あなたはヒーローなのよ?
「あはっ、嘘でしょお兄さん。スーツもなしで、そんな事っ」
「てめえだって着てねえだろうが!」
「僕はね!」
レンが後ろに飛び退く。俺にビビった訳じゃない。時間を掛けて遊ぶ為だろう。ああっ、くそ、息が。しんどい。呼吸が……。
「あ、青井さん……」
申し訳なさそうな表情をした九重と目が合う。社長も、無事か。
とにかく、良かった。くそ面白くもねえけどよ。尻拭いはもうごめんだ。
「どっか行ってろ」
俺一人だったら、逃げるくらい、どうにかなるかもしれない。けど、あいつらが邪魔だ。足手まといにしかならない。俺とレンとじゃ戦いには、ならないだろう。怪人とヒーローを瞬殺しちまうようなバケモンが相手なんだ。あいつが俺に飽きたら、それで終わり。
「びっくりしちゃった。それすごい。グローブ?」
「うるせえ」
「スーツも持ってるんでしょ? ヒーローなんだもんね?」
「うるせえっ」
踏み込もうとするが、鉈が俺の動きを止める。間近で見るとえげつねえ事この上ない。まともに受けりゃ肉だけじゃ済まない。骨を抉って、中身にまで達するだろう。レンはこれ見よがしに鉈を構えて、適当に振るった。舐められている。だけど、そのお陰で助かっている。
そして、爺さんからもらったグローブを持ってきていて助かった。こいつがなけりゃ、俺はとっくに死んでいただろう。対抗手段は、これだけだ。殴って当てる。そうすりゃ倒せる。だけど、どうやって当てるんだ?
「スーツ着なよ。待ってたげる。そっちのが面白そうだし」
親しげに微笑まれる。その笑顔は、あまりにも無邪気で、俺の心をかき乱した。どうして、そんな顔が出来るんだ。ゴリラと戦っている時もそうだった。ヒーローと戦った時も、数字付きを殺した時も、こいつはこんな顔をしていたに違いない。そう思うと、無性に腹が立つ。こんな奴に殺されるのかよ、俺は。
「あは、本気出さなくても僕と遊べるって事? すごいね、お兄さん」
レンはその場で飛び跳ねる。ステップを踏んでるにしちゃ、随分と高く跳ねやがる。ああ、楽しいのか。体を動かすのが、人と戦うのが、そんなに、そんなに……!
「楽しいかよっ」
まだ、舐めてくれている。スーツがなくて良かったと思うべきか。半端な装備で立ち向かっても瞬殺されるだけ。だったら、生身の方がマシって事かよ! 貧乏万歳!
拳を振るう。勿論、避けられる。空を切った俺の右腕。そこを鉈が襲い掛かる。慌てて姿勢を低くし、そのまま駆け抜けた。
「鬼ごっこ? やろう!」
一人でやってろ!
終始、圧倒されていた。当たり前だ。ヒーローですら、怪人でさえも触れられない奴が相手なんだ。俺なんかが立ち向かって良いもんじゃない。最初から、俺の勝ちはなかった。最初から、決められていたんだ。
なのに、あいつらはまだここにいる。
俺の攻撃は一発だって当たらない。追い掛け回され、ふらふらと逃げ回られて、無駄に体力を消耗し、今は片膝ついて肩で息してる。
なのに、あいつらはまだここにいる。
「……逃げろってんだろうが」
社長を睨みつけた。彼女は、涼しげに俺の視線を受け流す。
「逃げろって、言ってんだろうが!」
叫べば、九重は肩を震わせる。なのに、絶対に動こうとしない。じっと、ずっと、俺の無様な姿を見つめている。はっきり言って不愉快だった。そして、不可思議だった。全く理解出来ない。俺は、こいつらを見捨てて逃げようとしたってのに。他人の命食い潰しても、生きていたいと思ったのに。
レンは退屈そうだった。大口を開けてあくびをしている。夕陽に照らされた野郎の顔は、実に良く似合っている。何よりも、彼には鮮やかな赤が似合うのだろう。いつか月夜に浴びた真っ赤な血潮が、俺の脳裏を過ぎった。
「ね、お兄さん。もう良いよ。スーツ着てよ。僕、飽きちゃった」
死刑宣告にも等しかった。
俺はスーツなんか持っていない。もう、これ以上の武器はないんだ。だけど言えない。言ったら、本当に最期だ。
それでも、こっちから手は出せない。……ヒーローはまだか? どうして誰も来ないんだ。お前らの大好きな獲物がいるってのによう。
「疲れちゃった」あ?
