不思議に思って目を向けると、憲兵たちが彼女に向かって、すぐさま敬礼する。
「ザンダイク少尉!」
係りの青年から少尉と、そう呼ばれた少女。赤みがかったバイオレットのツインテールと、いささか不健康そうな肌を持ち、右目は眼帯に覆われ、もう片方の目は眠いのかそうでないのか、やけにジトッとした印象を与える。ゴシック・アンド・ロリータ風の服装に軍装らしきコートを引っ掛け、手にはギャザーグローブをはめている。
そんなどこか異界めいた少女の装いに、水明の眉が寄わずかに寄る。
奇抜な格好だ。向こうの世界でも変わった格好をする者は色々と見てきたが、こういう自己主張が強い恰好は久しぶりに見る。似合っていないわけではない。似合っているからこそ、浮いているというやつだが。
それはレフィールも同じように思ったのか――
「か、可愛いだとっ」
いや、そうではなかったらしい。どうも過度にふりふりの付いた服を見ると、反応してしまう
水明とレフィールがそんな反応をする中、その、少尉と呼ばれた軍人らしき少女は係りの青年のところまで歩み寄って、事務的とは言い難いほど冷たく口にする。
「前日の名簿を、受け取りに来た」
「……はっ!」
係りの青年は背をぴしゃりと伸ばして、芯棒の入ったように直立不動に敬礼。そして素早く戸棚についた引き出しから、革張りの装丁がされた本を渡す。少女はそれを受け取り、さっと目を通すと、「ご苦労」と言ってパタリと本を閉じた。
……帝国では軍隊の形式が他国とは違うのか。尉官呼びは階級の存在を思わせ近代的な匂いがするが――それはともかく。この少女である。見た目は十二、三歳かそれよりも少し上。この低年齢で、軍人と言うのもなかなかない。完全に
そんな彼女を見ていると、視線に気付いたか。眠そうに開かれたジト目が水明へと向けられる。
「……そんなに軍人が、珍しいですか?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
珍しいのは違うことである。水明が悪かったと言おうとした折、代わりにレフィールが水明の思っていたことを正しく口にした。
「いや、軍人にしては随分幼いなと思ってね」
すると、その言葉に含まれた何かが気に障ったらしく、少女はムッとした表情でレフィールにジト目を向ける。
「私より小さい子供に、言われたくない」
「なっ!? 私は小さい子供ではない!!」
水明は「ああ……」と盛大なため息を吐く。またこの話になるのか。最近なにかあるとこの話ばかり。いい加減ちょっとやそっとで反応しないよう、あとでレフィールに言い含めておかなければならないかとそう水明が思った矢先。
二人の幼女は急に「勝負、しますか?」「……いいだろう。受けて立つ」と睨み合った。
そして、何らかの勝負を始めるつもりか、位置につくように二人、前に出た。
まさかこの二人、この場で戦いでも始めるつもりなのか。
「おいちょっとレフィール」
「……止めるなスイメイくん。この戦い、退くことはできない」
「退けないってなぁ、そうゆう問題じゃあないだろうが――って」
レフィールが水明の言葉を最後まで聞くことはなかった。
互いを視線で牽制しつつ、円を描くように動く二人。足運びに緩急を付け、両者ともに相手の目測を誤らせんと動いている。やがて好機を見つけたか、レフィールが弾かれたように飛び出すと、少女もそれに合わせるように前に出る。両者の身体がぶつかるかと思われた瞬間、衝突の直前で急停止し――
「ふん……」
「むむっ……」
鼻先がくっつきそうなほどの距離で睨み合う。
そしてまた後ろ飛びと横飛びで離れ、先ほどのような動きを反復しまた交錯するかに見えたが、今度は横並びになって視線をぶつけあう。
――何してんのこいつら。
