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私はヒーローなんかじゃない



 黒髪をポニーテールに結った、三十代くらいの女性は、前に俺が見たのと同じように、花柄のエプロンをして、エコバッグを持っていた。そのバッグからは、ネギがぴょこんと飛び出している。

 主婦はあのメカメカしい杖を軽く振り、俺を見遣った。

「こんなところで、また巻き込まれちゃったの?」

 怜悧な瞳。それでいて、声には温かみがある。俺は、彼女に気圧されていた。

「良かったわね、助かって。命は一つしかないもの」

『何あのおばさん! やばいよスターアニスっ、あの人も私を持ってる!』

 少女の両目が主婦に向く。

『早く倒さなきゃ!』

「了解」

『ファイアパレードを使っちゃえ!』

 頷き、少女は杖をくるくると回転させ始めた。

「君」

「え、あ、はい?」

「腰が抜けて動けないなら、そこでじっとしてなさい」

 流石にそこまでビビっちゃいないが、俺はこの人に用がある。ここまで来て逃げられるかってんだ。

 主婦は杖で床を叩く。

「立て、シャクヤク」

『……起動完了。状況把握開始』

「アレを倒したい。力を貸しなさい」

『了解。状況は甲、ブレイブシュートの使用を提案』

「却下よ」

 却下すんのかよ。

 と言うか、あの人は何をしてるんだ? そして、何者なんだ? あっちの少女とは敵対しているらしいが。

「リリー」

『うんっ、いっくよ! ファイアパレード!』

 少女は杖を回転させている。杖の先端、開いた穴から、炎の塊が次々と飛び出してきた。だが、主婦は動揺した様子を見せない。彼女が自身の杖を振り上げると、その杖の先端についた星形のエンブレムがスライドしていく。開いた穴から、風が生まれた。

『状況、乙。対象を吸引開始。後、反攻の提案』

 放たれた火球は、次々と穴の中に吸い込まれていく。まるで掃除機だ。とんでもない吸引力である。しかも、あの杖は少女の撃ち出した炎だけを吸い込んでいるのだ。

『むちゃくちゃだよう! スターアニスっ、攻撃を続けて!』

「了解」

『ようし! 次は……』

 炎が止む。その隙を見逃さず、主婦は床を蹴っていた。少女のこめかみに、自らの得物を叩きつける。

『スターアニスッ』少女は杖こそ手放さなかったが、ぐしゃぐしゃになったおもちゃの山へと吹っ飛ばされた。主婦は自分の杖で床を叩き、得物に向かって何事かを呟く。

『状況、丙。音声認識、六パーセント。ソニックスマッシャー、発動』

 主婦の持つ杖から、風を切るような音が生まれた。不可視の何かが、少女に向かっていく。おもちゃの山が吹き飛ぶと、甲高い声が響き渡った。少女の持つ杖の発したものだろう。

