誘いの群青
水明がライカスの首筋に添えていた水銀刀を静かに離すと、彼はその場に座り込んで荒い息を漏らした。
「は……っ、くそ……」
「う……」
後ろではエヌマルフが。魔力の過剰放出によってへたりこみ、疲弊した姿を晒している。
勝ちだった。こちらを見くびり、侮り、軽んじた事の全てを叩き返すような、そんな完勝。普通のギルド員ならば凱歌を奏するべき場面だが、今日の勝利者にそれはない。ただ、静かに水銀刀に込めた魔力と術式を解き放して、床へ。
再び広がったその水銀は出した時の逆再生でもしたかのように、試薬瓶へと戻っていく。
ギルド職員として戦いの行方を見守っていたドロテアは、そんな二人の姿を驚嘆の表情のまま交互に見遣った。
「わあ……。ほんとに二人共倒しちゃいました……」
意外な結末にドロテアは些か呆け気味か。そんな彼女の隣で同じく試合を見ていたレフィールはと言うと、やはり剣士の目。戦士を見るような油断ない視線で、こちらを窺っている。
そして、その射抜くような視線を、ふっと浮かべた優しい笑顔で掻き消した。
「――お見事」
称賛、一言。どうやら、纏う雰囲気の印象は、多少なりと覆せたらしい。
そして、ドロテアが歩み寄ってくる。
「スイメイさん。素晴らしい戦いでした。ライカスさんとエヌマルフさんをいっぺんに相手して倒しちゃうなんて、今メテールにいるギルド員でもそんなにいないですよ」
「ありがとう。ま、上手い事作戦が図に当たっただけさ」
偶然だと言うように
「またまた謙遜しちゃって、やっぱり腕の立つ魔法使いなんじゃないですか。魔法使いギルドでも、熟練クラスに匹敵しますよ。ね、レフィールさん?」
「ああ、メテールの魔法使いギルドの使い手達の腕がどのくらいかは知らないが、技術力はかなりのものと見受けられるな」
そのレフィールの言葉で、気になる事を思い付く。
「……ちなみに、知っている限りですごい魔法使いと比べると、どうですか?」
そう、訊ねたのはこの世界の魔法使いの事であった。遅れてるとは傲然と口にしたものの、それは技術に関すればの話であり、実際のこの世界の魔法使いの最高クラスがどの程度なのかは、まだ判然としていない。
技術も強みだが、魔力の総量や一度の魔法で使える魔力の量が大きければ、それは事実驚異となりうる事柄だし、規模的にみて強大な魔法はそれだけで驚異である。それに加え、エレメントとやらがどれ程魔法に介在するのか、させられるかによっても魔法使いの強さは大きく変わるはずである。
それは多分に戦闘面に限った話であるが――
すると、ドロテアは快活そうな笑顔を浮かべて。
「やっぱりそう言うとこ気になるなんて、スイメイさんも男の子なんですね」
「ああ、ま、まあね。……で?」
「ふふん。私としては結構なものだと思いますよ。そりゃあ宵闇亭にいるSランクの魔法使いさんに比べればそうでもないでしょうが……」
語尾が少しばかり尻窄み。と言う事は、今の戦いでもそのSランクの魔法使いとやらと比べるには烏滸がましい程度となるのか。
ならば。
「なるほどね。……ちなみにだけどお城で有名な白炎さんは、そのSランクの人と比べると?」
「白炎さんは研究者肌の強い方で有名ですから、もちろん強さはかなりのものとお伺いしていますけど、戦闘屋と比べると見劣りはすると思いますよ」
「へぇ……」
宵闇亭のギルド員の強さを誇るか、自慢げに話すドロテア。そんな彼女の言葉に、興味津々だと声を放つ。
フェルメニア・スティングレイ。手練れとはいかないが、魔法使いとしての才は認められるものがあった。確かに最高クラスだとはまかり間違っても思っていなかったが、ちゃんと戦闘を経験した魔法使いと比べると見劣りするとは、興味深い話である。
良いことを聞いたかもしれない。まだまだ、この世界の魔法に失望するには早そうだった。
「じゃあグラキスさんはどうです?」
問うと、レフィールは意外だとでも言わんばかりの胡乱げな視線を向けてきた。
「……君は、あまり強さに拘るような者には見えなかったのだけどね」
