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森へ

遅くなって申し訳ございません。

 ――森。

 詳しく言えば森林だ。

 それは概ね、樹木が広域に渡って群生している場所を指す言葉だろう。

言葉にしては単純でよく耳にするものだろうがしかし、現代日本では、いやおそらく過去日本においても、単純に「森」と言うものそれのみについては、日本人にはあまり馴染みのない物なのではないか。

 森林が国土の七十パーセントを誇る日本でも、山岳地形であるため日本人にとって森とはイコール山であり、木々が鬱蒼と生い茂る場所、木々が傘を作る薄暗い場所と言うのは多くのケースをもってして、日本人は山を思い浮かべる傾向にある。



 確かにそれも森なのだが、西洋で言う森とはやはり齟齬があると言えるだろう。

 ヨーロッパは古くから、森林ばかりの土地だった。森は山だけではなく、平地にも丘陵にも、人の住めるほとんどの場所にもあり、それらは人のあらゆる繋がりを遮断していた。



 一たび入れば、死が常に隣にあるからだ。森には野犬や狼、熊、虎などのおそろしい獣が生息しており、密集した同じ種類の木々は人の方向感覚を狂わせ呑み込む。当時、森を抜けることは、その土地に住む人間にとって相当に困難なものだっただろう事は想像するに難くない。

 森は人々に恵みを与える存在でもあっただろうが、反対に人々の発展を妨げていた要因の一つにもなっていたということは、疑いようもないはずだ。



 そう、森は日本人には馴染みのないものだ。ゆえにきっとこれらの森は、人々が迷い、言い知れぬ恐怖を感じるあの樹海、もしくは密林を思い浮かべれば、正しく想像を共有できることだろう。



 商隊を離れレフィールを追って森へと入った水明は、彼女の魔力の気配を辿りながらしばらくの時間、歩いていた。

 一向に合流できないのは、レフィールが商隊に迷惑をかけないよう、離れるためにかなり急いだからだろう。文句も言わず、ガレオの意思を酌んで出ていった彼女ならば、そんな行動に出てもおかしくはない。

 と、レフィールを探しながら歩く中、水明は木々の傘で見えにくくなった曇天を見上げ、思う。



(未開だしなぁ。やっぱ野生の獣とか、ファンタジーよろしく魔物とかフツーに出るんだろうなぁ……)



 一休みも兼ねてのほんの僅かな立ち止り。目の前にあった木に寄りかかり、水筒に入った水をあおって、一口分飲み切っては微妙そうな息をほぅと吐く。おそらくもなにも、魔物は間違いなく出るだろう。危険の度合いで言えば、向こうの世界の森よりも格段に異世界の森の方が危険度が高いのだ。

 獣に襲われる危険は言うに及ばず、まず未開すぎて、かなりの距離を歩かなければ集落もない。人の息がかからないゆえ、開墾、整備などがなく、木々はいつまでも増え続ける。

ある意味でここは、あらゆる危険性を内包した領域侵食型の広域結界ではないか。



(そんなとこに自分から足を踏み入れる俺って、なぁ……)



