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 必要な情報を回収した後、意識を現在へと戻す。

 私が両手で顔を挟んでいる男は、触れるほど近くにある私の顔を見ていない。虚ろな瞳で空を見つめ、小声で何かを呟き続けていた。

 改めて耳を澄ませてみれば、どうやら幼い頃からの身の上話をしているようだ。

おそらくは、神の権限による介入を受けたことで、魂が要求に応えようと勝手に情報を開示しているのだろう。

 抑揚が一切存在しない声音は、人の喋り声としてとてつもなく異質だ。まだのこぎりで木を切るほうが抑揚を感じられるほどである。


「もう結構です。必要以上の個を開示する必要はありません。それは反射です。あなたの意思ではありません。ミグ・ゴウジュ。私を見なさい。あなたはあなたの意思以外に、あなたを曝け出す必要はありません」


 犯した罪による尋問はその範疇にはないが。

 犯した罪への責任が発生した場合、その個の権限より、罪により被害を受けた個の尊厳が尊重されるからだ。

 つまり、罪を犯した上で尊厳を守りたければ、個として守ればいい。守る権利はある。守らせない権利もまた、法が保証しているだけだ。

 だが今の状態は、男の罪に関係の無い場所を、男の魂が反射で開示しているに過ぎない。

 罪による責以上の尊厳を踏みにじってはならない。大小に差など無く、他者の尊厳を踏みにじった罪人である事実は変わらねど、罪人を必要以上に暴いてはならず、罪人であろうと命を貶めてはならない。

