スーツ脱がされるらしい
朝も昼も夕も夜も働いているので、時間の感覚が曖昧になる時がある。今何時だっけ? ならマシな方で、今日が何月何日の何曜日なのか、それすらも分からなくなる時がある。仕方ない。生きていくにはそういうのも犠牲にしなければならないのだから。
それっぽい話をレンにしたら、
「あは、お兄さんがボケてるだけじゃないの?」
笑われた。
最近の彼からは、遠慮と言うものが失われつつある。朝も容赦なく起こされるし。無駄にうじうじいじいじされるよりかは良いのかもしれんが。
「お、牛肉じゃん、牛肉。今日は肉にしようぜ」
「あっ、駄目だよ。今日はお魚が安いんだから」
レンは俺を無視して鮮魚コーナーへとすたすた歩いていく。
夕方のスーパーには買い物客が大勢いた。BGMの切れ間に子供が母親を呼ぶ声が高く、店内に響く。俺は立ち止まり、人の流れをぼんやりと見つめた。
「お兄さん、何してるの」
「ああ、悪い。すぐ行く」
買い物が終わって店を出ると、後ろから声を掛けられた。
「百鬼さんじゃないですか」
「お久しぶり……でも、ないかしらね」
俺に声を掛けたのは百鬼さんである。彼女はエコバッグを持つ手を入れ替え、薄く微笑んだ。何だか、雰囲気が変わったような気がする。丸くなったとでも言うのだろうか。
「お兄さん、この人、誰?」
「言わなかったっけ。ほら、前に小学校のグラウンドで……お前がふて腐れて拗ねてた時の」
「……拗ねてないもん」
はいはい。
「お買い物、です、よね」
エコバッグから突き出たネギに目を向ける。まさか、まだ草助や杖持ちを追いかけているんじゃあ、ないだろうな。
「ええ、今日は魚が安かったから」あー、びっくりした。
「あなたのお陰で、普通の買い物を楽しめるようになるかもしれない」
「俺の? いや、まさか、言い過ぎっすよ」
俺は何もしていない。あの日、あの時、百鬼草助を殴っただけだ。それだけで、何が変わるでもない。
「あの時、青井君は迷っていたように見えたわ」
青井君、か。
「何がです?」
「もっと胸を張りなさい。自分はヒーローなんだって、そう思いなさいと言いたいの」
迷っているのは、あの時だけじゃあない。今だって、いつだって、きっと、いつまでもうじうじと、いじいじと悩んでいるんじゃなかろうか。
「君はヒーローよ。少なくとも、私にとっては。私がもっと若ければ、君を抱き締めて、キスの一つでもしてあげられたのかしらね」う。嫌でも、百鬼さんの唇が気になってしまう。
「や、あの、百鬼さんは充分若いっすよ」
「あら、それってお世辞? 駄目よ、こんなおばさんをからかっちゃ」
嘘ではないんだけどな。
「……ぎりぎりのところで君が助けてくれた。君がいなければ、私はここにいられなかったかもしれない。どうか、自分を卑下しないで」
俺は小さく頷いた。百鬼さんは満足したかのように、頷いて返す。
「ところで」
百鬼さんはレンに目を遣った。
「可愛い弟さんね」
「あー、弟、みたいなもんです。ちょっと、その……」
流石に、言えないよなあ。
「そ」百鬼さんはレンの傍にしゃがみ、彼を見つめた。
「私を怖がらないのね」
「あは、何が?」
「何でもないの。お兄ちゃんは頼りないから、大きくなったら君が守ってあげてね」
レンはにこにことしている。えーと、百鬼さん。今ですら、そんな感じです。情けない事に。
「それじゃあ、そろそろ行こうかしら」