 奇特だろうか、ただの愚か者なだけだろうか。頭の中で自問しても、ただただ疑問が膨らむばかり。

 そんな中、もう一度喉を潤そうと水をあおる前に、何の気なしに訊ねてみる。



「――気を張っているところ悪いんだが、たたっ斬るのは勘弁してくれないかね?」



 背後から差し向けられる、斬撃前の緊張を孕んだ剣気に対し、そんな問い。その研ぎ澄まされた鋭さたるや、樹木ごと真っ二つにでもしようとしたのか。したのだ。

 静かな森に水明の平坦な言葉の羅列がこだますると、ややあって草を踏む音と共に、聞き覚えのある声の困惑が耳に入った。



「……スイメイくん? どうしてここに?」



「まあ、見ての通りさ。追ってきたんだ」



 振り向くと、そこには大剣の切っ先を下げたままのレフィールの姿があった。気配を薄くしていたため、おそらくは追っ手か獣と計り違えて斬りかかろうとしたのだろう。

ありのままを平然と口にすると、レフィールは顔を険しく歪めて訊ねてくる。



「追ってきた……? 馬鹿な、私と一緒にいると危険なんだぞ? 一体、何のために?」



「そりゃあ、一人じゃ大変だろうからさ。気になってね」



 水明がそう言うと、レフィールはお澄ましじみたそっけない態度で目をつむった。



「心配は無用だ。私一人でもなんとかなる。君の行動は、要らぬお節介だよ」



「危険は一人で対処できるって?」



「そうだ」



 こう、何というかツーンである。だがそれは、はっきり言ってすぐに崩れる儚きもの。

そんな考えに、水明は皮肉げな笑いを浮かべながら指摘する。



「じゃあつかぬ事を聞くけどさ、飲み物や食い物はそれで足りるのか?」



「う……、それは、その……」



「だろ?」



 言葉に詰まり、気まずそうに視線を横に流すレフィール。そんな彼女に追い討ちとばかりに同意を求めると、何か反論でも思いついたか、また取り澄ました表情が復活する。



「そう言う君だってそれらしき荷を持っていないじゃないか? 自分の食べる量だって賄えていない者に、そのセリフを言う資格は――」



「これでも?」



 そう真面目なしたり顔をぶち壊さんとするように呆気なく言って、水明は鞄からそれよりも大きい荷物を難なく出して見せた。



「資格は……」



「資格がどうした? 食い物の持ち込み検定一級は不合格で?」



 少しばかり得意げになって言う水明の前には、唖然と目をぱちくりさせるレフィールが。

これで不合格と言えるものはそうはいまい。

 水明の学生鞄は、魔術を使って容積のみを巨大化させた施術鞄である。巨大化と言っても、カバラと錬金術とを使い合わせ、学生鞄の容積とサイズ百五十リットル以上ある外国製のスーツケースの容積とを入れ替えたというだけなのだが。

 しかし使い勝手が良く、これは水明自慢の一品である。


 そんな目の前で繰り広げられた露骨な不可思議を目の当たりにして、レフィールは驚きを表情にだしたまま、胡乱げに言う。



「……なんだその得体の知れない魔導具は?」



「得体の知れないって、なんかひでえ物言い。……だけどまあ、これで要らないお節介だとも言えないだろう?」



 必要な分は入っていると、暗に示したのだから。と、水明が屈託のない笑顔で言うと、しかし良いとの言葉は返らない。レフィールは気が咎めたか、申し訳なさそうに語気を落として聞いてくる。



「ないが……良かったのか?」



 付いてきたのがか。それに対し水明は、ため息を吐いて。



「今になってものすごく後悔してるって言ったらどうだよ?」



「それは……すまない」



「んなわけないだろ。すぐ後悔するくらいなら、付いてなんて来ないさ。気にしないでくれよ」


 深く沈んだ表情を作ってすぐ俯いたレフィールに、水明は冗談だと切り返す。そうだ。もとよりそんな気が無ければ付いて来る事などなかったのだから、後悔などするはずもない。

だが、そう言ってもレフィールは詮無いことに食い下がりたいらしく、不利益ばかり突き付けて来る。



「だが、私は狙われているんだぞ?」



「そうだな」



「なら」



 なら、どうだと言うのか。自分を弱い立場に押し込んで、それが正当と高らかに言えるのか。そう、レフィールを苛む見えない呵責を睨み付け、言い放つ。



「レフィールは向こうに付いていった方が良かったってか?」



「それは……」



 口ごもり、逃げ場をなくしたレフィールに、今度は違う訊ねを差し向ける水明。木々の間から見える、まるでこの場を取り巻くような鬱屈さを表したような空を眺めて、そこに向かって問うように、ふっと静かに言い放つ。



「――なあ、レフィールは正直、どっちがいいよ?」



「どっちがとは……」



「こっちに来たのと、向こうに付いて行った方が良かったかとの、どっちかだ」



「そ、それは決まっている。向こうに付いていった方がいい」



「本当か?」



「ほ、本当だ」



 念押しのような聞き返しを耳にして、ムッとご機嫌ななめを顔で表すレフィール。信じてもらえないのにお冠か、ただの幼気(いたいけ)な強がりか。そこへ水明は指を突き付け、とどめを期した一言を放った。