『動かなきゃ駄目だよスターアニス! じっとしてたらやられちゃう! やられちゃ駄目ーっ、やらなきゃ! あの人を殺さなきゃ!』

 少女は片膝をつき、片腕で顔面をカバーしている。まだ、戦おうと言うのか。

「それを離したら、許してあげる」

 主婦が少女に向かって足を踏み出す。

『状況、丙。ソニックスマッシャーの使用を提案』

「却下よ」

『それ以上近づかないで! それ以上近づかせちゃ駄目っ、ダイナマイトエクスプロージョンで吹き飛ばしちゃおう! そうしないとやられちゃうから!』

 立ち上がろうとするが、少女の足は震えていた。力を込めようとしているらしいが、よろけて、また膝をついてしまう。勝敗は決しているようなものだった。

「リ、リリー……」

「早く離しなさい」

『ここでやられたらパパに会えなくなっちゃうんだよ!?』

 杖が少女に呼び掛けたと同時、主婦は彼女の胸に蹴りを放った。その時の衝撃で、少女は杖を手放してしまう。

 杖は床を滑っていき、瓦礫と化したおもちゃの山の前で止まった。

『スターアニスっ! 諦めちゃ駄目だよ! 早く私を拾って! 戦わなきゃ!』

 少女は小刻みに震えるだけで、杖の声には答えない。主婦は彼女を見下ろしてから、杖を拾い上げた。

『わああああっあなたじゃない! 触らないで! 触らないでよっ』

 主婦は杖を振り上げ、床に叩きつけようとする。

「その声で、それ以上……!」

『だめだめだめだめだめーっ』

『そこまでだよ!』

 もう一つ、甘い声が聞こえたかと思えば、主婦の腹に何かが突き刺さった。彼女は持っていた杖を取り落として、その場に蹲る。

『あーっ! デルフィニウムちゃん!』

 振り向けば、そこには少女が立っていた。倒れ、震えている、赤いドレスを着た少女と大して変わらない。違いと言えば、ドレスの色と持っている杖だ。髪型も、背丈も、殆ど同じである。新たに現れた少女は、青いドレスに身を包み、彼女の持つ杖の先端に付いたエンブレムは花に見えた。何だか、イルカみてえな、変な形をしたつぼみがたくさんくっついている。

 スターアニスと、デルフィニウム。

 杖は、少女たちをそう呼んでいた。

『何やってるの? アニスちゃんを危ない目に遭わせたら駄目じゃない! リリーのバカ!』

『えへへへ、ごめーんオトメ』

 杖同士が、会話をしてやがる。だが、それを持つ少女は一言も発していない。

『デルフィニウム、あのおばさんをやっちゃおう!』

『駄目だよっ、スターアニスが危ないもん! 早く逃げようよ!』

 デルフィニウムと呼ばれた少女は、床に転がったままの杖を拾い上げ、スターアニスに肩を貸して、起き上がらせる。事務的な動作に見えて、どこか、薄ら寒かった。機械が人間の振りをしているような気がしたのである。

「……待ちなさい……!」

『わーっ、怖い! 早くいこっ、パパに慰めてもらわなきゃ!』

「了解」

 二人の少女は頷き、主婦に背を向けて、こっちに向かってきた。

『あ。あの人はどうしよっか』

『別に良いんじゃない? それより、早く逃げよう』

 少女たちはこっちを見ず、エスカレータを使って階下に行く。それを止める術など、誰が持っているというんだ。俺には無理だ。何も出来ん。

 俺の頭は、二人の『杖持ち』が現れた事に、暫くの間ついていけなかった。だが、主婦が蹲っているのは分かっている。彼女に駆け寄り、手で押さえている腹に目を遣った。主婦は、何かを握っている。そいつが小さな鉄球で、彼女はその球を喰らったのだと俺が気付くまで、少しの時間を要した。

「……立て、ますか?」

 主婦は何も言わず、鉄球を投げ捨てて立ち上がる。正直に言って、かなり怖かった。

「アレはどこに行ったか、分かる?」

 アレ? アレって、何だ?

