呪いにむせび泣く者
お待たせしました。ちょっと不快な描写があるかもです。
レフィールと森で合流したその夜。水明は冴え冴えとした夜気に身を委ねながら、一人異世界の星空を眺めていた。
森の中にあった岩場の近く。木々の少ないここが、この付近では最も見晴らしが良いと思われる場所。崖の一部が崩れて落ちてきた物か、地面にめり込んだ大岩その上。そこに胡坐をかいて尻を据え、水明はほうと肺の空気を入れ替える。
「方角はあっち、と……」
月と星の輝きで多少明るいか、濃い紫色の混ざった暗黒を背景に広がる星空。排気ガスに汚染された現代では決して拝むことのできないようなそんな夜空を見つめて水明が割り出したのは、東西南北。その、方向だった。
森の中を感覚頼りで動いていたせいで方角を失している可能性を懸念した彼は現在、星空を見上げ正確な方位を計っていた。
無論、自分たちの向かうべき方向、クラント市のある西は森を歩いている時も常に意識していたのだが、それでも人間の感覚という心許ない物頼りだったため、ズレの拡大を恐れ、星占術の知識を応用し、この夜、その確認のため空を仰いだ。
水明も異世界の星座はさっぱりだが、もう何日もこの世界で過ごし、夜空を見上げた回数もそれなりにあるため、星と月の位置は概ね理解できており、方角程度の初歩的なことなら問題なく割り出せる。
だが。
(使えても、これくらいだもんなぁ……)
この世界に来てから落ち着かない要因の一つが、またここでも彼の懊悩を増やしていく。
空を眺めながら、腹の底から憂鬱そうなため息を吐きだした、水明。
そう、できてもこのくらいとの言葉通り、この世界で水明ができる星占術は現在この程度でしかない。
確かに星のスペクトル――ここでは星が放つ光線のことを指す――を魔術的に分類して、あの星がどんな属性にあるかなどを割り出し、多少魔術に利用することは可能だが、星占術の代名詞である占いや、魔術に応用するのに最も効果的な星の威光は、名前や星に関連する意味、星座の影響力を実質全く利用できないため、こちらの世界では最大限の効果を発揮しえないのだ。
流星落、氷呪の魔術がそのいい例だろう。向こうの世界では場所や時間の条件さえ揃えば凶悪な威力を誇るこれらの魔術も、ここ異世界では効果を最大限に発揮した時の半分以下しかその神秘を引き出すことが出来ないのだ。
戦いで頼みとする強力な魔術二つがそれではと、水明とて憂鬱に淀んだため息も吐きたくもなる。
「うへぇ……」
――さて、レフィールと魔族の話をしたあの後、夕暮れ前に野宿ができそうな場所を探すことにした水明は、彼女と二人そのまま森の奥の方へと足を踏み入れた。
道中は蔓やツタ、藪がうざったく、狼の群れにも出くわす事もあったが、終ぞ魔物には会うことなく数刻で水場と夜露をしのげそうな洞窟を見つけることが出来た。
この状況でそれは、望むべくもない僥倖だっただろう。
その頃にはもう夕日は半分以上溶けだしており、空は夕方と夜の切り替わりの境目にあったため、早急にねぐらの準備を整え、ささやかな夕食を経て、現在に至るのである。
星空を眺め、水明は今後の事に思いを馳せるが、その指針はまだ定まりを見せていない。
情にほだされ飛び出してきたはいいものの、さてこのあと、どうするべきか。状況を鑑みて、おそらくはあのラジャスと言う魔族と戦うことは避けられないだろうが――
「仲間連れて来るって言ってたっけな、アイツ」
昼間に相対した魔将、ラジャス。その巨大な躯体と口上を一たび頭の中に想起して、思慮を計る。
