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 神兵と騎士を伴い、戦場跡地へと移動した私達を出迎えたのは、北の守護伯シャーウ・サオントとその息子ジーン、そして彼らが率いる北の守護軍だった。

 シャーウは、決して大柄な男ではない。顔つきも、手に持つは剣でなく本が似合うと評される風貌である。

 現に知略に長けた策略家でもある彼は、されど武力にも長け、ここまで常勝無敗を貫いてきた。


 そんな北の守護伯とその息子は、私とルウィを前に深々と頭を下げた。その背後に連なる北の守護軍も、一糸乱れぬ動きで膝をつき、頭を垂れる。


「殿下、聖女様。これなるは北の僻地へ足をお運びいただき、恐悦至極に存じます」

「よい、楽にせよ。そなたらにも苦労をかけた。全てが片付き次第、褒美を取らせよう。して、ウルバイの指揮官はどこにおる」

「は。砦の地下牢にて収容しております」


 地下牢の単語に、私の頭には先ほど交わした会話が思い浮かんだ。エーレとルウィも同様だったのか、ほんの一瞬だけで視線が交え、すぐに戻る。


「その他主要面子は捕らえておりますが、捕縛した兵の大多数は順次解放する予定にございます。北にはこの規模の兵士を収容できる設備は整っておりませぬゆえ」

「それでよい。尋問は聖女が行う。その間、兵士は下げよ」


 シャーウとジーンが、目を見開いて私を見る。表情が揃うと、やはり親子だと思った。

 よく、似ている。


「聖女様、発言をお許しいただきたく」

「許しましょう。どうぞお話しください、シャーウ辺境伯」


 シャーウとジーンは、再度深く頭を下げた。


「御身を忘却せし我らが罪、北を代表し謝罪致します。御身の危機に馳せ参じる事なき我らを、最早信頼ならぬと仰せでございますれば、せめて挽回の機会をいただけませぬか」


 シャーウの隣で、ジーンも頭を下げ続けている。ジーンとのお見合いは、聖女忘却事件が起こる少し前だったけれど、なんだか全て遠い昔のようだ。

 エーレほどではないと言え、私もお見合いはそれなりの数をこなしたはずだ。そのうち大半の記憶は、大変申し訳ないけれどハデルイ神も先代聖女も関係ない忘却の彼方だ。

 けれど、ジーンとのお見合いはちゃんと覚えている。有意義な発見があったことも大きな理由ではあるが、純粋に結構楽しかったのだ。

 いつか北の地を訪れた際は案内してくれるとのことだったが、残念ながら今回その機会が巡ってくることはなさそうだ。

 そんなことを考えていたら、少しの沈黙時間が発生してしまった。

 二人の後ろに連なる兵士達から、つばを飲み込む音が聞こえてくる。皆、固唾を呑んで私の言葉を待っていた。

 アデウスの民全てを無辜の罪人へと転じさせたアリアドナの罪は、罪名すら存在しないほどに重く、醜悪だ。

 この景色は、私がこれから先、幾度となく見るものとなるだろう。

 深い悔恨。取り返しのつかない罪を犯した絶望。自らを許せぬ憤怒。

 それらは、一つでも身の内へ抱けばその生を生涯蝕み、影を落とし続ける感情だ。その身を罪の意識に苛まされながら生きる生がどれだけ過酷か。

 そんな生がアデウスの民へ降りかかるなど考えたくもないというのに、それらはただの事実として存在している。この国に住む、全ての命を対象として。

 それら全てを身の内へ抱き、アデウスの民は頭を下げる。許しではなく、罰を乞うために。

 聖女へ、祈りではなく罰を乞う様の、なんと悲しいことか。

 本来救いへの縁とするべく聖女に対し、罪の意識を背負ってしまった彼らは、一体どこへ行けばいいのか。


「シャーウ辺境伯。北の防衛に尽力し、そうして成し遂げたあなた方を労いこそすれ、罰を与える理由がどこにありましょう。あなた方に罪はない。私には、罪なき命へ罰を与える理由がありません。神殿も然り。王城とて、そのような法はない。ゆえに、あなた方へ罰が与えられることはありませんよ」


 私の言葉に、安堵の表情を浮かべる者は誰もいなかった。

 ならば重ねよう。

 自らを罰し、祝福の言祝ぎを受け取れぬ無辜なる罪人へ、罪の在処を授けよう。


「そうしてあなた方は、私の言葉を民へと繋ぎなさい。あなた方に罪はない。十三代聖女は、この身の忘却を罪とは定めない。あなた方を咎める者あらば、こう答えなさい。我らを罪人とするならば、その罪をこの身へ届かせた十三代聖女こそが罪の根源であると」

