黎二達の行方
――果たして、これはいつ頃からの戦いだったか。
時の流れを顧みない集中が故に、正確な時間の計りなどない。
構えた剣の刃先から根本に消える反射光を見送って、男――遮那黎二は一路、駆け出した。
剣を抜いているが故、無論向かうのは敵の下だ。いま相対しているのは、紛れもなく自身の敵である。
そんなこちらの猛然とした突撃を視界に捉え、異様な声を上げる敵。
それに対し、二つになれよとばかりに愚直な一閃を浴びせる。
上から下へ。加護により得られた故の、
人間の爪など比較にもなるはずないほど巨大で、漆黒に浸したかの如く真っ黒な爪。
それが降り下ろした刃先に当たる。当てられる。
硬質な衝突音が辺りに鳴り渡り、拮抗する剣と爪。
それらはじりじりと決着を待ち焦がれんとするように、焦燥の音を発していた。
その上で剣に込めるは全力だ。ここで圧し斬るのが正道と言わんばかりに剣を押し込む。
確かに拮抗からの注力は決定打を与えはしないだろうがそれでも、相手の力を削ぐ事はできるだろう。今はそれが自身にとって必要なことだ。僅かでも相手に不利を重ねさせて、守りを打ち砕き、勝利にいたる。
――□□□□□□□!
敵の奇怪な絶叫が耳を打つ。
人の言葉は喋るくせに、一皮剥けばこの通り直ぐ人外に舞い戻るのは、分かりやすいと言えば分かりやすいか。
そんな耳障りな雑音を浴びながら、右から空を六つに裂いて迫り来る左の爪を、体を落として回避する。
こちらが次の手札を切れるほど、隙も作ってくれるのだ。
故に斬る。両刃の剣の刃を縦にして、下から上への重力に逆らう縦斬撃。吹き上がる風さながらに繰り出されたその妙手は、しかし敵の持ち前の反射神経によってすれすれのところをかわされた。
「――ほ、炎よっ! スティンスカーレット!」
直後、後方からそんな場慣れしない声援が放たれる。声の主は水樹。こちらへの援護。放たれた魔法は炎の中級魔法である緋の洗礼。
鍵言と合わせて二言で発動されたそれは、空中に不定形な燃焼の帯を産み出して、青い背景を濃密な赤で彩っていく。
爆ぜる空気。
小規模な爆発が生み出した風圧が常にどこかしらの地面を叩いている。
そして、自身は振り返らずに後ろに飛び退く。次の瞬間、炎は対象の思考を翻弄するかの如く形を変え続けながら、敵を包み込むように落ちていった。
猛然と勢いを増す炎。火は生き物だとはよく例えた物だ。
「やった!」
水樹の歓喜が背中を後押しするが、それは油断の助長である。魔法で倒したと思ったようだが、敵の死にはまだ早い。
瞳を凝らすと、敵の影が爆炎の中でまだかすかに蠢いている。
それを見て、剣を構え直すと同時に、魔法の炎が消し飛んだ。
炎を腕で振り払ったか。片腕を真横に広げた姿が余燼の上に立っていた。
陽炎の中に佇立する偉容。
そこにいるのは地面に散らばる成れの果て達の内の最後の一体だ。自身が勇者と知り得てか知らずか仕掛けてきた、自分にとっての正しく敵。
奴らの血と肉で舗装されたその上、ぐちゃり、と、踵が
見据える。
そう、人ではないその姿。立ち向かう相手は人外だ。人の形をしているが、人間とは異なる種族である、魔族。
コウモリの翼を背負い、頭の横には天へと向かってグニャリと伸びる二本角が。身体は全体が赤錆に染まり、顔は目鼻口がある以外は人間とは似てもにつかない。 その風体は、物語に出てくるデーモンを連想させる。
目の前にこれ見よがしに突き出された真っ黒な爪が、鈍く輝く。
その威力の程は周囲にあるズタズタになった樹木や岩塊で証明済みだ。
魔族の持つ強力な膂力と相俟って、あの両手に付いた五本の爪の一つ一つが、死神の鎌と等しくある。
にたりと顔を喜悦に歪める魔族。あの嗤いの意味するものは侮りだ。恐らくは今の衝突で、揺るがない有利でも確信したのだろう。
先の一合に込めた力も速さも、相手が全力を期したものではなかったのだ。故に、次で決することができると思った顔だ、あれは。
――魔族が動く。吹き飛ぶ砂煙を背後に引いて、こちらにごぅと加速してくる。速い。先ほどまでの動きとは比べ物にならないほどに。
幻視される、八つ裂きという結末の明確なヴィジョン。あの強さと速さに圧され、剣を弾き飛ばされるだろう自身は、凶々しい爪の前に何もできない。
だが、それは“今のままでは”であって――
「バーンブースト……」
身体中に魔力を行き渡らせ、且つ火のエレメントに呼び掛ける。
力を我が手に、と。
そう冷たく告げた魔法の鍵言が、瞬時に己に力を与える。強化だ。
炎が身体にまとわりつき、充溢する力。そして溢れるほどの全能感に炯炯と輝く眼光で、相手を射る。
――■■■■■■!?