「いや、参考までにって事ですよ。どれくらいなのかなぁって、ね。自分の評価とか、気になる時ってあるでしょ?」
と言うと、レフィールは目蓋の裏に記録した過去を確かめるように瞑目して、訥訥と話してゆく。
「そうだな……。多分に私の主観……今まで見てきたものに偏るが、君の魔力の量を感じた限りではそれなりに強い魔法使い線を超えたものではないし、魔法の威力は……先程の魔法は目を見張るものがあったが参考にならなかった」
「威力って」
やはり、自然魔術に類するためそちら重視になるか。では、最高ランクの魔法使いの魔法その威力が、果たしてどれ程のものになるのかだが。
「最高峰と呼ばれるくらいの使い手ならば、森や町を単一魔法一撃で軽く吹き飛ばしてしまうような者もいる。失礼を承知ではっきり言えば、それと君とを比べるとそこまですごいものとは言えないな」
「ふむふむ……」
なるほどである。魔力炉に火を入れていない現状では、確かに差は大きく離れているらしい。町や森を一つ消し飛ばすか。山や半島と言わないだけまだマシではあるが、それでも脅威であることには違いない。まあ向こうの世界にもそんなやつはいないはずだが――とにもかくにも。
「ありがとうございます。随分と参考になりました」
「いやいや、こんな事で礼を言われるのはなんだかむず痒いな」
「いえ、まだまだ無知なもので。至らぬ限りです」
そうレフィールに謝意だと頭を下げると、ドロテアが不意に不思議そうに首を傾げる。
「……ですが、スイメイさんは何者なんですか? あれほどの戦いができるのに、まるでお名前を伺った事がありませんが……」
「そんな。俺程度で有名になんてなれるもんじゃないだろ?」
と、自嘲気味に口にするとドロテアは心外だとでも言うようにぷりぷりと
「あら、宵闇亭の情報網を舐めないで下さい。スイメイさんほどの実力者の名前くらいなら、ちゃんと把握……できるように努めています」
最後にドロテアの自信を折ったのは、結局把握できていなかったからという事実だろう。いずれにせよ自身は日本出身。異世界人が把握できるはずもないことだ。
それを踏まえて、唸りながら答える。
「あー、俺はまあ、遠いところから来てだな……」
「遠方……南の方でしょうか?」
「いや、東の方からかな?」
そうして水明は、城で見た地図を思い出す。こう言う地理的な話が出た時のために、地図の一通りは見ていた。
東側。アステルからは広大な森林地帯と砂漠地帯、山岳地帯など自然の険しい地域を挟み、それほど国交が盛んではなく、情報もあまり入って来ない場所である。
故に、どこかで誰かに出身を問われれば、それを答えにすれば良いと考えていたが。
「なるほど。確かに東方の方なら、聞き覚えがないはずです。じゃああの魔法も東方独自のものなんですね?」
「まあね」
嘘を真だとそ知らぬ顔で口にすると、興味を引かれたのか、レフィールが考え込むように一人呟く。
「独自の魔法か……」
「どうしました?」
「…………いや」
「……?」
何か気になる事でもあるのか。
いや、いま彼女の瞳の雰囲気が変わったのは――
「うん。先ほどから水際立った技術だと感心していてね。魔法を行使する速度、無論防御の魔法は秀逸だったと思う。まだまだ知らぬ世界があるのだな」
「いやー、どうも」
面と向かって真面目に言われるのは、なかなか面映ゆいものがある。
すると、ドロテアが思い出したようにレフィールに向かって。
「そう言えば、レフィールさんはネルフェリア帝国に向かわれるんですよね?」
「ん? ああ、そうだが」
と、ドロテアの確認の言葉に諾意を示すレフィール。
彼女も帝国に向かうとは、また奇遇なものだ。そんな事を思いながら、水明は訊ねる。
「へぇ。グラキスさんは帝国で活動するんですか」
「ああ。一応今後としては帝国の魔導院に通いながら、宵闇亭で活動しようかと考えているんだよ」
「魔導院……って確か」