「――――寛大な御心に、心より感謝申し上げます。我らが北一同、聖女マリヴェル様より賜りしご恩を、未来永劫忘れず、末代に至るまで語り継ぎましょう」

「そのようなもの、早々に忘れてしまいなさい。此度の事件は、自然災害のようなものと捉えなさい。残すべきは教訓のみであり、そこに罪の意識を抱く必要はないのですから」


 彼らが忘れてはならないのは命の尊さだけであって、私への罪悪感などさっさと忘れるべきものだ。そんなもの、何の糧にもなりやしない。

 それこそ私に抱く罪悪感ごと忘却すべきであるが、彼らの意思に反する忘却を望むべきではないこともまた事実。

 万物に平等な癒やしを与える時の流れが、一刻も早く彼らの傷を癒やし、思い出すこともないほど跡形もなく流し去ってくれることを、今は祈るしかない。


「……ウルバイの指揮官は、獣を生きたまま切り刻み、火をつけられのたうち回る姿を肴に酒を飲むような、悪辣で悍ましい男です。我らにお怒りでないと仰せであれば、どうか付き人の数をお増やしください。砦の者が信用ならぬと仰せでしたら、是非神兵を増やしてお連れください。お許しいただけるならば、私めがお供いたします」


 ウルバイの指揮官は、悪鬼のような男らしい。

 シャーウは真っ当な倫理観を持った人間なので、そういう手合いは心底嫌いだろう。そんな相手が長年北の地を脅かしてきたのだから、彼の鬱憤は相当なもののはずだ。

 そんな相手をついに捕らえたのだ。最後まで自らの手で始末をつけたいと思う気持ちは十分理解できる。

 私も、彼からその権利を奪うつもりはない。

 それでも。


「ならばなおのこと、付き人はエーレ特級神官のみとします」

「マリヴェル様」


 固く強張ったシャーウの声を聞いても、私の答えは変わらない。


「シャーウ、私がエーレ特急神官のみを連れるは、あなた方への怒りでも疑念でもありません。先の言の通り、私はあなた方の忘却を罪とは定めず、怒りも持ち得ません」

「ならば」


 言い募るシャーウの言葉を、私は苦笑で制した。


「悍ましさでいえば、私も相当だということですよ」


 それこそ、たとえ神兵であっても見せられないなと思うほどには。

 醜悪さに付き合わせるのは、エーレだけで十分だ。

 ちなみにルウィは付き合わせずとも、同じ位置に立っている人である。


 シャーウは少し眉を動かしただけにとどめたが、ジーンは目を見開いた。交流が得意な父親に比べ、口数少なく真面目さが全面に出ているジーンが感情を表に出していたので、どうやら私は相当なことを言ったらしい。