急変したのは、こちらに肉薄せんとする魔族の顔色だ。
奴は
「おぉおおおおっ!!」
しかして奴の勝利への確信は、過信へと変わる。
その侮りの代償に支払った奇怪な呻きも聞かぬまま、雄叫びを迸らせ、新たに加わった力と共に、自身は迫り来る魔族の首を真一文字に刈り取った。
……炎の余韻に、巻き上がる微細な砂が紅塵へと変わり消えていく。そして、辺りに敵の影がなくなったのを確認して、一息。
「ふう……今日も何とかなった」
☆
――水明がメテールを出立するより先に、王城キャメリアを出ていた黎二達は現在、旅の最終目的である魔王討伐に動くのではなく、西方にあるサーディアス連合自治州に向かう道中にあった。
魔王討伐にさほど関係ないと思われる行き先だが、彼らの目的が召喚理由から離れたのには、訳がある。
召喚された黎二と水樹ともに、こことは別の世界にある平和な国――日本から呼ばれたため、戦闘に関しては完全に素人で、彼らには王城での訓練のみが最も戦いらしい戦いと呼べる経験だった。
そのため、それではこの先、王城での経験や英傑召喚の加護、いま会得している分の魔法だけでは対処できない敵に遭遇した時、敗北を喫してしまう可能性がある。
その敗北の可能性を潰すために、いま彼らは回り道の真っ只中にいるのだ。
さしあたっては魔族に打ち勝つ力を多く手に入れること。武具なり技なりを得るために、まず最初の行動としてサーディアス連合自治州に滞在している七剣と呼ばれる剣士の一人に接触を計ろうと、その道半ばにあった。
そこで、突如として魔族の襲撃を受け、今に至る。
……魔族の血を吸い、妖しく輝くオリハルコンの剣。
アステル王国では最も優れた一品とされるその一振りで、最後の一体をかっ捌いた黎二は、魔族が絶命したのを再度確認して、水樹の下へと駆け寄った。
「水樹。大丈夫?」
そして、肩で息をし、顔を青くしている彼女に向かって気遣いの声を掛ける。
すると水樹は、戦場の余韻に呑まれそうになりながらも、かろうじて。
「う、うん。なんとか。でも……」
「でも?」
「これが戦い、なんだね。敵との……」
「……ああ」
青ざめた顔から絞り出すように発せられた水樹の言葉に、重く首肯する。
ここに来るまで、黎二たちも魔物とは何度か戦ってはいた。ここは未開地域の多くあるファンタジー世界だ。当然のように、向こうの世界では見たこともないような生き物が自分達を食い殺しにやってくる。
それを倒して進むのは、ごく自然な事だろう。自分達もご多分に漏れず、そうしてきた。
だがしかし、今までの戦いに水樹は参加していない。同行している騎士達の判断により、ある程度の場慣れが必要だとして、付近で見ているのみだった。
水樹の魔法の腕はもはや自身やティータニアに匹敵するまでに至っている。上級魔法も扱えるのだ。
だが、それでも所詮彼女も日本人。
向こうの世界でも、戦いとは一番無縁の人種だろう。戦う力の前に、覚悟すらないのは致命的だ。
故に慣らしの期間があった。だから、彼女が共に戦ったのは今回が初めてのことであったのだ。
「水樹。やっぱり無理はしないほうが……」
戦わせるべきではなかったかと、再びの気遣いを掛ける。
しかし水樹は首を横に振って、その心配を受け取らない。
「ううん。ただ見てるだけなんて私には出来ないよ。確かに戦うのは初めてで、相手も魔族だったしすごく怖かったけど、ついてきた以上私も黎二くんの助けにならなきゃ」
「水樹……」
「……なんて口ではどうとでも言えるんだけど。……うん、すごいね。黎二くんは最初でも全然へいっちゃらだったのに」
「そんな事ないさ。僕だって最初の戦いはやっぱり怖かったし、少し慣れてきた今だって心臓のバクバクが止まらない」
それは気休めでも何でもなく、本当だった。水樹と同じく、自身もまだ恐怖心を振り払うに至っていない。
魔王を倒しに行くと言ったにも関わらず、その“彼”の兵隊に過ぎない魔族相手でこの体たらくなのだ。 今更ながら、自分がどれだけ考えなしだったかを思い知った気分であった。
(……水明)
そこでふと、友人の顔が脳裏をよぎる。
城で別れた友人――八鍵水明は、現実を見ていた。無理だと、出来るわけがないと事ある毎に否定ばかり口にしていたが、それはどれほど正しい言葉だったか。
力を手に入れて万能になったつもりでいた自身より――いや、だからこそ、力を得なかった彼の方が道をしっかり見れていたのだろう。
自身はあの時、理想に浮かされていたのだ。舞い降りた非日常。現代の文化とかけ離れたファンタジー世界。