「じゃあ、それが嘘じゃないってアルシュナとやらに誓えるか」



「なっ!? それは……」



 これには、レフィールも言葉に詰まるほかない。救世教会につながりある身としては、アルシュナの御名は絶大だ。彼女に誓えなければ、それは畢竟ひっきょう嘘になる。

 すると、レフィールは大きなため息を吐いて、観念の意を示す。



「……君は、意地悪な男だな」



「で、どうだよ?」



「ああ、付いてきてくれて助かる。だが――」



「なら、それでいいじゃねえか」



 レフィールの言いかけた何かしらを、水明はそう遮った。これ以上は不毛だと言わんばかりに落ち着いた声で、もういいのだと、自分をこれ以上卑下して責めるなと、優しく諭すように。



「え――」



「別にさ、やり方が賢いとか賢くないとかの枠にはめる必要なんてないだろ。いいならいいで、それで終わらせようぜ。それの方がきっと、すっきりするだろ?」



「ぁ……」



 さながら思い掛けない事でも聞いたように、言葉を失ってしまったレフィールを見る。

そうだ。そんな話をして、追求して、一体どうするというのか。上等なやり方は何かと、模索しなければならないわけでもないのに。答えを出してそれを聞いて、それでいいのか。そんな事をしても心の中にできた辛さ悲しさの蟠りが、心地よく晴れる事はないのに。


 だから、言わせたくはなかった。

 これ以降の話がどんなものであろうと、ふさぎ込ませる結果になるのなら、それは今、すべきことではないはずなのだ。そう、決して。



「……どうした? やっぱ文句の一つでもあるか?」



 水明は片目を開けて窺うと、レフィールはふっと憑き物が落ちたように愁眉を開き、同意する。



「いや、そうだな。君の言う通りかもしれないな」



 先ほどよりも、幾ぶんかは心晴れたような声が通る。素直ではないが、一応は納得してくれたらしい。

水明は頭を掻きながら、ふうと息を吐く。傍目からすれば確かに、正しい選択ではないだろう。これは損を被る立ち回りだ。それは分かっているし、レフィールの言う事ももっともだ。

 だが、それが正しいか正しくないかを決めるのは、結局は選ぶ本人に帰結するものだ。当人が良いと思えば良いのだし、最善がいつでも正しいことになるわけではない。



 それにだ。内意を占めた安っぽい情にほだされたという事実を正直に言うのは、なかなかに恥ずかしいものがある。



 どうにも、魔術師と名乗るくせにいつまでたってもドライとは縁遠くある水明であった。



「――まあそれに、こういうとこなら上手いこと隠れてりゃあ見つからないこともないかもだしさ」



「……それはいくらなんでも楽観的過ぎると思うぞ? スイメイくん」



「そうだな。炙りだされたらヤバイな」



 殊更明るく言った浅慮じみたおどけは、正しい指摘の前に破られた。乾いた苦笑いをしながら、吐き出されたため息に同意する水明。

 そう、相手は物量もある。人海戦術に訴えられれば、見つかりもするだろう。隠れていれば見つからないなど楽観だ。

 ――無論それには魔術を使わない限りはと言う前提があっての事ではあるが。

 すると。



「すまない」



 どうしたのか。出し抜けの謝罪。目の前で頭を下げたレフィールに、水明は怪訝な面持ちで訊ねる。



「なんでそこでレフィールが謝る?」



「魔族が現れたのは、おそらく私のせいだ。だから」



「……ああ、あのごっつい魔族の与太話か。ありゃああの時初めて思い出したって感じがしたんだけどな。最初から狙って来たって風にはどうにも見えないだろあれは」



 レフィールの謝罪に水明は異を唱える。それは呵責が過ぎた杞憂だと。

 ラジャスの言ったことは断片的だし、それにレフィールのせいにするには腑に落ちない部分がある。

魔族が現れたのは冒険者も彼女のせいだと口にしていたが、しかしきちんと考えれば全く関係のない話なのだ。魔族は何か別の者を探しにきて、あそこでたまたまレフィールを見つけたと推測する方が説得力はあるだろう。

