ミストルティン舐めんなや
殴り掛かろうとした瞬間、俺の鼻に何かが衝突した。鼻血こそ出なかったものの、すごく、痛い。
「ああああああああああっ!?」
床に転がる俺。
ふと、何かが落ちているのに気付いた。それは、辞書である。英和か和英か知らんが、とにかく分厚い本だ。カニ野郎、これを投げつけたのか!? こんなもん当たったら洒落にならねえって分かってねえのかよ!
「いてえだろうが!」
「シオシオ、タフな奴。読書の邪魔をするつもりなら、容赦しないシオ」
カニ型怪人は床に積み上げていた辞書を掴む。いや挟む。
くそ、野郎のスーツの性能を甘く見過ぎていた。いつ、辞書を投げたんだ? 全然見えなかったぞ。
「あーおもしれーシオー」全然面白くなさそうに言ってやがる。
「畜生ぶっ殺して……あ?」
お返しに辞書を投げてやろうとしたが、誰かに肩を叩かれた。振り向くと、そこには何だか見覚えのある奴が。って、イダテン丸じゃん。あ、そういや、本屋に行くとか言ってたっけ。
彼女は俺を本棚まで引っ張っていく。怪人からは見えない位置にまで来ると、イダテン丸(変装版)は元々小さい声を更に小さくした。
「…………お仕事ですか?」
「これが仕事じゃないなら、俺は自殺してる」
「…………あの怪人を退治するのですか?」
「それが依頼だ」
だが、勝てる見込みは全くない。怪人め、あの調子なら三日くらい居座り続けそうだ。
「イダ……縹野が来た時には、もうあいつがいたんだよな」
イダテン丸は反応しない。
「いや、お前の名前だろ」
「は、はっ、も、申し訳ございません」
「謝らなくても」
「重ね重ね申し訳……っ!」
頭下げるのが趣味かお前は。
「けど、流石はヒーローじゃねえか。どうにかしようと思ってたんだろ」
そう言うと、イダテン丸は口の端を引きつらせる。が、すぐに元の表情に戻った。
「…………新刊が」
ん?
「…………新刊が欲しいのですが、居座られておりまして」
「あ、そう。お前も漫画読むんだ」
「漫画を読まない人間がいるのでしょうか」
選民思想的である。
イダテン丸がここに残っている理由が分かった。なるほど、漫画を買いたいけど、怪人が邪魔って訳だな。
「奇遇だけどさ、他の店に回れば良いんじゃないか?」
「…………既に回りました。ですが、ここの客が別の店に流れてしまったので」
「売り切れちゃったのか」なるほど、店長はそういうのを恐れていたのか。申し訳ない。時既に遅しである。
「残っているのは、怪人が積み上げているものだけなのです」
隙を窺っていたのだろう。
「あいつ、トイレには行かないのか? 中身は人間だろ」
「…………どうやら耐え忍んでいる様子」
耐えるなよ。くそ、ややこしい奴だ。
「しかし、青井殿が来てくださったのなら安心です」
「いや、安心は出来ない。と言うか俺に勝てる要素はない」
「…………あの、何を?」
「何とかしてくれないか?」
ノープライドノーライフ。
「…………今、スーツを着ていないのですが」
見りゃ分かる。が、イダテン丸は鍛えてるだろうし、生身でもその辺の奴より強いだろう。少なくとも俺よりは強い。そうに違いない。頼もしい。
「でもヒーローじゃないか。頼む、手伝ってくれ」
「なっ、あ、青井殿が頭を下げる事は……」
「少しで良い。隙さえあれば、一発で野郎をぶちのめせる」
イダテン丸は俺をじっと見つめていた。何か、やっぱり感じが違うな。別人である。変装は大成功だぞ、イダテン丸。本当に、本好きな女の子にしか見えねえ。
「…………しかし、今の私は体術を使えません」
もしかして、体調が悪いのか?
「スカートを穿いておりますから」
「あっ、そうか、ここでアピールするんだ」TPOガン無視じゃん。
「…………体術を使わずとも、隙くらい作って見せましょう」
イダテン丸は自信満々そうに宣言した。
俺は再びカニ怪人の前に立つ。
「てめえの婆ちゃんは死んだぞ」
「何を言っているか分からんシオ。また、辞書をぶつけられたいシオか? 今度は漢語でいくシオ」
はん、てめえの漫画ライフもそこまでだ。やれっ、イダテン丸!