 どうやらも何も、聖女が己を悍ましいと自己申告しているのだから当然かもしれない。

 けれど、この事態を引き起こした全ての元凶が聖女なのだ。

 当代聖女は一連の聖女とは無関係な位置づけになるが、それでも悍ましいのだから、アデウスにおける聖女は皆一律悍ましいということになる。

 つまりアデウスの民には、一刻も早くその事実に慣れていただくより他ない。アデウスの民には是非とも頑張ってほしいものだ。


「聖女様」

「はい、何でしょうか、ジーン」


 あっという間に驚愕をしまい込み、無表情に近しい顔へと戻ってしまう様は、少しだけエーレと似ている。ジーンは、他にも色々とエーレと似ている箇所が多いように思う。

 ただし彼の部下曰く、表情には乏しいが穏やかな性格だそうだ。何度か話をした際に私が感じた印象も大体同じだった。

 よって、喧嘩っぱやいエーレとは似ていないともいえる。

 だってエーレはいつだって喧嘩っぱやい。売られた喧嘩も売られていない喧嘩も買うし、自分では売らずに叩きつけてくる。

 しかしそんなエーレとは似ていない、穏やかと評されるジーンであっても、何故か私とのお見合い期間中にはエーレと盛大に喧嘩をしていたものだ。

 やはり元々顔見知りであり、互いに名家の出という環境の似たエーレ相手だと、気安く接することが出来たのだろう。


 そんな、さほど昔ではなかったはずなのに、今では遠い昔に思える記憶が蘇る様は、どこか走馬灯に似ている。

 記憶を思い出し、懐かしむ時、人は己の有り様を確認しているのかも知れない。 

 私も随分、人の真似事が上手になったものだ。

 意図せず無意識下で行えるようになったのであれば、もう真似事と言わなくてもいいのではないかと自惚れたくなるほどに。

 それもこれも、神官長のおかげだ。これからもずっと、人としての有り様を学ばせてほしかっ――――。

 無意識に向かっていた思考を、意識的に打ち切る。

 こんなことばかりがうまくなる自分は、少し情けない。神官長には見せられな――――――――。

 思考を、打ち切る。


「聖女様が望まれるのであれば、同行は致しません」

「ありがとうございます」


 ジーンは、お見合い中も別れ際も、いつだってまっすぐに私を見ている人だった。

 そして今も、その瞳は変わっていない。

 これだけ変わり果てたアデウスの中、変わらぬものを見つける度、身の内に湧き上がる感情を、人はなんと呼ぶのだろうか。

 教えてくれる人はきっといるけれど、教えてほしい人は――――――。

 思考を打ち切ろうとして、やめる。

 一度たがが外れると駄目だなと、心の中で自分に溜息をつく。

 いくら誤魔化したところで、私という個の根本を形作った人のことを、他所へ置いておくなど出来ようはずもない。

 だから私は、それらを自覚した上で受け入れ、改めて気持ちを切り替えた。

 私はいま、自分や過去とではなく、人と会話をしているのだ。私と向き合い言葉を探し、そして丁寧に選ぶ人に対し、せめて誠実さを以て受け取らなければ不義理が過ぎる。


「ですが、一言申し上げます。あなたは悍ましくなどありません。あなたがどのような御力を行使されようとなさっているのかは存じ上げませんが、それは必ずアデウスの為です。そうであると、あなたはこれまでの時間で我々に信じさせてくださいました。そんなあなたが必要であると判断した手段を詰る者あれば、悍ましいのはその者の性根です」

「全く一言ではない」

「リシュタークには話していない」

「俺は聖女の伴侶となった為、リシュタークではあるが現在正式に名乗る姓は持たない」

「――聖女の婚姻相手を一人に限るという規律はなかったはずだ」

「愛人など許可するか」

「聖女の婚姻相手であろうが、聖女の行動を制限する権利はない」

「この騒動が解決した後、リシュタークとサオントで全面戦争が始まるアデウスは哀れだな」

「それだけは同感だ。そして彼女が王子と結婚したとの情報が広まっているのはどういうことだ。お前も愛人ではないのか」

「聖女の伴侶は俺だけであり、マリヴェルの生に愛人という存在が発生することは、可能性すら未来永劫有り得ない」


 エーレとジーンは仲がよすぎるので、顔を合わせるとすぐじゃれ合ってしまうのも、あの頃とちっとも変わらない。この二人は、そろそろ親友を名乗っていいのではないだろうか。