レンの姿が消える。そう思った次の瞬間、俺は強い衝撃を受けて、地面に倒されていた。
「もういいや。後で遊んであげるよ」
あ? 何が起こった? 俺はどうなった? 生きてるのか? 死んでるのか?
足音が聞こえる。やけに軽い音だった。ただ、殴られただけだと気付いた俺は上半身を起こす。俺への興味を失ったレンは、社長たちに目を向けていた。
やめろ。
見るな。
そっちを、見るな。
「あームカつく」
鉈を弄ぶ。
ぎらりと、鈍く光る。
「や、め……」声が出なかった。俺は、今更になって恐怖を感じているらしい。
「お兄さんが悪いよ。スーツ着ないから」
そうして、レンは駆けた。向かう先は、車椅子の少女。俺の上司。性格の悪い、鬼のような……。
白鳥澪子は動かなかった。矢のように飛んでくる殺意を前に、動けなかったのかもしれない。九重は腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
呆気なかった。社長の眼前に入ったレンは鉈を振り上げる。
「…………?」
しかし、いつになっても、レンが得物を振り下ろす事はなかった。彼は、信じられないといった表情で社長を見ている。そりゃ、そうだろう。俺だって同じ気持ちだ。彼女は、レンを見ていない。目の前にある狂気を、脅威を、凶器を、殺意を、一切合財を無視している。
「あ、は。あはっ、あはははっ! 何それ? すごい、なんで? ね、どうして?」
レンは鉈を下ろし、けたけたと笑った。
「あなた」社長の声は小さい。だが、震えてはいなかった。
「何を怯えているの?」
社長は、俺を見ている。だけど、彼女の言葉は俺に向けられたものではない。レンに放たれた、刃だ。
全く。全くもって、ふざけたアマだ。
馬鹿だとも思う。いや、馬鹿だ。そうに違いない。だから、助けてって泣けば良い。やめてくださいって喚けば良い。ガキのくせに、一丁前に意地を張るんだ。何の力もないくせに、口だけは達者なんだ。余裕ぶって、スカして、気に食わねえ気に入らねえ。
「あなたは、何に怯えているの?」
「僕が? あは、お姉さんさあ、何言ってるの?」
俺に何を期待してるって言うんだ。
ずっと見るだけだよ、てめえは。目は口ほどにってか? ふざけんな。言いたい事があんなら、さっさと言えよ。どうして、こいつはそうなんだ。
「違うの?」
社長は、初めてレンを認める。彼女の目は、心底からレンを哀れんでいるようにも見えた。
「遊んだげる」レンが鉈を振り下ろす。
俺は、レンが動くよりも先に走り出していた。背後からの攻撃を察知した野郎は、社長から離れて水族館の方へと逃げる。……逃げる? どうして、俺はそんな風に思ったんだ。
「……どうして逃げねえ?」
「あら」社長は笑う。俺はレンを睨んでいるから彼女の顔を見ていない。けど、分かった。こいつは、意地悪く、口の端をつり上げているに違いない。
「社員を置いて逃げる社長がどこにいるの?」
「どこにでもいるっつーの」
そう、と。囁くように。そして、社長は零した。
「実は、腰が抜けて動けなかったのよ。青井、ありがとう」
「は。笑かしやがる」
俺は右腕に力を込める。くだらねえ。命張るような場面じゃねえだろう。けど、どうしたって、力は入る。パンチは、何発だって打てる筈だった。
「青井」
「おう」
「どうにかしてちょうだい」
「おう」
踏み、込む。声を荒らげレンへと迫る。
「もうっ、うざいって!」
レンは、俺を追い払うように鉈を振るった。疲れてはいないようだが、相当に苛立っているらしい。
「……お兄さんたち、何なの? スーツも着てないのに、僕みたいに改造だって受けてないんでしょ? なのに、どうして、壊れないの」
「お前が本気出せば壊れるだろうよ。……昨夜みたくな」
「何か言った? ふんだ、というか僕はさっきから本気だもん」嘘だ。つーか、本人が分かってないらしい。改造を受けたとか言いやがったな。ガキだからか、それとも慣れていないのか、上手く力を制御出来ていない。社長がペースを狂わせたか?
