諦めきれぬ思いは、誰がために
お待たせしました。
レフィールに掛けられた呪いを知った夜から、数日。水明とレフィールは魔族の襲撃を警戒しながら、この日も森の中を歩いていた。
木々が辺りにひしめき合い、鬱蒼とした道なき行き道。
空は快晴のようだが、陽射しや青空の明るさなどは背の高い木々に邪魔されて、降り注ぐ陽光は仄かな物である。
これからの先行きも、それとは違って見晴らしくらい良好であれば不安もないが、そうも行かず。
魔族の存在もそうだが、まず二人の仲から言って、上手くいってはいなかった。
隣同士、並んで歩く二人。
一見、仲も良く、何事もなさそうで、確かに険悪なものではない。実際不仲になるようなことがあった訳でもないのだから当然だが、何もないかと問われれば、二人の歩く距離に微妙な間があるように、心の間隙は否めない。
そう、あの夜のあとから、どうにもぎこちないのだ。
と言うのも――
「あのさ……」
「スイメイく……」
水明、レフィール共に、左右隣を振り向く挙動が同期して、蛇に睨まれた蛙が如く停止する。
「「あ……」」
そして、まるで示し合わせでもあったかのように、同時に会話の発端を開こうと試みた二人が出したのは、己のそそっかしさに気付いた時のそんな気まずい声だった。
――そう、このようにいまの二人間には、険悪さもない。不仲でもない。なのに突如として、今しがたよろしく会話のタイミングが全くまるで合わなくなる。ピッタリと言えば、むしろピッタリではあるのだが。
「さき、どうぞ……」
「いや、私の方は用と言うものでもないんだ。スイメイくんから話すといい」
さながら、異性との会話に慣れていない者同士の呼吸のように、こんな風。赤い顔で遠慮に手を差し出す水明と、視線をあちらこちらに散らせては相手を尊重しようとするレフィール。
特に必要な会話と言う訳でもないため、二人ともが話せない。所在なさに心とらわれ過ぎたせいで、いつまでたってもこの調子であった。
果たしてその理由の出どころは、今更言を
水明も、彼女が呪い持ちと知ったところで含みを持つような性格ではない。ないがやはり、その呪いの内容を改めて考えると、頭と口がどうにもこうにも動かしにくい。全て見てしまったこと。触れてしまったこと。それが劣情に起因した低俗なものではないし、一応必要な事ではあったが、本人にその可否を判断できる権利がないため、彼女に対する気後れがある。
一方、秘密を知られてしまったレフィールについては、当然と言えば当然だろう。
仲良くなり始めた矢先でのあんな出来事。ぎくしゃくしてしまう事も無理はない。
「……あ」
「……ぅ」
結局は、二人とも茹で上ったよう。呻きのような喘ぎのような声をそれぞれ上げる始末。
何かに気まずいタイミングが重なるよう操られているかのように、二人はこの通りここ数日何気ない会話のタイミングを失していた。
――だがいつまでもこのまま、二人の仲も行き道も、流されるままでは非常にまずい。ゆえに水明は、ここが男の頑張りどころと一歩踏み出し、隣を歩くレフィールに今後の動きを訊ねた。
「あ、あのさ。やっぱり直接クラント市には向かわない方が良い……かな?」
目的地までの進路の変更の如何については話しておくべきであると思い、しかし語調は些か不自然なこの切り出し。
だが事実、現在二人は魔族との遭遇を警戒しながら進んでいるため、まだ森を抜けるには至っていない状態であり、ルートを外れたこともあり元々の向かう予定だったクラント市への行き道も定まっていなかった。
そのため、水明はここからクラント市に向かった場合のことを話題に挙げたのだが、一方のレフィールは上の空だったか話をしっかりと把握していなかったらしく。
「え?」
「いや、ちゃんと話し合わなきゃってさ……」
「あ、ああ。そうだな」