そこで願われた助けて欲しいの切なる望みに、貴方なら助けられるという根拠のない断言を重ねられ、己は出来ると錯覚していた。
恐怖を侮っていたのだ。
それを愚かと言わずしてなんと言おうか。ほかに言葉は思い付かない。
確かに今後の行動によっては、それを払拭できるだろう。恐怖心があるのは経験や技術が足りないためだ。今は魔王に挑むまでにそれを補おうと動いている。
プランはある。この浅慮であった行動を覆すための。
――だがそれでも、その浅はかな我が儘に、いま大事な友人である少女を巻き込んでいる事には、変わりない。
(ごめん……)
俯き、まだ肩で息する水樹を見た。 そしてもう何度そう謝ったか。口に出したのが多すぎて、もう謝らなくてもいいと言われた故に、今は心の中で謝っている。
自責の念を他者への謝罪で誤魔化しているだけと言われればそうだ。それが自分の弱さなのは分かっているが、止める事は出来ないだろう。
「……場所を変えようか」
「……うん」
提案に頷いた水樹を連れて、魔族の死体が転がる戦場から離れた。
「――ミズキ! 無事ですか!?」
横合いから、少女の声がかかる。それは、仲間であるティータニアのもの。
彼女も他所にいた魔族を騎士と共に倒してきたか。壮年の騎士を斜め後方に従えて、こちらに駆け寄ってくる。
それに顔を上げて答える水樹。
「うん。私は大丈夫だよ」
「良かった……。どうやら大事はなかったようですね」
「黎二くんがいたからね」
言い交わして、その場で肩を抱き合う二人。向かい合う安堵の笑顔と気丈な笑顔に、初めて場の雰囲気が緩和する。
「ティア、お疲れ様」
そしてそんな二人の横に立ち、そう労いを掛けると恭しく礼をするティータニア。
「お気遣いありがとうございます、レイジ様」
「いや……グレゴリーさんもお疲れ様です」
と、控えていた壮年の騎士、グレゴリーにも労いを掛けると彼はいつもの生真面目な面持ちで。
「いえ、私めは姫殿下の援護をしていただけのこと。労いなど勿体ない」
謙遜するグレゴリーに「そんな事はありませんよ」と言うと彼は「かたじけない」と口にして、深く頭を下げた。
「――それでティア。そっちは?」
「はい。こちらも問題なく片付きました。あちらの魔族は一体たりとて討ち漏らしはありません」
「さすがティア。頼りになる」
「いえ、私など。レイジ様の強さに比べれば、まだまだ至らぬばかりです。ですが――」
「どうしたの?」
「……馬を全て潰されてしまいました。申し訳ありません」
「……そうか。今まで乗せて来てくれた彼らには可哀想な事をしたけど、ティア達が無事で良かった」
「レイジ様……」
ティータニアに励ましを掛けると、感じ入ったか。馬が殺されて今後大変にはなるだろうが、それでも今の戦いで誰一人も欠けなかったのは喜ばしい事である。
すると横合いから、自信の揺らいだ声が掛けられた。
「……ティアも戦いは平気なんだね」
「ええ、私も少しではありますが、実戦経験がありますから」
ティータニアの答えを聞いて、不思議そうな表情を作る水樹。
「お姫様なのに、どうして?」
「レイジ様の召喚が決まってから、付き添いに私が選ばれたため、こういう事を想定して訓練はしていたのです」
「そうだったんだ……」
ティータニアの答えに、合点がいく。
彼女は一国の姫。自分達とは違う意味で戦いとは縁遠いものと思われていたが、しかし実際戦いをこなしてきて、そんな事がないと分かった。
魔物との戦いにも積極的に参加し、魔法使いもかくやの奮戦をする。
尊い雰囲気を動きの端々から醸す少女だがその実、戦う力も気構えも、彼女は初めから備えていたのだ。
それには、そんな理由があってのことか。
故に水樹の語尾が小さくなるのは、自信のなさが表れた故だろう。周囲の者から置いてきぼりを食っているような状態なのだ。致し方ない。
そんな水樹の失意を察したか、ティータニアはその気落ちは間違いだと励ましの言葉を掛ける。
「ミズキ。気にする事はありません。私も初めはあなたと同じ、いえそれよりひどいものでしたよ」
「……そうだったの?」
「はい。私も実戦に漕ぎ着けるまで、あなたと同じような流れでしたが、最初の戦いが終わった時、私は地べたにへたりこんでいました」
「あんなに、普通に戦ってるのに?」
「その経験があったからこそです。それ故、このままでは召喚された勇者様に付いていけなくなると、余計に強くならねばと思いました」
「それで今みたいに」
「はい、どうにか形にはなりました」