「……シオ?」
何かが倒れるような音がして、怪人は不審そうに目を動かす。だが、こいつは立ち上がろうとも、逃げ出そうともしなかった。
「おわああああああああっ!?」
「何これ!?」
その様子を目撃した客は叫ぶ。
「なっ、何が起こっているシオか?」
俺からは見えていた。
カニ怪人に向かって、まっすぐに本棚が倒れてきているのを。野郎の陣取ってる位置は、本棚、棚、棚、棚の先だったのである。
イダテン丸が一番向かい側の棚を倒し、倒れた棚が次の棚を薙ぎ倒し……そうして、ドミノみてえに怪人に向かってきているのだ。
「しっ、シオオオ!?」
事態に気付いた怪人は、漫画を投げ出して立ち上がった。俺は腰を落として、拳を振り被っている。
良いスーツ持ってるくせに小汚い真似しやがって。
「出禁ナックルゥゥ!」
大振りだが、怪人は俺の攻撃を回避出来なかった。顔面に入ったパンチは酷く気持ちが良い。
怪人は別の棚まで吹っ飛び、その衝撃で棚が崩れて、再びドミノが始まる。逃げ惑う客と轟音と共に倒れていく棚、棚、棚。
「おっ、おお……!」
振り向くと、店長がバイトに支えられて階段を上っているのが見えた。彼は気を失った怪人と散らかりまくった、と言うか無茶苦茶に荒らされた売り場を確認して、後ろ向きに倒れる。
「…………少々やり過ぎたのでは?」
俺もそんな気がしていた。しかし、怪人を倒すのにある程度の犠牲は付き物である。店長、ごめんなさい。
息を吹き返した本屋の店長から事情を聞き、社長は依頼料の半分だけを受け取った。
「正当な働きだぞ。正当な報酬をもらえよ」
「だって、大の大人が泣いているんだもの。とてもじゃないけど、全額は受け取れなかったわ」
全く、このアマは中途半端に甘いんだからよ。
「……さっきの怪人はシオマネキ型でしたね。あの、青井さんが一人でやったんですか」
助手席にどっかりと座り込んでいる俺。イダテン丸に手伝ってもらったのだが、彼女は『ここに私がいた事は内密に』とか言ってたので、
「当たり前だ」
自分一人の手柄にしておこう。
「なあ社長、とりあえずやってやっただろ? これからはもっと俺を信じるようにしてだな」
「そうね」お?
「荒っぽいやり方だったし、あなたが時々ヒーローなのかどうか分からなくなる時もあるけれど、期待以上にヒーローをやっているわ」
「遂に俺の実力を認める時が来たらしいな。給料を倍にしてもらっても良い」
社長は溜め息を吐いた。
数時間後、俺はいつもよりも早い時間に組織へと向かっていた。ミストルティン襲撃がいつになるか分からないので、その準備もかねて、である。
駅前はそれほど混雑していなかった。帰宅ラッシュはとうに過ぎている。これくらいの時間ってのが一番好きかもしれねえ。
改札口が近づき、財布から回数券を出そうとしたが、ない。なくなっていた。そういや、使い切ってたっけな。危ない危ない。俺は券売機の方に向かう。
券売機の前に立ち、液晶パネルをタッチしようと指を伸ばした。
「見っけた」
肩をえげつない力で引っ張られる。財布を落としそうになって、俺の頭に血が上ったのが分かる。
何をしやがる。
そう、怒鳴りつけてやろうとしたが、
「……青井、正義……!」
俺よりもブチ切れてる奴の目を見て、その気が萎んでしまった。
女である。
背は高い。髪は長い。シャツとジーンズ。ラフな格好。……あっ。
「うわっ」俺は逃げ出そうとするが、両肩をがっちりと掴まれてしまう。
「てっ、てめえなんで!?」
うわあああ嘘だ嘘だ! なんだってここに広島女がいやがるんだよ!?
「この前はようもやってくれたな」
「離せっての!」
「誰が離すかっ」
意味が分からん。どうして俺が、しゃもじに見つかったんだ?