水明の提案に一拍以上遅れての彼女の返事は、聞いてなかった誤魔化し混じりだった。目を点にしながら、彼女らしからぬ焦りを見せてこくこくと頷くレフィール。
そして、気持ちを切り替えるためか一度深呼吸をして、咳払いまでして、水明に応える。
これで、やっと戻った真剣な面持ちの考察。
「――ああ、やはりここから真っ直ぐ西に進んだ場合は待ち伏せされている可能性が高い。極力魔族との接触を避けるなら、多少南下してでもルートを変えた方が良いと私は思う」
「待ち伏せか、ありえそうだもんな」
そう、彼女の言う通り、魔族が森の外で張っている可能性はあった。ラジャスが部下を手広く動かしていると言っていた以上、森からクラント市までの間にも魔族がいることは考えて然るべきである。
と、そんなレフィールの予測を聞いた水明は、以前見た地図を頭の中に思い浮かべた。
現在位置は、大本のルートであった街道から南に逸れた森の中であり、メテールとクラント市を結ぶ街道を区切りに、山の裾野の手前からクラント市近くの平原まで大きく広がる巨大な森を、街道に並行して移動している。
そこからまだ南下するとなると、クラント市まではかなりの大回りになる。
食糧については十分な量を確保しているから問題はないが、そうなれば野宿ばかりでまともに休むことが難しくなるため体力の消耗は避けられないだろう。
だが、やはり背に腹は変えられないものであり。
「クラント市に向かうなら、ある程度時間を空けてからの方がいい。このまま奴らに見つからなければ上手くやり過ごすこともできるはずだろうしね」
「そう上手くことが運ぶか?」
「奴らだって、戦力をクラント市周辺の平原に置きっぱなしにできるわけでもないだろうからな。奴らも私たちが見つからなければ、引き上げていくだろうさ」
顎に手を当て、思案顔のレフィールが述べたその考えは尤もだ。
人間とは違えど、魔族だっていつまでも軍隊を展開できる訳ではない。時間が経てば経つだけ、部隊は食料や休みやらとこちらと同じく損耗していくのだ。拠点が近くにない以上、時間が経って部隊が疲弊し切ってしまう前に、撤退はあり得る。
それに――
「ま、大っぴらに戦力を運用すれば、この国の連中に見つかって討伐軍も出てきて、それなりにでかい戦いになっちまうだろうしな。奴らがそれを望んでいるなら話は別だが……」
「ないだろう。クラント市は確かに大きい都市だが、結局は人間の一都市だ。軍事的な要衝でもないし、奴らにはここで大きな戦いを起こすメリットがない。都市を落とすことが出来ても、この辺りで無理にそんな戦を起こせば、奴らだって被害は出るし、勝ったところで結局孤立無援になる」
「そうだよなぁ。アイツらにとっても結局はジリ貧だもんなぁ」
木々の傘と木漏れ日を仰ぎながら、レフィールに同意する水明。もし魔族が、この辺りの都市を攻め落とすことを望んでいたとしても、それは彼らにとって利益には繋がらないことだ。
確かに小さな局面での勝機はあるだろうが、大きな局面で見ればただいたずらに軍隊を消耗させるだけの無謀な戦いとしか言いようがないのだ。
まともな頭があるならば、そんなことは絶対にしないはずである。
(だが……)
その点で言うと、奴らがここまで来た理由と言うのが未だ謎ではあった。奴らの大本の目的がレフィールでないのなら、ラジャスは一体何のためにこんなところまで部下を引き連れて来たのか。こんな状況になってしまっては、自分たちにはもうどうでもいいことなのかもしれないが。
まあ、とにもかくにも。
「確かにそうだな。ここで俺たちに執着しているよりも、問題が起こる前に引き上げていくことの方が可能性としては高いか」
「森の中に攻め入ってこなければの話だが……まあ今のところそんな動きはないしね」