ティータニアはそう理由と努力を告白すると、水樹に対し、声を掛ける。
「自信を持ってミズキ。まだこれからです」
「うん」
ティータニアの激励に水樹は力強く頷く。不安は、取り払われたか。
そんな助け合う二人の仲を見ると、嬉しく思う。
これならやっていける、と。
先ほどは呵責に苛まれていたのに、なんとも調子の良い話だ。そんな自覚はあるがそれでも、勇気付けられた事に変わりない。
そんな中だった。
何故か水樹が、憂いたように眉を寄せる。今しがた愁眉を開いたばかりなのに、どうしたのか。
「水明くん、大丈夫かな……」
その言葉にああ、と得心がいく。憂いの原因はそれか。
すると。
「スイメイ、ですか。確か少し経ったら城を出ると言っていましたけど……」
「うん。町の外……すぐ外は大丈夫だったけど、街道や見通しの利かない所は危険だから、もし町の外に出たりでもしたら、こんなのじゃなくても魔物には出会ったりもするんじゃないかなって」
「そうですね。討伐を断ったスイメイが一人で旅に出るようなことはないと思いますが、それでもレイジ様のような加護やミズキのように魔法も会得していないとあれば、あなたの危惧する通り、町から出て魔物に出会えばひとたまりもないでしょうね」
と、ティータニアが思惟に面持ちを難くする通りだ。水や食料、道程や危険や目的の有無などの問題から、水明が一人旅をするという事はまずないだろうが――もしと言う事を考えるなら、二人が危惧を抱く気持ちも分かる。
生活のために何らかの仕事を得たとして、それが彼を町の外に出してしまう要因となれば、明るい見通しは抱けるわけがないのだから。
だがそれは二人の意見であって、自分の考えとは些か違う。
「いや、水明なら大丈夫だよ」
「……? レイジ様はどうしてそうお思いに?」
「うん。水明には剣術があるから、外に出てもきっと上手く立ち回れると思うんだ」
思わぬ所から意表を突かれたティータニアの、ハッとした表情が見える。
「スイメイは剣技を会得しているのですか?」
「ああ」
肯定に、二人が顔を見合わせる。意外にも水樹の方は知らなかったようで、ティータニアの視線に、知らぬ存ぜぬ初耳だと首を横に振っていた。
そう、水明は剣士だ。無論向こうの世界でのと言う限定があるため、本物の剣を扱った事はないだろうが、水明は確かに剣士なのである。
「でも黎二くん。水明くんは剣道部員じゃないよ?」
と、問いの主は水樹。彼女が疑問に思う通り、水明は剣道部員ではなくいわゆる帰宅部員だ。親戚の用事だとかで何かと海外に行く機会が多く、部活動には入っていない。
帰宅部員の意味が分からず横で小首を傾げるティータニアを尻目に、水樹の問いに答える。
「学校の部活じゃなくて、家の近くの道場に通ってたんだよ」
「えっと……近所に剣道の道場なんてあった……?」
「あれだよ。護身術の」
町の地理を思い浮かべてもまだ答えにたどり着かない水樹に、そんな短い答え。
すると、納得うんぬんの前に場所だけは思い当たる所があった彼女は。
「あそこ? 女性向けの護身術の教室やってる? 確かに近所じゃ有名だけど、あそこは剣道の道場じゃないよ?」
「うん。普段は看板通り護身術だけ教えてるらしいんだ。でも本来は古武術の道場で、希望者に限り色々と教えてくれるらしいんだ」
「ほんと!? あそこってそんなところだったの!?」
「ああ。水明が言ってた」
「うそ……私もクラスの子と行ったことあるのに……しかも古武術って……」
話は確かと口にすると、水樹には寝耳に水だったか。護身術を教わりに行った事がある経験もあって、思った以上に驚いている。
確かに、まさか近所にそんな所があるとは思うまい、だ。自分も最初聞いた時は、声を上げたのを覚えている。
「じゃあ水明くんって、漫画とかで言う古流の使い手って事になるの?」
「らしい」
すると、今度はティータニアが。
「お話を聞くに、スイメイは武術家と」
「ああ。僕たちの世界のレベルでだから、こっちで武術をやってる人とは比べられないだろうけど。水明は剣士だよ」
「そうだったのですか。一見して荒事をこなせるようには見えなかったので、意外ですね」
「うん。確かに普段は全然そんな風には見えないんだけど、あれで結構な腕前らしいんだ。又聞きだけどね」
そう、それについては自分の知識も、聞いたの域を出ないものだ。自身も件の道場には行った事がないし、水明と一緒に町の不良に立ち向かった事はあるが、当然彼がその時に剣術など使うはずもない。見たことがないのである。