百鬼さんは立ち上がり、髪の毛をかき上げる。何か、まだ聞きたい事が、聞かなきゃいけない事があるような気がしている。だけど、俺は彼女を引き止める術を持ち合わせていない。
「じゃあね、青井君。元気で」
「百鬼さんも、お元気で」
手は振らない。振り向かない。百鬼さんはスーパーの駐輪場を抜け、その後姿を雑踏の中に隠してしまった。
今晩は焼き魚を大根おろしで頂きました。げふー。
「お兄さん、そろそろお仕事に行かなくて良いの?」
ん? ああ、もうそんな時間か。
「CM入ったら準備……あ、入っちゃった」
仕方なく体を起こし、身支度を始める。今日はカラーズの仕事がなかったから疲れてないけど、朝に起きてからずっとだらだらとしてたので、こんな時間になって動くのは辛い。辛い。行きたくない。
体がだるいのか、気持ちが萎えているのか、溜め息が止まらない。
悪の組織の控え室でコーヒーを啜っていると、数字付きが次々と部屋に入ってくる。その内、江戸さんに今日の予定を聞きに行っていた一番が戻ってきて、ホワイトボードに文字を書いていく。全員の目が、そこに引き寄せられる。
『待機』
溜め息が漏れた。
最近は、待機が続いている。杖持ちに負傷させられた二人がまだ復帰していないからだ。
「待機って言われてもなあ」
「どうする? もう帰るか?」
「昨日も聞いたし昨日も言ったけどよ、来たばっかじゃねえか」
杖持ちはいなくなったが、その被害がなくなった訳ではない。そう簡単に、何もかもが元通りにはいかないのだろう。元通りになるかもしれないってだけ、ウチはまだマシな部類だ。
「なーんかおもろい話ねえのかー?」
「俺の部屋に野良猫がさー」
「それ、前も聞いたって」
はー、つまんねえ。
「……おもしれえかどうかは知らないけどさ、最近、出るらしいぜ」
「何が?」
「スーツ狩りだよ」
「はあああ? スーツ狩りぃ? 親父狩りみたいなもんか?」
「そんな感じだけどさ、狙われてるのは俺たちもそうなんだぜ。スーツ着てるし」
俺はコーヒーをおかわりする。
「どっかのアホなヒーローの仕業か?」
「いや、ヒーローも狙われてるんだって。とにかく、スーツ着てる奴が襲われてんだよ」
「襲われてどうなるんだ?」
「スーツ脱がされるらしい」
「ぎゃっはっはっは、恥ずかし過ぎだろ、それ。んな間抜けがいんのかよ」
いや、いるいる。普通にあるだろ。ただ、ヒーローもヒールも関係なく、スーツを着た奴を襲うってのは意味が分からん。
「しかしよう、次から次へと厄介な奴が事を起こすよな」
「疫病神でもいるんじゃねえの?」
「……おい」
お前ら、俺を見るな。見るんじゃねえ。
「だってさー、お前が来てから色々あったじゃんか。だから、つい、な?」
「ヒトデナシめ」俺だって、俺だってなあ、色々とあるんだぞ。しかも、こっちでも痛い目や酷い目に遭って、ヒーローとしても痛かったり辛かったりしんどい思いをしてるんだ馬鹿野郎。シット!
「ま、青井苛めはその辺で切り上げるとして。待機とか言ってるけど、今日は帰ってオッケーだろ。スーツ狩りは気になるけどさ、逆に言えば、スーツさえ着てなきゃ大丈夫って事だろ」
「そりゃそうだな。よっしゃ、どっか飲み行こうぜー」
控え室からは、少しずつ人が消えていく。俺も帰って寝るとしよう。
「……な、なあ、青井」
「ん?」
最後に残ったのは、俺と、スーツ狩りの話を振ってきた十二番である。心なしか、彼の顔色は悪く見えた。
「何だよ、終電出ちゃうじゃんか。用事があるなら」
「俺、見たんだ」
見たって、何を?