 すぐに二人の世界に入ってしまうので、ジーンには嬉しいことを言ってくれてありがとうと言いそびれてしまった。

 よく余のことすぐ忘れると言ってくるルウィの気持ちが、少し分かった。

 基本的には仲がいいなぁと微笑ましく見ていられるが、若干の寂しさもあるこの気持ちをなんと呼べばいいのだろう。

 現在この気持ちを分け合っているであろう、今回は私と一緒に忘れ去られているルウィを見ると、何故か堂々たる笑い声を上げ始めた。


「はっはっはっ! して、聖女よ」

「うわ、急に真顔になるのやめてください」


 思わず、顔面に掌を押しつけたくなる速度で表情を変えられると落ち着かない。

 私の要望を完全に無視したルウィは、飄々と続ける。


「アデウスが落ちる元凶になった気分はどうだ?」

「いつの間にか元凶となっていたことに、世界の不思議を噛みしめているところです。元凶はアリアドナでは?」

「それとは別件である」

「アデウスが滅ぶ要因多すぎません?」


 そんなにあっちこっちに転がっていていい代物ではないと思うのだ。もっと希少性の高い存在であってほしい。


「リシュタークと北のサオントの潰し合いともなれば、流石の余も己が無意味さを痛感するぞ」

「私より余程正確に冗談を解するあなたにしては、珍しい冗談ですね。エーレの冗談も珍しいですし、今日は珍しいことばかりで――………冗談ですよね?」


 皆が冗談を言い合う平和の象徴のような光景を前に、何故か胸がちりちりする。そわそわもする。ぞくっともした。

 どの角度から検証しても、嫌な予感である。

 いやしかし、気のせいだろう。だってリシュタークとサオントが争えば、それこそアリアドナがいようがいまいがアデウスは終いだ。

 リシュタークとサロスンが争うくらい、非常にまずい状況に陥ってしまう。

 ルウィにしては下手な冗談だなぁと思ったし、本人にもその自覚はあるだろう。きっと今一だったなと自分で思っているであろうルウィの顔を見た。

 そこには予想通りの顔があった。

 わけではなく、真顔だけが存在した。


「現実となった場合に備え、余は民を連れ流浪する計画を試算中である」

「冗談じゃない可能性が高い感じで合ってます!? 嘘でしょう!?」


 しみじみ頷いているルウィとは反対側から、いつの間にか移動してきたシャーウが私にひそひそと申し出てくる。


「ところで聖女様、改めてうちの息子は如何ですか。気は優しく真面目、戦術にも長け、その上最近は、ご覧の通り面白み溢れる男にございます」

「この流れでお見合い続行の提案を受けることってあります!?」

「ございます。多々ございます。寧ろ、常識かと」

「そうなんですか……」


 世界には私の知らない常識が溢れている。私は人形としても人の模倣品としても未熟である身を恥じ入り、勉学だけでなく社会勉強にも励まねばならないようだ。

 ところで何故ルウィが海老になっているのか、シャーウに聞いてもいいだろうか。


「マリヴェル、俺という者がありながら見合いを受けたら承知しないぞ」

「うわ、突然こっち向く」

「聖女様、機会とは長年付き合いのある人間のみに限らず、万人に与えられるべきでは?」

「流れるように巻き込まれた気配を察知しました」


 さっきまで私の左右から話しかけてきていたルウィとシャーウは、気がつけば気配を消している。

 アデウスの中でも、上に立つ人間は両手の指で十分事足りる地位に立つ二人が、気配を消す術に長けているとはどういうことだ。