「われのお陰で会社じゃぁ扱き使われるようになるし、最悪じゃ。みな、われの差し金じゃろう、ああ?」
「何の話だっ」もしかして、ヤテベオの事を言ってるのか? だとしたらとんでもない思い違いだぞクソ。
「どっちにせよ許さん」
唐突過ぎる。こんな展開予想してなかった。いや、俺の顔は割れてたけど、こんなに早く、しかも正確に突き止められるなんて、どこの誰が思うってんだよ。
「ミストルティン舐めんなや、下っ端やろうが調べられるんじゃボケ」
「調べたのかっ」
しゃもじ女はふふんと鼻を鳴らす。
俺がこの女を調べたように、こいつも俺を調べたって言うのか。うわー、うわーっ完全に油断してた。超舞い上がってた。しかし、高が下っ端にそこまでするかよ普通。
「死ぬか、死なんかぐらい殴る」
勘弁してくれ。…………待てよ? こいつ、スーツ着てねえじゃん。生身じゃん。女にしては馬鹿みてえに力ぁ強いけど、それでも俺が抵抗出来ないくらいのものじゃない。イダテン丸とは違い、こいつは鍛えてなさそうだし。
「出来ると思ってんのか?」
しゃもじは更に睨みを利かせる。俺は彼女の手首を掴み、振り解いた。
「悪党が何をゆぅか」
「やってみろって言ってんだ」
負けじと睨み返す。一般人だっているんだぞ、こんなところで殴り合おうってのか?
「……ちっ」
「あ?」
しゃもじ女が辛そうな顔を見せる。彼女は手で額を押さえていた。油断でも誘おうってのかよ。
が、何か様子がおかしい。しゃもじは俺を指差してから、ふらふらと歩いていく。どこに向かうのかと思えば、ベンチに座って俯いていた。
ここで見逃すのは勿体なかったので、俺は何となく追いかける。
「ウンコか?」
「殺すぞ」さっきよりも語気が弱い。
何か、拍子抜けだ。今までムカついて、ぶっ倒してやろうと思っていた相手が目の前にいる、しかも押せば倒れそうな状態なのに、そうしようとは思えなかった。あの日、俺の中でケリがついていたんだろうか。
「青井正義だ」
しゃもじ女は顔を上げる。
こっちの素性はとっくにバレてんだ。改めてと言う訳でもなければ、自己紹介してこいつと仲良くしようなんてつもりもない。だが、彼女は俺よりも情報を持っている。優位に立っている。火の粉はこうして降り掛かるのだ。
「お前を仕留める男の名前だよ」
「……はっ、いきりめ」
しゃもじ女は口の端を歪める。俺に怯えている様子はなかった。
「赤丸夜明。われを殺す女の名前じゃ」
どうせ逃げても追いつかれるし、ここでこいつをどうこうしようなんて気も起こらなかった。
「おら」そこの自販機で買ってきた、ペットボトルの水を差し出す。赤丸はそれを見るだけで、受け取ろうとはしなかった。
「借りは作らん」
「やるから飲めよ。つーか、お前何しに来たんだ?」
俺を殺すとか殴るとか言っておきながら、へばってやがる。間抜けにもほどがあるだろう。
だが、やはり昨夜の戦闘が堪えているんだろうな。最前線でヤテベオの構成員と戦っていたんだから。
「……礼は言わん」
赤丸はペットボトルを引ったくり、勢い良く流し込んでいく。彼女は水を頭に被ろうとしたので、それは止めておいた。
俺もベンチに座ろうと思ったが、流石に怖かった。このアマ、いきなり噛み付いてこないとも限らない。首だけになっても襲い掛かってきそうな、鬼気迫るものがある。
「お前、俺の事をどこまで知ってんだ?」
「青井正義。悪の組織の構成員。確か、四天王とかの下っ端になっとるらしいの」完璧じゃん。どっからそんなんが漏れてんだ。超怖い現代社会。情報技術発達し過ぎだろ。
だが、
「完璧だな」
「ふふん、驚いたか」
そこまでか。
助かったと喜ぶべきなんだろうか。こいつ、俺がカラーズで働いてる事は知らないのか? ……いや、そもそも誰が知っている。俺が掛け持ちでやってるなんて、誰にも話していないんだぞ。はっ、そうか。バレる訳がないし、そんな話はどこにも転がっていないんだ。
「頭おかしいんか?」
「アホか。ここまでバレてんなら笑うしかないだろ」危ない危ない。ついついにやついちまってたか。
「で、お前は下っ端の俺を探してたってのか。何とも優雅な生活じゃねえの」
睨まれる。俺は口をつぐんだ。
「謝らないからな。先に仕掛けたのはてめえだろ」
「先に?」
「何でもねえよボケ」
正直、この女には良く分からん感じでムカついていただけだ。最後の砦、俺がヒーローだってバレる訳にはいかねえよな。