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「アリアドナは、よくもまあ、あんな物をこの世に存在させましたね。あれ、神玉じゃありませんよ。形はよく似ていますけど、その実、性質は真逆です」


 あれは建造物ではない。あの塔は生えているのだ。

 そして神玉に見える玉は、塔によって吸い上げられた力を形にしているに過ぎない。

 この距離でも分かるほど、完全な真円を描く純度の高い透明さを持つ石から溢れ出すのは、神々しさでも何でもない。

 ただただ悍ましい、吐き気を催すほど醜悪な悪意だった。


「構造からいえば植物に近いですが、あれは植物などではありません。塔の天辺で輝く丸い石も、神玉などではありえない。周囲の命を吸い取り、自らの糧とした結果があの石です。生命力、寿命。どれに例えても構いませんが、周囲の生き物が持ち得る命そのものを吸い取り、それらを養分とし実をつけた結果が、腹立たしいほど神玉に似せたあの石です」。


 塔の周辺に配置されていた人間は、大幅に寿命を失ったはずだ。近くで陣を張っているウルバイ軍さえも影響を受ける可能性がある距離で、とてもではないが許し難い蛮行だ。

 人の足ではそれなりに離れていようと、土地で見ればすぐ側なのだ。国境など、所詮人が地図に書き込んだ線に過ぎない。

 もし、もしも、こんな悍ましい兵器に巻き込まれアデウスの人間の命に揺らぎが見えれば、私は怒りでどうなっていたか分からない。

 けれどつい先日までこの地にいたナッツァ達の魂には、何の変質も見つけられなかった。


 突然己達を振り向き、無言で見つめ続ける聖女に対し、騎士達は居心地悪そうに居住まいを正した。神兵達は微動だにしていなかったので、この辺りは付き合いの長さや信頼度による違いなのだろう。

 常日頃から、こいつは変なことをするものだという信頼感があれば、無言で見つめ続ける行為など大した問題にならないのである。

 私は、彼らの命が徴収されていない事実を改めて確認し、ほっと胸を撫で下ろした。

 そんな私をよそに、ルウィは唇の端を吊り上げた。


「それはまた。人の世へ多大なる影響を及ぼす人知及ばぬ存在に、早々増えられては弱るのだがなぁ。まったく、厄介なことよ」


 しかし、今はよくともこれより先は分からない。

 アデウスは既に、王都が明日をも知れぬ状態と陥った。そしてこの国境沿いで命を吸ってつけた実が急速に大きくなったのは、アデウスの王都に根付いた大樹が関係しているのかもしれない。

 何せどれほど王都から離れようと、ここは地続きなのだ。

 そしてあれが大樹として存在している以上、目には見えずとも凄まじい質量の根が地を這っているはずだ。妨害があったとはいえ、今の今まで完成していなかったあれが突如速度を速めたのであれば、アリアドナ側の状態が整った可能性は高い。

 これより先、神の力などではなく、吸い上げた命で育つただただ悍ましいあれが、アデウス中に生えない理由はなくなったのだ。

 今はまだいないようだが、アリアドナがいつこの地に現われてもおかしくない状態に陥っている。

 この調子で東西南北全ての国境に現われ、他国を招き入れられては目も当てられない。


「今更ではあるが、初代聖女殿は、心からアデウスなどどうでもよいのであろうな」

「彼女にとってアデウスは、自らの目的を為すための燃料源に過ぎなかった。……それどころか、憎悪の対象ですらあったのでしょう。だから飢える人々を、子を前に、何もしないでいられた。聖女としての体面を保つ道具にすらしないほどに、本当に、何も」