 どの機会に生かすのか気になるし、そもそもどうやって練習するのだろう。

 ルウィに関しては、私と同じく逃亡とさぼりのためだろうが、シャーウも同じなのだろうか。聞いてみたいが、聞ける雰囲気ではない。


「マリヴェルはもう二度見合いなど行わない」

「それはリシュタークが決めることではない」

「北の要サオントが可能性のない希望に縋るなど、他家に見せていい姿とは思えないな」

「天下のリシュタークが聖女の慈悲に縋る様とて、見せていいものではないだろう」

「俺は聖女の伴侶だ」

「聖女の伴侶が一人と定められていない以上、その主張は抑止力としての効果をなさない現実を、そろそろ認めたらどうだ」

「事態 が落ち着けば規律を制定させる。それまでの期間のみ夢を見ながら吠えていろ。どうせ短期間で覚める夢だ」

「私利私欲で規律を弄ぶ様に愛想をつかされなければいいがな」


 いや、聞ける雰囲気だ。

 何せいつの間にか会話に組み込まれていた私という存在が、いつの間にか何の関係もなくなっている。

たぶん私は、ここにいなくても何ら問題ない。ちょっとくらいなら昼寝に勤しんでも平気だと思われる雰囲気である。

 私は必要なさそうなので、この隙に改めてルウィの耳元に唇を寄せる。それを察し、ルウィも首と肩を下げてくれた。


「……これ、冗談の可能性がまだ残されていると思うんですが」

「ふむ。余とそなたの仲ゆえ、温情をかけるとしよう」


 身体を傾けつつも腕組みをしたままのルウィは、後で腰を痛めないか心配だ。


「エーレが隠蔽をやめただけであって、このようなこと茶飯事であったと、神殿関係者ではない余とて知っておるぞ」

「へぇー……それはつまり………………どうすれば?」

「友として一つ忠告しておくが、諦めるべきであろうな。しかしこんな愉快な戦に参戦せぬ理由もないのだが、惜しいことよ。今が国難でなければなぁ」

「エーレで遊ぶのはよしてもらえるとありがたいのですが」

「そなたで遊んでおるのだ」

「成程」


 それならいいかと思ったが、それはともかく、このままだと全く話が進まないことに気がついた。

 そうして私は、ひとまず全ての問題はよそに置いておいて、速やかにウルバイの指揮官尋問に移ることで手を打った。

 全て後回しにして逃亡したわけでは、決してない。

 エーレとジーンには一度落ち着いてもらい、シャーウには考え直してもらい、ルウィには海老から復活する時間を設けたのだ。  

 だから、後回しにしたわけではない。

 後になったら全てなあなあになっていたらいいなと思っているだけである。












 ただでさえ地上の熱が届きづらい地下は、薄暗く寒い。ここが北方ともなれば尚更である。

 まるで氷の中にいるようだ。

 それが、アデウス一寒いと名高い冷え切った地下牢の廊下を、一歩ずつ進みながら浮かんだ私の感想だった。


 地上でさえ凍えるほどに寒いのだから、石造りの地下が冷え切っているのは当然だ。建物の中である恩恵など、雪風が吹き込んでこないだけなのではなかろうか。

 冬場は獄中で死亡する者も珍しくない過酷な環境だ。

 そんな、心まで凍りそうな冷たさの影響を、私は受けていない。

 二歩前を歩くエーレのおかげだ。

 エーレは自分と私の側に灯りを浮かべ、黙々と長い階段を降りていく。それだけでなく、熱を纏った薄い膜を周囲に張ってくれたおかげで、私は寒さを感じるどころかほんのり温かいくらいだ。