レフィールはそう憂慮にも満たない可能性を口にするも、すぐにそれを否定する。魔族たちも普通ならば森の中まで威力偵察くらいして然るべきなのだ。にも拘らず、それがないと言うことは。
「もしかしたら連中、俺たちの行方を計りかねてるんじゃないのかね? 実際俺たちが森の中に入って行ったのを知っているのは商隊の人たちだけだしさ」
「かもしれないな。普通は森の中にまで逃げ込もうとは思わないだろうし。その可能性はある」
レフィールもそう思うか。少し曖昧な物言いをしながらも、こちらの予想に対し首肯する。
しかし楽観にも似た予想を提示した水明にも、一抹の憂慮はあった。
(そうだ。あるとすれば、奴の言っていた面白いことを思いついた……か)
先日聞いたラジャスの言葉を反芻し、今しばしの思案顔。あの時あの魔族は一体何を思いついたのか。不安を煽るあの言葉。敵が面白いことを思いついたなど、こちらの懊悩を助長させるものでしかない。
推測する材料が少ないいま、それについての考察ができないため、痛いところではある。こういう場面は往々にして、後手後手に回ってしまうのだから。
「ま、何はともあれ、今はある程度距離を稼いでおかないとな」
「そうだな」
不必要に膨れ上がった不安を振り払う水明の言葉。それに異もなく同意した彼女の声を耳にしながら、水明は森の中の緑を掻きわけていく。
今後の方針もそれなりに固まり、これで多少足取りも軽くなったか。
ともあれここで一番彼の憂慮を解消したのが今の会話であって――
「ふぅ……、何とか普通に話ができたな……」
額に汗。ささめくような僅かな声量で、本気の安堵の息をつく水明はひっそりと笑みを作る。このまま話せず、意思の疎通もできずにいたらどうしようかと、内心かなり不安だった。
そんな面も、彼の人生経験の浅さを物語るものか。これについては魔術一辺倒であったため仕方のないことだろうが。
しかしいま、そんな安堵の言葉にまさか返る声があった。
「……すまない。気を遣わせてしまって」
「うぉらばっ!」
よもや独り言に声が返るとは。横合いからかかった申し訳なさそうな声を耳にして、過剰に狼狽えた叫び声を上げる水明。致命打を受けたか、もしくは断末魔か。聞いたこともないような動揺を張り上げて、飛び退いた。
それに対しレフィールは、不思議そうな面持ちで。
「……どうしたんだ? そんな奇妙な声をあげて」
「き、聞こえてたのか⁉」
「それはそうだろう。こんな近くなんだからな」
水明に対し、「何を言ってるんだ君は」とツッコミを入れるような、呆れの滲んだ態度のレフィール。彼女に言われてみれば、確かにそう。こんな距離で安堵の息でも吐けば、嫌でもそれは聞こえるだろう。
そんな彼女の顔を見て、失態を誤魔化すように抜けた笑いを見せる水明だが。
「あ、あはは。だよな……」
「ふふふ」
返ってきたのは淑女然とした嫋やかな笑いだった。
それに対して水明は、キョトン顔で訊ねる。
「……なんだ?」
「いや、スイメイくんは結構うっかり者だなと思ってな」
「うぐ!」
正鵠を射られたら、そこが違わず急所だった。そんな時に出してしまうような呻きを口にして、水明は悄然と肩を落とした。
それに対し追い討ちとばかりに、レフィールが言う。
「確かギルドに初めて行ったあの日も――」
「そ、その話は蒸し返さないでくれよ……」
頭を抱え項垂れる水明。擬音が付くならへもへもか。確かにあの時、ランクを操作するためにギルドの職員であるドロテアたちに強暗示――マルム・ヒプノティックをかけ誤魔化したが、あの日にやったうっかりには特別な対応をしていなかった。
ならば、ここで話に上ることもあるだろう。その場にいた人間もかなりいたのだから、当然だ噂にもなっている。
青菜に塩して、くさくさになった――。そんな意味の全く通じない例えがばっちり当てはまるような表情を作る水明に、レフィールは微笑みを浮かべる。