魔導院。資料によれば確か帝国に存在する巨大な魔法の学術部門だった気がする。アステル、ネルフェリア、サーディアスから生徒を集め、魔導の研究、発展及び、三ヵ国同盟の均衡を保つために設立された機関だったはずだ。
話を聞けば面白そうな要素は多々あるものだが――
(興味出ねぇ……)
研究機関か。学術機関か。どちらでも構わないが、あまり食指が動くものではなかった。水明としても魔術の一研究者としてそこは興味を持っておくべきところなのだろうが、向こうの世界で盟主の頼みに応じ、向こうにもある似たような機関、通称アカデメイアに潜入した時、とんでもない目にあった苦い記憶がある。その時は結社の友人の助けを借りて何とか切り抜ける事が出来たのだが、ああいう類いの話はもうこりごりであった。
「ああ。私もそれほど魔法には詳しくない人間だから、そこで一から勉学に励もうと思ってね」
「魔法を覚えようと?」
「ああ。今まで真剣に取り組んだ事は正直なかったからね」
という事は、完全に己が腕を信条とするタイプだったのか、レフィールは。
何にせよ、また会う事もあるかも知れない。目的地は帝国。同じ地域だ。
ふと、ドロテアがため息のように。
「レフィールさんほどの使い手ならメテールでも大活躍なんでしょうけど、他の支部に行っちゃうのは残念でなりません。――でも、まだスイメイさんが」
「いや、悪いけど俺は準備ができ次第クラント市に行くつもりなんだ」
一瞬の間を置いて、恐ろしい勢いでこちらを向くドロテア。
「……えぇえええええ!? メテールでほうき星の如く現れた期待の新人魔法使いとして、ウチの支部でバリバリ大活躍するんじゃないんですかぁ!? 魔法使いギルドの魔法使い達をバッタバッタとのしてくれるんじゃないんですかぁ!?」
何だその物騒な妄想は。
「……いや、残念ながら」
「そんなぁ……。折角久しぶりに期待以上の方たちが入ってきたと思ったのに……」
「悪いね。俺にもやることがあるんだよ」
「……そうですね。お二方とも確固たる目的があるのであれば、仕方ありませんね」
「ま、最終的には俺もネルフェリアに行く事になるんだけど」
「君もか」
「ええ。色んな情報を得るには、帝国が一番かなと」
「そうか。いつになるかは分からないが、また会った時はよろしく頼む」
「ええ。よろしくお願いします」
「――では、私はそろそろ行くとするよ。スイメイくん。君の戦い、勉強になった」
レフィールはそう別れの言葉を口にして、優雅可憐に翻る。
そんな彼女をふと、見詰める水明。
「…………」
「どうした?」
「いえ、何でもありません。お気をつけて」
「ああ。ありがとう。では、また」
そう、旅の幸運を祈る言葉に謝意を口にして、レフィールは今度こそ訓練場の扉に向かっていく。
その、華奢な背中を見詰めながらに、目を細める。
――彼女ならば、そのままにして置いてもいいか。話し好きの気はなかったし、逃しても一人。小さな綻びにすらなりはすまい。
それに彼女もネルフェリアに行くのだから、結局のところここで自身の話が周りに流れる事はないだろう。
……レフィールが扉を開け、出ていったことを確認してのち、視線の焦点を変えぬままに水明はドロテアに訊ねる。
「――さてと、ちょっと聞きたいんだが、この時点で俺のランクってどのくらいになるかな?」
その顔の見えない問いに、ドロテアは警戒する事もなく、天井を仰いで。
「えっと……そうですね。スイメイさんはライカスさんとエヌマルフさんを同時に相手して撃破しちゃいましたからね」
「……ふん」
「…………」
忌々しそうにそっぽを向くライカスと、歯噛みしているエヌマルフ。やはり、敗北が二度も続くと悔しさもひとしおか。そんな彼らを尻目に、ドロテアは職員の顔か事務的な口調で答える。
「普通でしたらCランクからが妥当でしょうが、Bランクとして活動できる能力も十分ありますので恐らくはその辺りに落ち着くと思われます」
「へぇ……」
意外な評価に思わず声が出る。Bランクときたか。それなりとは思っていたが、中々に高い評価であった。