ティータニアはこちらの言い分を楽観と捉えたらしく、反論を投げ掛ける。
「ですが、だからと言って難を逃れられるという事には繋がらないかと思いますが」
それに些か不安そうな色が滲むのは、そうなった時の事でも思い浮かべたか。確かにティータニアの言う通り、剣術をやっている事と無事な事は繋がらないだろう。
事実、水明は魔物と実戦をこなしているわけではないのだ。それに、対人間を想定した武術が通用する確証もない。
だが、だからと言って一方的に危険な事に繋がるとも言い切れないのではないか。
それに。
「水明、あれで結構抜け目ないし。……時々常識から外れたうっかりをすることはあるけど、基本的に慎重だから」
「魔物に出会っても、上手く立ち回るだろう、と? 魔物に出会えば睨み付けられただけで動けなくなるという話もしばしばあるというのに」
「そうだね。案外水明なら、柳に風かもしれないよ」
「そうでしょうか……」
納得はできないか、しかめられた顔。この世界を生きる者として危険は十二分に理解しているからなのだろう。
だが水明も水明で意外と物怖じしない性格だ。以前不良に囲まれた時も、“何だそれくらいで”と不敵に言ってしまえるような余裕があった。荒事の前後は終始げんなりとした表情なのだが――それはともかく。
それに水明は自分が知る限り、真っ向から勝負はしない。どちらかと言えば搦め手を弄するような人間だ。立ち回り方に関しては自分などより余程利口である。
「まあ、だから僕はそんなに心配していないかな」
「レイジ様がそうおっしゃるなら」
自分も気にしない、と言いたいか。それ以上は議論を試みるのを止めたティータニア。
と、そんな時。水樹は何を思ったか唐突にこちらに向かって。
「……じゃあ黎二くん。水明くんって、俺はなんとか流剣士八鍵水明! とか言っちゃうのかな? すごい剣術とか使えるのかな?」
「へ? いや、いくらなんでもそれは」
「だって古武術だよ! 古武術! 既存の武術を圧倒しちゃう殺人術がベースのスーパー武術なんだよ!」
そう熱く口にする水樹は古武術にどんな幻想を抱いているのか。殺人術は性質上確かにそうかもしれないが、古武術が現代の武術を凌駕しているとは言い切れるものではない。
それに水明と話した時は、普通の剣道とそう変わらないと言っていた。
しかし、ティアは水樹の言葉をそのまま受け取ったらしく。
「さ、殺人術ですか……」
「そうだよ、そうなんだよティア。日本で言う古武術はあらゆる状況下での戦いを想定していて、且つ、打つ、投げる、極めるを一つの技で同時に行えたり、剣術に至っては神業の域に達してるんだよ」
「…………!」
内容か、迫真さか。どちらに圧倒されたか生唾を飲むティータニア。
と言うか、その組み打ち術の話はどこの修羅の使う武術か。
「……まあ私も水明くんがそんな事できるとは思わないけどね」
「は、はあ……」
そりゃあそうである。
そこで、水樹はひとしきり説明し終わると、今度はどうしたか、ぷりぷり。頬を膨らませる。
「う〜なによっ、水明くんの方が断然中二病じゃない! 正体隠してとか、もう何て言うか――ずるいっ!」
結局怒りの焦点はそこなのか。黙ってたことよりも、習っていることに腹立たしさがあるらしい。
だが。
「べ、別に水明は水樹みたいに中二発言をしてた訳じゃないから中二病とは言い切れないんじゃないか……あ」
禁句を口にした事に気付いた時には後の祭りだった。
水樹の方を見る。彼女は笑顔に凄みを醸していた。
「れ〜い〜じ〜く〜ん〜」
「ご、ごごごごめん! つい!」
「約束っ! 忘れちゃダメなんだからね!」
「う、うん!」
そう、それは言わない約束だ。水樹の封印しておきたい過去。彼女曰く、シークレットガーデンである。
そこでティータニアが。
「ミズキ。その“ちゅうにびょう”というのは?」
「え!? ……えっと、それは……」
「それは、何なのです? 何か良くない病なのですか?」
「うううううんうんうん! そうなんだよ! 向こうの世界だと十代前半の子供の大半が罹ってしまって、そのとき治ってもその後とても恐ろしい後遺症を残してしまうっていう邪悪な病気なんだよ!」
ティータニアの訊ねに、恐々と答える水樹。そしてわたわたと両手を振り回し、一生懸命誤魔化しに掛かる。
話を拡散されたくない気持ちがひしひしと伝わってくるが、結局その後遺症は身から出た錆なのだが。
水樹が疑問に適当に答え終えると、この話はもういいか。
ふと表情を険しくさせたティータニアが。