「スーツ着てない人間なんか、皆同じのくせに」
「何……?」
問えば、レンは鉈を愛しげに撫でる。
「だってそうじゃん。これで胸を割るでしょ? そしたら血が、ばーって出るよね? 痛い痛いって泣いてさ、助けてっておっきな声を出すよね? 全部、同じじゃん」
「何言ってんだお前」本心からそう思った。やっぱ頭ぁおかしいのかこいつ。
「僕さ、確かめたかったんだよね。だから、遊ぶついでに調べたの。そしたら皆同じだって分かったの。お兄さんもお姉さんも、お爺さんも赤ちゃんも、どれもどいつも同じだもん。ぜーんぶいっしょ。みーんなおなじ。あは、つまらないよね?」
鉈の切っ先を向けられる。何故か、恐ろしいとは思わなかった。神経が麻痺してるのかもしれない。
俺は、目の前のガキを可哀想だと思っていた。泣きたいのを我慢して、無理に笑っているような。そんな風に思ってしまった。
「良く分からんけど、違うぞ」
「何がっ」
所詮、ガキじゃねえか。こいつが本気を出せば俺なんかあっという間に死亡だが、今だけは話が違う。
「人間ってのは同じじゃない。お前、昨日も同じ風に思っていたのか?」
「……昨日? お兄さん、何言ってんの?」
正直、ムカついていた。
あのゴリラ怪人は、どうしてこんなガキを追っていたんだろう。自分が死ぬって分かってたのに、江戸さんにまで頭を下げて、俺たち数字付きにボロカスに言われて。それでも、レンを見つけて、殺された。……『お兄ちゃん』と呼ばれていたな。俺みたいに『お兄さん』ではなく『お兄ちゃん』と。ゴリラとレンは、もしかしたら、組織にいた頃、仲が良かったのかもしれない。いや、今となっては分からない。勝手な想像。適当な妄想でしかない。けど、もしもそうなら、ゴリラがレンを追っていた理由が分かる。あのゴリラは、このガキを、本当に殺したいと思っていたのか? 裏切り者として、始末しようとしていたのか?
「違うだろう」答えを口にしてみると、思っていたよりもしっくりときた。
「違わないよ。お兄さんも、同じだ。今までの奴らと……昨日の、あいつと……一緒なんだ」
俺とゴリラを一緒にするんじゃねえ。
「そこにいるお姉さんとも同じだ。僕と遊んで、壊れちゃうんだ」
俺と社長を同じにするんじゃねえ。
「だからっ、うるさいから! もう壊れちゃえ!」
俺とまとめられたら、社長もゴリラも可哀想じゃねえか。あんまりだ。俺みたいなクズ、滅多にいねえよ。違うんだ。俺は、あいつらとは違う。俺は、とんでもねえクズで、どうしようもなくグズで、こんな、こんな安い命! 比べんな! 並べんな! 惨めになんのは俺なんだから! だからっ、教えてやろうじゃねえか、てめえの体に直接なァ!