「スーツ狩りの連中だよ」
「連中? 連中って、単独犯じゃねえのか? つーか、え、どうしてさっき言わなかったんだよ」
「信じてもらえねえと思ったんだよ。あいつら、いや、俺も含めてだけどさ、人の言う事を素直に信じないだろ?」
うん。まあね。俺たちがもっと素直なら、もっとマシな生き方をしている筈だ。……いや、ある意味、自分に素直過ぎてこんな事になっているのかもしれんが。
「……じゃあ、どうして俺には言うんだ」
「まあ、青井だし」てめえぶっ飛ばすぞ。
だけど、信じられないって話じゃあない。忍者やら悪徳ヒーローやら魔法使いもどきの奴ら
がいたんだ。宇宙人とかがいたって不思議じゃあない。
「信じてやるから、続きを話せ」
「お前さ、前から言おうとしてたんだけどよ、新入りの癖に偉そうなんだよな」
「俺の方がここでの戦闘員暦が長いからな」
「あっそう。……俺が見たのは、ヒーローが襲われてる時の話なんだ。こないだの帰り道に、どこのどいつかも知らないヒーローだけどさ、そいつが路地裏で大勢に取り囲まれて、そいつらが立ち去った後、裸にされた男がうつ伏せになっててよ。ああ、トラウマだ。怖くて一人で出歩けねえよ」
男がガタガタとうるせえってんだよ。
「もっと詳しい話をくれよ。どんな奴らがスーツを狩ってるんだ?」
「何か、軍隊? みたいな連中だったよ。数は十、二十人くらいだったかな。その中でもさ、リーダーっぽい女がいてよ、めちゃくちゃ怖かった。ありゃドのつくサドだね。ドサドだ、ドサド。ああいうのがたまらないって奴もいるかもしれねえけどさ、俺ぁ断然……」
「何の話してんだ」軍隊、ねえ。
「そいつらはスーツ着てたのか?」
「わっかんねえ。全員、軍服っぽいのは着てたけど、スーツかどうかはさっぱりだ。ただ、マスクはしてなかったな。普通に顔出ししてたぜ」
戦闘力に自信があるのか。バレても大丈夫だと高をくくっているのか、どっちだ。うーん? 軍隊? 軍人? 面倒だなあ、おい。すげえ強そうだし。とにかく、結論としちゃあスーツ着てなきゃ大丈夫って事だな、やっぱ。ヒーローの仕事ん時だって、俺はスーツを着てないし(着れないし)、襲われる心配はないだろう。少なくとも、今のところは。
それでも、一人で暗がりを歩くのは中々に怖かった。
「ただいま」
「あ、お帰りなさいっ」
扉を開けると、レンが布団から起き上がってきた。電気も点いてるし、こいつ、夜更かしするつもりだったな。
「ガキは寝てなきゃ駄目な時間だぞ」
「お兄さん、お仕事は? 今日も早かったね」
ぐっ、痛いところを突きやがる。
「まあな」俺が悪いんじゃない。組織が悪いんだ。
「良いから寝ろ。俺も眠い」
「あは、じゃあ一緒のお布団で寝ようよ」
「却下だ」
昼前に目が覚める。いつもよりもゆっくりと眠れたのは、レンが俺を起こさなかったせいだろう。彼は、すうすうと寝息を立てていた。ほれ見ろ。もっと早くに寝ないからだ。
とは言え、仕事はない。急いで起きる理由もないのだ。むしろ、今こうして起きている意味もない。二度寝を決め込むべく布団に戻るが、隣室から物音が聞こえてきて、俺の眠気がどこかに消えた。うるせえ。うるせえぞ赤丸ちくしょう。
『くあああああっ調子乗んなやボケェ! 潰れっちまえ!』
何を荒れてるか知らんが、近所迷惑って言葉を知らんのか。寝る子は起こさないが吉。文句を言ってやろう。後、あいつを馬鹿にする材料が増えるかもしれない。
いてもたってもいられなくなった俺は起き上がり、部屋を出て、赤丸の部屋の前に立つ。チャイム連打、ノック連打で奴をビビらす。
『じゃかあしいんじゃボケ!』
「うるせえのはてめえだろうが!」
物凄い勢いで扉が開いた。俺は一歩後退り、真っ赤な顔をした赤丸と目を合わす。相変わらず色気のかけらもないラフな格好だった。Tシャツにジーンズという、つまらない服装である。……俺も人の事は言えんが。
「殺すぞ」
「すぐに殺すとか言うな。お前、それでもヒーローかよ」
「黙っとれ。うちは今、虫の居所が悪い。怒らせたら死ぬるぞ、われ」
見たら分かるわ、そんなの。
「レンが寝てっから、ちったあ大人しくしてくれよ。何? 何かあったんか?」
「……お前にゆぅてもどうにもならん。はあ、生きるってせんないのう」
赤丸は玄関に座り込み、溜め息を吐いた。
「あー、また駄目だったのか」
睨みつけられる。どうやら、赤丸さんとこの娘さんは、就職活動とやらが上手くいっていないらしい。
「うちが行こうとしてた会社、潰れてた。なんなん、もう。皆、死ね」
「潰れてた?」
「知らん。知らん知らん。あほらし、やってられっか」
赤丸はよろよろとしながら部屋に戻っていく。彼女は扉を閉める気力すらなかったので、俺が代わりに閉めておいた。