パスコードヲニュウリョクシテクダサイ
まだ手を伸ばしているいなせちゃん。これ、絶対トラウマになるよな。と言うかやべえ死にたくない。耳が痛くて、怖くて、俺は足をばたつかせた。声が出ない。誰か、お願いします、助けてください。
「何をっ」
地面が近い。
「しとるんじゃわれは!」
「ぐぎゃ――――!?」
あああああああ駄目だ死んだああああああ!
「お母さああああああああん!」
「……マザコン」
「あ?」
あれ? ここ、下だよな? 俺、落ちたんじゃないの? 地面に。恐る恐る、自分の体に手を伸ばす。わたわたと足を動かす。あ、なんか柔らかい。
「やめろ、くすぐったいんじゃ」
「あれ?」
「ちっ」舌打ちされて、俺の体が投げ出される。背中から地面に落ちて、俺は悶絶した。殺す気か!
周囲を見回せば、ここは、やはり荒れてはいるが公園である。おまけにクモは暴れたままだった。俺は慌てて立ち上がる。いつでも逃げ出せる準備は万全だった。
「……くそ、助けてもうた」
「あー、そういう事かー」
どうやら、俺は赤丸に助けてもらったらしかった。彼女は中空で俺を抱きとめ、着地したのだろう。人間業じゃなかった。
「見殺しにすれば良かった」
「その、悪い。助かった。ありがとう」
土下座の一つでもプレゼントしようかと思ったが、クモはお構いなしに暴れてやがる。俺は赤丸に頭を下げて、精一杯の謝意を述べた。
「しかし、ありゃあ何じゃ。さっきまで止まってたのに、なして動いとる」
「俺にも分からん。勝手に動きやがった」
心当たりはある。と言うか百二十パーセント俺のせいっぽい。
「……オートパイロットが作動したんです」
「銀川、さん」
杖をつき、死にそうな顔でクモを見上げる銀川老人。彼が何かした、という訳ではないのだろう。もう、この人は戦いを望んでいない。
「われがあがいなもん作ったんか?」
「その通りです、お若いヒーロー。……青井さん、いなせはまだあそこに?」
「ええ、あの、オートパイロットって、勝手に動いちゃう的な、ですよね」
銀川老人は頷いた後、止まる気配を見せないクモを見据えたままだった。
「暴走と言い換えても良いでしょう。アレは、最後の手段です。まさか、いなせが……」
「いや、俺です。俺が押したんだと思います」
「……われ、何を……!」
「やっ、やめろ! そんな平べったいものを俺に向けるな、ごめんなさい! 何とかしますから!」
とにかく、アレを止めなきゃならない。いなせちゃんはコックピットに取り残されているんだ。それに、あのクモが公園を出たら? 人を殺しちまったら? 駄目だ。もう、取り返しがつかなくなっちまう。今ならまだ、ぎりぎり間に合う。
「銀川さん、アレ、勝手に止まったりはしないんですか」
「難しいでしょう。電力の供給を受けないままでも、半日程度は……物理的に破壊するしかないと思います。だが、しかし……」
物理的ときたか。そりゃあ、なあ。
「オートパイロットのシステムはどこにある?」
「おお、役立たず」空を飛んできたジェイは、無言で地面に降り立つ。
「システムは、背部に位置していますが」
「ならば、破壊しかあるまい」
おい、後から出てきて当たり前の事を抜かしてんなよ。
「システムを狙うのか?」
ジェイは首を振る。
「いや、徹底的に破壊する。わざわざ一部分だけを狙って叩く意味はない。他のヒーローにも伝えてこよう」
「待てよ。あそこには子供が乗ってるんだぞ。巻き込むつもりか?」
「ほう、パイロットは子供だったか。だからどうした? 破壊活動に従事する、テロリストと同じような者を助けろと? 我々ヒーローが、か?」
「そうだ」
「ふざけるな」
こちらをねめつけると、ジェイは避難し始めようとしているヒーローたちのもとへ飛び立って行った。やべえ、駄目だ。まずはあいつらを止めないと、じゃねえと、いなせちゃんが……!