「それはそうと、魔族の件なのですが」
「う、うん。そう言えばそうだよね。どうしてこんな所に魔族が現れたんだろう」
「魔族、か……」
「はい……」
と、ティータニアが頷く。
水樹の懸念もあった通り、魔族の出現は襲撃から通して、ずっと気になっていた事。今はそれらを倒しきってだいぶ落ち着きを取り戻しており、それを考えるために必要な余裕は出来つつある。
話をするのは今だろう。
先ほど戦った魔族の群れの事をまた思い出して、再び顔に不安を滲ませた水樹に、自分なりの答えを口にする。
「魔族がネルフェリア帝国に攻めこんできた」
「や、やっぱり、そうなのかな……?」
「うん。順当に考えるなら、それが一番可能性として高いんじゃないかな? 魔族がいるという事はつまりそういう事だし」
と、自分が考え付く推測を呈示すると、水樹の面持ちが硬くなる。
当然だ。まだ慣れも何もないのに、またすぐに魔族と戦わなければならない可能性が出てきたのだ。魔族は魔物や魔獣に比べても強力なのだ。
魔物ならば先ほど水樹の使った魔法で倒せても、強い魔族ならば火傷すら負わないという者もいる。最後に相手をした魔族が良い例だ。
やはり、不安はまとわりつくだろう。
すると、ティータニアが、そんな推測を否定する。
「――いえ、まだそれはないかと」
「どうしてだい? ティア」
「はい。レイジ様のおっしゃる通り、ここは帝国の領内です。そこへ魔族達が現れれば確かに侵攻してきたとも考えられますが、実際まだ魔族はノーシアスを落としただけで大きな動きはありません。ここに侵攻するにもまだ国二つと山脈一つを越えなければここには来ることは出来ないのですから、そんな向こう見ずな強行軍はいくらなんでもないかと」
その考えに、水樹が共感する。
「そうだよね。無理にこんな所に進軍しても、軍隊が孤立しちゃうだけになるもんね」
「前の二国を落とさずに軍隊をこんな所に進ませても、魔族達にメリット……いや得はないと」
「はい」
首肯するティータニア。確かに彼女の言う通り、大きく動いているのならば孤立という事態は大きな障害だ。真っ当な頭を持つ者が大量の兵を進ませるならば、補給線や駐屯場所、戦力を安全に補充するのための道などを確立してから、着実に進ませるのが筋だ。
それもなくただいたずらに軍を進めれば、孤立無援の状態で袋叩きにあってしまうのだから。損害が出るだけ、良いことは一つもない。
だが。
「でも、現に魔族はここにいた。魔族の軍隊が来ている訳ではないにしろ、こんな所にまで来ているんだ」
「そうです。それが、問題ですね……」
「スパイ……みたいなものだったりとかは?」
「すぱい……ですか?」
「ええと、僕たちの世界でいう間諜の事だよ」
「ああ、なるほど。ですが――」
「うん。それはないかな」
ティータニアの言葉の先を代弁すると、水樹は首を傾げる。
「どうして?」
「あいつらがそんな存在なら、わざわざ僕たちに仕掛けてくるはずはないよ。あいつらがスパイだっていうのなら、元々この辺りで何か活動をしていたはずだ。なら、それを放棄して仕掛けてくるのには無理がある」
「そっか。倒しきれるかどうかも分からないもんね」
「ああ。僕たちを勇者と知っていれば仕掛けてくるのかもしれないけど、あいつらはそれを知らないみたいだった」
そう先ほどの戦闘は、丁度遭遇したから、仕掛けてきたという感じが強かった。勇者だと分かって仕掛けてくるならば、戦力的には少ない数であったし、そもそも自身が勇者であると知る術が魔族にはないはずだ。
「だから、分からないのです」
眉をひそめ、ううむと目下の謎に対し唸るティータニアを横に、黎二は壮年の騎士の方を向いた。
「グレゴリーさんは、どう思いますか?」
そう訊くと、熟練の騎士たるグレゴリーは済まなそうに頭を下げ。
「……申しわけございませんが、私には魔族の考えの及ぼすところなど想像もできません」
「何かしら気付いた事は? どんな些細な事でもいいですから」
「……勇者殿。それよりも私は、早くこの辺りから去る事が肝要と思います」
それはともかくとのグレゴリーの言葉。生真面目で常に厳格さを醸し出している彼の唐突な退避の提案だった。
それにもしやと、ピンとくるものがある。
「――それは、近くに魔族がいると?」
「い、いえ、そうだとは私も思いませぬが……」
「……?」
そうではないのか。
折りに感じた食い違いの違和感。自然と、左右の眉が中央に寄る。
