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気が付くと、異世界入り



「いたたたたっ……」


 突然の出来事に咄嗟の対応も利かず、しかしてその代償となった尻の痛みに対して、水明が漏らしたのはそんな苦悶の声だった。

 完全に不意だった。確かに何かが起こると予想はしていたが、着地を取れなかった故、不意だろう。

 固い床だ。恐らくは石畳かタイル。強かに尻餅をついて、尾てい骨が悲鳴を上げたのがついさっき。


 果たして、何が起こったか。思い起こすまでもなく、それは今しがたの出来事であった。



 学校の帰り途中に、友人二人と共に、突如道端に現れた転移系の魔法陣に引きずり込まれたのだ。

 そして、転移した先で、尻を打った。


(……大失態だろ。こんなの)


 コンクリートの密林を擁する現代で、人知れず魔術の道を歩んできた自身。道に入ってはまだ十二年とそこらだが、それでも多少なり腕はあると自認している。そんな、現代魔術師である自分が、他者の魔術行使に容易く引っ掛かった。

 察知できたのに、目の前にあって見えたのに、何の対応もできず、一秒を腕を(こまね)いていただけだった。


 果たして、これを失態と呼んで何の間違いがあるだろうか。面目ないし、不甲斐ない。


 そんな風に、痛覚が及ぼす痛みとはまた違う痛みにも目尻に涙を溜めたまま、水明ははたと隣を歩いていた友人達はどうなったかと横を向いて見ると――


「いてて……」


 尻を撫でる自分のすぐ隣で、友人である遮那黎二(しゃなれいじ)は自分と同じように尻の痛みに喘いでいた。


「おい、黎二。無事か?」


「ああ、なんとかね。水明は……」


「尻が痛い。もの凄くな。がっつり縦に割れたよ……」


「ははは、そっちもか――って、水明! 君だけかっ?」


 こちらの他愛ない冗談に、黎二は朗らかに笑うも、一瞬だけ。直ぐに一緒に歩いていたもう一人の友人、安濃水樹(あのうみずき)の存在がないことに気付き、焦燥の声をあげる。



 確かにいない。さっきまで自分達と歩いていた少女は、どこにも。


 辺りをざっと見回す。石壁に閉じられた円柱状の部屋は、古風な燭台に照らされ薄暗く、何もない。否、あるのは厳重そうな扉と、自分達が尻や足を乗せる固い床に描かれた紋様。転移の魔法陣。


「あ、ああ。水樹がいないな……」


 友人を欠いた不安に、僅かな困惑を滲ませたまま呟く水明。

 そして黎二は、それ以上の混乱に表情渋く頭を悩ませる。


「一体どうして……それにここは一体……?」


「ああ、俺もここがどこだかは分からない。だけど俺達はどっかの誰かの意思で、こんなよく分からない場所に飛ばされてきたんだってことぐらいは分かる」


「……もしかして、これ?」


 床の大きな魔法陣に怪訝そうな目を向ける黎二に合わせ、水明も改めて魔法陣を見遣る。巨大な円の中の際に、それの四分の一ほどの円が描かれ、中の幾何学模様は四大にも五大にも五行にも通じない形。魔法陣の縁には見たこともないような言語が連ねられている。

 独自に発展した降霊や召喚に類する陣だというのは分かるが、いまこの場でそれが分かるのは自分だけだ。

 当然、一般人である黎二は知らない。彼とは中学からの付き合いだが、自分が魔術師ということも教えていない。だから、この足下にあるものも、漫画やアニメ、サブカルチャーでしか知り得ないだろう。