 そしてそれが分からぬものは、断罪に触れてはならない。

 これはただそれだけのことだ。


「ミグ・ゴウジュ、私を見なさい。これ以上あなたを脅かすものはありません。私を見なさい、ミぐぇっ!」

「近い」


 ミグ・ゴウジュの合わぬ視線をどうにかしようと、あれこれ意識を探している私の首根っこを、エーレにより勢いよく引っ張られた。

 ミグ・ゴウジュの顔がぶれて遠のく。

 慌てて自らの首を両手で確認する。すっぽ抜けたかと思える衝撃であった。


「その男は、いま対処しなければ一生そのままなのか」

「時間経過で戻るはずですが、このまま放置も忍びないので。それはそれとして、私の首に関する安否情報を教えてもらっていいですかね」


 私の首はいま対処しなければ、一生胴体と生き別れになるかもしれない。


「見せてみろ」

「お願いします」


 髪を持ち上げた私の首元をエーレが覗き込む。そもそも目に見える損傷が現われていてはどうしようもないのではと思い至った瞬間、首に衝撃が走った。

 刃物から呪い、そして存在証明に至るまで。ありとあらゆる攻撃を受けてきたが、その中でも上位に食い込むほどびっくりした。

 確認作業で攻撃が来るとは思わなんだ。


「何で噛むんですか!?」


 首筋を押さえて振り向き、素直に両手を開いて私を解放したエーレと向き合う。


「私の首にとどめを刺した理由は!?」

「そこに首があったからだ」

「なる、ほど?」

「納得する馬鹿があるか」

「自分で言ったのに!?」


 どういうことなのだ。

 訳が分からなかったけれど、実際にエーレはよく噛みついてくるのでそういうものかと思ったのに罵られた。これは理不尽を訴えてもいいのではなかろうか。

 エーレが言ったのにと、若干拗ねた気持ちになる。


「エーレって、炎以外の攻撃は意外と獣みたいですよね」


 文化の象徴であり、人の英知の結晶である炎という存在を思うがまま扱うというのに、いざ物理的な攻撃に出れば拳と歯である。


「当たり前だろう」


 エーレは呆れた顔で、呆れた声を上げた。呆れすぎである。

 いつもは堂々たる無表情であるのに、呆れ顔がこんなにも似合う人がいるだろうか。いるのである。エーレである。


「物理で攻撃可能な範囲まで、接近を許す相手なんて限られるだろう。その筆頭であるお前相手に、そもそも武器は使わない」

「成程」

「その上で、歯は攻撃部位として人体で最も固い部位であり、拳は最も出しやすい部位だ」

「確かに」


 理にかなっている。

 武器と言葉以外で攻撃しようとすれば、その二つが最も効率的だ。

 神官が聖女に武器を向けるなど余程の事態なので、その二つでの攻撃が最も多くなるのも納得である。


「……拳も、駄目なのでは?」


 最近少しだけ、エーレが言うならそうなのだろうと思っていてはいけないのでは? と、思い始めてきた。

 不意に浮かんだ疑問を返せば、エーレはしみじみ頷いた。


「どちらかというと歯のほうがまずい」

「そうなんですか?」

「俺は、お前が俺以外の歯形を残してきたら、焼く」

「一応、何を焼くか明言してもらっていいですかね」


 あっちもこっちも世界の危機である。焼くなら私だけにしてもらいたいのだが、これは独占欲と呼ぶのだろうか。

 多分違うと、それくらいは私にも分かった。

 何故なら、私とて別に燃やされたくはないのである。



 ちなみにミグ・ゴウジュは、私がエーレに首を噛まれた三分後に意識を取り戻した。おそらく大丈夫だと思っていたが、こんなに早いとは思わなかった。

 ぱっと確認した感じでは、特に影響が残っているわけでもなさそうで、一安心である。

 つまりは、私の首だけが負傷した。

 そんな悲しい現実を胸に抱き、ミグ・ゴウジュの前へと戻る。その顔を覗き込むと、未だ緩慢な意識が現われた瞳が幾度か揺れた後、ぼんやりと私を映した。


「気分は如何ですか? 吐き気はありますか?」


 魂への影響はなくとも、疲労や精神面での衝撃が理由で、眩暈や吐き気が現われることもあるだろう。吐き気があるようだったら横になっておくべきだ。

 だが、拘束を解くわけにもいかない。その場合は椅子に縛ったまま寝転んでもらうよりない。

 傍目から見れば異様な光景となるが、気にしないでおこう。

 この状況だ。今更少々の異様で怯むような人間は、この地にいないと思われるのだ。


「お、まえは……」

「はい、アデウス十三代聖女、マリヴェルと申します」


 意識がはっきりしてきたのか、揺れていた視線も止まり、もうその口元から虚ろな言葉の羅列は聞こえない。心底忌々しげな舌打ちは聞こえる。


「くそったれが」

「光栄です」


 再度の舌打ちは先ほどより大きく、蓄えられた髭が舌打ちに合わせて動いた。

 ミグ・ゴウジュは幾度か、静かでいて大きな呼吸を繰り返した。感情を抑えているのか、精神を整えているのか。

 どちらにせよ、罵倒は彼の正当な権利なので謹んで受け取ろうと思う。


「俺の部隊はどうなった」

「一部は逃走、大多数は捕縛しました。戦意を失い、投降した者がほとんどです」

「……損害は」

「目視での把握となりますが、二割は焼死しました」


 あえて数字としてのみ数えた言葉に、自分で吐き気がする。

 けれど、事実だ。

 散った。虹の橋を渡った。昇った。

 様々な言い方があるが、本質は死だ。

 そこには死があるだけだ。

 死という事実がそこにあり、それを明確に表現したくない人間だけが死を迂遠に彩り、ぼやけさせる。

 戦場で死んだ一人一人に人生があった。その背後には、一人の帰りを待つ何人何十人何百何千人がいることも、分かっている。

 大多数と一人を秤にかけたつもりもない。ここが戦場だからと開き直るつもりもない。

 それは、戦場で命のやりとりをした人達にのみ適用される救いであり、私とルウィには無関係な祈りだ。


「……化け物め」

「仰る通りです。望むがままに、私を畏怖し、嫌悪し、憎悪しなさい。――けれど、我らがアデウスの民を、あなた方が殺してきた日々もまた事実。その罪は、私が化け物である如何に関わらず、この国で償っていただきます」


