第3章 流浪の果て(16)
ひとつの国家が、大きくその姿を変貌させようとしていた。
十二年という歳月の中、凍結されたままであった時間が動き出しかけ、それ行使する為に必要な地位を得た者達が、その場には顔を揃えていた。
それはまさに、生まれ変わりの瞬間に立ち会うようなもの。
混沌とした世界が、終焉を迎える日。
対外的には統一、という言葉を当てはめたものでありながら、実情は統合であった、その日を迎える為に、払われた犠牲は大き過ぎ、人々の中には深い爪痕を残した。
それが癒える日は未だ見えない。
滞りなく行なわれる筈であった式典の最中、その場に居合わせた人間達は皆、突如現われたある者等の姿を目にしたことで、唖然としたまま言葉を失っていた。
そこに現われたのは、一人は青年。
すらりとした長身の、漆黒の髪と同色の闇の色彩を両眼に有した、境界より東側の地を十年以上の歳月の中、完全に掌握してきた軍特有の色彩を纏う者。
その青年は、軍の内部に措いて頂点に君臨し、尚且つ西側の人々の脅威となり続けた人物に奇しくも拾われ、命を繋いだ。
もう一人は、艶やかな金の髪と、深い青の瞳を持つ娘。
その娘は西側の地に生きる人々にとって、英雄としての賞賛を一身に集め続けてきた男の、血を唯一受け継いだ者だった。
「俺は代償になった全てのものの代わりに、ここへ来た」
青年の言葉は、静かな淡々としたものだった。
発せられた言葉に、ひしめき合うようにそこに集まっていた人々が、にわかにざわめき始めた。
混乱しかけた場内を、自身の手を上げることで制止し、再び静けさを取り戻させたのは、西の英雄と称された男アドルフ・オーウェンだった。
「それがお前の示す答えか、シン・カルヴァート」
シンは真っ直ぐ前を見据えたまま、一度だけ深く頷いた。
「本意では無かったが、俺は長く他の者達にクリューガーの後継者と呼ばれてきた。東の最後の人間だ。そして、他の影響力があった者は、俺が全て殺した」
「……」
「俺は東を率いるどころか、全てに対して反逆同然の行いをした」
シンは一旦言葉を区切り、緩い息を吐き出してから言葉を続けた。
「許しを請うつもりは無い。……だが、他に軍属で生き残っているのはもはや若年の者ばかり。彼らには許されるなら訴追を免れるよう恩赦を。……むごい内戦はどちらについたとしても、結局は人の精神を破壊する。憎しみの連鎖はどうか終わりにしてほしい」
自らの隣で、淡々と言葉を続ける青年をマリーはじっと見守った。
「……俺はそれだけを考えてここに来た。もう全て終わりにしたい」
そう告げたシンの両眼は、真正面を見つめたままだった。
アドルフは唇を固く結んだまま、目の前のふたりを見つめていたが、暫くの沈黙の後、静かに口を開いた。
「……行け」
シンは目の前の男から短く言い放たれた言葉の意味を、瞬時には飲み込めず困惑した表情を見せた。
「……行けと言ったのだ。死体であろうと、忌まわしいお前を国内に残すということは、あのヴィルヘルム・クリューガーの記憶そのものを残すようなものになる。……私がお前に下すのは追放だ。どこへなりとも去れ」
「お父様……」
マリーは信じられないというようにそう呟いた。
「……それから、私の娘は自らの意志を貫き、その思いの為に東に赴き、その地で死んだ。死んだ娘が今さら帰ってくるはずもない」
アドルフは金の髪の娘に一瞥を向けた後、静かにそう語った。
そうして今、強い意志を宿した両眼を有した青年と、深い青の色彩を映す瞳の娘は、遥か遠くまで広がる草原をお互いの指と指を絡めたまま見つめていた。
空と大地が結びつき、風景の中に溶け込んだような草原の柔らかな風がふたりの髪を揺らし、彼等はどちらからともなく頷き合った。
決して振り返ることなく、二度と戻ることの出来ぬ草原の色彩を脳裏に刻み、金の髪の娘はそっとその目を閉じた。
エピローグ
その後、西側はヴィルヘルム・クリューガー及びその他の影響力の大きい者等の相次ぐ死により衰退した東側を併合、軍部との間には包括和平協定が結ばれ、新政府が誕生した。
そうして境界と称された地域で東西に分断された、国家グリュエールは再び長い歳月を経て統一を果たした。
新政府は国民再融和と長い歳月の内戦によって壊滅的状況となった経済の復興を推し進めた。
翌年には、国民投票も行なわれ、事実上の一党独裁に等しかった状況を改め、複数政党制も認められた。抜本的な解決が必要な貧困問題、周辺諸国との関係改善など、問題は山積していたが、復興への第一歩を踏み出したのである。
形骸化した東の軍事的な拠点は次々取り壊され、境界に張り巡らされていた鉄線も全てがその姿を消した。
それから幾重にも歳月を重ね、人々からその記憶が消えかけた頃……。
一人の少女が小さな鞄ひとつだけを携え、緑の絨毯を敷き詰めたかのような美しい草原の地に立った。
少女の髪は父親譲りの濡れたような漆黒、大きな瞳は母親と同じ深い青を映していた。
目の前に広がる光景を幼い頃から幾度も両親に聞かされて育った少女は、手にしていた鞄を草原の緑の草の上に据えると、上空の抜けるような青を仰いだ。
「……気持ちいい風」
少女は目を閉じて微笑み、そう呟いた。
遠くに蔦で覆われ、全体が緑に溶け込んだように見える巨大な屋敷がひとつ、草原の中に佇んでいるのが見えた。
少女は再び鞄を手にすると、遠くに見えるその屋敷を目指し、ゆっくりと足を踏み出した。