 そこから(いず)るのは半信半疑。もしかしたらこれのせいでこんなことになったのかという、明確さのない推測のみだ。


「おそらく、な」


「うわぁ……」


 状況判断のかなう水明の白々しい同意に、黎二はどっと疲れたような顔をする。

 確かにそんな顔をしたくもなる状況だ。自身だって今は辟易とした顔に一抹の苦さを滲ませているだろう。


「……ねぇ、水明。この突然過ぎるいかにもなシチュエーションさ、何て言うかすごく覚えがあるんだけど」


「分かる。こないだ水樹がくれた娯楽小説がこんな内容だった」


「だよね。突然異世界に呼び出されて、魔王を倒してくれって頼まれるアレに状況が酷似している。たぶん」


「笑えねぇ。マジで笑えねぇ冗談だわそれ」


 胃がもたれたような顔で水明は一層うんざりとした声を放つ。すると、黎二は複雑そうな表情で、どこか乾いた笑いを見せた。


「は、はは……でも、なんかそんな気がするんだよね」


「黎二お前、マジで言ってんのか?」


「うん」


 重く頷く黎二から一先ず視線を外し、ふと人知れず、水明は魔術で辺りの状況を解析してみる。小説と一緒の状況とは奇想天外な運命過ぎて得心などいかないが、ここが地球でないのならば、自分達を取り巻く自然に誤差があるはずである。



 徐々に現れる探査の結果を集めていく。重力も普通だし、大気の成分にも大きな変わりはない。場所の変化による変動の差違としては許容内。


 しかし――


(マナが濃いな……この部屋のせいか?)


 そう、マナと呼ばれる空気中の神秘的な力の源が、ここではやたらと濃密だった。その濃さは、霊脈の真上や地球のへそ、神聖な寺院やサークル内に匹敵する。


 だが、それだけでここを異世界と認定するのは突飛に過ぎるし、滅茶苦茶だ。ただ単にこの魔法陣を起動する場所にマナの濃密な場所を選んだ可能性もある。むしろその可能性の方が高い。


 それにまず第一に、黎二はそれを観測する術がないので、それに対しての変化を違和感として覚えることができないだろう。おかしさを感じたのは他のことだ。


「黎二。なんでそう思う?」


「なんかね、すごく強くなった気がするんだ」


「あー、脳味噌溶けたかね、黎二さんや?」


「いや、怪電波を受信したわけじゃないって。ほら――」


 黎二の言葉に合わせ、響く穏やかでない破壊音。魔法陣から外れた場所の床を黎二が軽く叩くと、石の床は砕けて塵を噴いた。


「んなアホな……」


 それを目の当たりにした水明は目を丸くする。いくら黎二がスポーツ万能のアイドル系イケメンだからとはいえ、これはない。あり得ない。石を粉々にするには相応の負荷が必要なのだ。ただ小突いただけでは絶対に不可能。圧倒的イケメン力を用いても、それははっきり言って方向性が違いすぎると言える。


「ほらね。できた」


「ほらね、じゃねぇよ。不吉な予測に拍車をかけんな……」


 不吉だ。確かに永続的に身体強化を付加する召喚技術には感嘆を禁じ得ないが……。等と考え、そこではたと気付く。そんな魔術の良し悪しばかりに思考が行ってしまうのは、やはり魔術師としての性分なのか。優先して考えるべきは他にあるというのに緊張感が乏しい己である。


「で、水明は?」


「……。いんや、なさそうだ」


 強化されたかと暗に訊ねられても、それしか答えがない。手を握り返したり魔力を移動させてみても、自分に強化が施されたような感覚はまるでなかった。

 恐らくは黎二一人で、悪の魔王を倒す聖なる勇者の席は埋まっているのかもしれない。 ならば自分は完全に呼ばれ損である。


 そんな、水明が顕著に肩を落とす最中だった。 足下の魔法陣が俄に輝き始めた。

 黎二の顔が焦燥に駆られた表情に変化する。



「これは……」


「起動してるぞ……! また飛ばされるか或いは……」


「呼び出される!?」


 理解の早い黎二。彼の正鵠な答えを聞きながら、身構える。

 すると、中空に床の魔法陣を一回り小さくした魔法陣が現れた。


「くるぞ!」


「ッツ――!」


 声に合わせ、魔法陣から影が現れるや否や、動いた黎二。何が出て来たのか、識別できたか。

 以前からでは到底およびつかないような俊敏な動きを見せる。それは、身体を強化されたが故か。


 斯くして、宙に現れた安濃水樹を見留めるや否や一瞬で、黎二は彼女を抱き止めた。


「水樹!」


「ふえ……? 黎二くん、どうして……?」


「良かったな水樹。黎二のお陰でお前の尻は守られた」


 こうしてまた、友人三人は知らぬ場所にて再開を果たしたのだった。

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