 男は僅かな沈黙後、口角を吊り上げた。


「さんざ殺してきたんだ。その程度の罰は受けるさ」

「そうですか」


 だが。

 楽しくてならないと顔に書かれた笑みの後、男は続ける。


「お前の罪は、どこで償うんだ」


 今度は私が笑みを浮かべる番だった。


「いつの日か、アデウスの民が私を裁くでしょう」


 アデウスの民が私を恐れ、忌避し、不要と断じたその時。

 私は、それら全てを受け入れる。

 私はこれより先、神の力を行使した人形としてアデウスで稼働し続ける。

 必要とあらば、神でもないのに神の力を扱っていくだろう。

 今日のように。

 いつの日かこの力にも慣れるだろう。

 いつの日か全てに慣れていくだろう。

 いつの日か、私は悍ましき存在として人に裁かれるだろう。

 その日が百年後か、明日か。

 それは分からないけれど。


「人には私を裁く権利があります」

「あんたを裁く奴らが、くそ野郎ばかりだったらどうする?」

「私を裁く人々は、穏やかなる善を信ずる存在でしょう。アデウスは、厳しい生存競争の中、最も淘汰されやすい優しき人々が生きていける国になれると。私はそう信じています。なればこそ、人に裁かれることをどうして忌避できましょう。人は私を裁く権利があり、私には人に裁かれる理由がある。人が私へ下す決断が如何なるものであろうと、それはきっと正しいものであると信じられる私は、とても幸福です」


 いつの日か、私を悪と断じる人々の道行きも幸福であらんことを祈る。

 その頃には、己の皮として人の姿を選んでくださった初めての神であらせられるあの御方も、神として顕現なさっているかもしれない。

 人が私へ下す裁きが、エーレとルウィには及ばないようにしたいので、その辺りをあの御方にお願いできたらいいなと願う。

 どうしても私の消滅と連動してしまう二人が、せめてそれを知らなければいいのだけれど。

 背後から、ちりっとした熱を感じる。

 否、訂正しよう。じりじりじゅうじゅうとした熱を感じる。

 どういうわけか私の思考を読んでいるらしいエーレの激しい発熱に、ミグ・ゴウジュはびくっと身を震わせた。

 だが、さすが北の辺境伯を手こずらせた男というべきか。すぐに竦めた身を伸ばし、鼻で笑ってみせた。


「どこの国だろうと、神に仕えていると自称するお偉いさん共は、どいつもこいつも荒事を苦手とした金の亡者ってのが定番なんだがな。まったく……アデウスの神殿関係者ってのはどうなってやがんだ」

「彼女と同列に扱われるのは若干の抵抗がありますが、褒め言葉として受け取っておきましょう」


 ただし、と。今度は私が付け加える。


「異常なのは聖女だけであって、神殿関係者は清く正しく穏やかな、善良なる美しさを持った優しい人々です。その部分だけは、認識を改めていただく必要があるかと」


 そこだけは譲れない重大な箇所を訂正すれば、きょとんとした後、ミグ・ゴウジュは大声を響かせた。突然弾けるような声を上げるので、最初はそれが笑い声だと認識できなかったほどだ。

 愉快で堪らないと上げた笑い声を、雷のように轟かせる男である。少し、驚いた。

 エーレは煩わしさを隠しもせず眉間に皺を寄せている。


「あんたを聖女として掲げられるアデウスの連中は幸せ者だな。俺も改宗したいくらいだ」

「……そうであるなら、嬉しいですね」


 私の存在が、アデウスの民の幸福へ繋がっているのならこんなに嬉しいことはない。

 思わず口元が緩んでしまうほどだ。

 意図せず顔面が緩んだ私を見上げたミグ・ゴウジュは、ぽかんと口を開けた。突然笑い出した私を見て、呆れたのだろう。

 だが、どうしようもない。どうしたって私は、人々の幸いが嬉しくて溜まらないのだから。

 それに、突然笑い出したのはお互い様である。両者手打ちと行きたいところだ。


「へぇ……本格的に改宗したくなってきやがった。なあ、聖女様。おたくの神に改宗すれば、恩赦はあるか?」

「えーと……改宗に関しての恩赦は定かではありませんが、速やかなる情報提供にはそれ相応の報いがあるかと思われます、けれど……申し訳ありません。その辺りの差配を、私は確約できません」