 支える側が回らなくなり、瓦解する。そうと痛いほど理解しているゆえに次へ回すのなら、まだ理解できた。

 国ごと共倒れとなる事態を回避し、土台を整えてから着手するための事前準備を行う時間は、確かに必要だからだ。

 けれどアリアドナは、何もしなかった。

 スラムへ手出しをしたのは一度きり。それも、物が蠢くあの場所が王都にあるのが目障りだと言う者の声が一際多かった時代の出来事だ。

 怪我や病気、そして幼さが理由で、日々に他者の助けが必要な人達には触れもせず。自らを支持する人数が増えることにしか着手せず。

 結果として、自らの養分を増やせることにしか興味を向けなかった。実に見事な、無駄と情けのない合理的な判断ばかりだった。

 為政者としては、それが正しい場面もあるだろう。けれど聖女としては失格であることは明白だ。彼女は聖女などではなかった。神に仕える善良なる一市民ですらない。

 彼女は自身の上に誰も戴くことはない。

 彼女は神を許さず、人を愛さなかった。

 それどころか、神を憎み、おそらくは人も嫌悪している。

 彼女はずっと一人だった。

 その身だけに価値があると言わんばかりに、どれだけ人心を集めようと、どれだけ忠誠を集めようと。誰も側には置かず、誰にも価値を見出さなかった。

 どれだけの人が生を懸けたか。どれだけの人が心を預けたか。

 その結果、唯一神のような立ち位置となろうが。

 誰にも応えず。信じず、愛さず。誰も等しく物のように扱った。全ての命とその生涯を使い潰し、捧げられた心諸共がらくたのように廃棄した。


 そんな存在が延々と君臨し続けたアデウスの祈りは、無残なものに成り果てるはずだった。

 最早祈りと呼ぶことすら出来ぬ哀れな残骸へ縋り続ける。アデウスは、そんな虚ろで救いようのない民で構成された国となるはずだった。

 けれど、アリアドナは喰らった神を自身の中に収める時間を有した。溢れた神力の置き場を必要としたアリアドナにより、アデウスは延命してきたのだ。

 アデウスは、アリアドナが作り上げた虚構を神としてきた。アリアドナは、自らが喰らい空とした玉座へ向け、民に祈らせていた。

 アリアドナではなく虚構へ祈ったその時間が猶予となり、アデウスを救った。

 民は真摯に祈り、神を心の支えと、善と秩序は保たれてきた。

 民に祈りがあったのは、それまで神々が紡いできた歴史があるからだ。

 民は、神への祈り方を知っていた。アリアドナへ祈れば歪められていたその祈りを、祈りのまま抱き続けてこられたのは救いでしかない。

 経緯はどうであれ、アデウスは神々により生き延び、類い希なる血を持ったルウィの血族が守り、彼女に飲み込み切らせぬまま、ここまで繋がれてきたのである。

 偶然と奇跡が繋いだ時間に、人の努力が応えた。

 アデウスは、残るべくして残った国だと、私は思う。


「聖女」

「はい」

「あれの排除は可能か」

「そうですねぇ」


 呑気な声音で会話を続けながらも、ルウィの視線は警戒心を緩めない。言葉を発さないエーレの瞳もまた、嫌悪を抱き続ける。

 それは私も同様だ。意識のほとんどは、あの許し難き神玉もどきへと向いている。

 周辺に残るまだ新しい火薬の臭いと、踏み荒らされ掘り返された土の匂い。散っていった命の無念。いまこの瞬間、散ろうとしている命の恐怖。

 直接的な血の臭いや死体が明確に視界へ映らずとも、命が散った痕跡は、そう簡単に消えやしないのだ。

 散った対象がアデウスの民であれ、ウルバイの民であれ。神の力を使って命を散らせたアリアドナを許す理由は、どこにもない。

 私は地上から生える悍ましい塔を見つめ、次いで足下へと視線を落とす。しゃがみ込み、地面に掌を添えた私を囲み、エーレと神兵達が即座に膝をつく。

しゃがんだのがルウィであれば、騎士達が同様の動きを取っただろう。

 エーレ達に視線を向けることなく、地面へつけた掌に意識を集中させる。


「……出来そうですね」


 五分ほど経った後、少し頭を振って意識を均した私は、立ったままのルウィを見上げた。


「本当は皆と合流した後のほうが足並み揃っていいのでしょうが、吹雪をかき消されたことにアリアドナも気づいているはずです」