そして、否定した方のグレゴリーは何故か気まずそうだった。今回の状況から、危険を予測しての提案だと思ったのだが、果たして何を思っての事だったのか。魔族などの危険性がないなら、早急の退避などそう必要もないはずなのに。
すると、ティータニアが。
「グレゴリー。どこか安全な場所に向かうのには確かに私も賛成ですが、魔族が今どうしているのかをしっかりと考えてからの方がいいと思います。いま考えなしに動いてしまえば、それが危険に繋がる可能性もあります」
「……は、姫殿下のおっしゃる通りにございます」
ティータニアの言葉に、素直に頭を下げるグレゴリー。
納得したか。しかし、先ほどの提案はなんだったのか。言葉の中に追いたてられるような焦燥があったようにも感じたが、はて。
「……ティア。北方以外に魔族がいる可能性は?」
改めて、他の見込みを模索せんとティータニアに訊ねる。
もし魔族が北以外の土地にいるならば、ここに現れる可能性もなくはないはずだ。
「いいえ。それはないと思われます。この世界の全ての魔族は以前召喚された勇者様のお力により、全て北に追いやられたので、別の地域にいると言う事は……伝承が正しければの話ですが」
「伝承?」
「以前勇者様をお呼びした時に書かれた書物の写しです。当時の魔王を打ち倒したあと、勢いに乗った各国は次々と魔族を倒していき、残すは北の峻厳の最奥となったと……それ以上は人間が軍を進められるような場所ではなく、魔族の殲滅は諦めざるを得なかったとされています」
「うん……」
それが真に正しいものなら、他に魔族がいるという可能性はないか。
となると、だ。
「……分かんなくなるばかりだね」
「ああ」
懊悩の混じった水樹の唸りに、同意する。話しても話しても、答えがでない。糸口が見付からない。
と、そんな時だった。遠間から駆けてくるような足音が聞こえてくる。
そして。
「ゆ、勇者様ーっ!」
との、こちらに存在を知らせる呼び声。その声の主は、グレゴリーと同様まだ外の世界に慣れぬ自分達をサポートするために同道している、若い騎士だった。
城の人間と逐次連絡を取り合うため、時々旅から外れる役目があり、前回のグレゴリーに代わり今度は彼ともう一人騎士が一時的に旅から離れていたのだが……。
若い騎士は乗っていた馬から降り、こちらに向かって一礼する。
「ロフリーさん」
「はっ、只今戻りました」
「ロフリー。怪我はありませんか?」
ティータニアの何気ない訊ねに、ロフリーは一瞬の呆けのあと、俄に焦り出した。
「わわわ、私など一介の騎士に姫様がお心使いなど――」
「ロフリー」
「は、はっ! いえ、それよりもあちらに……」
グレゴリーの咳払いに、一驚。先ほどとはまた違った焦りに駆られ、舞い上がった心を元に戻すロフリー。
そんな彼の訊ねるような視線に答える。
「ああ、あれを見たんだね。ついさっき、襲い掛かってきたから返り討ちにしたんだ」
「あれを全部ですか!?」
あれ――つまりは襲撃してきた魔族達のしかばねを見てきたらしいロフリーは、悲鳴のような驚きを口にする。
見てきたのなら今更そんな事に驚く事もないだろうに。いちいち大仰な人である。
「あ、ああ」
「さすがです! レイジ様! ……あ、いえ。そうではなく!」
……些か、声も大きい。一々元気というか、何事にも真摯というか。
しかし、何かしら言いたいことがあるらしい。
そんなロフリーに対し、グレゴリーが訊ねる。
「どうしたのだ? 先ほどから随分と浮き足だっているぞ? それにルカはどうしたのだ? お前と一緒に連絡役に会いに行ったのに何故戻ってこない?」
「は、それも含めてお話しします」
と、ロフリーは一旦間を置いて、また話し始める。
「唐突な話ですが、一刻も早くここから離れないとならなくなりました」
「それは何故です?」
「はい。魔族の大軍がトリアやシャルドックの国土を抜けて、アステル北の国境を突破したらしいのです」
面持ちも硬く、驚くべき事を口にしたロフリー。トリア、そしてシャルドックとはネルフェリアやアステルの北にある国なのだが……。
彼の話に真っ先に顔色を変えて声を上げたのはティータニアだった。
「何ですって!? それは真なのですか、ロフリー!?」
「は……はっ、連絡役の話では、恐らくは……」
詰め寄るように訊ねるティータニア。彼女の勢いに気圧され、ロフリーが恐縮気味に答える。
だが、それを聞いていた黎二には、彼の言動に気になる所があった。
「ロフリーさん。らしい、とはどういう事です?」
その意図を訊ねる。ロフリーの話には先ほどから曖昧な表現ばかり使われていた。