ラジャスはあの時、レフィールに向かって俺の部下を連れてどうのと余裕を口にしていた。まさか、レフィールの話にも出てきたように数十万単位で手勢を連れてきているとは思えないが、何かの軍事行動を企てていた様子ではある。そこそこの数との接遇は覚悟しておかなければなるまい。
ゆえに流星落が使えないことがここで大いに悔やまれた。魔族には特定の魔術しか効かないだろうが、アッシュールバニパルの焔を使った時のように、おどみをものともしない威力さえあれば多少無理は通せるのだ。星空に瞬く数多の輝きの持つ力を結集し、涙と落とす星空の魔術。術の特性上、夜にしか使えない限定的なものではあるが、その術の規格外さは推して知るべし。広範囲に展開した敵を大威力で殲滅できるあの魔術が最大威力で使えないのはどうあっても痛い事態。
と、水明が今度こそ懊悩に大きなため息を吐こうとしたそんな時だった。
「ん? レフィール?」
いつの間に洞窟から出てきたのか。水明の視界に騎士装束のみをまとったレフィールの華奢な後ろ姿が入り込む。
一人今からどこへ行こうと言うのか。ふらふらと夢遊病者のようなその足取りは、全くもって覚束ない。まさか操り糸にでも繰られたか。そんな奇異な発想が過るほどに正しい足取りを失って、水明のいる方向とは逆の、森の奥の方へ行ってしまった。
……はて、こんな夜分に武器も持たずどこへ行くのか。少女剣士の考えがつかめない。彼女は夕食を食べた後に、少し疲れたと言って一足先に休んでしまったのだ。魔族との戦いや、商隊との一件、狼を追い払ったりと疲労が溜まったゆえだろうが、そのはずなのにこれは一体どうしたのか。
「確かあっちは」
腕を組んでしばししかめっ面で考え巡らせ、空を見る。
周囲を調べた時の事を手っ取り早く思い出そうと水明は、何があったか、と記憶の海へ。
そうだ。レフィールの向かった場所には確か、水場がある。少し高くなった場所にできた小さな滝と、小川だ。
だが、もう既に洞窟には必要な分の水を確保しておいているので、わざわざいまからそこに出向く必要はないはずなのだが――
「……」
背後に舞い降りた不穏な気配に目を細める今が今。あまり良くない予感が水明の首筋を不快になるほど撫で回す。
レフィールはあの覚束ない足取りだ。ふらふらと、まるで尋常さを窺えない。しかも森の奥に入るには必須と言える武器も携行せずなのだ。これは、何かある。おかしなことが。
ならば、ここは追いかけた方がいいか。
そう思い立ってはすぐ、水明は岩の上から飛んで森の奥に分け入ったレフィールを追いかける。
茂みを掻き分け、木々の間をくぐり、奥へ。すると、間もなくして水場についた。ここまで、レフィールには追い付いていない。
そして、水明が彼女を探そうと水場の前の茂みから出ようとした時、急に何か布のような物を踏んづけ、滑りそうになった。
「おっとっと……なんだこれは?」
危機一髪。気づかなければ、いつかこの世界に呼び出された時のように、しこたま尻を打つところだった。
だが、それにしても自身は一体何を踏んだか。こんな森の中に、無造作に落ちているものとは。そう水明が、自分が踏んだものが何か確かめようと、かがんで両手で持ち上げ広げると――果たしてそれは。
「へ……?」
知らず、水明の声が素っ頓狂に裏返り、頭の回転が困惑に鈍くなる。見た者の誰もが間抜け面と評するだろうその表情をして、彼が持ち上げたその布状の物体とは――服。人が身に着ける、着用を目的とした……要するに衣服だった。
しかもそれは、水明も最近よく目にすることの多い、見慣れた服でもあった。
何を隠そうそうそれは、先ほども大岩の上で見た、レフィールが身に着けている騎士装束であった。
「え、お、お、おい待て、ってことはつまりこれって……」