 ただあの場での出来事は、魔族の襲撃でまだ全体がパニックから立ち直っていなかった事と、攻撃しやすい対象が近くにいたからと言う事が運悪く重なったから起こったのだ。

誰しもいつでも冷静な判断ができるわけでもなし、そんな度量を持った人間がそうそういるわけでもなし、あれは往々にして起こりうる事だ。

 それに、ガレオが隊から離したので彼もそう思っていると思ったのだろうが、ガレオのあれは商隊をあからさまな危険から避けるためにとった選択だ。絶対に狙われる危険よりも、多少戦力を離して逃げているのとでは生存の確立も違うため、レフィールを切り離したのだ。

 彼女がそれを悪い方向に解釈することも、それについて責任を感じることもない。



 しかし、レフィール自身は納得がいかないようで。



「だが、まだトリアや西方諸国とにらみ合いを続けている奴らが、その一部を割いてまでアステルに部隊を送り込んできたんだ。もう、そうとしか……」



 思えないのか。ラジャスもレフィールの力を捨て置けんと口にしていたし、と言う事は彼女自身も――



「なんだ。割いたって、随分と自分の力に自信を持っているんだな?」



 ニヤついて指摘すると、知らず自信を覗かせてしまったことに恥じ入ったか。レフィールは顔を真っ赤にして叫ぶ。



「わ、私は真面目に話しているんだぞ? 茶化さないでくれ!」



「ははは、悪い悪い。確かに強いもんな、レフィールは」



 おちゃらけた事に謝罪を入れて一転、彼女の強さを持ち上げると何故か返ってきたのは不服そうなしかめっ面と、尖り声。




「……君が言うと馬鹿にされているような気分になるな」



「んなこたぁないさ。俺が倒すのに手こずってた奴らを簡単に斬りまくってたじゃないかレフィールは」



 それは、先ほどの戦いの中で感じた、水明の紛れもない本心だ。だが、レフィールはまだ何か含みを持った様子。一言二言、言いたそうに口をへの字に結んでいる。

 だが水明はそんな気配を今は放って、話の続きを口にする。



「で――そうだな、あのごっついの、レフィールの事をノーシアスの生き残りだって言ってたが。確か、ノーシアスってのは」



 訊ねにも満たない言い回しは、しかしレフィールの物憂げな声に断ち切られた。



「……この辺りの事に関しては疎いのに、それについては知っているんだな」



「あ、ああ、まあな……」



 いま間抜けのように思い出して、頭の乏しい返事が出る。そういえば、そんな設定だった。常識に疎いのに、情勢に通じた知識があるのには、多少おかしく思われても仕方がないか。

 水明が心の中で唸っていると、レフィールは内意の何かに観念したか、ふっと零すように口にする。



「――ああ、そうだ。奴が言った通り、私はノーシアスの生き残りだよ」



 それは、ひた隠しにしてきた正体の吐露だったのか。レフィールの告白じみた声が響く。魔族に滅ぼされた国の生き残りだと。どこか憐憫を誘う音色を、帯びて。

 水明はそれに対し短く。



「最北の国」



「そうだ」



「確か、人間領と魔族領の境界線だったから真っ先に襲撃を受けたんだよな?」



「良く知っているな」



「……一大事だしな」



 それについては、自分たちが呼び出される契機となった一件だ。忘れるはずもない。

 するとレフィールは、会話を思い返したのか、うら寂しさが漂う声で肯定する。



「――ああ。昔から魔族からの守りが、ノーシアスだったからな。それも、一月もないうちに陥落してしまったが」



 その声の裏に隠されているのは、無念か未練か。辛きを感じさせる言葉。

キャメリアでアステルの宰相が言っていた事と一緒であった。



「百万近い軍勢だったってのも聞いたが?」



「百万か……どこからそんな話が出てきたのかは知らないが、どうなんだろうな。そんな数の生き物の群れを見たことがないから、はっきりしたことは言えないな」



「……?」



 対する言葉は素っ気なかった。しかし、その婉曲な言い回しは、言外に何を訴えているのか。

やはり通じない水明に、レフィールはいつかの情景を細めた視線の先に、灰色の幻灯のように映し出す。



「海だよ、あれは。地平の端から端までが魔族で海のように満たされた、そんな数えきれないほどの軍勢が、国境を越えて攻めてきたんだ」



 レフィールが視線の先に見ているもの、その心象。それを水明もおぼろげながらに想像して、ゴクリと嚥下の音を鳴らす。

生物が、海嘯のように押し寄せてくる様とは、一体どのようなものか。地平線を消し去ってもなお飽き足らんと、一面を埋め尽くす人外の群れ。それは自然の猛威と同列、否、個々に意思があるゆえそれ以上に凶悪だろう。そんなものに攻め立てられれば、人は敵うものなのか。