「待てや、青井。あれのゆうとおりじゃろうが、悪党を助ける義理なんか」
「悪党なんかじゃない。確かに、壊したし、俺たちを襲った。やった事は認めなくちゃいけないけど。だけど、この人たちにはもう、戦う意思がない。あそこに乗ってるのはただの女の子なんだよ」
「……本気か、われ」
赤丸が俺の肩を掴もうとする。彼女の手を振り払い、俺はヒーローたちを見つめた。
ああ、そうだよ。確かにそうだ。俺はお前らとは違うよ。馬鹿な事をやろうとしてる。数日前に会ったって、そんだけの理由でいなせちゃんを助けようとしているのかもしれない。
「後味悪くなるだろうが」
それだけの理由で、俺は動いたって良い。俺だけは。
ヒーローたちはクモの向かう先とは反対側、つまり、社長たちの乗るタクシーの近くに固まっていた。彼らは皆、一様に巨大なクモを見上げている。呆けた顔で、侵略者を見つめたままだ。ジェイがアレを破壊する為の手伝いを求めているが、名乗り出る者はいない。だが、時間が経てば、また別のヒーローがやってくる。クモは街を壊す。人を殺す。触発されたヒーローが、アレを壊す。乗っているいなせちゃんは、どうなる。
「待て、ジェイ」
「貴様か、えせヒーロー」
「俺をクモの背中まで連れて行ってくれ。後は、どうにかするから」
「無駄だ、退け」
「退かねえ。あの子はどうなる? あの子を殺すのかよ」
場がざわつくが、俺の話を真剣に聞いてくれる奴は……いや、俺みたいなのを信じてくれる奴はいなかった。
「……お前、馬鹿か? 何を、何を言ってんだよ?」
「アレに乗ってんのは敵だろうがっ! てめえだって酷い目に遭わされたじゃねえかよ!」
「俺たちはヒーローなんだぞ!? 悪人助けたって一文にだってならねえ!」
「第一な、何が出来る? 本当に止められるのか? 本当に壊せるのかよ? 俺たちは、お前を信じられない。……あいつの仲間じゃないのか? 本当は、お前だって……」
全部。全部分かる。分かってる。分かってた。こいつらの言ってる事が正しいのだと。ヒーローとしては、こいつらの方が本当で、本物なんだ。
――――でも。
「頼むっ、お願いだ! 時間がない!」
俺みたいな偽者だけじゃあ、どうにもならないんだ。
「皆、手伝ってくれ……! だって、あんたたちは……!」
「私からも、お願いします」
「あ……」
帽子を取り、両膝を地につける。一切の躊躇いを見せず、銀川老人は、頭を地面にこすり付けるようにして、声を振り絞った。
「てっ、てめえが親玉だって知ってんだぞ!」
「今更どの面下げてんだ、ああっ!?」
罵声を浴びながらも、銀川老人は怯まない。彼は土下座しながら、何度も何度も、頭をそこに叩きつける。
「どうか、どうか……!」
今、ここで殺されないだけで奇跡なんだ。銀川さんは、やってはならない事をした。復讐心はあった。だけど、彼は萎えかけたそれと惰性によってここまで来た。何もかも偽物の憎しみを抱いて、今、ここにいる。
「どうかっ、孫を! あの子を助けてください……!」
偽物だ。悪者だ。彼はきっと、良い人ではない。だけれど、子を思う気持ちは、きっと本当なんだ。
「ふざ……っ、ふざけてんじゃねえぞ!」
「どうなるか分かってんだろうな!」
「虫が良過ぎんだろうが!」
そうだ。ふざけてる。虫が良過ぎる。
「……な、お前、おい」
俺は足を踏み出す。ヒーローたちに背を向けて、クモを見上げる。誰の助けも借りられないなら、どうかせめて、邪魔だけはしてくれるな。
ああ、足が震えてる。膝が笑ってる。
「よせ、無理だ」ジェイが言う。
「お前なんかに何が出来るんだよ」ヒーローが憤る。
「くたばれや、ニセモノ」ヒーローが笑う。
「は、ははっ、本当はあんた、ヒーローでも何でもないんだろ?」
足を踏み出す。
右腕に力を込める。
だけど心がついていかない。
その時、焦ったような、九重の声が聞こえた。
「行きなさいっ」
思わず、振り向いてしまう。
這い蹲る、白鳥澪子が見えた。今まで散々扱き使ってきた俺に、行くなと言った彼女が。遥か高みから他人を見下ろすようなプライドを持った彼女が。俺の、上司が。
彼女は車椅子を下ろすのまで待てなかったのだろう、自分ひとりでタクシーから降りて、無様にも地面を這って、それでも、尚――――。
「行きなさい、あなたはヒーローなのだから……!」
「社長っ、危険です! 車に戻ってください!」
車中の後部座席から、レンが手を振る。無邪気な笑顔だった。俺を、信頼している。そんな表情だった。
どうした。どうした俺の足。どうした俺の腕。どうしたってんだよ、俺!
「うちのヒーローを舐めるな! 馬鹿にするな! あいつを馬鹿にしても良いのは、私だけなんだから!」
軽くなった体と心。気付いた時には、俺の全部はクモに向かっていた。
「ヒーロー! あんなもの、やっちゃえええええええええええ!」
「…………おう」
正義はどこにある。正義の味方はどこにいる。んなもん知るか。
俺の正義はここにある。俺の味方はここにいる。青い正義と笑わば笑え、ここで行かなきゃ俺は嘘になっちまう。そうに違いない。違いないんだ。
悲鳴が上がる。俺は駆けながら右手を上げて、それに答えた。
こっちに向き直っていたクモの脚が空を切り裂いていく。狙ってるのは、俺なんだろう。
「おおおおおおおおおおっ!」
脚が俺を踏みつけるよりも早く、それよりも先に、前へ! 地面を転がるようにしてフットスタンプを回避し、裏拳気味に右腕のグローブで、叩きつける。良い音が甲高く鳴って、クモがバランスを崩した。関節部分に上手くダメージを与えられたのだろう。まずは一本、その脚もらった。
後、何本残ってる? 全部を潰せば、嫌でもクモは動きを止めるだろう。
声を荒らげながら、クモの脚をかわして、拳を放つ。だが、簡単には諦めてくれない。機械が操縦しているからか、馬鹿正直におんなじことを繰り返しやがる。
太鼓とめんこは通用しない。半端な火力じゃこいつは止まらねえ。
「おっ、おおっ!?」
風圧が体を持っていく。体勢を崩したところに、別の脚が襲い掛かってくる。避けられないなら、真っ向からぶつかるだけだ。右腕に力を入れて、クロスカウンターだ!