言葉が上手く紡げないのは、無論目の前に広げたそれの所為。その戸惑いやうろたえは、焦りに加速するどもりまじりの独り言。
身近な女性の衣服が転がっているのだ。水明でなくとも度を失うのは無理からぬことだが――さて。よく見るとその付近にはこの世界の女性が身に着ける下着も落ちている。つまり、いまレフィールは騎士装束や下着を脱いでいる状態であって、それが意味するところは――
ほどなくして、現状の全てを把握する水明。女の子の衣服が落ちている+下着=の計算式が完全に彼の頭の中で出来上がった。今の彼にはある意味、悪魔がこしらえた方程式か。
そして何の意図があった訳でもなく、水明は見えない何かに視線を引っ張られたように、その困惑に染まった目をそちら向ける。
すると、そこには案の定と言った具合に、一糸まとわぬ姿で水辺にいるレフィールの姿があった。
(あ、あぁあああああああああ‼)
今が今、感情に押されて心の中で叫ぶ水明。その感情は無論、羞恥と巷で呼ばれるもの。何が不穏な予感なのか。首筋におかしな感覚なのか。何故そんな風に思ってしまったか、少し前の真面目な自分。予感に後押しされて来てしまったことへの後悔で、頭の中が満杯だ。
例えこれが思い違いであったろうと、傍から見れは完全に女の水浴びを覗きに来た出歯亀の図なのだから。
彼女の服を持ち、藪の中から覗き見ている姿を第三者に見られれば、変態のそしりは免れない。
否、それよりも――
「いや、まて見るな水明。見ちゃあいけない! ほんとはちょっと見たいけど……ってそうじゃない! そうじゃなくて忘れろ! 忘れるんだ俺! 今見た事は全部忘れて、さっさと戻るのが――」
そう、真っ赤になりながら、水明は自分の中の何かを否定しようと腐心する。見たいという男の情動と、見てはいけないという男らしさの矜持が拮抗する男の無駄な葛藤がそこにはあったが、しかし実情、今の水明には冷静な思考力が全て頭の中から飛んで行ってしまうほどに、完全に混乱の極みにあった。
じっくり見ようとか、目蓋の裏に焼き付けておこうとか、そんな考えはそれこそない。こんなことに対応しきれない魔術一辺倒の頭なのだ。加えて基本的に真面目な性格のため、大きいとか、引き締まっているとか、綺麗だとか、素晴らしいプロポーションだとかの単語までも全て仇と断定して、頭の中から消しにかかる。
と、そんな折だった。唐突に水明の耳が、ある声を捉える。
――あ、あ……ぅく、あ……。
「え――?」
空気を震わせる微かで儚げな息遣いに、水明はふと前後のことも忘れて怪訝に染まった声を上げる。
――いま、自身の耳に、言葉ではない声で窮状を訴えたのは何か。何かに喘ぐような、呻くような、そう、苦しみにかすれた女の声は、耐えられない熱に身を焦がされているようなそんな声。
これは、ただの水浴びではないのか。
その喘ぎに心引き寄せられ、水明はもう一度レフィールの方を見遣る。
視線を向けた先、水際で、レフィールは近くの岩べりにその身を預けている。
よく見れば、彼女の目に正気の光はない。水浴びをしていると言うよりは、意識のないまま、水辺で苦しんでいるようなその姿。
どうしたというのかその呻吟は。一体彼女は今、何の苦しみに喘鳴を漏らしているのか。
その時に、水明は見逃さなかった。彼女の身体を侵すように刻まれた凶々しい紋様がその腹部にあったのを。
「――ぁ」
知らず漏れ出した、全てを察した気づきの声。それを目に留めた瞬間だった。持ち上げていた腕も、ここで不意に出した声も、彼女を見る瞳も、勝手な羞恥に焦っていた心も、その全てが、愕然と垂れ下がった。
――呪い、だ。