「意外と隙だらけなんだな、君は」
「へーへー、どうせ俺はうっかり者ですよーだ」
口を尖らせて、豚の鳴き声のような声を発して水明はふて腐れる。
それを見るレフィールは、微笑みを強めるばかり。噴飯ものだとでも言うように、水明の表情変化を楽しんでいた。
……それにしても静かだった。和やかな雰囲気に二人の距離も縮まり、会話もそこそこはずんでいる。それは決して悪いことではないのだが――しかしどうしてこれは、大きな嵐の前には必ず風が凪ぐようなあたかも。危機の内に置かれているはずなのに、恐ろしいほど穏やかすぎて、逆に杞憂が脳裏をよぎる。
水明がバツの悪さに頭を掻きながら、この安穏に不安を抱く、そんな折だった。
不意に二人の後ろの藪が、がさがさとざわめく。
「――ッツ、スイメイくん!」
「ああ」
何かの気配に即座に振り向き、警告のように呼びかけを放つレフィールと、彼女の予想に違わず呼応する水明。いま後ろに、さまよう幽鬼のように突如として現れた漠然とした感覚の正体それは、野犬か、はたまた狼か。ともすれば魔物か、もしや魔族か。
水明は襲い来るかもしれないもしもの危機に、推測を全力をもって働かせ、一欠片の油断もなく警戒を抱く。
一気に剣呑さを増す辺りの雰囲気。剣士と魔術師の緊張に、空気が夥しい棘を孕むが、しかしそこから現れたのは二人が予想したものとは全く別のものだった。
揺れる茂みを掻き分けて出てきたもの。
それは、全身に傷を負った人間だった。
「たす、たすけ……」
「――⁉」
「お、おい⁉」
予想だにしない者の登場に、驚くレフィールと水明。現れたのは冒険者の風体をした男。足元は覚束なく、目は虚ろ、服は裂けて血で真っ赤で、全身に裂傷や火傷のあとの爛れたような痕を残している。耳に聞こえるのは、虫の息のように微かな呻きと、ヒューヒューという喘鳴。
満身創痍。そのなりで、こんなところまで来たのか。
傷のせいで視線の焦点もあっていない男。彼に、レフィールが駆け寄る。
「しっかりしろ⁉」
「あ、ぐ……あ、あんたは……」
レフィールが大声で呼びかけると、男は気付いたらしい。まだ虚ろな視線をしばし宙にさまよわせて、やっとレフィールの顔に焦点が合う。
そこに、再びレフィールが問いを掛ける。
「一体どうしたんだ⁉」
「ま、魔族に、おそわれ、た。山の……中で……」
「山? 魔族?」
男のたどたどしい言葉から聞き取れたのは、そんな単語。断片的な男の言葉に顔を険しくさせるレフィールに、水明はとあることに気が付いて、肩を叩く。
「なあ、レフィール。この男」
「彼がどうした?」
「いや、こいつあの時の冒険者だ」
「あの時? あ――」
にわかに上がる彼女の気付きの声。いまので、レフィールも気付いたか。傷や出血が多く、一見しただけでは分からなかったがこの男、レフィールが商隊から離れる羽目になったあの折に、一番騒がしく喚き立てた護衛の一人だった。
魔族に襲われて、ここまで一人逃げて来たのか。もしくは助けでも呼びに来たのか。いずれかは分からないが、なんにせよこのままではまずい。
冒険者を抱え起こすレフィールは、唐突な状況のせいでまだ戸惑いと焦りの内にある。いや、抱き起した状態のまま止まってしまっているため、もしかすれば自分を追い出した男と気付いて思考の方が鈍くなっているのかもしれない。
果たして、水明は魔力を手のひらに集めながら、彼女に指示を飛ばした。
「レフィール。その男をそこに寝かせてくれ。いまから治癒を掛ける」
「あ、ああ。分かった」
こちらの呼び掛けに、切れ味の悪さは否めない。レフィールは我を取り戻すのに一瞬かかったが、すぐに状況を鑑みてうんと重く頷き、静かに男の身体を地面に降ろす。
正しき道をひた歩く少女に、恨みは一片もなかったらしい。
「頼む」
「ああ」