 その点については大変申し訳ない。

 私の勉強不足であり、実力不足だ。

 どうにも政には疎い自覚がある。その辺りのことは全て、神官長とエーレに任せてしまった自覚があるだけに居たたまれない。


「ひとまず、現在あなたの身柄はその全権がシャーウ・サオントにあります。彼の言うことをよく聞き、模範的な囚人であればあるいは」

「つまらない御託はよしてくれ。俺とあんたで話をつけようぜ。あんた聖女だろう。あのいけ好かない男よりうんと偉いはずだ」


 ミグ・ゴウジュは、健気で哀れな生き物のような瞳で私を見上げてくる。転んでもただでは起きない男だ。

 しかし、どうにもこうにも間が悪いというか、ついていないというべきか。 

 現状、彼の待遇を左右する権限は私になく、この後も身柄を徴収でもしない限り得ることはないだろう。

 そしてこの地には、現在アデウスで最も最上位の決定権を持つ第一王子がいるので、身柄を徴収する必要性は皆無である。

 その上現在のアデウスは歴史上例を見ないほどの国難。はっきり言って、彼の身元を引き受けてどうこうという暇が皆無だ。

 彼自身、その一因なのである。そこはしっかり自覚しておいてもらいたい。

 尚且つ、最大にして最高についていないと思う理由がここにある。


「聖女様、発言をお許しいただきたく」

「許しましょう」


 これまで沈黙を保っていたエーレが動いた。私より一歩半後ろに立っていた位置から移動し、私の半歩前に立つ。


「聖女様のお手をこのような些事で煩わせるわけには参りませぬ。よって、選べ、ミグ・ゴウジュ。このままサオントの元で聴取を受けるか。それとも」


 ちりっと肌が焼ける。風もないのに衣服と髪が不自然に揺らぐ。


「我がリシュターク家にて耐え忍ぶか」


 ミグ・ゴウジュが息を呑んだ音が、エーレ越しでも聞こえてきた。


「リ、シュタークが、何だってこんな場所に出てきてやがるっ」

「お前の部隊を焼いた炎、出所を考えるべきだったな」


 ミグ・ゴウジュは頬を引き攣らせ、唇を歪めた。力を込めすぎて歪に波打った唇は、引き結ばれたままそれ以上開かれることはない。

 感情のままに言葉を紡げば、大抵ろくなことにならないので正解だ。


「アデウスの国境を侵した罪、何より我が聖女を侮辱した罪。残りの生で購う方法を這いつくばって探すんだな」


 エーレは既に怒っているので、彼が私達を奴隷として引き取りたがっていたことは黙しておくこととした。聖女の慈悲である。

 だが正直、聖女の慈悲が発揮される場所はここじゃないとは思っている。


「……俺の部下を焼き殺したのは、てめぇか」

「ミグ・ゴウジュ。あなたも指揮官であるのなら、憎悪の在処を間違えないでください。神官の行動は、その全てが聖女の意思。全ての罪は私にあります。彼らは私の命に従ったに過ぎません」


 よって彼の部下の死は、全てが全て、私の罪だ。

 エーレを睨み付けていた瞳が再度私を捉え、心の底から苦々しく笑い。


「本気で改宗したくなってきやがるから、さっさと出て行ってくれ」


 そう、言った。








 ミグ・ゴウジュの要求があったからというわけではないが、私とエーレはその後すぐに地下牢を後にした。

 ちなみに、私の首に歯形は残った。くっきりであった。

 この状況下で、聖女と特級神官が噛みつき合っての大喧嘩をしたと思われては困る。

 外聞が悪いという常識的な面でもそうだが、何より、私は噛みついていないにしても聖女と特級神官が仲違いしたとあっては、民の不安を煽ってしまう。

 現在のアデウスの状況なら尚のこと、民の不安は出来る限り減らしたいところだ。

 幸い、負傷箇所は首の後ろ。髪隠しに出来るので安心である。



 長い廊下を歩きながら考えるのは、行きにも思い出したサロスン家の地下だ。あの時を思えば、今回は自力歩行が可能な状態を維持できているので上出来だろう。

 別に地下という存在が悪いわけではない。けれど、行きはよいよい帰りは骨ぼっきぼきだった上に、地上へ戻れば盛大に焦臭い環境に早変わりしていたのだ。

 ちょっと、地下という存在に対して身構えてしまうのは許してほしい。

 あまり地下にいる機会がなかったことも関係しているのかもしれないが、如何せん地下で穏やかに過ごした経験が少なすぎるのだ。成功体験が少ない事柄を、人は忌避する。人ではない私もついでに忌避してしまった。