その言葉が水明の頭に紛うことなく浮かび上がった時、今まで彼の思考を占有していた免疫の無さからくる恥ずかしさや、それに付随する混乱が、立ち消えるように霧散した。
ああ、と。なぜ、と。
動揺に暮れた言葉が通り過ぎ、そして代わりに彼の心を占めたのは――否、締めたのは、遣る瀬無い思いと失意に沈んだ、そんな憐れみの感情だった。
ここにも、呪いに苦しめられる女がいるのか、と。
呪いだ。そう、あれは呪い。初めて見る型だが、おそらく間違いはないだろう。レフィールの腹部辺りに残されたあの紋様がその証明。
赤黒い曲線の重なりが、彼女の白く美しい肌を侵している。異世界の呪いだろう。紋様が魔力を帯びて陰鬱にほのめく毎に、レフィールの喘ぎや悶えが強くなり、ただ一身不乱に
あの淫靡な自慰めいた行為は、あの紋様の元である呪いが熱に、その身を焦がされているためだろう。
では誰が、一体何の意図を持って、彼女をあんな風に呪ったのか。
「――ッツ」
水明の口の中に溢れたのは、例えようもないほど強い苦みだった。それは呪いを知る故が身の、思い。呪いには、呪われた者には少なからず縁のある彼の紛うことなき、これは怒りの表れだった。
――そう、呪いを倒そうと望んだものに請われたあの日があった。破滅の呪いに嘆き苦しむ女がいた。だから、呪いを学び、その呪いを消し去ろうと走ったいつかがあった。許せなかったのだ。そんな理不尽な不幸が。この世にあることが。
だから今も――そう。それは変わらない。
故に今、目の前で起こるあの少女を苦しめる事態が、我が事のように自身の胸を締め付ける。あの淫靡な動きが、今は何に変えても耐え難い。
――それが呪いか。えげつない。女に、それも年端のいかぬ少女にあのような呪いを科すとは、なんという外道か。
悲哀だ。あの高潔な少女が、呪いに囚われ股座を慰めなければならないことが得も言われぬ憐憫を心に誘う。哀れな女。収まりのつかない熱にその身を焦がされ、自身の意識を無視した内に、あのような浅ましい行為を強制される。それが、悲哀でなくて何だと言うのか。
なぜ呪いとは、清廉に生きようとするものばかり汚そうと言うのか。
なぜ呪いとは、女ばかりを焼こうとするのか。
なぜ呪いとは、彼女たちの辛きに流した涙ばかり啜ろうとするのか。
そんな風に、憐れみに感化された怒りがそっと水明の心の中で燻っていく。
そして、今もただ呪いに身を悶えさせ、岩を全ての拠り所としがみつく彼女に近づいていく。
「レフィール」
苦しみに喘ぐ彼女の肩に、呼び掛けるように静かに触れた。
すると、レフィールは多少正気を取り戻したか、まだ朦朧とした視線を持ち上げる。
「う、あ……?」
声に引き寄せられたその顔は、呪いのせいか赤みがさし、まだ胡乱げで。
「あ……」
そして上がるのは気付きの声。呼び掛けられたことを悟ったか。しかし憐れみに瞳を揺らす男を見止めた彼女の双眸を彩ったのは、例えようのないほど明確な絶望だった。
見る見るうちに、レフィールの顔がくしゃくしゃに歪んでいく。どうしてここにいるのかと。どうして見てしまったのかと。このような姿、見られたくはなかったと。そう表情が痛みを斯ように物語る。
しかし、そのように他人の存在に気付いても、抗えぬ力に動かされるように彼女の身体は止まらない。呪いの熱に抗うように、身体が彼女の意思とは反対に、熱を少しでも和らげようと、岩肌にその身を擦りあげる。
「あ、うん……く、あ……やぁ……」
そうそれは、ほてりの治まらない身体を慰めるような自慰が如く、ただただ艶めかしく。
「いや……お願い、見ないで……お願い……」