 そんな思いが頭の中を駆け巡る最中、ふとレフィールが。



「……私が最北の砦で見たのは、そんな光景だった。その時の事は、そのくらいしか覚えがない」



「それだけ、余裕のない状況に追い込まれたってことか」



「ああ。君の言う通り、私たちは精一杯だった。目の前に押し寄せてくる魔族を討つのでね」



「それで、あのごっついのとはその時に?」



 水明の抽象的な特定に、肯定の頷きを返すレフィール。



「ラジャスだな。奴とはその後だ。生き残った仲間をまとめて撤退した後、戦う羽目になった。先も聞いた通り、七体いる魔族の将の内の一体らしい」



「そういや、そんなこと言ってたな」



 レフィールの言葉に、ラジャスの口上を思い出す。ナクシャトラから軍を預かりし一人、と。確かにあの魔族はそんな事を宣っていたはずだ。

 しかし――



「七体、ね……」



「ああ、あの時も戦いの最中に、そんな事を言っていたのを聞いた覚えがある。私も詳しくは分からないが、七つの軍勢の三つを割いてきたのだと自慢げに言っていたからな」



 レフィール声に感情の動きはない。だが水明の瞳には、回顧に視線を揺らす面差しが見えた。

それは憂慮か。ならば、彼女がその言葉を聞いたときに受けた衝撃の大きさは威力は、想像するに難くない。軍勢を三つでそれなのだから、すべて合わせた数は如何ほどのものか。規模から考えるに。



「三つ。しかもそれでも百万以上って可能性もあるって言うなら、全部合わせたらどんだけになるんだよ……」



 これは、いよいよもってまずい話か。

 何かを舐めたわけでもないのに、水明の口の中に辛酸の味が広がる。三つで百万なら単純に考えて二倍強。しかし、レフィールの話を聞く限り、そんな単純な計算では計れないだろう。そんな数に、この世界の人類は狙われているというのか。確かに向こうの世界の軍事規模と比較すればそう多くはないが、六十億人以上の人間がひしめく世界と比べるなと言うもの。

 相手が人外という事もあるし、しかもそれを呼ばれた勇者数人の双肩に掛けるにはどだい無理な話。この世界にいる自分もそうだが、やはりそれ以上にそれらを倒すことを頼まれ引き受けた黎二達の先行きが危ぶまれる。



「それで、その時にラジャスと戦った私は、奴の力の前に手も足も出なかった。部隊は潰走し、そのあと私はあの女魔族に……」



 と、言い及んだレフィールの話の中に聞き覚えのない固有名詞があった。

 それに対し、水明は何気なく訊ねる。



「女の魔族? なんかあったのか?」



「いや……何でもないよ。それで……」



 しかし、答えは返らなかった。静かに首を振って話を遮ったレフィールは、一呼吸おいて今度こそ本題を口にする。



「ノーシアスが一番最初に狙われた理由は、おそらくそれだけではない」



 それが、さっき軍勢を割いてきたと匂わせた話の核心だろう。それには水明も心当たりと言わず、確信がある。



「スピリットか」



「すぴりっと?」



 耳新しい言葉を聞いて、怪訝そうに訊ねてくるレフィール。それに対し水明は、自分の知識のままだったと気づき、その疑問に答える。



「ああいや、レフィールの持ってる力のことだ。俺たちのところではそう呼んでるんだ。スピリットってね」



「東の方にも私のような力を持った者がいるのか?」



「いや、レフィールみたいなのはいないけど、まあ大別すればって程度かな?」



「……?」



 と、水明も自分でも良くわからない言い回しに首を傾げてしまうが、それを聞いていたレフィールはさらにわからない。無論だ。おそらくこちらの世界は、向こうの世界と精霊の定義は同じではない。こちらの世界は向こうの世界のように、人間が自然や神秘よりも存在のソースの多くを占めているわけでもないし、まず第一に、多様な魔術知識からの観点から得られる客観的な要素や基礎知識がないため、精霊に対するデータが少なく、こちらの世界のルール上の精霊であってもそれがなんたるものかと言う事すら特定できてはいないだろう。