「さっきの二人よ」顔をしかめつつ、主婦は自分の杖を軽く振る。それをエコバッグに戻し、ネギを模したカバーを被せた。

「いや、それより、動けるんスか?」

 デルフィニウムと呼ばれた少女。彼女が杖から放った鉄球を、この人はモロに喰らってた筈だ。

「平気」言って、主婦はエプロンを指差す。

「……これ、スーツみたいなものだから」

 あー、ああ、なるほど。だから、そんなもん着けてたのか。

「あなたも早く避難なさい。アレ、何をするか分からないわよ」

「追い掛けるんすか?」

 返事はないが、そうなのだと分かった。

「あなたには関係のない事よ」

 短く言って、主婦はエスカレータに向かう。

「関係ならありますよ」

 主婦は足を止め、エコバッグの杖に手を伸ばした。

「俺は、あいつらに殺され掛けたんだ。それも、二度も」

「二度?」

「事情があって、俺もあの杖持ちを追ってるんです」

「……どういう事情?」

「あなたには関係のない事ですよ」

 笑ってみせると、主婦は振り向き、杖から手を離す。彼女は全く、笑っていなかった。切れ長の瞳が俺を捉えている。

「二度も助けてあげたのに?」

「それは、ありがとうございます。マジで、助かりました」

 下の方が騒がしくなってきた。この場に留まっても、面倒な事になるだけだ。そう思ったのは、どうやら俺だけではなかったらしい。主婦は階段を指し、歩き始めた。

「喉が渇いたわね」

 俺は少しだけ考え、彼女の後を追いかけた。



「どうぞ」

「どうも」紙コップを受け取る主婦は、にこりともしなかった。

 屋上には強い風が吹いている。主婦はベンチに座っており、俺もその隣に座ろうかと考えたが、彼女は『まずい』と呟いた。俺は立ったまま、フェンス越しの空を見遣る。

 さて、何から聞こうかと考えていると、向こうから口を開いた。

「あなた、何者なの?」

「ヒーローです」

「……スーツも、武器もないのに? 私みたいなおばさんに助けられたのに?」

 うるさいな。気にしてる事をずばずばと。

「れっきとしたヒーローっすよ。派遣会社にも入ってますし」

 主婦は横目でこっちを見てくる。信じられないとでも言いたげだった。

「ふうん、正義の味方って訳。それで、あいつらを追っているの?」

「そんなところです」

「深くは聞きたくないけれど、よしておきなさい。命は一つよ。それに、あんなの相手じゃ、幾らあっても足りないと思うわ」

「あなたは、どうして?」

 その通り。何もかもこの人の言う通り。だが、ならば、彼女があの少女たちを追う理由は何だ? 危険な相手だと分かっていながらも戦おうとするのは、何故だ?

「ヒーロー、なんですか? だから、あいつらを」

「違うわ。私はヒーローなんかじゃない」へっ?

「悪人でもないと思うけど、自分は正義の味方だなんて言うつもりはないわね」

 皮肉っぽく笑むと、主婦は紙コップを空にする。

「じゃあ、何なんですか?」

「ただのおばさんよ」嘘だ。

「何か、理由が?」

「聞きたい? 教えないけど」

 そう言って小さく微笑む。その表情は童女のようにも見えた。

「ここまでね。お願いだから、あいつらと関わり合いにならないで。折角助かったんだから、わざわざ死にに行く必要はないでしょう」

 主婦は立ち上がり、俺に背を向ける。

「あの。助けてくれてありがとう、ございました。でも、俺はギリギリまで追いますよ」

 そうしなきゃ、いつかこっちがやられちまうかもしれねえんだ。穴倉に隠れてりゃ安全かもしれないが、やられっ放しは俺の性に合わねえらしい。ここまで首を突っ込んどいて、引っ込められるか。

「あら、そう。賢くないのね。……あなた、お名前は?」

 俺は迷った。ここで名乗っても良いのか、どうか。

「ふふ、自己紹介するような間柄でもないわね。今更。何より、もう会わないと思うし」

「……青井、正義。ヒーローです」それから、悪の組織の戦闘員をやってます。

 主婦は僅かに目を見開く。こっちが名乗るとは思っていなかったらしい。

百鬼牡丹(もぎ ぼたん)よ。主婦をやっているわ」

「もぎ……」

「百の鬼でもぎと読むの」

 良くお似合いです。なんて言ったらどうなるんだろうか。

「それじゃあね、ヒーロー君」

 百鬼さんは振り返らない。あのまま、杖持ちを追うのだろう。……彼女は、しきりに腹を摩っていた。あのエプロンがスーツの代わりをしていたとは言え、やはりノーダメージでは済まなかったのである。だからこそ、百鬼さんは俺の話に乗った。少しでも体を休めようとしていたのかもしれない。休めたところで、怪我が治る訳ではないが。

 取り残された俺は頭を振る。前に進んだような気がして、少しだけ気持ちが軽くなった。徐々に、杖持ちとの距離は縮まっている。奴らの狙いは全く分からんが、通り魔的な事をやられちゃあ困る。一刻も早く消えてもらって、平和的に悪の組織の活動に勤しみたいってのに。

 俺も行くか。何か忘れているような気もしているけど、忘れてるって事は、つまりどうだって良い事だ。そうに違いない。

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