それは、胡乱な視線を二人に送る水明が抱いた、率直な疑問だった。
レフィールと少女。まるで何かを張り合っているように背筋をぴんと伸ばし、睨み合っている。勝負と言うが物理的な衝突でなし、もしやこれは上背で優劣を付けたいのか。水明がそう同じく首を傾げている周囲の者たちのように推し量るも、しかしそういうわけではないようで、二人はずいと顔を付き合わせたり、横に並んだり、胸の下で腕組みをしたりと、よく意味の分からないことばかり繰り返している。
やがて、その答えに行きついた水明は、呆れたように笑いながら、
(ああ、張り合ってるのね。胸で)
要はそう言うことだろう。まだ二次性徴が始まったばかりの容姿でしかない二人ゆえ完全にどんぐりの背比べ状態だが、まあそれが一番わかりやすいからということなのだろう。正直比べるところがおかしい気はするが。
しかし張り合うタイミングの前後にあるあの緊迫した挙動は一体なんの意味があるのか、まるでわけが分からない。勢いを付けたり気迫を出したりして何かプラスされるのか。
さりとて二人の比べ合いを見るに、少女と比較して現在のレフィールの方はいささか小さい。
それは当人同士でも決着がついたらしく、少女は勝ち誇るでもなく当然と言ったようなすまし顔で、言い放つ。
「どう、です。私の方が、あなたより淑女、です」
「くぅ、幼女に大きさで負けてしまうなど……」
そうレフィールが悔しそうに言うと、少女はまるで死体でも蹴るかのように。
「いいえ。これでもうあなたから、幼女などと言われる筋合いはありません。私のことはお姉さんと、そう呼びなさい。いいですね?」
「い、いいや! 私だって元の姿に戻れば!」
まだ負けてはいないと叫ぶその姿、あまりに潔くない。本来のレフィールの胸は誰もが認めるほどのものだが、それをいま持ち出すのはあまりに大人げないことだ。
と、そんな彼女の言葉に少女は怪訝な表情を浮かべ、「元の姿? ……ああ」と疑問に思ってからすぐに合点のいったように頷いた。そして、
「あなた」
「な、なんだ?」
「そんな夢物語を語ることは、やめなさい。あなたのような歳の子は、そう言った現実と夢想の見極めがつかないことを、よく言うものですが、そんなことばかり言っていると――いずれ後悔しますよ?」
「ふぐ――!?」
それはつまり中二病のことか。確かに事情を知らなければ、レフィールがそういったことを恥ずかしげもなく言っているように聞こえなくもない。
少女から言葉のナイフを容赦なく突き刺されたレフィールは、よろけつつ少女に背を向け、覚束ない足取りでと長椅子のある方へ行こうとする。
「レフィール?」
「……スイメイくん。少しの間放っておいてくれないか?」
「いや、俺は分かってるからな」
「慰めはよしてくれ。自分のみぢめさが余計に心に刺さるから」
「……」
笑顔のまま固まる水明。一方でレフィールは長椅子の上にちょこんと体育座りをして、膝に顔を埋めて動かない。いまあの場だけ、魔族の持つおどみよりもなお深い闇が凝っている。というか今日は随分とかわいそうな目にばかり遭う彼女である。
すると、例の少女が水明にわずかに歩み寄ってくる。
「あなた、この辺りでは見かけない氏族の出のようですが、どこから、来たのですか?」
「ああ、俺は東の方からね。あの子、レフィールは俺の知り合いの娘さんだ」
「東ですか。アステルではないですね。まだ東方。そうですね?」
「まあな」
問い詰めるような視線と言葉は、アステルにいる人種やその周辺にいる人種を考慮してのものだろう。水明が認めると、少女は一度目をつむって「やはり、ですか」と口にして、今度はその眠そうな目を隼のように鋭く変えて睨み付けてきた。
「……おい」
「しょ、少尉!?」
水明の口からはうら低い非難の声が。係りの青年からはそんな困惑の声が。
