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第89話「『マリス』対策装備-1」

 その日、私とソラは茉波さんから対『マリス』用装備の試作品が出来上がったと聞き、長距離走の訓練も兼ねてジャポテラスの街中を開発班の本部に向かって走っていた。

 ちなみに治安維持機構本部にある開発班の出張所では無く、開発班本部の方で装備が作られているのは単純に開発班本部の方が設備が整っているからである。

 そして、そんな中でそれは起きた。


「球遊び~」

「こらこら危ないわよ」

 一人の女の子が親と一緒に道の脇で革製の球で遊んでいて、私とソラはそれを少し遠くから眺めていた。

 この時までは私もソラもただ単に楽しそうだなと思うだけだった。


「あっ!」

「こら……」

「ばっ!?」

「拙い!」

「トキ姉ちゃん!」

 けれど女の子の手から球が離れて道路上に弾んでいき、しかも間の悪い事にそこに馬車が来てしまった瞬間、私は例の力を含めて力を発揮し、ソラも持てる力の全てを使って咄嗟に駆け出していました。

 しかし、女の子に馬の脚が迫り、女の子が馬車の重圧感に身を竦ませ、御者が慌てて手綱を引こうとする中で私は気づいてしまう。

 このままでは絶対に間に合わないと。

 そして、その場に居る人間全員が次の瞬間に起きるであろう惨状を覚悟した時、


「よっこらしょっと」

 まるで場にそぐわない声が私の真横から聞こえてくると同時に女の子が黒い霧に包まれ、次の瞬間には女の子が居た場所を馬車は駆け抜けた。


「イヤアアアァァァ!」

「止まれ!止まるんだ!」

「誰か医者を!医者を呼ぶんだ!」

 一瞬場の空気が凍りついた後、女の子の母親の叫び声が辺りに響き渡り、周囲が一気に慌ただしくなります。

 けれど誰もが女の子の安否を不安視する中で、再び軽い声が周囲に響きます。


「はいはい。心配はご無用ですよお母さん。間一髪そこのお嬢さんが助けてくれたみたいですから」

「何を言って……」

「へっ?えっ!?」

「ふあっ?」

 いつの間にか私の目の前には全身黒ずくめの男性が立っていました。

 そして男性はこれまたいつの間にか私にしがみついていた件の女の子を抱えると、女の子を母親に渡します。

 誰もがこの光景に、この状況の推移に唖然としていました。

 間違いなく女の子は馬車に轢かれたはずです。

 なのに女の子は傷一つなく、自分の身に起きた事も理解していない顔で母親の元に戻されました。

 一見すれば奇跡と呼ぶしかないこの不可解な状況に、女の子を母親の元に連れて行った黒ずくめの男性を除く全員が明らかに戸惑っていました。


「と、お嬢さん。ちょっといいか?」

「な、何でしょうか?」

 黒ずくめの男性が私に声を掛けてきます。

 男性は上から下まで黒一色で揃えた旅装に身を包んでおり、顔立ちはジャポテラス人によくあるそれですが、腰に差した剣らしきものも含めてどことなく異国情緒と言いますか、目の前に居るはずなのに実際には居ないかのような空気を漂わせていました。


「治安維持機構の本部ってのはあっちに在る山の麓でいいんだよな」

「え、ええ、そうですけど」

「うん。道案内どうも。女の子を救った事と言い、いい警吏の鑑だ」

 男性が右手を差し出して握手を求めてきたため、私はそれに応じます。

 ただその握手の感覚も何となく妙な感じがしました。

 確かに男性の手を私は握っているはずなのですが、まるで雲か何かを掴んでいるように握っている感触がありませんでした。


「えと、貴方は……?」

「俺か?俺は名を名乗る様な者でもないが……そうだな。お前さんみたいに可愛いお嬢さんに求められたら名乗るべきだろう。俺は『クイノマギリ』だ」

「クイノマギリ……」

 男性の名はまるで聞いたことが無い名でした。

 けれど、起きるはずだった事故が起きず、皆が慌てている中で一人だけ慌てていない男性の姿を見ている中、私の内では一つの疑念が巻き起こっていました。

 目の前の男性が何かをして女の子を助けたのではないかと。

 そして何故かこの男性はその事実を隠そうとしているのではないかと言う疑念が。


「じゃ、俺は先を急ぐんで後はよろしく頼むわ。田鹿トキさん」

「えっ、あっ」

 しかし、私がその疑念を口にする前に男性は右手を放すと、私から距離を取り、騒ぎを聞きつけて集まってきた人々の間を何の障害も無いかのようにすり抜けてどこかに行ってしまい、加えて私はあの男性の目論み通りに女の子を助けた治安維持機構の人間として扱われてしまい、その後の処理も有って身動きが取れなくなってしまいました。


「あっ!?」

「どうしたのトキ姉ちゃん?」

「あの男の人……」

「あの黒ずくめの男がどうかしたの?」

 やがて事後の処理が終わった頃になって私は気づきます。


「あの人に私は名前を名乗ってないはずなのに、あの人は私の名前を知ってた……」

「へ?でもそれだけなら別に……?」

 ソラはまだ気づいていないようですが、私は気づいてしまいました。


「私たちを治安維持機構特務班の人間じゃなく、警吏なんて呼んでいた上に、わざわざ治安維持機構本部の場所を尋ねたって事は、治安維持機構の事なんて殆ど何も知らないはずなのに……」

「!?」

 あの男性はどうやってかは知りませんが、私の名前を今この場で調べると言う超常の現象を起こしたと言う事実に。

 そもそもあの男性からは、何の音も聞き取れなかったと言う事実に。


「と、とりあえずここから茉波さんの所の方が近いし……」

「うん。分かってる。茉波さんから無線機を借りて直ぐに報告する」

 私たちは少しでも早くこの情報を流すために、今までよりも明らかに速く、そして力強く開発班の本部に向かって走り出しました。

『クイノマギリ』……漢字は色々当てられますね


09/25少し改訂

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