 地下に罪は無いので、いずれ慣れたいものだ。


「サロスン家では、地下から出れば大騒ぎになっていましたね」

「……ああ」


 突然温かくなったなと思ったので、背筋がちょっと冷えた。

 エーレの怒りが、炎として知覚できるほどに漏れ出ている。


「エーレ、ここが石造りでなければ火事になりそうなんですが。……ちなみにいま、何に対して怒っています? 現状ですか? 思い出し発火ですか?」

「エイネ・ロイアーが、お前を模した人型に人殺しをさせていた件だ」

「成程。確かに、私という存在を危険物として人々に認識させたかったのなら、私を模した人形を並べて殺し回ればそれでよかったはずです」


 わざわざ人を殺さずとも、私を模した人型を壊せば、それだけで事足りただろう。

 同じ顔が複数体並ぶ。それだけで十分奇抜で奇妙で恐怖を抱く状況だ。そこに肉体の損壊という血生臭く、対象だけでなく自身の命の危機を抱く状況が揃えば、それを見た人々は無意識下で私という存在が苦手になるだろう。

 それなのに、わざわざ複数人の命を絶つ手段を選んだエイネ・ロイアーとは、やはり相容れない。


「とりあえず、怒りの対象はお前に移行した」

「何故」


 とりあえず、話の対象は更に移行させる必要があるようだ。

 そう決めて、話題を考えている間に階段へと戻ってきた。

 この後は、一つ上の階で待機している看守達に声をかけて、地上へ戻る。そうしてすぐさま、ルウィやシャーウ達と共に会議室へ閉じこもり、現状手持ちの情報を出し合って、今後について話し合わなければならない。

 先ほどまで戦闘していたシャーウ達を休ませてあげたいのはやまやまだけれど、時間がないのも確かだ。シャーウもすぐに会議室の手配を初めてくれたので、申し訳ないが頑張ってもらいたい。

 そうして、できるだけ早く王都へ戻らなければ。

 王都に関する新たな情報も、入ってきているといいのだけれど。


 王都にいる人々へ思考を向けた瞬間、世界が縦に揺れた。

 素早く動いたエーレが私の頭を押さえ込み、床に膝をつく。

 私に覆い被さるエーレの向こう側から、凄まじい音が聞こえてくる。音だけでなく世界も激しく揺れていて、視界が定まらない。

 天井から、大地がこすれた結果の土埃や細かな破片が降ってくる。


「聖女様!」


 一階上で待機していた看守達が、激しい揺れが収まらない中、転がるように階段を降りてくる。実際、ちょっと転がり落ちていた。


「危険ですからその場で待機してください!」

「そうは参りません!」


 看守達はエーレの上から私達に覆い被さった。


「ここの強度は!」


 エーレが声を張り上げる。


「そんじょそこらのウルバイの攻撃には負けませんが、今回は倒壊の危険も否定できません!」


 正直で大変よろしいが、ウルバイがそんじょそこらにいては困る。


「これ、何の揺れか分かりますか!?」

「申し訳ございません! 皆目見当もつきません! ウルバイの阿呆みたいな砲撃でも、こんな揺れは起こりませんでした!」


 ここは地下なので窓がなく、私達には状況が把握できない。それは、一つ上の階にいた彼らも同様だろう。

 激しい揺れの原因は一切分からなかったが、彼らがウルバイに対しかなり鬱憤を溜めていることだけは分かった。


「外の連中なら分かるかもしれませんし、ひとまず建物から脱出ください! 我々はミグ・ゴウジュを連れて避難いたします! 無理だったら諦めます! さらばミグ・ゴウジュ!」