その言葉に、水明は頷く。そしてかけるは、治癒の魔術。即死かそれに近しい重篤な状態でないのなら、まだこちらの技術で補えるのだ。外傷に対しては心霊治療が有効で、大幅な血液の損失に対しても多少の後遺症は免れないが、復元魔術でカバーできる。
冒険者の真下と、水明の手のひらに浮かび上がった魔法陣と全く同じ色。淡く立ち昇る翠玉色の魔力光に癒されて、冒険者の傷口がみるみる内に塞がっていく。
だが――
「……」
そこで、水明は諦めた。
治療も半ば、傷病者を覗き込む俯き加減と無言のまま、あてがった治療の御手を静かに下げる。
「え……?」
それには、レフィールも困惑を呈するしかなかった。横から見ていた彼女にとって、彼の行動は治療半ばでの放棄としか写らなかっただろう。予期せず治癒の手を止めた水明に、レフィールは今一度逼迫した声を浴びせる。
「スイメイくん⁉ どうしたんだ⁉ なぜ止める⁉」
困惑に些かの不審が滲んだような表情が、水明の胸に突き刺さる。期待を裏切った。いや、光明を見た瞳に今のような諦めが写れば、それ以上の失意があるか。しかし、水明も手を止めざるを得なかった。得ない理由があった。
彼女が発した問い質しのような訊ねに、彼は顔を苦渋に歪ませ、その理由を告げる。
「……無理だ。アストラルボディが回復不能なまでに消耗してる。もうこの男にどれだけ治癒を掛けても、意味はない」
できないと。治らないと。不可能だと、そう。しかし、その説き明かしは、傷が塞がりゆく光景を見ていたレフィールにとって理解できないものだったか。
治癒で治った傷だけを見て、心に抱いた不審と不信を浴びせて来る。
「何を見ているんだ君は? 傷は君の治癒で治ってきているんだぞ? 意味がないわけないじゃないか。どうして……?」
「傷は治るんだ。傷は。だが……」
「なら――」
治るのではないか。そう言おうとしたのだろう。だが水明は苦渋を噛みしめつつその言葉を遮るように首を横振る。
それを見たレフィールは、何故だと言わんばかりの顔。
「どうして……」
レフィール掛けたその失意に沈んだ言葉が痛い。心の内に湧き上がるのは、無力さか。例え治癒を施すのが、関係も薄く一度嫌悪を抱いた相手だとしても。この苦さは止められない。
一方でレフィールは、その諦めを別のことと勘繰ったらしく。
「スイメイくん。まさか治療の手を止めたのは、この男が私を追い出した男だからなのか? 見くびらないでくれ。私はあの時のことはなにも気にしてはいない! だから早く治療の続きを!」
「……」
「スイメイくん!」
「いいや、ダメなんだ。確かにレフィールも見た通り、身体についた傷は治すことができる。できるが、さっきも言った通り、アストラルボディ――つまり魂の本体とその器である精神の殻が目減りしている以上、これ以上どんなに治癒術をかけても、生き延びさせることはできないんだ」
「な……⁉ そんな……」
もはやカゲロウのように儚くなった命の脈動を見据え、言葉を失うレフィール。そんな彼女に、水明は無念さを吐き出すように告げる。
「いくら治癒の魔術を身に付けていても、他人の魂に関してはどうにもできない」
「……本当に無理なのか?」
「条件が揃えば、万に一つできないこともないかも知れない。だけど、それをやるにもいまは時間がない。いまから準備をしても、まずこの男の身体の方が保たないだろう」
「……っ」
水明の断言に、レフィールはきつく歯噛みして、項垂れるように肩をがっくりと落とす。死にゆく者を見るのは、誰であろうと辛いものだ。その原因が魔族にあり、そして魔族と戦ってきた彼女にとっては、その感情の止めどなさは誰よりも激しいものだろう。
……二人それぞれ、失意に苛まれるそんな中、不意に男が口を開く。
「ほ、他の奴らが……ま、魔族に、まだ襲われて、いる」
「まだ生きている者がいるのか⁉」