 ……レフィールは少しばかりの間、水明の話の中身を推し量っていたようだが結局答えは出ずで、脱線した話を修正する。



「言葉は分からないが、君の言った通りだ。私たちは精霊の力と呼んでいる。私の国では、昔から魔族に対する力だと言われていたものだ」



「そう言えば、剣技も代々伝わっているって言ってたが、それも?」



「ああ。私の祖先が、精霊と人との間に生まれた存在でね。人間が魔族に対抗するために、女神アルシュナが計らったそうだ。剣技もその時に生まれ、なんでもその力と共に大昔に呼ばれた勇者を助けたこともあるらしい」



「勇者って、おいマジか……」



 思わぬ単語を含んだレフィールの話に、水明は小さく小さく呟く。

まさか、レフィールの祖先が昔に呼び出された勇者の力になっていたとは。そして今、その子孫が勇者について行かなかった自分と共にいるとは、これはどんな皮肉な因果だろうか。何か得体の知れないものに弄ばれているような気がしてならない。


 すると、レフィールはいつになく辛そうな、寂しそうな、表情で。



「私も、この力で人々を守りたい、助けたいと、そう思っていた。だが結局、その夢は夢で終わったよ。そして今はこのざまさ」



 口にして、レフィールは悄然と目を伏せる。

 故国を落ち延びて、冒険者となって、いわれのない中傷を浴びせられ、孤独を味わう。そんな身の上に、遣る瀬無い思いが募るか。

 見果てぬ夢に焦がれ焦がれて、最後は現実に裏切られてしまった女の顔。それが、そこには確かにあった。守りたい、助けたいと願う、ただただひたすらに真っ直ぐで、純粋な渇望が、悪意をもって否定されたような、理不尽に望みを奪われたそんな辛さに喘いだ顔だった。



 力があった。だから、それを活かそうとした。誰かのために。

 だが、どうにもならなかった、と。そう、報われぬ思いを訴えているように。

 いや、もしやすれば、今でも彼女はその念に――



「……なあレフィール。魔族って、一体何なんだ?」



 彼女の見せる居た堪れない面差しに目を背け、不意に発したその問いにレフィールが答える。



「……ヤツらか。正直に言うと、私も良くは分からない。だが、おそらく本当に奴らの事を詳しく知っている人間などこの世にはいないだろう。昔から伝わる話から少しだけしか、魔族の情報を得る手段はないからな」



「その少しだけってのは?」



 レフィールの家に伝わるものか。それは、魔族と人間がにらみ合いを続ける境界で、代々魔族と戦ってきた者たちの記録。この世界で最も信頼性のある情報だろう。



「その昔、この世界にアルシュナと争った邪神がいた……というのは前に話したな。その邪神は強大な力を誇ったそうで、最後はアルシュナとエレメントや精霊たちの前に敗れ去り、次元の狭間に追いやられたと」