魔族のアステル侵入から何から、断定が一つもないのである。
それについて、ロフリーは。
「それが、これは国境近くの不寝番がそれらしき痕跡を偶然発見したという事実を元に推測されたものですので、私にもはっきりとしたことは……」
「痕跡?」
「は、通った後らしき場所に魔物とはまた違う足跡や魔力の痕跡があったとの事です」
そこへティータニアが。
「実際に魔族を見た者はいないのですか?」
「はい、表立って動いている気配は全くないらしく、目撃したという話も襲われたという話もありません」
そこへ水樹が、怖ず怖ずと発言する。
「……それなら普通に考えて、暴れるよね?」
皆が頷く。水樹の訊ねの通りだ。人間と敵対し、既に行動まで起こしているような連中が国境を越えてまで来ているならば、それは混乱を目的としたものと考えていいだろう。
他の目的があるとも言い切れなくはないが、大軍という時点でそれらは除外されるはずだ。大規模な戦力を最も有効活用できるのが、争い事なのだから。
しかし、だ。
「今回の件はそれがないので、情報も定かではないというか、信憑性が薄かったのですが……」
「僕たちを襲ってきた奴らが、もしかしてそうなんじゃないかという事だね」
ロフリーは魔族の襲撃を知って、繋がりがあるのではないかと予測したのだろう。具体的には、奴らがその魔族達の一部だということだ。
ならば、先ほどの彼の大仰な反応も頷ける。
ロフリーは「はい、私もそう思った次第です」と苦々しく口にした。
そこで、グレゴリーが。
「ではルカは」
「は、連絡役を安全に送り届けるため、一時クラント市へ向かいました。合流はまた後日、帝国領内でと」
「そうか。分かった」
そして、ティータニアが逼迫した面持ちで。
「まずいことになりましたね」
「これって私たちの動きが魔族にバレてるってことだよね? でもそれはさっきの話で……」
そう、解決済みだ。狙ってきたには先ほどの襲撃は余りにも偶然出会ったに過ぎる。
ならば、どういうことか。
「おそらく魔族達は勇者が呼ばれた事は分かったけど、細かい事は把握していないって事なんじゃないかな? だからさっきみたいな強行偵察のような連中が来た」
「あ……」
「なるほど。今はそれらしき相手を探している途中だというのですね」
「うん」
そう。
大軍がいると知られれば逃げられてしまう可能性があるため、それを忌避して隠密まがいの行動をとり、部隊を小さくして捜索させているのだとしたら、水樹やティータニアを今はっとさせたように辻褄が合いそうなものだ。
(……だけど)
ただそれならば、それを伝える連絡要員がいるはずなのだが、それらしい者は居なかった。
答えとして詰めるにはまだ早いような気がする。
しかし、バレてはいないがこれは由々しき事態である。
それを代わりに口にしたのは水樹だった。
「近くにいるならまずいよ。馬はロフリーさんの以外みんなさっきの魔族に殺されちゃったし……」
「うん。最悪、逃げられないかもしれないね。どうにか、立ち向かうしかないかも」
「ロフリー。魔族の軍勢の規模についての推測は?」
「おそらく、一千以上はいるのではないかと……」
「いっ……」
「……それは」
絶句する水樹に続き、自身も言葉が出ない。それは、さすがに立ち向かう事ができない数だ。
さっきの魔族でも、倒すまでに時間が掛かったのだ。それが千とは。一気に押し寄せられればひとたまりもない。
今更ながら、水明の言葉が頭の中を反芻する。
水樹が辛そうな顔で。
「な、なら早くここから離れないと」
「いえ、無闇に逃げるのは得策ではありません。馬も私の一頭しかいないのですし、ルートを決め、食料や水の事も考えなければ……」
浮き足だった水樹の言葉を否定したロフリーの提案は尤もだった。
みなそれに頷いてから、ふとティータニアが何故か今まで何の提案も出していない熟練の騎士に、訊ねる。
「グレゴリー。あなたはどうすれば良いと思います?」
「いえ……」
面持ち険しく、返事も芳しくない。魔族の話をし出してからどうも様子がおかしい。
……いや、待て。そう言えばグレゴリーは先ほど、なんと言ったか。
魔族の話をしたときに、まるで何かの存在に焦るように――
未だ不自然な雰囲気の拭えないグレゴリーに、皆の視線が集まる。すると小さく、「もう、頃合いでしょうな……」と呟いた。
「グレゴリー?」
「……それについては、心配には及ばないでしょう」
それは、どういう事なのか。
……彼が渋い面持ちで発したその言葉が、この旅が始まって最初の波乱であった。