そんな、今にも消え入ってしまいそうな彼女の声は、もはや熱に苦しむものではない。このような浅ましい姿を見ないで欲しいと懇願する、それは少女の悲痛な心の叫びだった。
……やや経って、彼女の身に掛けられた呪いは、どうやら落ち着いたらしい。
地べたに座り込んだレフィールに持ってきた騎士装束を軽く羽織らせて、水明が静かに訊ねる。
「呪いか」
確認に問うと、レフィールは視線を背けたまま、静かに頷く。やはりか。
それに、水明がどうしてだと続けざまに問いかけようとした時、光の消えかけた視線を落とすレフィールが、唐突に口を開いた。
「――私は」
「……」
「……私はノーシアスの、いわゆる王家に連なる人間だ。……いや、今はノーシアスも滅びたから、だったと言った方が正しいな」
目を伏せて、吐き出される吐息。自嘲とも取れるようなその静かな吐露は、そんな俯きに沈んだ告白だった。
それに、レフィールは続けて。
「ノーシアス王家――その傍流にある私の家系は精霊の血を引く家系でね。私も精霊の力を強く持って生まれたため、ノーシアスの守りとして幼少の頃から育てられてきた。来る日も来る日も、剣術と精霊の力の使い方を叩きこまれ、いつかまた北方から攻めてくるだろう魔族共からの守りとしてね」
そして、レフィールはふとこちらに向かって、確認のように訊ねて来る。
「昼間にも、ノーシアスは魔族に敗北を喫したと話したな?」
「……ああ」
「当時……もう半年も前になるのか。最北の砦を任されていた私たちは、圧倒的な魔族の大軍の前に潰走を余儀なくされた。その時の戦いで仲間は散り散りになり、王都に戻った時には砦にいた者たちは私を含む数名しかいなかった」
思い出すのが辛いか。声に苦しみが滲んでいる。それでもレフィールは、話さなければならないというように、滔々と言葉を続けていく。
「魔族の進攻は恐ろしく早かった。国民を国外に逃がす間もなく、魔族の大軍は瞬く間に国土の大半を呑み込んでいった。その時にはもう、私たちに抗う術はほとんどなかった。古に魔族を撃退した英傑召喚の儀も叫ばれたが、それもこんな状況ではどうあっても遅すぎたし、唯一の頼みだった私の力も、魔族の大軍の前には如何ともしがたい。精強で知られた我が軍も圧倒的な物量差に押しつぶされていくしかなく、結果最後は、ノーシアスの意地を見せつけようと、城に篭っての徹底抗戦になった」
籠城、か。勝ちはもとより、逃げることもできないがゆえのその選択。北方の守りを誇りとしてきた者たちの、それは屈しないという意思と、魔族の思い通りにはさせたくないという抵抗の表れだったのだろう。
しかし、だ。それならばどうしてレフィールはいま生きているのか。
その答えに関しては、こちらが問うまでもなくすぐに返ってきた。
「みなが籠城の準備を進める中、私には別の責務が待っていた。私が城で果てることは許されなかったんだ。精霊の力のせいで。この力を持つ私は、精霊の力を絶やさないために生き残らなければならなかった。みなのように、城を枕に最後まで戦う事を許されなかった。そう、この力を持つがゆえに、父も、母も、友も、大切な人も、全て見捨てて、私は逃げることを余儀なくされたんだ……」
それは例えようのないほど、無念だったか。レフィールの肩が項垂れたように顕著に下がる。
水明は現代日本で生きる身。まず命があることに喜ばしいと感じるが、戦いを生業とし、先祖代々続く使命を誇りにしてきたこの世界の人間にとっては、それは耐え難いことだったのだろう。スピリットという、他人よりも強い力をもつがゆえ、その思いも
「その最中だ。私がこの呪いを掛けられたのは。他の国に逃げる途中で魔族と遭遇した私は、奴らと戦って、そして……」