「そうであろうな」


 だから。

 私は深く息を吸い、両手を地面につけた。

エーレが力の試行状態であると同様に、私とて慣さねばならぬ力がこの身に落とし込まれているのだ。


「ちょっと、やってみましょうか」


 その為に、大切な命が殺し合っている場面を前にしてなお、呑気に会話を続けていたのだから。




 アリアドナ。

 あなたが自身に齎された非道な行いへの恨みを以て人を憎むのであれば、私が行う妨害行為に変化はなくとも、納得は出来た。

 けれど、いまこの時代に生きる誰しもが、あなたに対し直接的な危害を加えたわけではない。元を辿れば血の繋がり程度はあり得るだろうが、それだけだ。

 血の繋がりは罪状には成り得ない。成り得てはならない。

 それに、血の繋がりを罪と定めるのであれば、彼女は何よりもまず自身の身を罰さなくてはならない。そうしていないのであれば、彼女がそれを他者へ求めては卑怯というものだ。

 アリアドナの生が苦痛と悲哀に満ちていたことは、きっと事実だろう。だがそれは、今を生きる人間には何の関わりもないことだ。

 誰しもが、自身の不幸に他者を巻き込む道理は持ち得ない。

 どれだけ自分以外の何かへ理由付けしたくても、それがどれだけ己が負担を軽くする行為であろうと。

 自身の不幸は、加害への理由には成り得ない。

 不幸による傷と他者への攻撃性は、全く異なる場所にある。

 よってその苦痛に嘘偽りがないとしても、他者に同じ痛みを味合わせる行為には、正しさなど一切合切存在しないのである。



 閉ざした目蓋の向こうで、私の意識が地中を這う。

 山をも切り崩す水のような勢いにも、徐々に染み入る水のような速度にも思える。けれど、身体は置き去りに意識だけが世界を進む感覚は、まるで手足を扱うかの如くこの身に馴染んでいた。

 目視で確認した位置に当たりをつけ、意識を進める。大体この辺りかなと思う場所の気配を探り、目的地を見つけ出す。

 初めはただそれだけだったけれど、徐々に世界が色分けされていく。目的としている場所と他の差異を知れば、他の差異も見つけやすくなる。

 その内、色すら必要しなくなってきた。


 分かるのだ。

 世界が見える。命が見える。

 世界が分かる。

 思うだけで、全てが。

 現在が、過去が。

 未来が、見えそうになり。

 

 そこで意識を切る。

 見すぎてはいけない。私はそれらを管理できるような器ではないのだから。

 それに未来とは、確定していない、いわば作りかけの柔い生地のような存在だ。

 下手に触れてはならない。固まっていないものに知識と技術を持たぬものがむやみやたらと介入して、うまくいった試しなどないと歴史が証明している。

 なればこそ、過去にも触れてはならない。過去を変えようなどと考えてはならない。

 起こったことは、変わらない。変えるべきではないし、変えてはならない。

 意味合いを変化または変質させることは可能だが、既に起こった事実を変化させることも、ましてや無かったことになどできない。

 不幸は不幸のまま、奇跡は奇跡のまま。

 生も死もそのままに、今へと続けるしかない。

 私が過去に触れた結果。

 仮令、仮令お父さん達が無事な現在が、ここに現われるのだとしても。


 大切な人達を取り戻すために、数多の人間が下した決断を全て無かったことにするなど、許されるはずもない。

 それは生を蔑ろにし、命を奪う行為とどう違うというのだ。

 私が、私だけが幸せな結果を得るために、世界中の命を犠牲に過去を変える行為が罷り通るわけがない。そうできる力を得たとて、世界の決定権を得たわけではないのだから。

 私の都合がいいように世界を作り替えれば、これまで、そしてこれからを生きる全ての命の決定が無意味となる。他者の決断と決意を無碍にして、自信の幸福だけを追い求める存在を、人は悪魔と呼んできたではないか。

 世界に触れる権利を持っていたはずのハデルイ神でさえ触れなかったのは、人の自主性による結果を見たかったからか、それとも純然たる禁忌だったのか。きっとどちらもあったはずだ。