「ああ」



 水明は首肯する。確かに以前旅の道中で教えてもらったことだと。

話しは概ね覚えており、おそらく彼女が次元の狭間と称するのがこちらで言う外側の世界、いわゆる世界と世界の狭間にある(うろ)である、外殻世界の事だろう。

 頷きを見たレフィールは続けて。



「魔族は、その邪神のしもべだったそうだ。邪神の加護を受け、争いと死ばかりの混沌で世界を満たそうとしていたらしい」



 混沌とは、また大きく出たか。いや、邪神なるものが関わっている時点でスケールの大きな話になるのは、当然だろう。

 結局、悪魔崇拝の及ぼす結果や、外なる神々が齎そうとするものと方向性は一緒らしい。おぞましき背徳や唾棄すべき狂気という違いはあるが。

 ならば、そうなるとだ。



「加護って言ったが、じゃあ魔族のあの力の源は、その邪神だと?」



「ああ、そういえばそんな説もあった気がするな。私もよくは覚えていないが……」



「ふぅん……」



「どうした? スイメイくん」



 唐突に思案顔で黙り込んだ水明を不審に思い、訊ねを発するレフィール。そんな彼女に思考に一区切り付いた水明は、その思案の正体を答える。



「いや、魔族ってのがなんなのか、俺なりに考えてみてね」



「ふむ、君の考えか、面白そうだな」



「聞きたいのか?」



「それなりに興味はあるからね」



 とは言うが、考えていたことについてはそこそこ殊勝に思われたらしい。レフィールは感心したように笑っている。だが、その顔は本当に興味心から湧く面白さへの期待と言ったところか。真相に行き着く可能性への期待ではなさそうだ。それはともかくとして。



――さて、まずはだ。



「いいぜ。だけど先ずは、話しに出てきた邪神についての定義からいこうか」



 声音のトーンを些か落としたのは、魔術師の顔の表れか。水明は邪神についてを切り出す。


 水明の世界の神や精霊の定義は、精霊の話でも触れた。

基本的に外殻世界にあるのは、伝承などに出てくる神々と似たような力を持つ概念だけであり、召喚術で呼び出す際に、名前を付け、存在を決定し、それでやっと現界した時に神や精霊等としてあらわれる、と。

 向こうの世界で言う神や精霊はそんな曖昧で姿のない、情報だけの存在だが、こちらの世界の邪神が外なる神々や支配者たちのように名前や定義をつけられて固着化されているならば、それらと同じで例外であり、(れっき)とした存在がある。

 つまり邪神は――



「次元の狭間、つまり外殻世界に存在する邪神は、今も確固として存在しているとしよう。そいつの望みはこの世界が混沌で満ちることで、今もそうしようと外殻世界から虎視眈々と狙っている。だけどそいつは存在をそこに縛られているため、大昔女神と争った時のように直接こちらの世界に干渉することができない。だから、その代わりにそのしもべ共であり思考を邪神よりに引っ張られている魔族が、信仰している邪神の力を借り受けて、今この世を混沌で満たそうとしている」



「む……」



 推論が意外だったか。レフィールの顔色が一転、しかつめらしげなものに変わる。

 しかし水明はそれを一顧だにすることもなく、そのもっともらしい物言いを続けていく。



「まあ陳腐な話だが、さっきの話を聞く限りシナリオとしてはそんなところだろうよ。話からすると原初世界に立ち返らせようってのよりは、争いで埋め尽くそうとしてるっぽく聞こえるが――おっと」



 魔族全てがそうなのかは分からないがと、そう口にしかけたところで脱線に気付いた水明は、話の軌道を修正する。



「実際問題それはいいとして、その傀儡である魔族については……そうだな。元々のスペック……肉体の強さからして人間と違うから、元々違う進化を辿った別生物か、もしくは邪神とやらがデザインしたものなのかってところだろう。どちらもあり得る分、そこは確固とした事は分からないがね。それが、俺がさっきの話を聞いて受けた印象だな」



「なかなか面白い話だ」



「どうも。でだ、加護って話の流れだと奴らはその力の大部分が邪神のものを拠り所としているはずだ。魔族から溢れ出したあの、真っ黒なおどみがそれだな」



 断定する水明に、レフィールが疑問を挟む。



「……? あれは魔族固有の力ではないと?」



「そうだろ。あんなモン生物が自然に持ちうる力じゃない。世界や自然に反する力は、その世界では生み出されない、絶対に生み出さないのが道理だからな。自分を破壊するものなんて誰も意識的に作りはしないだろ? それは世界だっておんなじだ。だからあれは、自然界に存在しえない力になる。そのため、基本的に生き物の身体っていうのはどんなものでも中庸にできてるんだし、だから、その理を崩す存在っていうのは何かその世界にまつろわない存在に影響されたものしかあり得ないのさ。で、その何かってのは――」



「邪神か」



「話しが戻って、そうなるな。魔族があんな力を使える時点で、邪神の存在は証明される。めんどくさい話だがな」



 そう、結局魔族の話は、邪神の話に帰結するのだ。とはいえ、そこが最も面倒で苦労の掛かるところなのだが。とにもかくにも。



「でだ、アルシュナとやらは邪神に対する存在だから、おそらくこの世界の人間や他の亜人はその信仰を根っこから持っているために、奴らにとって敵なんだな。だから奴らは、邪神の意にそぐわない生き物を殺そうとする」