「それは、あの?」
「……いや、ラジャスではない。私に呪いを掛けたのは、ラジャスと共に軍勢を率いてきた女魔族だった。どうやら呪いを得意としているらしい魔将の一体だったようで、何のつもりだったのかは分からないが、戦いに敗れ動けなくなった私に戯れのようにこの呪いを掛けていったんだ。虫けらは這いつくばって、はしたなく自分を慰めていろ、とな」
それが全てだ、と。力なく締めくくるレフィール。
あんな呪いを掛けられたのには、そんな経緯があったか。彼女が魔族に対して強い感情を向けていたのも、呪いのことのみではなく、沢山の思いが重なったためなのだろう。
と、そこで水明は、ふと気づく。そういえば、と。レフィールの呪いに関して、以前にも思い当たるものがあったのを。
「もしかして、前にメテールの宿屋でも?」
「ああ。覚えていたか。……そうだ。前の日の夜も知らないうちのあんな姿で水場を求めていたらしい。あの日の朝に目が覚めて、人目を忍んで宿に戻って……そのあとは君も知っている通り、あの時君とぶつかったんだ」
続けて問う、水明。
「呪いが発動する原因は分かっているのか?」
「精霊の力を強く行使すると、どうやらこうなってしまうようなんだ。あの日は前日にかけて、ギルドの依頼で魔物を狩っていたんだ。だからだろうな」
「解呪は?」
「試みたさ。だが、当然魔法使いでない私の手には余るものだったし、高名な魔法使いも救世教会の神官にも、さじを投げられた」
ではずっと、彼女はこの呪いに苦しんできたのか。解呪する術も、呪いを抑える術もないまま、無意識のうちに行ってしまうあの行動を、見つからないよう。一人、抱えて。
……そう口にしてから、レフィールは失意に暮れるかしばし無言に沈んでいたが、やがて自身を卑下するように力なく笑い出す。
「レフィール?」
「――笑ってくれ。私はこんな女だ。魔族に卑しい呪いを掛けられた。こんな……こんな!」
そう言って唐突に、レフィールが水明の襟元を両手で掴む。
襟元をつかみ笑えと、笑い飛ばせと訴えかける、呪われた女。このような事実に耐えられなくて、だから笑い話にでもしてくれと、無理やりに作られた笑顔は失意に崩れ、逼迫したその眼差しはただただ絶望を湛えていた。
「滑稽だろう! 精霊の力にとらわれ、守らなければならない者たちを見捨てた私に下った罰がこれだ! 何がこの力で人々を守りたい、だ! そうだろう⁉こんな話などない! 仇敵に呪いを掛けられ、それでも死ぬこともできずに生き恥をさらしているなど……」
罰と言うのか。その自責の念を。正しくあろうとし過ぎた少女の、それは不条理に嘆く心の慟哭。
それをどうして笑えるものか。世の習いたる理不尽に苦しめられたものを、どうして笑ってなどやれるものか。絶望に流したその涙はその思いは、決して誰にも笑い飛ばせるようなものではない。
笑い話にしてくれと、願う悲痛な女の声が、ここではただ痛々しい。
やがて嗚咽を噛み殺せなくなったレフィールの手が、襟元から離れていく。
やがて、しゃくりあげるように震える、彼女の肩。
「祖国で死に損ねた挙句、浅ましく身体を慰めなければ生きていけないような呪いまで掛けられた。こんな、こんな惨めなことがあるか……」
祖国を奪われ、大事な者たちを奪われ、それでもなお呪いに恥を強要される。女の身にとってこれほど耐え難いことはないだろう。
そんな姿に心を締め付けられたまま、水明はさめざめと涙にくれるレフィールの肩に腕を回す。
「レフィール。すまん。少し失礼するぞ」
「ぁ――」
そして、彼女の短い騎士装束の上着を退けて、そのなまめかしく濡れた素肌をあらわにする。
「あ、いや……」