同盟国以外から来たという発言のせいで、この軍属の少女からはスパイとでも思われてしまったのか。彼女が発する殺気と魔力の昂りに、にわかに辺りの剣呑さが増していく。
「何をしに、ここへ?」
「それを答える必要はないと思うが」
水明がそう言うと、少女はなお強壮に魔力を放出する。普通の人間がまともに相対すれば、昏倒してしまってもおかしくはないレベルである。
「しょ、少尉! お、落ち着いて下さ――ひ!?」
「邪魔です」
と、ひと睨みで殺気と魔力がそちらに向いた。威圧に押されて机にぶつかる係りの青年。そっちは帝国の味方だろうに。やたらと敵意をまき散らしているのはどうしてなのか。憲兵たちも固まって動けないでいる。
次いで悄然としていたレフィールも危殆を孕んだ辺りの空気に反応して、駆け寄ってきた。
「どうした、突然に」
「小さな子供には、関係のないことです。向こうで大人しく、していなさい」
「大人しくだと……そんな剣呑な気がふりまかれているこの状況でか」
「そうです。これは、帝国に害をなす恐れがある者への――」
「――ほう?」
レフィールは少女の言葉に冷たく息を吐いたかと思うと、先ほど無残な敗北を喫したとは到底思えないような雄々しくそして厳しい口調で、鋭い言葉を投げかける。
「帝国が課す正しい手順に乗っ取り入市しようとする人間に対して、殺意を向けるとはなんの真似だ。なんのいわれもない者にこんな仕打ちをしようとは、帝国軍はそこまで恥知らずな教育でもしているのか?」
「なんですって?」
「帝国軍がいずれの軍隊よりも厳しく清廉であると謳われる所以、帝国軍務要綱第十二条、第三項はどうしたのかというのだ? いまの君の行為は、その要綱に正しく則ったものと言えるのか?」
レフィールの言葉に、少女の顔が苦々しく変わる。いま口に出したのは帝国の軍隊の規律か。指摘された少女はしばしレフィールと剣の切っ先のような視線を交錯させたあと、軍律に則る方を選択する。
「……いいでしょう。この場は私が、引きさがります。ですが……」
そう句切ると、少女は再び水明に向き直り、また冷たい視線を投げかけた。
「――ここは帝国です。おかしな真似は、しないように」
少女には似つかわしくない語調の言葉と威圧に対し、水明は少しばかりおどけて言う。
「なんかするって言ったら?」
「殺します」
少女はなんの躊躇いもなく言った。とても冷たく。
それは少女にとって慣れ親しんだ言葉なのか。もしやと思い挑発を試みたのだが、ここまでのものか。この少女、日本ならば中学校に上がったばかりのような年齢だろう。そのような少女がこうもらしい脅し文句を放ったことに、日本人である水明はやはり複雑な気分になる。
無論それが、他人の幸せを押しつけようとする日本人らしい傲慢だとは分かっているが。文化が違えば倫理の意識も違うし、時代が変われば徴用される年齢も違う。文明の差がある異世界ならば顕著だろう。
ここで子供兵に憐憫の情を持つのは、本人の意思を無視した独善の一種だ。もちろん、子供兵の存在が肯定されるものでは決してないが。
一瞬水明の瞳が哀れに変じかけたが、すぐさま元の調子へ戻り、おどけの続きを敢行する。
「おお、こええ幼女だこって」
「幼女、ですって。そこの子供がいうのならまだしも、あなたのように、分別の付きそうな大人が口にするとは…………訴訟ものです。帝国軍事裁判所に、引っ立てますよ」
おどけた水明に、ふくれっ面と共にビッと人差し指を突き付けてくる少女。苛立ちに落ち着かないでいる姿が意外と可愛げを放っていた。一方レフィールは「まだ言うか……」と目を三角にしていたが。
剣呑さが崩れたのを見計らって、係りの青年が恐る恐る「まあまあ」と、とりなすように割って入ってくる。