「……」



 水明が話を締めくくると、レフィールは話の内容を吟味するかのように、眉と目を細める。

 その頭の中では何が撹拌し、まとまっているか。頃合いを見計らって、水明は落ち着いた一言を放つ。



「どうだ? 一説に成り得る話だと思うが?」



「確かに。道理が通っている話だ。邪神の存在や魔族の力の源に触れた話は初めて耳にするが、今の話を踏まえて私の話したことを思い返せば、伝承がもっともらしいものになる」



「なかなか面白い話だっただろ?」



「ああ、思いの外ね。というよりも、かなり考えさせられる部分があったよ。すごいな、スイメイくんは」



 と、感心したように生真面目に頷く彼女に、水明は補足を入れる。



「ちなみに、人間が魔族と戦えるのはアルシュナの加護があるからだと思う。レフィールはこの場合除くが、普通の奴らでも抵抗しうる力は持っているのはそのためだな。エレメントも邪神に敵対したもののくくりに当てはまるから、魔法使いの魔法も効果がある」



「……」



 そう。だから魔族と戦っている時、エレメントを介さない魔法以外の物理的な攻撃にも効く効かないがあったのだ。こちらの人間には、信仰が人の生活に密接に関わっているため、生来的にその力が宿っているから。

 それに加え、この世界の魔法使いはアルシュナや精霊とも強い繋がりを持つエレメントを介する攻撃を持っており、魔族に対して大きく有効な力を持つ。魔法使いが威力の微妙な魔法で魔族を倒していたのがそのいい例だが。

 しかしその反面、自分のようにこの世界で生まれたわけでもなく、エレメントにも関連の無いものは力が薄くなるはずだ。



故に。



「――時に訊くが、前に魔族と戦ったとき、新米魔法使いの魔法は魔族に効いてたか?」



 訊ねると、レフィールはしばし追想に尽力したあと、しかめた顔と確信とは程遠い声音で言う。



「いや、効果を出せる者と出せない者のばらつきがあったが……」



「出せる魔法使いは、昔から魔法を使っていなくても神秘に触れてて、エレメントに繋がりがあったから効果が出た。だけど、出せなかった魔法使いはその時初めて神秘に触れたせいで、エレメントに対する繋がりが薄かったから、魔族を倒しきれなかった。だからじゃないか?」



「いや、そこまでは」



「――だと仮定したら、の話だ。まあ、俺は十中八九当たりだとは思うがね」



 単純に材料が少ないため不確定だが、確信はある。事実レフィールはばらつきがあったと肯定しているのだから、それにそぐわない理由を消去していけば概ねこの回答が出てくるはずなのだ。

 だが、この仮定が正しいとするなら、特定の魔術でなければ魔族に期待した効果を与える事は出来ないし、これから魔族とこちらの世界の魔法で戦う事になる水樹は、もしかすれば慣れるまで苦労することになるかもしれない。



 いずれにせよ答えは出た。魔族は邪神の加護があるため、基本的にはそれに対抗するいわれのあるこちらの魔法しか効かない。



 しかし、だ。その力の源が魔族を今の形に定着させたなら、奴らは異界の邪悪な存在その眷属と言う事になり、あの魔術が効くことになる。



(あとは実地で倒すだけだな……)



 水明がやはりあの魔術が効くだろうと、今までの思いなしを確信に昇華させたそんな時だった。



「スイメイくん」



「ん? どうした?」



「いや、君は一体何者なんだ?」



 そんな、何気ない訊ねが出たのは、これまでの発言ゆえだろう。正体を訝しんでいるというよりは、本当になんなのだろうと不思議に思っているようす。

そんな彼女の問いに、しかし水明は素っ気なく。



「――さてな。というか、そろそろ休めそうな場所を探した方がいいと思うんだが?」



「そうだな」



 暗くなり始めた森の中、紺色に染まりつつある曇天を眺めて同意するレフィール。残念そうに肩を竦めたのが視界の端に見えたのは、気のせいか。

そんな彼女と共に、水明は再び森の中を歩き出したのだった。


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