そして、そんな評価を見積もったドロテアは喜ばしい事だとでも言うように、快活な笑顔を向けてくる。
「すごいですね。一気に有名になりますよスイメイさん」
「そうかな」
「ええ。私が保証します」
と、任せなさいと息巻かんばかりに言うドロテア。
確かにそうか。高評価の新人が彗星の如くに現れれば、名前が広まるのも当然だ。
「だけどさ――」
「……?」
そう、だがそれは、とある条件を満たせばであってこそで――
「――それは、ドロテア達ここにいる三人が、俺がここでやった事を他の奴らに言い触らせばの話だろ?」
「……? いえ、言い触らさなくても突然Bランクの方が現れたら、有名にも――」
――そう。それが、岐路であった。
ドロテアが何を言っているのかと不思議そうに口にしていたその最中。彼女たちが気が付くと、背を向けていた水明はいつの間にか裾の長い仕立てのいい黒衣をまとっていた。
そして、俄に発せられるたのは背筋が凍えて引き攣るほどの、冷然とした気配。
それにいち早く気付いたライカスが、敵意を露に睨み付ける。
「……てめぇ」
「大丈夫。俺は有名になんてならないさ。俺は今しがたの計測でそこの二人に完膚なきまでにのされて、ランクはD相当。三人はこの事を他のギルド員達に伝えて、俺はめでたく回復魔法しか取り柄のない至って普通な二流魔法使いのギルド員になる――ね」
「――え」
何が何だか分かっていないドロテアと、辺りを席巻する剣呑な気配に身体を緊張に強張らせるライカスとエヌマルフ。何が起こるかは、雰囲気を察しての通りだ。いま、口にした事が、彼らにとっての現実になると言うこと、他はない。
だから――
「三人とも少し申し訳ないんだけど、そう言う事でよろしく頼むよ」
「そうはいくかっ――う、ぐ……」
「あ――」
振り向いて、手を翳す。そのまま、ノータイムで魔術を発動。
飛び出し、こちらの暴挙を止めようとしたライカスと、まだ意味の分かっていなかったドロテアは、抵抗すら発揮出来ずに、こちらの希望を叶えるこの魔術に沈んだ。
二人は魔術に強い耐性を持たぬのだ。結果は当然。当たり前のお話だ。
そして、魔術を何の抵抗すらなく受けてしまった彼らの目の焦点は、虚ろのまま合っておらず、その肩は力なく垂れ下がり、さながら幽鬼のように立ち尽くしていると言わんばかりの状態となった。
ただ一人、今の程度の魔術行使では影響が出なかったエヌマルフだけが、震えと恐れを含んだ口調で訊ねてくる。
「……何故だ?」
「うん? 何故かって? そりゃあさっきも言った通り、自分のランクを適当なもので通したかったからさ」
「馬鹿な。ランクの高さはギルド員にとって仕事を左右する大事なものだ。それを自ら溝に捨ててどうするというのだ?」
その問いに、水明はあっけらかんと。
「いや、別にどうにもしないさ」
「何――?」
「単にそうしておけば、余計なしがらみが増えることもないだろうって事だ」
水明がそう口にすると、「それは、そうだが……」とエヌマルフ。ランクの高さに比例してやっかい事が増えるのには、ギルドの先輩としても多少なりと理解できる部分があるのだろう。その通り、自身のような身の上ならば、名前というのは広まるよりも広まらないに超したことはない。場合にもよるが。
「ま、後はこの世界の人間と戦う経験ってのを増やしたかったからかな」
「この世界、だと……?」
「そいつはあんたの知った事じゃあないさ」
その言葉、この世界の人間にとって聞き逃せぬ事だろう。だがその疑問はにべもなく切り捨てる。事情など、赤の他人が知る必要もないのだから。
そこへまた、エヌマルフが焦ったように。
「だが、俺たちの記憶だけをどうにかした所で、どうだと言うんだ。受け付け前にいた連中はお前の事を知っているはずだぞ? ドロテアが先ほどそう言っていた」
「そうだな。だが、しっかりと調べた訳じゃない。なら、ここで出た結果が概ね俺の強さの基準になって、受け付けの事なんてたまたまで済まされる。そうだろ? 人間なんて他人を侮る奴ばっかりだ。話の実体がなけりゃあ、あいつは強いなんて考える奴よりも、弱いって考える方が簡単だしな」