 誰しもが、未来を変えることが出来る。それは現在の決断によってのみであり、許されるのはそこまでなのだ。



 私の目には、神が見ていた世界が徐々に姿を現そうとしていた。そして視界が世界に馴染めば、いつの間にか音が届き始めた。

 砕け散った、薄硝子のような音。

 そして、悲鳴と驚愕と歓声が、私の意識へ同時に届く。

 悲鳴はウルバイ軍、驚愕はアデウス軍。そして歓声は、ここまで供をしてくれた神兵と騎士達によるものだ。

 帰りは地を這わずに戻した意識の先で、私は重い目蓋を開く。そして、今度は自らの眼でそれを見た。

 地より生えていた塔が、水に濡れた土塊のように崩れていく。そうして塔が掲げていた悍ましき玉は、高所から落とした薄硝子のような音を響かせ、砕け散った。

 あんなにも悍ましい手段でもって製造された物でも、美しい物と同じ音を出すらしい。それを皮肉だなと思う感性を持つのは、きっと人間だけだけれど。

 崩れた塔は土塊を残し、砕け散った石は、空気が凍る北の大地で見られる現象によく似たきらめきを残しながら、消えた。

 それは一つの美だった。

 自然が偶然見せた美のようでもあったし、人が丹精込めて作り上げた一瞬の演出のようでもあった。

 現に神兵や騎士の中には、見惚れた色を浮かべた眼でその光景を見つめる者もいたくらいだ。

 それを咎めるつもりはない。どう足掻いても美しいものは美しいし、そう感じる彼らの心が間違っているわけでもない。

 美しい物が尊い存在とは限らない。この世には、その事実があるだけだ。

 美しさは人を引きつけ、そこに価値を見出させてきた。価値が生まれれば、人はそれらを保護し、残そうとする。いつの時代もそうだった。それが人という種の本質か、本能とでもいうかのように。

 そしてあの石が神玉のように美しかったのは、偶然か、はたまた策略か。

 アデウスの民であれば、王都の神殿に飾られているかのような、完全なる真円であり、それ以上の大きさがある神玉を壊すことは躊躇われるだろう。美しければ尚更だ。

 相手に破壊を躊躇わせるため、美しく、そして相手にとって価値ある存在へと化ける。対人間に、これほど効果的な手段はないだろう。

 あの塔は植物を模した形態をしている。そこに意思があるかは分からない。しかし、あれにもしも漠然とした死への忌避があるのだとすれば、生存に特化した特質を持っていてもおかしくはない。

 美しい。

 それは人相手へ行う生存戦略として、とても理に適っている選択だ。

 そして最早、魔物の類いである。

しかし唯一の欠点は、相手が人である場合のみ有効という点だ。

 つまり、申し訳ないのだが、私は最初から最後まで人ではないのである。

 目視、そして気配を探り、塔が残っていないかを改めて確認していく。大丈夫そうだと判断して立ち上がる私に、さっと立ち上がったエーレが手を差し出す。

神官としての行動はとても素早い。寝起きや屋根の上ではあんなにのんびりなのになぁと、いつも思う。いつも思っていたと、思い出した。

 エーレは公務をかっちりこなす人だ。ただ、盛大に公私混同するだけなのだ。







 崩れゆく塔と神玉もどきを前に、呆然と立ち尽くしていた両国の兵士達が、その理由を探すために視線を巡らせている。戦闘行為は鳴りを潜め、誰しもが唖然とし、理解しきれぬ状況に飽和した思考のまま、理由を探して彷徨っている。