 大変、潔い宣言である。

 看守達が一点の曇り無く言いきった後、揺れが少し収まりを見せた。立ってもいられない揺れから、壁に手をつけば立ち上がれるまでに落ち着いたのだ。

 その瞬間、一際大柄な男が猛然と走り出した。

 雄叫びを上げながら長い廊下を駆け抜けていく。その背をつい見送っている間に、再び激しい揺れが始まった。

 まるで横から巨大な生き物に体当たりを受けているかのような揺れだ。さっきは縦に揺れていたのに、今は横から揺さぶられている。

 そうこうしている内に、雄叫びが帰ってきた。

 激しい横揺れに翻弄され、右の壁、左の檻にぶつかっている。よく見れば、左右にぶつかる度、縛り付けた椅子ごと担いだミグ・ゴウジュを挟んでいるようだ。


「よくやった! 怪我はないか!?」

「はい! 無傷であります!」

「よし!」


 大柄な男と上司と思われる男はさっと会話を交わし、爽やかな笑顔を浮かべた。

 彼が無傷で本当によかったけれど、彼と壁や檻との間で緩衝材になっていたミグ・ゴウジュはその範疇にないと思われる。

 ミグ・ゴウジュを縛り付けていた椅子の足は一本折れていた。それにしては静かだなと思ったが、どうやら気を失っているようだ。

 そうは言っても、あえてぶつけたわけでもないだろう。成人男性と椅子の重さを担いで走ってきたのだ。揺れに合わせて宙に浮いた重たい部分が煽られるのは、致し方ない部分も大いにあった。


「聖女様、脱出しましょう! 殿はお任せください!」


 揺れが収まるのを待つ余裕はなさそうだ。私達は勢いのままに全員で階段を駆け上っていく。

 殿は、ミグ・ゴウジュを担いだ三人組だ。

 激しい揺れと、階段を駆け上る音にかき消されて聞き取りづらいが、どうにも凄まじい速度で椅子が削れていく音が聞こえる気がするが、気のせいだと思いたい。

 ミグ・ゴウジュにおかれましては、非常事態ということでどうか耐えてほしい。

 駆け上っている集団は、皆それぞれ左右の壁に身体をがんごんぶつけているのだ。彼だけぶつけず登り切ることなど到底不可能である。生き埋めにならなければよしと割り切ってもらうよりない。

 ちなみに、その直後ごんっという音を響かせたのは私の側頭部である。






 地下牢から出れば、そこは大惨事だった。

 雪に耐え、凶悪犯を収監する頑強な建物は、外の音を相当遮断していたのだと外に出て実感した。

 先ほどまで建物中で反響していた音は、あくまで建物内で収まる範囲の音だったのだと痛感する。


 北の大地は、割れていた。

 地も、空もだ。


 多くの植物が生を繋ぐため眠りにつく。そんな、厳しい北の白い冬に、空を貫かんばかりの茶が躍り出ている。

 巨大すぎる上に蠢くそれが木の根だと、即座に判断をつけられてしまうのは、既に経験済みだからだ。

 一本一本が、まるで樹齢何百年も生きた大樹のような太さを持った木の根が、数え切れないほど地上から生えている。それらは躍り出ただけでは飽き足らず、今なお踊り続けていた。動きが止まらないどころか、勢いはますます増すばかりだ。