鉈が閃く。当たれば死ぬ。だけど、こっちにも武器はある。そんなんよりも、もっと良いもんがな。
俺は拳を突き上げる。レンは、目を丸くさせた。きらきらとした破片が、俺たちの間を散って、落ちていく。
「うそ、そんなのって……」すげえぜ爺さん。三百円で買ったもんとは思えねえ。
グローブで鉈の刀身を粉々にした後、俺は右腕を振り被る。何を思ったのか、レンは動かなかった。それどころか、九重みたいに腰を抜かしている。誘ってんのか? だけど、もう関係ねえ。
ここで殺す。
ここで仕留める。
そうしなきゃ、俺たちは助からない。こいつを殺して俺が助かるなら――――!
「駄目よ、青井」
右腕を、振り下ろす。アスファルトが粉々に砕けて、レンは俺を見上げていた。やっぱり、ガキだ。ちいせえナリでよくもまあやってくれたじゃねえか。てめえのせいで、こっちは夜も寝られなかったってのによ。
「ひっ」俺が腕を上げると、レンは、まるでガキみたいに目を瞑って、怯えていた。
「大人をっ、舐めるなパンチッ」
やーいビビったか。バーカ、てめえみたいなんにグローブ使うのはもったいねえよ。な訳で、そのまま、野郎の頭に俺の必殺パンチを喰らわせる。ただの拳骨だった。こんなん、こいつにとっちゃ痛くも痒くもないだろう。つーか、こいつがやった事に比べれば、マジで子供の遊びに等しいんだろう。
「う……」
だが、
「うあ、いた……いたい……いたいいいいいい……」
泣いていた。
レンは声を上げて、わあわあと泣いていた。
俺はどうして良いか分からず、社長たちに目を向ける。社長は何も言わず、気を失っているであろう九重に視線を落としていた。
「うあああああああああああっ、やだあああああああああ!」
「は? ……この、てめえ、ふざけんのも大概にしろよ! 今更泣いてんじゃねえよ! お前っ、自分がやった事分かってんのか!?」
ここまで好きにやっといて、拳骨一発で泣き喚くなんて、許してたまるか。組織まで引っ張って、嫌と言うほど謝らせて、グロシュラとやらにボコボコにされろ! つーか死ね!
「うっ、うっ、ううううう……!」
涙目で睨まれる。もう一発殴るぞてめえ。
「お、おぼっ、おぼえてろ!」
「ああっ!?」
グローブを見せると、レンは再び泣き出した。そんで、凄まじい勢いで逃げ出してしまう。まずい、ここで逃がすのは精神衛生上良くない。確実に仕留めてやる!
「待ちなさい」
「なーんでだよ!? お前、馬鹿か!? ああ馬鹿か! 殺され掛けたんだぞ!? 悠長な事言ってる場合か馬鹿!」
「……馬鹿、馬鹿と。馬鹿の一つ覚えね」
落ち着き払いやがって。こっちはもうギリギリなんだぞ色々と。
「命まで取る必要はないでしょう」
「だったら大人しく殺されろってのか!?」
「だって、あなたはヒーローなのよ? ヒーローは何も殺さないわ。悪を滅ぼして、正義を守るだけだもの」
ぐっ、この……! この脳天気女が……!
「カラーズの者は誰一人として殺されていないわ。それで良いと思わない?」
「……あんた、案外ドライな奴だな」
「そう?」
そうだよ。見ろ、九重は耐え切れずに失神しちまってるじゃねえか。比べて、社長は死体を見ても、レンに殺されそうになっても動じなかった。何て女だ。とんでもない肝を持ってやがる。
「それより、言い訳はどうしようかしら。これじゃあ、働いたのにお金を取られてしまうわね」
「ええ? しようがねえだろう、もう」
「そこのヒーローさんに罪を被ってもらいましょうか」
鬼か。怪人より情がねえぞ、てめえ。