 そうして、私達を見つけた兵士達は、視線を固定した。

 兵士が、戦況と互いの陣地、何より敵兵の動きから目を逸らしてこちらを見ている。戦場において、致命的な行動で埋め尽くされた景観を見下ろす私の横に、ルウィが並ぶ。


「アデウスよ! 今が好機ぞ!」


ルウィの、アデウス第一王子の声が戦場に響き渡る。

何の術も用いていないのに、彼の声はよく通った。

その声量でもって耳に届かせ、その声音でもって精神に届く。


「殿下……?」

「殿下っ」

「殿下だ、殿下がおられるぞ!」


 アデウス軍の声がわっと湧き上がる。対照的に、ウルバイ軍の動きがぎこちなく乱れた。歓喜に

 満ちた歓声のアデウス軍に対し、ウルバイ軍が上げた声は恐怖と絶望だ。

 しかし、すぐにアデウス軍の動きも同様となってしまった。ルウィの隣に立つ私が誰か、分かったのだろう。

 アデウス軍の声は安堵と興奮、そして罪悪へ。

 私は髪色が変わっている。ルウィのように声を出したわけでもない。正面から会話を交わしたわけでもないのだから、こんな距離で気づかなくてもよかったのに。

 特に、神殿が派遣した神兵達はそれが顕著だ。後悔と罪悪と悔恨と、ありとあらゆる絶望が噴出している様が、この距離でも見て取れてしまう。

 神兵の絶望は顕著だ。何せ気まずそうに揺れる兵士達の中、微動だにしなくなったのだ。全く動いていないのが神兵である。

 ウルバイ軍も同時に動揺してくれているからいいものの、戦場で心身を強張らせてはならない。それは死へと直結するのだと、私などより余程理解しているはずなのに。


「喜べ、アデウスの戦士よ! 我らには聖女の許しがついている!」


 王子と肩でも組むべきか。いいや、必要ないだろう。

 王子がここにいて、私を聖女と言った。それだけで私を証明するには充分であり、私の意思は明確だ。


「シャーウ・サオント辺境伯! アデウスが第一王子及び聖女の前だ! 北の意地を見せてみよ!」


 王子の言葉を受け、一人の男が剣を掲げる。


「御意に! ――――全軍、突撃!」


 アデウス軍が挙げた声は、大地が割れんばかりの音で世界に轟いた。 







 冬の強く厳しい風が、周囲に白を撒き散らす。私達の行く手を阻むように設置された白い壁などなくても、北の大地で過ごす冬は、ただそれだけで厳しいのだ。

 風に吹き上げられた雪と共に、私の髪も舞い上がる。

 白くなった髪は雪によく馴染むが、王都では目立つだろう。けれど元より私は、どんな色形の服を着ていても抜け出してきたのだ。今更髪の色が変わった程度、どうということもない。

 風に揺れる私の毛先を、エーレの視線が追っている。その様はまるで猫のようだ。私の髪を追っていたエーレの視線は、すぐに目蓋が伏せられたことで途切れた。飽きっぽいところも猫のようである。

 どこか悲しげに見えるのは、伏し目がちな瞳のせいだろうか。

 そんなエーレの髪も、白くなってしまった。優しく世界を祝福するあの新緑が、この世から失われてしまった事実は、こんなにも寂しい。

 エーレからあの色が失われた事実を実感する度、寂しくなる。それなのにとうの本人は、今度は何が気に入らないのか、不機嫌そうな顔をして揺れる私の髪を見ている。

 もっと、自分の髪からあの優しい美しさが失われてしまった事実を惜しんでほしい。

 そして私の髪は、アリアドナを倒した後の神殿復興資金が足りない際に、聖女の髪としての付加価値をつけて売りさばく予定なので、遊びたければ今のうちに遊んでおいてほしい。