少女も冗談だとは理解していたらしく、先ほどのように剣呑な気配は見せることなく、背を向けた。
「……戻ります」
少女はそう口にして、名簿を手に取り市内側の扉に去っていった。
「ふう……なんか入る前から幸先悪いのな」
緊迫した時間が終わり、水明が安堵の息を吐く。すると係りの青年が、水明の出したものより大きな安堵の息を吐いて、
「あなたも挑発するようなことはやめて下さい。相手はあのザンダイク少尉なんですから」
「いや、すいません」
そう言って水明が悪びれたように後ろ頭を掻くと、レフィールが思い出したように声を出す。
「そうか。聞き覚えがある名だと思ったが、あれがリリアナ・ザンダイクか?」
「知ってるのか?」
「七剣の一人ローグ・ザンダイクを父に持つ、帝国でも有数の魔法使いだ。幼いながらにして帝国十二優傑にも名を連ねているという凄腕と聞く」
「へぇ。瑞樹が聞いたら喜びそうな話だな」
七剣に、帝国十二優傑。耳慣れぬ単語が飛び出したが、その口ぶりから察するに、実力者が名を連ねる称号のような物なのだろう。地球にも、似たようなもので魔術師や剣士の実力を示すものがあるが、この世界にもそういうのは存在するのか。
レフィールの話は正しいものらしく、係りの青年がうんうんと頷く。
「はい、そうなんですよ。ですからああいう風に目を付けられるような真似はしない方がいいと思います」
彼の注意に、水明が「気をつけます」と言って、この話は終わりだった。
係りの青年が長椅子へと水明とレフィールを促す。
「では、あちらで最後の確認となりますので、少々お待ちください」
水明は少女の魔力の残滓を眇め見つつ、レフィールは待ちの徒然を紛らわすように足をぶらぶらさせていると、憲兵に呼ばれ後ろに並んでいた者たちが入ってくる。
旅の人間らしき彼らは差し出された書類に記入しながら、係りの青年に話し掛けた。
「おい、アンタ聞いたか? アステルで勇者が召喚されたって話」
「ええ、確かレイジ様でしたね。もちろん聞き及んでいますよ」
レイジと、耳慣れた友人の名に、水明の耳がピクリと反応する。片や水明の事情を知っているレフィールも、水明の方を向いた。
(スイメイくん。確か……)
(ああ。俺の友達の話だと思う)
旅に出てからそう日数は立ってもいないはずなのにもう旅人の話題になっているとは。旅人たちの話の切っ掛けを飾るとは、何かしたのだろうと思われる。平気な顔をしてなんでもこなすところは相変わらずだなと内心称賛を送っていると、旅の男二人は係りの青年とその会話を続けてゆき、
「魔法使いギルドの全ての属性の最高位たちに認められて、付けられた二つ名が全属の覇者」
「ああ、全ての属性の魔法を操ることができるってんだから凄まじいよな。全属の覇者」
「素晴らしい二つ名ですよね、全属の覇者。僕は文官の身ですが、憧れますよ」
その三連続で放たれた言葉に、水明はなす術もなく笑い出す。
「ぷ……くく……だからそれは、やめれと……」
「……?」
笑いをどうにか噛み殺している水明を見て、レフィールが不思議そうにぽかんと呆けていると、彼らの舌に油が乗り始めたか、いささか興奮した語調で驚くべきことが言い放たれた。
「――何でも最近クラント市を攻めようとした魔族の軍隊をアステルの軍隊率いて殲滅したらしいな」
「しかもその時に魔族の将軍も倒したらしい。確かラジャスとか名乗ってたって話だぜ――」
その話にまず驚いたのがレフィールで。
「なんっ!?」
「おいおい……これはどういうこった?」
表情を怪訝なものに変えたのは水明だった。
二人は「それはすごいですね。呼ばれてから間もないのにもうそんな功績を……」と感嘆を漏らす係りの青年とはまた違う驚きにとらわれながら、顔を見合わせる。
どうやら、知らない間におかしな話になっているらしい。