 エーレと共にぐるぐると回る階段を降りていくと、しばらくして階段が途切れ、いったん足を止める。

 階段の終着地点。ここが、この建物では最深部となる。

 その左右には部屋があった。どちらも看守の部屋だ。

 最下層は最も逃亡が困難な設計がされている。重要、または凶悪犯が収容される場所だからだ。

 よって、本来ならばこの階に囚人が収監されている場合、必ず二人以上の看守が常駐する決まりとなっていた。

 けれど今だけは、無理を言って一つ上の階にいてもらっている。

 流石に建物外へ出てもらうわけにはいかなかったが、牢の前で待機していたいと願う彼らに無理を言ったのだ。こちらもある程度の譲歩は必要である。

 看守の部屋の奥には長い廊下が続き、廊下の左右には牢屋が連なっている。他の階層も似たような造りだが、他と違うのは牢屋の間隔が広く、隣との壁が非常に厚いことだ。

 ここに収容される対象の危険性を考慮し、間違っても隣とやりとりが出来ぬようになっていた。

 手と手を取り合い、何かを企まれては事である。

 流石に声を張り上げれば会話くらいは可能だが、そんなことをすれば看守がすぐに気がつくので、実質不可能という認識で問題ないだろう。

 そうはいっても、現在この階層に収監されている囚人は、ウルバイの指揮官一人なのでさほどの心配はいらないはずだ。

 誰かとやりとりできる可能性は少ない。

 皆無と言えないのは、大体全部アリアドナのせいである。


 最早彼女がしでかすこと全て、有り得ないと言えないのが悩ましいところだ。

 私をアデウス中から忘却させただけで有り得ないと思っていた過去が遠く、懐かしい。今ならば、それくらい平気でやるだろうなと思える。

 私も成長したものだ。人はこれを成長ではなく、慣れと呼ぶのかもしれないが。

 奥へ向け歩を進める私達の足音と、衣擦れの音だけが響く。見張りも共に外へ出てもらったので、この階層には私とエーレ、そしてウルバイの指揮官の三人しか存在しない。

 そのうちの指揮官は、最も奥の部屋に収監されているので気配を感じず、音を発しているのは私とエーレだけだ。


「前にもこんなことがありましたね」

「そうだな」


 前神官長フガルを目指して、あの時も地下へと潜ったものだ。


「私の骨やらなんやらがぼっきぼきになりましたねぇ」


 なんだか懐かしい。


「しみじみ懐かしむ思い出じゃないことだけは確かだ」


 エーレは苦々しげに吐き捨てる。

 愉快な思い出とは言えないかもしれないけれど、そこまで苦々しい顔をするほどだっただろうかと考え、納得した。

 確かにエーレはあの後、地獄の筋肉痛と身体疲労に陥った。運搬してもらっただけの私とは違い、運搬しなくてはならなかったエーレはこんな顔にもなるだろう。


「エーレ、大変でしたもんねぇ。せめて階段がなければよかったんですが。思い出すだけでも疲れる感じですか?」

「どちらかといえば腸が煮えくりかえる」


 確かに、そのほうがエーレらしい。

 悲しみやつらさより余程いいと言いたいが、怒るのも疲れるしつらいと思うので、どちらがいいという問題ではない気もする。

 それはそうとしても、怒っていないエーレは想像も出来ないし、エーレ自身も怒らない自分を目指していないのでどうしようもない。


「惚れた女が目の前で次から次へと負傷していくんだ。腹立たしいにもほどがあるだろう」

「…………一般的に、そういうことを口に出すのは恥ずかしいという風潮らしいですよ」

「恋だの愛だのが恥だという風潮が異質だろう。それらは、人間が種の象徴として掲げた欲の一つだ」

「それはそうなんですが……そうなんですがね!?」


 なんというか、こう……心がもぞもぞするので勘弁してほしい。これが情緒だというのなら、私が感じてエーレが無関心なのはどうかと思うのだ。

 そう伝えてみても、エーレはまるで他人事のような顔をしている。


「お前は胸を張ってふんぞり返って受け取っていればいい」

「えーと……私が他者から向けられた愛の上に胡座をかき、ふんぞり返っていたら嫌じゃないですか? 聖女としてもマリヴェルとしても」


 誰より私が嫌である。

 成長を忘れ、改善を模索せず、他者の目に映る自分を知覚できない存在は、自身の停滞に周囲を巻き込む確率が高い。

 それではまるで災厄ではないか。

 それなのに、エーレは酷く機嫌がいい笑顔を浮かべた。


「いや、誇らしい」

「…………………………………………」


 エーレは、他者の目に映る自分を知覚した上でこれである。

 この欲深な愛の化身を発生させたリシュターク家は、とりあえず胸を張ってふんぞり返っていればいいと思う。

 エーレに関してならば許される。絶対にだ。





 地下牢の最奥、廊下の突き当たりから右手に当たるそこに、その男はいた。

 上階よりも太い棒で出来た鉄の檻の中は薄暗い。廊下側に灯る明かりだけが、檻の中で得られる光源だった。

 そこにエーレの灯りが近づくことで、檻の中に差し込む光が増え、足下から順繰りに男の顔が見えた。

 男は四十代ほどで、恵まれた体格に、無精髭ではなく手入れをした上で伸ばしていると思われる髭が特徴的だ。

 髭の中に黄ばんだ歯が見えているのは、男が笑っているからだ。

 牢屋の中にいてなお、座った椅子に縛り付けられている男は、私とエーレの姿を認めるなり目を細めた。

 そして鍵を開け中に入れば、最早隠すつもりもないのだろう笑みをその口元に浮かばせ、黄ばんだ歯をむき出しにする。


「いけ好かないと思っていたが、商売女を派遣してくる辺り、南の辺境伯も気が利くじゃあないか。俺はもう少し熟れたほうが好みではあるが、この際贅沢は言っていられない。それに、これだけの上玉、王都でも早々お目にかかれないんだ。十分すぎて釣りがくる」