 エーレが遊びたいなら、長い部分を一束残しておくのも手だろうか。

 そんなことを考えながら、命の狩り合いを見下ろす。眼下に広がるは、神力を失った戦場だ。どこまでも泥臭く、鉄臭く、命を焼く臭いが充満している。


「聖女、許可を賜りたく」


 静かに頭を垂れるエーレに視線を向けず、戦場に固定する。

 過去を変えるは許されぬ。

 未来を変えるは許される。

 それは今を生きる命の権利だ。

 ただしそれは、現在を変えることでのみ許される。

 神の力の介入が許されるのは、現在のみ。そしてアデウスは神の寵愛を得た。ゆえにエーレがいる。

 そして。


「許しましょう」


 エーレに人を殺させる私の罪は、誰にも許されなくていい。








 全てを焼き尽くす炎が、北の白を染め上げる。白は赤に焼き切られ、ウルバイ軍は逃げ惑い、断末魔を上げることなく死んでいく。

 先ほどまで白に溶けていた私達の髪を、赤が煽る。ウルバイ軍を焼いた炎は、ぎらついて見えるのにどこか冷たくも見えた。

 命を凍えさせる冷たさと、骨をも残さず燃やし尽くす炎が同じに見えた理由を考える必要は、きっとない。

 だが、冬、それも北の地において、命を繋ぐため最も重要な暖となる炎を、命を潰えさせるために使わせた聖女の罪深さは、皆忘れずにいてほしいと願う。

 ウルバイ軍侵攻による防衛戦は、瞬く間に終了した。

 あの悍ましき神玉もどきを破壊したことにより動揺したウルバイ軍に、エーレの炎が襲いかかったのだ。彼らに陣形を立て直す余地などない。

 尚且つ、それまでもある程度は保たれていたアデウス軍の士気が、凄まじい昂揚感でもって最大限に上がった。それに対し、塔が破壊され、エーレの炎が焼いたウルバイ軍。

 ウルバイ軍には、陣形を立て直す余裕どころか、勝利に到達する道理すら、どこにもなかった。

 そうしてウルバイ軍は、あっという間に瓦解した。



 戦闘に関する詳しい知識などなくともすぐに分かるほど、勝敗は明らかだった。

 最早ウルバイ軍はちりぢりで、とてもではないが指揮が通っている様子には見えない。エーレの炎があったにしても、脆すぎると思うほどの変貌だ。

 それでもここは、歴戦の勇士である北の辺境伯家が手こずっていた戦場だった。ウルバイ軍の脆さとその事実を照らし合わせれば、これまでの戦闘が、どれだけあの神玉もどきから優位性を与えられていたのか分かるというものだ。

 アリアドナの庇護と言い換えてもいいかもしれない。

 現にこの地には、アリアドナの気配が充満している。

 しかし、ならば何故、アリアドナは王都から動いていないのだ。

 ウルバイへ酷く肩入れしていたアリアドナは、この神玉もどきを完成させ、猛吹雪を発生させる力を与えてなお、ここにはいない。

 おそらく王都から動いてすらいないはずだ。意味も無く止まっているとも思えず、疑問は募る。

 動く必要が無いと判断しているからか。それとも、動けない理由があるのか。

 後者の場合、何かを行っている可能性が高い。何らかの不具合により動けないとは、到底思えないのだ。


「シャーウ辺境伯、ウルバイの指揮官を捕らえてくれるでしょうか」


 その理由を、ウルバイの指揮官から聞き出せるといいのだが。


「腹に据えかねた挙げ句のうっかりが発生せぬ限り、生かして捕らえるであろうよ」


 人を焼いた炎は既に姿を消し、後には黒ずんだ大地が残っている。それらを前にへたり込むウルバイ軍と、叫びながら向かっていくアデウス軍が対照的だ。

 未だ残る熱気は空へと立ち上り、その過程で戦場を見下ろし続ける私とルウィを炙っていく。人を焼いた熱は未だ熱さを保っているのに、どこか湿って生温く感じた。

 私とルウィはその場を動かず、その風を受け続ける。


「指揮官への尋問、最初は私がもらって構いませんか? アリアドナ がエイネ・ロイアーとして、ウルバイと交わした条件なども問い質したいので。出来ればここに移動してきていない理由 も知りたいです。全てを知ることは難しいでしょうが、少しでもアリアドナという存在を把握できればと」


 生涯を懸け、自らを支えてきてくれた自身の神官長でさえ捨て駒としたアリアドナだ。

 誰も信じず、頼らない。そんな彼女が、自身の内情や都合を、早々吐露しているとは思えない。

 それでも。

 否、だからこそ。

 集められる情報は集めておきたいのだ。

 彼女に対する情報はあまりに少ない。どこまでも人を蔑ろにし、欺き、本心を見せず微笑み続けてきた女を理解する材料は、どれだけあっても足りはしないのだ。


「構わぬ、聖女の好きにせよ。ウルバイは捕虜交換も通じぬ国よ。ああまで外聞なく捕虜を切り捨てる国もそうそうありはせぬ。ウルバイの捕虜はウルバイとの交渉材料には成り得ぬのだから、より多くの情報を得られる手段を選ぶべきであろう。その選択を手放せるほど、我らは優位な立ち位置にはおらぬ。余とて、こうまで劣勢な戦場を経験するとは思わなんだ」