レフィールがそう驚きと共に訊ねると、男は息を吐くのも辛そうに、しかし彼女の問いに答える。
「わから……ない。もしかしたら、まだ……」
「まだ生きているかもしれないんだな⁉」
「……」
問い返す声に、しかし返る声はなかった。
どうにかして酸素を肺に取り込もうと、もがくように口を動かす冒険者の男は、もはや声も出せないか。そんな彼に、何を思ったかレフィールは静かな声で訊ね掛けた。
「……他の者は山の方にいるんだな?」
その問いは、意味のあるものなのか。落ち着きすぎて、冷え切ったと誤認してしまいそうな彼女の声。鬼気すら垣間見えるようなそんな寒心を誘う訊ねに、男はゆっくりと頷く。
そして間もなく、男は息を引き取った。
「――っ」
「……」
男の死に、声なき声を漏らすレフィールと、険しい顔を下げる水明。
……やがて、レフィールが膝立ちだった姿勢から立ち上がり、そして、翻った。水明に背を向け、彼女が向き合ったその方向は――
「……おいレフィール?」
それがどういうことなのか、わからなかった。故にそう訊ねを掛けると、レフィールは背を向けたまま、何故か謝罪の言葉を口にする。
「すまない。スイメイくん」
「すまないって、どういうつもりだ? どうしてそっちを向いている?」
訊ねると、レフィールは至極当然だとでも言うように。
「スイメイくん。それは愚問というものだ」
「愚問って……」
分かり切ったことだと言うか。――いや、確かに分かり切ったことだった。いま、彼女が翻ったその先にあるのは、これまで自分たちが歩いてきた道だ。無論その先には、以前に通った山がある。おそらくは、あのあと商隊の人間が魔族から逃れるために引き返しただろう、山があるのだ。
やがてレフィールは意を決したか。こちらに振り向き、決然と思いを口にする。
「スイメイくん。私はこれから商隊の人たちを助けに行く」
「助けに行くって、本気か?」
「ああ、冗談を言ったつもりはない」
「商隊の人たちのいる正確な位置も分からないのにか⁉」
「おそらく、山道沿いにいるだろう。そのあてが外れても、たかが知れてる」
「生きているかも分からないんだぞ⁉」
「そうだ。だが、もしかすれば生きているかもしれない。だから――」
行こうと言うのか。助けに。無謀とも言える救援に。だが、それはいけない。決して行ってはいけないのだ。だってそれは――
「分かってるのか⁉ これはレフィールをおびき寄せるための魔族の罠だ!」
「罠、か」
「そうだ! 人間と見たら見境なしに襲ってくるような奴らだぞ? 手負い一人みすみす逃がすもんか! きっと行った先で、ラジャスが君を待ち構えているぞ!」
そう、これは罠だ。罠なのだ。それは誰にだってわかることだろう。レフィールが商隊の人間を助けに来ることを見越しての、これは非道な誘引の策だ。死にかけを逃がし、それを見つけた彼女が取るだろう行動を読んだ上での一計。彼女の性格が分かっていれば、こんなことも思いつくだろう。
確かにここは深い森の中で、彼がここまでたどり着けたのはほとんど偶然と言っていいだろうが、そんな思惑のもと逃がされた可能性は十分にある。おそらく、救援に駆けつけた先であのラジャスがレフィールを待ち構えていることは想像するに難くない。
だが、そんな水明の訴えも虚しく、レフィールは落ち着き払った声を返す。
「……かも知れない」
「かも知れないって……レフィールにだって分かってるんだろ!」
「ああ、そうだ。君の言う通りだ。これが無謀なのは、私にもわかっているさ」
「なら‼」
「だがっ‼ ……っ、それでも私は助けに行きたいんだ! 私のせいで、こうなってしまったんだ! 全部! だから!」
行くなと食い下がる水明に、レフィールは感情を溢れさせる。いままで積もり積もったそれは彼女の呵責だろう。助けに行きたいという思いと、自分が助けに行かねばという思いが、ひしひしと伝わってくる。