 アデウスにとっては北の要であるこの地も、ウルバイにとっては南となる。アデウスが最北とする地より北上した地が南となるウルバイは、人が住むには過酷な土地だ。

 その点については理解する。

 だからといって、アデウスを侵略せんとする方針はいただけないし、その戦場の地を自国ではなく他国であるアデウス側に押しつけている点も許し難い。

 基本的に戦争とは、侵攻する側の領土ではなく侵略行為を受けている側の領土が燃える。侵攻は燃やす側であるのだから、防衛する側が燃えるのは当然のことだ。

 当然のことなのに、酷く理不尽に思える。つまりは腹立たしい。


「我々はそういった行為を生業とするものではありません」

「あ? だったら何だ。まさか尋問官とでも言うつもりか?」

「その通りです」


 大声で笑う男の声が地下に響き渡る。

 あちこちにぶつかるボールのように、男の笑い声が跳ね回った。


「こいつはいい! こんなご機嫌な尋問ならいくらでも受けたいくらいだ!」


 私は特に思うところはなかったが、エーレは思うところしかないようだ。今は聖女の顔を立てているが、ひとたび許可が出るなり、骨も残さず塵にしそうである。

 私は必要以上にエーレを力として使いたくはないので、さっさと本題に入ったほうがよさそうだ。

 ただ、この男。目の前にいるエーレが、自身の指揮する部隊を瓦解させた要因の一つだと知ったらどうするのだろうとは、思う。


「無礼者。貴様如きが直接言葉を交わせる御方ではない。口を慎め」

「これはこれは。そちらが主でございましたか」


 男はふざけた様子で取り繕った恭しい礼を、私へ向けた。エーレの額に青筋が走る。

 エーレは簡単に完全犯罪を成立させる力を持った人だ。アデウスの国民は、彼が人一倍強く清廉な倫理観を持って生まれてきた事実を、心から感謝すべきだ。

 そしてこの男は、そんなエーレを煽ったことを心から反省すべきだ。

 何せこの人、怒りの塊なのである。


「それで、麗しいお嬢様方。めくるめくこの夜に、どんな尋問を施してくれるんだい?」


 私は男へと一歩近寄った。続いてもう一歩、歩を進める。

 私が距離を詰めても、男は楽しげに笑っているだけだ。

 けれど、一歩、一歩と、私が近づくにつれて笑顔は鳴りを潜め、怪訝な顔つきとなっていく。


「お前は……」


 男の目の前で立ち止まった私の白髪が、風もないはずの地下で揺れている。そのまま男の頬に両手を添え、顔を近づけていく。

 男の瞳の中に、私が映っている。

 その中に映る私の瞳は、まるで星のようで。この地上で光るには異質な色を宿していた。


「アデウス十三代聖女、マリヴェルと申します」

「っ、離せ!」


 瞳を驚愕と恐怖に強張らせ、途端に暴れ出したこの男は、アデウスの聖女を何だと思っているのだろう。

 エイネ ・ロイアーは、アデウスの聖女を何だと思わせたのか。彼女がウルバイで何をしたのか少し気になるけれど、どちらにせよもう遅い。

 私は口を開き、シャーウより報告を受けた男の名を紡いだ。


「ミグ・ゴウジュ、私を見なさい」


 男の瞳を覗き込んだまま、瞬き一つせず見つめ続ける。見つめるのは男の瞳の色彩ではなく、感情ですらない。

 男の表皮より更なる奥、男を男たらしめる根幹に位置する魂の記憶。

 それらを保持する個の意思など関係ない。

 この世の記憶する全て、この世が記録するその全て。

 全てが全て、神のもの。

 閲覧する権利を、私も持ち得ている。






 川の流れのように映像が去り、雨のように文字が降る。この場において、男の人生はただの情報でしかなく。そこに男という個の意思は反射一つ残されていなかった。

 ここは世界、ここは星。

 それらの中であり全ての中。

 神だけが己であることを許された空間。

 神だけが、己であれる星の果て。

 男はとうの昔に抵抗をやめている。この空間では、最早男の個という自我は意味を成さず、情報の容れ物でしかなかった。

 瞳は驚愕に見開かれた大きさのまま、今では差し出すように開かれている。呆けたまま薄く開いた口からは、小さな音が訥々と漏れ出ていた。

意味ある言葉なのかすら聞き取れない小さな声で、何かを喋り続けている。

 人が持ち得る権利と尊厳を土足で踏みにじる行為だ。

 こんなにも悍ましいことがあっていいのだろうか。

 神が幼子の手荷物を確認するかのような手軽さで行うのとは、訳が違う。神ではない私が、命の尊厳を遵守せず、記憶の開示を強制する。

 神以外が行えば、魔物による尊厳の冒涜と大差ないだろう。人々は直ちに討伐に繰り出すべきである。

 よって、エーレとルウィ以外、誰にも見せられないのだ。

 私欲を持って悪用するつもりはないけれど、聖女の公務と私欲が限りなく近しい位置に存在する場合、私には最早判断する術がない。

 それに、自身の尊厳を暴き踏みにじる悪行を命から見てどう思うか、想像にするに難くない。対象が己でないとはいえ、命は本能的に恐怖し、嫌悪し、排斥へと動くだろう。

 つくづく、アデウス国民はこんなものが聖女で可哀想だ。

 だが、初っ端からアリアドナであったことを鑑みて、まだ私のほうがいいかと思っていただけると、僅かくらいには救いがあるかもしれない。

 五十歩百歩、黴か腐敗かくらいの違いかもしれないけれど。せめて湿気たくらいにはなれるよう努力していくので、よろしくお願いします。

 それにしても、神には恵まれたというのに聖女には恵まれないだなんて、何とも奇妙な星に生まれたものである。アデウス国民各位におかれましては、是非とも強く生きていただきたい所存だ。