 根は大地を這い回り、土を掘り返す。掘り返された土から新たな根が躍り出るや否や、周囲の根と絡み合い、更に巨大な束となって空を目指す。

 北の兵士達だけでなく、王子と私が派遣した兵も王都を離れていた為、この光景を見るのは初めてだ。

 王都に巨大な樹が生えたとの情報は耳にしているだろうが、実際に己の目で見なければ、こんな状況、いくら想像しても正確な情景は映し出せないだろう。

 この悪夢を経験しているのは、この地では私とエーレとルウィの三人だけである。


 木の根はまるで生き物のようだったが、全てが根本的に違う。

 植物がただその根を伸ばす現象とも、生き物の身体が日毎作られていく現象とも、訳が違う。

 日に日に成長しているのではない。巨大な根が、目に見える形でその身を軋ませ、一秒一秒明確に姿を変え、あっという間に建物を追い越していくのだ。

 それらはうねり、のたうち、ひたすら空を目指している。

 広範囲に出没した木の根が目指す先はどうやら同じで、いま私達がいる場所へ集結しようとしているようだ。

 そんな所さえ、王都で見た光景を再現しなくていいのではないだろうか。


 なんだか最近こんなことばかりだなぁと。そう思ってしまったばっかりに、驚き損ねて今に至ってしまったことは、大変遺憾だ。

 私達と共に地上へ脱出した看守達は、呆然と空を見上げ、動きを止めている。取り落とされたミグ・ゴウジュが呻き声を上げた。


「この地でも、この光景を見るとは思っていませんでした」

「同感だ。全く、腹立たしいことよ」


 空が木の根に覆われていく光景を現実に見るとは思わなかった。

 二度も、だ。

 二度と見たくなどなかった、悪夢の象徴のような景色。高熱の退屈しのぎに脳内で上映される景色のようでもある。だがあれは、高熱の最中に見るから乙なのであって、現実に見てもなんら楽しいことなどない。

 空が覆われてしまうと、閉塞感によって逃げ場がどこにもない心地となり、ただ背後から追い立てられるよりも絶望感が増す。

 しかし、二度目ともなると、成程こんな気持ちになるのかと冷静に観察できる自分がいた。

 一度目は、人形として、神の器として、あるまじき感情で満たされた自壊寸前の人形でしかなかった私が見ていた為、感想など抱く余裕が皆無だったのだ。

 そもそも完全に憎悪に傾いた機構が、その他の感情全てを切り捨てていた。

 それでも、じっくり観察して感想を抱ける状態となっても、全く嬉しくない。

 できるならこんな光景二度と見たくなかったし、アデウスの民に見せたくはなかった。

 憎悪はなくとも、代わりに戦意とやるせなさが胸に詰まっていて、どちらにせよ負の感情以外を抱けそうにない。


 隣を見れば、頭上に集結しつつある根をエーレが見上げている。自身の胸を掌で押さえているのは無意識だろうか。

 私は、木の根が空を覆う光景も二度と見たくなかったけれど、赤に沈むエーレも、もう二度と。


「マリヴェル」


 名を呼ばれ、私自身もその胸に掌を当てていたと気がついた。エーレが私の配偶者でなければ、いま出てきたばかりの地下牢に放り込まれても仕様がない所業だ。

 エーレは、私が掌を当てている自身の胸へと下ろした視線を、ゆっくりと上げていく。その視線が私の顔に到達すると、観劇で黒幕が浮かべるような笑みを浮かべた。


「お前を失う痛みに怯えていた俺達の気持ちが分かったか」

「そっ……れは、その台詞は流石に、意地が悪いのでは!?」

「正当な権利だ。そして俺は別に怯えていない。ただひたすらに怒り狂っていただけだ」

「でしょうね!」


 しかし、これだけ愛と怒りに特化した人が、長らくこんな気持ちを抱いたままその状況に甘んじていてくれたのは事実だ。

 頭が下がる思いと共に、いくら土下座しても許されないとも思う。

 そして、その状況に甘んじていたということは、それでも側に居続けてくれたということだ。

 エーレの性格上、嫌なことがあれば我慢などしない。すぐに状況を改善するか、絶対的に改善が不可能となればさっさと見切りをつける。

 そういう人だ。

 とても上手に、(われ)がままに生きる術を持った人なのだ。


「…………エーレ」

「何だ」


 知っていた。分かっていた。

 疑ったことなど一度もなく、実感もしていた。

 それなのに。

 何故だか、どうして。


「本当に、私のこと好きだったんですね」


 いま初めて、心の底からすとんと腑に落ちるように納得した気がした。

 ほろりと零れでた私の言葉に、エーレは珍しく怒らなかった。ひょいっと片眉を上げた後。


「そうなんだよ」


 子どものように、笑った。








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