「あほう!」
「赤丸っ!?」
俺とクモの脚との間に、自らの体を滑り込ませるようにした赤丸は、しゃもじで脚を払い除ける。大型の兵器は僅かにバランスを崩していた。
「泣いとうガキ見捨てたら、そいつも悪党じゃ! いけっ」
答える暇はない。こうなったら、一本一本潰すのは骨だ。赤丸が受け止めている脚から、背中まで上ってやる。
「そのまま堪えてろ」
「命令すんな!」
脚に足を掛けようとした瞬間、クモが僅かに身動ぎする。それだけで、俺は振り落とされてしまった。赤丸が怒鳴り、俺は舌打ちする。
「もっぺん行くぞ」
「うちを殺す気か!」
一本目の脚が迫り、俺と赤丸はそいつを、身を低くする事でやり過ごす。彼女はしゃもじを構えて、二本目の脚を受け止めた。風圧で揺れる髪。激突の際の衝撃で赤丸は呻き、少しずつ後退し始める。
「よっしゃあ!」
「まだ、行くな……!」 あ?
二本目の影に隠れるようにして、三本目が迫っていた。あ、まずい。
「手ぇ離せ赤丸!」
だが、彼女はそこを動かない。……畜生、俺の盾になるってのか! 俺が足引っ張っててどうすんだよ!?
「おらっしゃああああああああああ!」
「どけっどけっどけええ!」
思わず、俺は目を見開いた。三本目の脚に向かって、今の今まで動こうとしなかったヒーローたちが突っ込んでいる。彼らはスーツの性能に飽かせて、自らの体を盾にしていた。
四人がかりで、一本の脚を止めている。本物のヒーローたちが、俺の、為に?
「てめえだけに手柄取られてたまるか!」
「この獲物は、俺たちのもんだからな」
「だから早く行け! こっちだって持たねえっつーの!」
「助かったぜヒーローども!」
俺の為なんかじゃない。誰だって自分の為に戦っている。それで良い。それが良いんだ。
またぎの格好をしたヒーローの肩に飛び乗り、クモの脚に手を伸ばす。脚を引っ掛けて力を込める。先は長い。急げ、急げ急げ急げ!
「どっ、お、わ……!」
「ふらついてんじゃねえぞクソが!」
「さっさと上れってんだ!」
振動が、振動が。駄目だ。ガラス殴り過ぎてたせいか、すぐに力が抜けていく。腕が痺れて、これ以上は持たない……! ってうおおおお!? 二度目の激しい揺れが、繋ぎ止めていたものを振り解いた。俺は必死に手を伸ばすが、空を掴むに留まる。
「主義と主張は曲げても良い」
「……て、てめえ」
「だが、正義だけは曲げてはならない」
「ジェイ!」
いけすかないヒーローが、俺の手を掴んでいた。彼は高い鼻をこちらに向け、ふん、と笑った。
「俺の主義を曲げたんだ。貴様は正義を曲げるなよ」
シニカルに言い放つと、ジェイは俺を掴んだまま、ぐんぐんと上昇していく。
「ちくしょう、ありがとう」
「礼を言うにはまだ早い。行け、詰めだ」
俺たちはクモの背中を見下ろせる位置まで辿り着いた。ジェイは俺をクモの背中に下ろすと、他のヒーローたちを助ける為に急降下していく。
……やっぱり、ヒーローはヒーローだ。クズでグズな奴らの成れの果てだけど、それでもあいつらは本物なんだ。だから、俺だって負けていられない。オートパイロットのシステムってのはどこにあるんだ? ボタンかスイッチか、どんなものでどこにある!?
周囲を見回すと、配電盤のようなものを見つけられた。真っ白い蓋には電卓みたいなボタンが並んでいる。何だよこれ邪魔すんな。適当に押しまくると、無機質な声が聞こえてきた。
『パスコードヲニュウリョクシテクダサイ』
はあああああああああ!?
「そんなもんっ」
これで最後だ。最後に一番良いのを打てよ、俺。
「知るか!」
蓋を叩き壊して、中にある、見えるもの全部を殴り続ける。壊れろ壊れろ壊れろ壊れろッ!