「……」
触れられたことに、身の危険を感じたか。ぎゅっと目をつむり、強張る少女その声。魔族と果敢に戦った、剣士の強さが今は見る影もない。
男に怯える彼女に構わず、水明はレフィールの乳房を持ち上げ、きめやかな肌に刻まれた呪印に触れる。
「――correspondence」
(――万物照応)
かけたのは、解析の魔術。腕の中で小さくなるレフィールのその呪印に直接手を当て、呪いの式を調べていく。手の平を起点に広がる魔法陣と徐々に頭の中に入っていく式の情報。行為を強要するため、自然的な呪いを送る呪詛ではない。種類としては類感魔術よりのもの。そこまでは分かるが、現代の魔術知識を持つ水明にも解呪は不可能。
その事実に歯噛みしながら、水明は手のひらに魔力を込め、今度は呪いを緩和させる術式を呪印に当てる。
「う、ぐ……あ」
今しばし、苦しむようなレフィールの声が、徐々に安らいだように穏やかなものに変わっていく。やがて、荒かった呼吸が収まってきた彼女に水明は問いかける。
「身体の火照りはどうだ?」
「っ……はあ、はあ……ああ。だいぶ、和らいだようだ……今のは?」
「俺の魔術で呪いの効力を抑えたんだ。これで多少マシにはなっただろう」
「そうなのか。今までそんなこと、誰もできやしなかったのに……」
安堵の声か。その安らいだ声に罪悪感が募る。呪いの効果に多少干渉することが出来ても、結局のところは――
「……すまん。一時的に弱めることはできても、俺にはこの呪いを解くことが出来ないんだ。この型の呪いは、レフィールだけに呪いを植え付けているものじゃない。だから、仕掛けた術者を仕留めるか、レフィールに呪いを掛けた時に使った媒体をどうにかしない限り、解呪はできないと思う」
そう口にして、失意に頭を下げる水明。
レフィールに掛けられている呪いには、類感魔術が応用されている。
――類感魔術。接触魔術とともにイギリスの人類学者および神秘学者であるジェームズ・ジョージ・フレーザーによって提唱された魔術、呪術の分類法だ。形の似ている物品は、形が似ていると言う概念のもと、その全てが見えないところで繋がりを持ち、互いに影響を及ぼし合っているという類似の法則に基づいた考えで、その繋がりを因果とし、それを神秘によって増幅して呪いにまで昇華させるというものだ。
現在、多くの魔術、呪術がこの分類法で分けられている。
これには対象者をかたどった人形や対象者が写った写真などを用い、対象者に望んだ効力を与えると言うものが最も多く、日本の丑の刻参り、ハイチのヴードゥー人形が例に挙がるだろう。
調べた結果、レフィールにかかっているのもおそらくはこの類だ。対象者を模した何かを用いて、呪いを簡単に解呪できなくしているのだろう。
「すまない。俺にはこれで精いっぱいだ」
「いいんだ。ありがとう」
解けぬ呪いを目の当たりにする時ほど、自身の無力さを思い知らされることはない。無力感に暮れたまま謝罪する水明に、レフィールは辛そうな笑顔を作ってかぶりを振った。
……やがて、ぽたり、ぽたりと、悲しみに溢れた熱い雫が、彼女の頬を伝ってこぼれていく。降り始めの雨のように誰知らぬうちに、ぽたり、ぽたりと。
「う、うぅ……」
それは、この辛きに身を置く、彼女にしか分からないことだろう。その気持ちがわかるなど、うわべだけの共感など口が裂けても言えようものか。
掛けられる言葉が、あるはずもなかろう。どれほど彼女の身を案じても、この絶望が溶け出した涙を指で掬ってやる資格は、自身にはないのだから。
そう、腕の中でいつまでも涙を流し続けるレフィールに、水明はついぞ声をかけることができなかった。