「…………」
エヌマルフは無言。いや、絶句か。声を全て奪われてしまったかのように、話さない。
そしてその双眸は得体の知れないものでも見るかのように見開かれ、過たずこちらに向けられている。
ならば、今の話に少しでも共感できる部分があったのだろう。この驚きの視線は、そういう類いのものである。
「ま、さしずめ俺は、受け付けで大口叩いた世間知らずの魔法使いってのが、一般に受け入れやすい話だろ? 自分に自信があるやつならなおのこと、そうとってくれるさ」
「……依頼を受けられぬ低ランクギルド員になってどうする。いくら宵闇亭に舞い込む依頼が多くても、自分に見合う割りのいい仕事がある保証は――」
「ないな。確かに。だが、そこにもまあ種は蒔いたさ。多少の依頼は、回復魔法とやらが使えれば引っ張ってこれる。人を癒す力は、どこだって不足しがちなものだし、もしそれが聞き覚えのないものなら――それだけじゃあないだろうよ」
水明はそう
その歩みは、エヌマルフにとって悪魔の一歩か。
「く、魔法使いの俺がそんな簡単に――っ!?」
身構え直して、気付いたか。そうその簡単と言う言葉は、今だけ誰も否定できない。何故なら。
「掛かるさ。あんたも大分消耗したからな。そうだろ?
「ぁ――――」
……魔術師は基本的に、魔術に対する耐性というものがある。個人の魔力というのは基本的に他者の魔力と反発しあう性質を持つし、魔術師は魔術師になった時から、他者の魔術に身を晒す事を想定して、自らに魔術が掛かりにくくなる呪的防御を研究して自らに施さねばならないからだ。
しかし、その効力は常に一定ではなく、当人の精神や肉体の状態に依存する。
ならば、枯渇の魔術を受けて消耗したエヌマルフはどうだろうか。
「強暗示だ。何、後遺症とかはないから安心してくれ。寝て、起きたあとは俺の言った通りの事になる。あんたらが割りを食うようなことはなにもない」
……水明は魔術師だ。こちらの魔法使いと戦えば必然魔術の打ち合いになるのは明白で、まして戦う事自体と普通の評価の両方を目的とするならば、その両立はどうしても難しくなる。
かと言って魔法使いと戦う事を嫌い、戦士とだけ戦えば、魔法使いとの戦いの機会が減り、情報を得る事ができない。
そしてその上、戦えば最後の口封じのため、魔法に抵抗のある魔法使いだけは十分に消耗させてしまわなければならないと言う条件もあった。
故に。
「そうか……それで、お前は――」
そう。
「ああ、だから俺は二人同時に相手をしたんだよ」
――零下よりもまだ低く研ぎ澄まされた視線を携えて、水明がエヌマルフの額に手をかざす。
☆
……夕暮れ時。くどいほど真っ赤に染まった夕暮れが、薄青の闇夜に溶け落ちそうな頃。
計測試合を終えた後で宿と宵闇亭を往復し、再度宿に戻ってきた水明は、とった部屋のベッドの上にどっしりと腰を下ろしていた。
計測試合が終わるまでは色々とあったが、以降はさほどの時間も手間も掛かる事はなく、宿の手続きやギルドカードの受け取りもすんなりと済み、今こうしてここにいる。
トラブルがなかったのは良いことだし、面倒だと思っていた事が簡単に済んだのは僥倖だった。
しかし意外だった事はレフィールが同じ宿を取っていたと言う事だろう。
「奇縁だな……」
そう呟いて、朝に奇妙な出会いを果たした少女の事を考える。レフィール・グラキス。赤い髪を持った、剣士。あの立ち姿には、誰しもが優美と言うだろう女。強さのほどは分からないが、あの試合を見た上での落ち着きようは、相当の手練れを思わせる。
しっかりした者の印象を受けたが、しかし気になるところもあった。試合のあと、彼女に見詰められたあの時の事。
それまでは清々しさを湛える瞳だったのだが、確かに一瞬、あの瞳の中に一瞬だけ淀んだものが垣間見えた。抗いようのない非運にとらわれた者がもつ、
(いや――)
かぶりを振る。そんなもの、推し量っても詮ないこと。気にはなるが、そういうものは誰しもあるものだ。彼女にだってそう。
