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プロローグ ネルフェリアに蔓延る影

長らくお待たせしました(一か月!)

申し訳ございません。今回の更新は三章のさわりで、また明日更新しようかと思います。


 夜。月と星の薄明かりに照らされた帝都の一画は、不自然な静寂に包まれていた。


 一分の隙もなく、神経質なほどにぴっしりと石畳が敷き詰められた地面と、赤く美しいレンガ造りの住居の壁が連なる、そこは夜の帝都の上流区画。月明かりの鈍い光沢が石畳を舐め、暗闇に沈んだ赤レンガの壁面はまるで赤錆のようにどんよりとしており、建物の一つ一つも大きく、せせこましく建っているせいか、夜も深まったこの時間帯は人気のない寂しさよりも圧迫感が特に際立つ。


 そんな普通市民が暮らす木造の建屋や無骨な石造りの街並みとは全く言っていいほど縁遠いそこで、一人の男が背の高い影と背の低い影の二つの闇に追い詰められていた。



「貴様ら! この私にこんなことをしてただで済むと思っているのか!?」



 口角から泡を飛ばす勢いで、狼藉者たちに怒鳴りつける男。帝国でも人気の仕立て屋で作られた外套を羽織り、いかにも金と自意識にまみれていることを匂わせるが、いまはそれを裏打ちするはずの余裕は一切ない。


 それもそのはず。身を炙る焦燥を振り払おうと怒鳴りつけた男の後ろには、男の護衛らしき者たちが石畳で舗装された地面にその身を埋めるように、力なく倒れ伏していたのだから。



「く、誰か! 誰か他におらんのか! 誰でもいい! 私を助けろっ!!」



 男は傲慢に叫ぶが、返る声はない。ただその横柄な声音だけが、男の前に立つ二つの影の間を、通り過ぎていくだけ。

 やがて怒号の残響がなくなると、影の内の一つ、真っ黒なローブをまとった背の高い片方が、男の行為を否定する。



「誰も来ない。いくら叫んでも誰にも聞こえない」




「ば、バカな……。いくら通りからはなれた路地でも、こんな帝都のど真ん中で、誰にも気付かれないなど……」



 不安を煽る言葉に狼狽えるか。長身の影のささやきがあり得ないことは分かっていても男は胸騒ぎを抑えられない。


 しかして、影の言葉は正しかった。否定するようにいくら叫んでも、見回りの憲兵はおろか住民さえ出て来ないのだ。男の叫びも会話も全て、まるで二人の後ろにある暗幕が奪い取っているかのよう。

 隠しきれない焦燥をそのままに、怒鳴り散らす男。



「何故私にこんなことをする!」



「そんなこと貴様が知る必要はない」



 長身の影の言葉に合わせ、男ににじり寄る二人。



「ま、まて! 貴様ら、私に雇われないか? 金ならいくらでも出す」



「――ほう?」



「ちょうど消し去って欲しい男がいるのだ! な? どうだ? 手始めに帝国金貨を百枚出そう。二人合わせて百枚じゃないぞ? 一人百枚だ!」




 己が身のため、そんな取引を持ちかける男。その発言に、背の低い影が小さく震える。これは食いついたようだと、そう男はほくそ笑むが、しかし答えたのは長身の影。



「金貨百枚とはまた随分と破格なことだ」



「確かにな! だが貴様らにはそれだけの価値があるということだ! なにせ私の護衛を瞬く間に昏倒させたのだからな!」



「弱い護衛だった」



「全くだ。高い金を払って雇っているというのに、重要な時に使い物にならん。その点貴様らは違う。なにせ帝国でも名高いこの私をここまで追い詰めたのだからな」



 長身の影の言葉を肯定し、褒めちぎっては釣り針を引き上げにかかる男。そしてここが引き上げどころと見定めて、



「どうだ? 悪い話ではないと思うが?」



 なびいたと思ったか。にやり、と粘り気を感じさせるような嫌らしい笑みを作る。


 しかし、男の期待した声は返らなかった。小さい影が男の言葉を否認するように、無言で近づく。



「…………」



「な、何故だ! 一人金貨百枚、破格だぞ」



「確かに。だけど――」



 初めて耳にする低い方の影の声は、随分と若かった。まだ男か女かも判然としないような歳の頃の子供が持つ、その独特の声が言わんとすることを男は息を呑んで待つ。



「……どうしたというのだ」



「お前は言った」



「……?」



「消し去って欲しいものがいると」



「それがどうしたというのだ? 誰にだって消えて欲しい者の一人二人いるだろう? 誰の差し金かは知らぬが、貴様らとてそんな思惑が背景にあるから、こうやって私を害そうとしているのだろうからな。どうだ? 先ほどの額が不服なら、もっと上乗せしても――」



 男がその言葉の先を口にすることはなかった。いま男が籠絡せんとした小さな影が、恐ろしいほどの憎しみの波動を放ってきたのだ。

 男が吐息を凍り付かせたのもつかの間、そして――




「……あのひとは、やらせない」



「――!? 貴様ら! まさかあの男の手のものか!? いや、まさか貴様が――」



「それを語る必要はない。――やれ」



 何かに気付きかけんとした男の言葉を遮り、長身の影が小さな影に命を下す。すると、小さな影は即座にその意思を酌み取って、呪文を呟き始める。



「――闇よ。汝、虚無たるその身を帳とし、我が敵を包み、内に沈めよ。浅ましき欲望に耽る者はその全て悉く、その帳の内の虜となれ。オルゴ、ルキュラ、ラグア、セクント、ラビエラル、ベイバロン……」



 小さな影の口から魔法の呪文が紡がれる。その詠唱を聞くに、誰しもが恐怖する闇の魔法。だがしかし、鍵言を唱えるはずの部分で鍵言は唱えられず、代わりにまるで聞き覚えのない言葉が紡がれていく。それは意味をとれない言葉、否、言葉ではないまるで荒々しい人外の唸り声のようなそれのあとに――



「与えるは受けるよりも邪悪なり(ダークネス・トーメント)」



 発せられる言葉。瞬間、少女の周囲にある暗幕が暗闇の中でうねるという不可思議な像を見せたかと思うと、その闇を取り巻く魔力が一気に膨れ上がり、かざされた手が示す方向に倣うようにして、蠢動し――男の瞳から二つの影も、月明かりも星明かりも何もかもが消え去った。



「やめっ――がっ、あ、あぁああああああああああ!!」



 悲壮を奏でる絶叫は、闇に虚しく呑み込まれた。


 やがて、闇から解放された男の身体が石畳に崩れたのを見届けて、長身の影は静かに言う。



「いくぞ」



「……はい」



 そして消える二つの影。その去り際、不自然にかかった闇の帳と静寂も消え失せる。

 上流区画の路地には、星明かりの瞬きと、空に浮かぶ月だけが白々しくその顔を覗かせていた。



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