しかしそれは、レフィールの自責が行き過ぎたものでしかない。
「だからそれはレフィールのせいじゃ……」
「いいや、もう私のせいだ。君も今言ったろう? 彼がここに現れたのは、魔族が私をおびき寄せるために仕掛けた罠だと。私が行方を眩ましたからから、ラジャスはこんな手段に訴えたんだ」
「それは……、だけどこれじゃあどうしたって死にに行くようなもんだろう⁉」
そうだ。待ち伏せとは生ぬるいものではない。待つ相手との戦いを期して、相応の準備をしてから臨むのだ。行って不利になるのはどうしても避けられないことだし、それが一度負けた相手ならばなおのこと。
だから水明は執拗に食い下がるし、引き止める。
「レフィール! 考え直せ! 落ち着いてもう一度よく考えるんだ!」
だが、レフィールは振り向かなくて――
「レフィール‼ こっちを向け‼ 君ならわかるはずだ!」
「……」
「レフィール‼ 君は死ねないんだろ⁉ 精霊の力を絶やさないために! ならこの場は――」
水明がそう言いかけた時だった。いままで黙って肩を震わせていたレフィールが、口を開く。
「君に……」
「え?」
「君に私の何が分かるっ‼」
「――ッツ⁉」
水明の言葉を止めたのは、心の底から発せられた叫びだった。そして彼女が訴えるのは、堰をきって溢れる思い。
「これ以上、君は私に目を背けろと言うのか⁉ 大事な人たちを見捨てて! 肉親まで見捨てて! そのうえ私のせいで危機に陥った者たちまで見捨てろと言うのか⁉」
「……」
レフィールの言葉が、水明の耳を打つ。心を打つ。口にできる言葉は、彼にはなにもなかった。
彼女が抱いたそれは、その思いは激情は、これまでずっと心の内に押し込めてきたものか。誰も助けられなかった辛さ。誰も助けられない自分。それに堪えられないと叫ぶのは、真に彼女が誰かを助けたいと思う故だろう。
ならばなぜ、それを遮ることができようか。
「私はいつまで逃げればいい⁉ 私はいつまで助けたいものを見捨てればいい⁉ 自分の命を惜しむために! 自分の思いも誰かの命も犠牲にして! そんなの……そんなのもう沢山だ!」
叫ぶ声は、世の理不尽さに向けたもの。これまでどこへも向けることができなかった慟哭が水明の心を打つ。
そう、自分の気持ちを裏切れば裏切っただけ、呵責が幾重も積み重なっていく。それが正しいことならばなおさらだろう。確固とした信念がある者ならば、それは決して堪えることはできないものだ。
そして、そんな思いを叫び尽くしたレフィールの目尻には、うっすらと涙がにじんでいた。
苦しいのだと。辛いのだと。しがらみにがんじがらめになった女の、それは哀惜満ちたる思いの結晶。
……やがて、荒くなった息が整い、落ち着いたか。レフィールは取り乱したことの謝罪を口にして、再び翻った。そしてもう二度は振り返らないと、今生はここで定まったのだと言うように、決別の言葉を口にする。
「……すまない。短い間だったが、君には世話になった」
「レフィール⁉ 行くな‼ 待て‼」
引き留める声が行き着いた先は、結局のところ虚空だった。
レフィールは水明の制止の声も聞かぬまま、元きた道を、赤き精霊の力か、尋常ならざる速度で駆けていった。
「お、おい。本気で行っちまうのかよ……」
取り残された水明の呆然とした呟きが森の中に響く。それだけレフィールの走る速度は凄まじく、もういくら声を張り上げても届かない。
追い縋りに進んだ足を止め、立ち尽くす水明。
「……」
行ってしまった。己を追い出した者を、罵った者を助けるために。自分の信じていた道を貫くために。呪いと不幸に苛まれた少女。勝ちの光明が決して見えない戦いに向かって、行ってしまった。
「ッツ……」
その事実に、ぎりりと奥歯を軋ませる。