 そんなことを考えている間も、男の紡いできた生が私の周囲に漂い続ける。

 男の生涯に興味はない。男の悪辣さがどこから表出し始めたのかも、見る必要はない。

 必要以上に暴き立てはしない。相手が誰であれ、むやみやたらと子を暴き、辱める必要はないのだから。

 必要なことだけを、必要な量だけ、回収する。

 それ以外のことは、人の手で白日の下へと曝し、罪の重さを判断する事柄であり、私が介入すべきではない。


『ミグ・ゴウジュ』


 男の生の中に、柔らかく穏やかに、まるで肌に溶けるように男の名を呼ぶ声を見つけた。

 これだ。



『あんたがお偉いさんの言ってた協力者か』

『ええ』

『あんたが言ったとおりにすれば、ウルバイは神玉を得られて、その上あの国境をぶち抜けるんだな?』

『勿論ですよ』


 声を頼りに映像をたぐり寄せた先では、長い金の髪を靡かせた女と、ミグ・ゴウジュが座っていた。

 男の顔には髭がなく、今と比べた年齢差が分かりづらい。

 少しすると、周りの風景も見えてきた。二人が座っている椅子、二人を隔てる机。壁は布のようだから、天幕の中だろうか。

 二人の他には誰もいない。

 互いの護衛をつけず行われた密談は、奇妙なほどに和やかだった。


『あんた、アデウスの神殿関係者だと聞いたぞ。なんだってウルバイに味方するんだ』


 ミグ・ゴウジュが手に持っていたらしい酒瓶が、乱暴な動作で机の上へと置かれた。机に置かれるまで、酒瓶は私の視界に現われてはいなかった。

 こうして見ている範囲外の物は、たとえ対象者が手に持っていたとしても見えないようだ。

 もう少しうまく扱えるようになれば、もっと広い範囲を見られるのだろうが、今の私にはこれが限界である。

 酒瓶が机に置かれ、どんっと響いた重たい音にも、エイネは微笑むだけだ。


『何にせよ、上から指示が出てるんだ。現場の俺らは従うしかねぇ。それに、それであの余裕綽々な男の鼻っ面をへし折ってやれるんなら、乗らねぇ手はないがな』


 余裕綽々な男とは、シャーウ辺境伯のことだろう。

 ミグ・ゴウジュは知らないだろうが、シャーウ辺境伯は彼の鼻っ面をへし折りたいとは思っていないと思われる。

 それよりも純粋に処刑したそうだった。


『それにしたって、やっぱりあんた奇妙な女だよ。自国の民をウルバイの奴隷にしたいだなんて女、聞いたことがねぇ』


 アリアドナ は、何を手土産にウルバイに取り入ったのか。

 そう、考えたことはあった。

 聖女がウルバイへ寝返る。それだけでウルバイにとっては願ってもない状況だ。だから何の手土産も持たずウルバイに取り入った可能性を、この期に及んで、まだ少しだけ期待していた。

 けれどエイネ・ロイアーは、どこまでもアデウスの民を裏切りたいようだ。


『まあ、アデウスの人間なら高値で売れるだろうさ。何せ、神力持ちが山ほどいて、その上どいつもこいつも顔がいい。神国なんて呼ばれてるだけあるぜ』

『――あの国の民は、わたくしの愛した方を殺した国を滅ぼしたというのに、その民は生かした。それは神をも恐れぬ大罪です。アデウスの国民は、大罪人の末裔ですもの。その生を踏み躙られ、無様に生きるが似合いの民なのですよ』


 ――そこまで、そこまでアデウスが憎いか。

 今し方、凄まじい嫌悪を含んだ憎悪を吐いたとは思えぬ表情で微笑み続ける女は、長年アデウスの聖女だった女だ。そしてこの百年弱、アデウスの民が一心に慕った女である。

 アリアドナから始まり、エイネ・ロイアーへ至っても、どこまでもアリアドナで在り続けた女。

 うっそりと笑いながらアデウスの民を売り渡した女は、どこからどう見ても人には見えず。

 されど、その感情はどこまでも人だ。

 ああ、悍ましきは人の業。

 本人がそうと自覚しているか否かの判断はつけられないが、どちらにせよ彼女は止まらないのだろう。


『これで本当にアデウスが落ちるんなら、俺はとんだ英雄だ。奴隷も好きなだけもらえるだろうさ。だったら、噂に名高いリシュターク家の末っ子でももらおうか。男なのに傾国って噂だろ。歩くだけで男共を落とす美形ってんだから、手に入れて損はねぇ。そいつが仕える聖女共々可愛がってやりたいもんだ』


 エーレの名前と、私に仕えているという情報が出てきて助かった。これがいつ頃のやりとりなのか、大まかな判断がつく。

 私が既に聖女として就任していて、エーレが傾国と名高いのであれば、更に絞りやすくなる。

 上機嫌な男は、目の前にいる女の変化に気がついていない。

 これは、実際にエイネが変容しているのか、それとも私にだけ見えている姿なのか。


『悍ましき民の末裔に、正しき罰を与えてくださるあなた方に』


 エイネは、ゆっくりと口角を吊り上げていく。


『神のご加護があらんことを』


 最早人の顔すら偽装できていない歪で悍ましい笑みに、男が気づくことは最後までなかった。






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