おそらく自分も、例外ではないだろう。気にしていても仕方がない。いま少しの別れが今生の別れになるかもしれないような、小さな偶然によって結ばれた出会いなのかもしれないのだから。
……窓の外を見る。そこにはもう、夜と夕方の区別が曖昧な境界があった。黄昏時。薄暗さに、思わず誰だと誰何してしまう事から由来するその言葉。確かに夕暮れは辺りの雰囲気を曖昧にさせ、言い知れぬ感情を浮かび上がらせる力がある。
「ふあぁ……」
そんな中、急に眠気に襲われてあくびが出た。
これは、何だろうか。いつもならば眠くなるような時間でもないはずなのに。この睡魔。重い疲労と言えるほどの事をした訳でもないはずなのに、抗う事ができない眠さ。
何故――。
(ああ……、そうだ。やべぇ……これは……)
――そして、思い出す。自分はこの感覚を知っている。一人になった時に不意に襲ってくる不可解な眠気。
そうだ。これは“そういう者”と関わる時に必ず来る、現象。
(そうだ……確か……)
これは、未来の戯曲。それを見せる、ルートヴィヒの呪い。自身に巻き起こる何かを教え、いつも目が覚めると何事もなかったように忘れてしまう。思い出すのはこの時だけの、まるで意味のない未来視。
こんな所でも関わってくるのか。こんな意味不明な場所でも来るのか。絵に描いたような物語の世界。ファンタジー。向こうの世界とは全く無縁の、こんな場所。
戻る術を見付けたら、自分の居場所に帰るだけの、ただそれだけの取るに足らない話ではないのか、これは。
思考だけは手放すまいと、そんな考えにしがみつきながら、覚束ない体勢のままベッドに倒れ込む。だが、抗う術はなかった。
いつの間にか部屋に備え付けられた椅子に、生まれてこの方見たことのない母親の姿が。父の話でしか知らない呪われた母その幻影が、そこにあった。
(ああ……)
歌っている。幼子に安らぎを与えるためではない、幼子のその苦しみに満ちた未来を嘆くえもいわれぬほど
――
これは確か、そんな名前の呪い。救われない未来と過去を教えるエピックカース。そんな呪いに染まって命を落とした母その幻影が、いつもこうして出てきて見せてくれるのだ。
だから今度も自分は、救われぬはずの誰かのために、走ることになるのだろうか。また、戦いの日々が始まるのだろうか。
鉛のように重くなった目蓋を押して、今は亡き母の持つ書物に目を向ける。
「――黙れ……。私はもう逃げない。私が私のままであるために!」
滅びた国。異なる種族に恥辱の呪いを掛けられた半精霊の剣士たる女、レフィール・グラキス・ノーシアス。
「うるさい! 戦う事でしか誰にも必要とされないなら、私はずっとこのままでいい!」
怨念と共にしか生きられない者。闇魔法の深淵に沈んだネルフェリア帝国の人間兵器、リリアナ・ザンダイク。
「――水明に会えた。もう二度と会えないと思ってた。だからもう二度と離れない」
英傑召喚とカダスの濡羽に運命を翻弄される、剣姫と呼ばれし友、
「――綺麗事なんてぬかすな! いくら聞こえの良いことばかり言ったって、アタシ達は決して幸せになんかなれネーんだよっ!」
ルートヴィヒに呪われた碧い影の女。必ず救うと誓ったイスメラルダの碧き影が、イスリナ・クーランジュ。
「水明、人間も魔族も同じだ。どちらも薄汚い生き物であるなら、僕は――」
共に英傑召喚の儀で呼び出され、人々に絶望した反逆の勇者。聖剣の担い手、隠神の剣士遮那黎二。
「――久しいな小僧。どうだ、風光くらい強くはなったか?」
禁忌の無作為召喚によって異世界の地に呼び出された世界最強の剣豪。獅子吼。ベイオウルフ・シュナイダー。
「――貴様が、我が敵か」
あらゆる呪縛を操る最悪の魔王。異なる種族どもの女帝、ナクシャトラ。
……今は眠りなさい水明。休める時に休まないと、いつか倒れてしまいます。だってあなたはいつも決して、逃げないのだから。
そんな聞こえないはずの声を最後に、自身の意識はぷつりと途切れた。