このまま、行かせたままでいいのか。先に絶望しかない戦いに。あのまま、一人で。
ならば以前のように、追いかけるか。
だが、行けば確実に自分の命まで危うくなる。当然だ。戦わなくてはならないのは、あのラジャスという魔族に加え奴の部下までいるのだ。戦いは相応に厳しいものになるだろうし、下手をすれば命を落とす可能性もある。
だが、それはいけない。自分には死ねない理由がある。自分は父の望みを叶え、結社の理念を実現しなければならないのだ。そういう、約束なのだ。例えそれが交し合ったものでない約定だったとしても、一方的な取り決めだったとしても、約束は約束だ。決めたが最後、果たすまで諦めてはいけないものだ。
しかし、それでいいのか。それでいいのだとここで決めて、自分にはやるべきことがあると言い訳して、一度も後ろを顧みずに、自分は安全な道に行けるのか。これから起こる戦いを、見なかったことにできるのか。
救いのない道をひた走る彼女を、助けずしていいのか。
そう――
――救われぬ者を助けるがゆえの命題なのに、命題をこなすために救われぬ者を見捨てては、本末転倒も甚だしいのではないか?
「く……」
自身の在り方の矛盾を問う、そんな声が頭の中に響く。
いつから自身は、死などと言うものに怯えるようになったのか。そんないつかは来るものを恐れ、躊躇いに二の足を踏むようになったのか。そんな、なんの力も持たない者が抱くような、惰弱と切って捨てられるような臆病さを。
だから、今一度思う。
自分が持っているものは何なのかと。幼いころから必死になって覚え身に付けたのは、何者をも凌駕するための魔術ではないのか。あらゆる困難を切り開く、そのための神秘ではないのか。助けたい者を決して取りこぼさないための、万能ではないのか。
そう今が今、葛藤に揺れる心。いや事実、ここで選ぶ答えが一つしかないと言うことは既に分かっていた。自身の内に葛藤があったとしても、頭の中で危機感が警鐘を鳴らしていても、己の打算が勝利と敗北を天秤にかけていたとしても。だってそう――
――そのために、自身はあの日誓ったのだから。
「そうだ。八鍵水明。お前は結社の魔術師だ。結社の魔術師が、その理想を追わずしてなんとする……」
独り言のように言い聞かせる言葉は、何か。自身の思いを再び一つにするための、それは確認のような口ずさみ。自分が求めたものを再び回帰させるための、ささやかな儀式である。
そして新たな変事が起こったのは、そんな折だった。
「……」
今しばし口を閉じ、瞳を冷ややかに細める水明。
背後から、何者かが立ち上がる気配がする。魔族の放つおどみのような力の気配を伴って、ゆらりとそれこそ幽鬼のように。
つい先ほどまでそこにあった弱弱しい生気とは打って変わって、それは凶々しく強壮だった。
――治癒が効きにくかったのは、そういう事か……
その事実を背後にして、抱いていた疑問が氷解する。
それは、冒険者のアストラルボディの不自然な損耗について。
アストラルボディの過剰な損耗は、物理的な外傷では通常起こりえないものだ。例えそれが致命的な怪我だとしても例外ではなく、魂の絶対量は目減りしない。確かに怪我をすれば精神の力が弱まることはある。だがそれは精神が耗弱するだけで、魂が削れていくことはないのだ。
故に、冒険者の男には外傷以外の何らかの攻撃が加えられていたことになる。魂に対して有効な攻撃であるアストラルアタックがあったかもしくは、魂を侵食してしまうほどの要因があったか。そのどちらか。
今回の結果を見れば間違いなく前者だろう。
おそらくは、死者を前に油断したレフィールに対して一撃負わせるための、仕込み。
「――ッツ」
「##############‼」
呵責に喘ぎ、涙を流した女を追い掛けようとする水明の背後にいま、生きた屍が産声を上げる。