「本来は命が経験しなくていい戦場でした。けれど人が始めてしまった以上、火の粉は必ず人の上に降ってしまう。それを振り払えず、人に届かせてしまったのは聖女の罪です。アデウスの民には、いくらだって私を罵る権利があります」

「であらば、余も同等の罪を負うべきであろうな。仕様がない。聖女、共に投獄されるか。そなたとは様々な場所で眠ってきたが、牢獄は初めてよ」

「そういえばそうですね。そもそも王城の地下牢自体、あまり行った経験がありませんし」

「余も神殿の牢はほとんど経験がないな。ふむ、今度の昼寝場所はそこにするか」

「いいですねぇ」


 神殿も王城も、設備が使用可能な状態で残っている可能性は限りなく低いけれど。

 それら全てを考慮せず、楽しげに未来を語るルウィの言葉に、私も無責任に乗りかかる。無責任な言葉を、互いにそうと分かっていて交わし合える相手の存在は、とても希少だ。


「浮気者」

「どう考えても浮つく要素のない会話じゃなかったですか?」

「配偶者以外と寝る予定を立てるな」

「エーレも寝ればいいじゃないですか」

「俺が王子と眠る理由は皆無で、お前が王子と眠る理由も皆無だろうが」

「余は歓迎しよう」

「一度持ち帰り、兄上経由で返答いたします」


 弟から突如、王子と共に地下牢で眠るか否か案件を持ち帰られた、エーレのお兄さん方の心境は如何に。

 私にはお兄さん方の心境を読み取る能力はないけれど、アデウスの未来はかなり危うい気がするので、エーレと王子は一緒に地下牢で眠らないほうがいいと思う。

 そんな、今でなくともいい会話をしながら見下ろす戦場は、そろそろ終わりを迎えようとしていた。

 全てがウルバイの勝利へ有利に働いていた戦場から、その守護が取り払われた戦場へ。

 突如優位性を失ったウルバイと、溜まった鬱憤を解放させる舞台を得たアデウス軍。

 勝敗はあっという間に決まり、戦場から戦場跡地へと名前を変えた地に、アデウス軍が上げた勝利の雄叫びが轟く。

 あちらこちらで上がるアデウス軍による勝利の歓声を聞きながら、私達はそこから離脱し、こちらへと駆け出してくる部隊を眺めていた。





 この戦場へは、神殿も王城も、要の一つである部隊を派遣した。両者の精鋭達が、決して少なくない数が駆け寄ってくる様は圧巻だ。地響きさえ聞こえてくるほどである。

 ルウィが泣きすがる騎士達に囲まれて見えなくなった頃。

 私は、地に額をつける神兵達を見下ろしていた。その中にはここまで共に来たナッツァ達も含まれている。

 神兵達は、誰一人として顔を上げない。喜びの声を上げながら泣きすがる騎士達とは対照的に、一言も発さない。白い息が目視できなければ、呼吸さえ止めているのではと心配するほどに、私の周りは静寂が囲んでいる。

 一言も発さぬまま冷たい大地へ額をつけた神兵達は、そうして動かなくなった。

 身じろぎ一つせず、じっと額を擦りつけている。

 エーレだけが私と同じ高さに目線を置いていた。けれど、私の少し後ろに立つエーレも言葉を紡ぐことはなく、静寂の中にある。

 神兵達を見下ろしながら、小さく息を吐く。先ほどまで戦場を駆けていた身で、休息も挟まずそうしているのはつらかろうに。

 誰も、動こうとしない。

 私も膝をつきたい。膝をつき、彼らと視線を合わせたかった。長く劣勢に等しかった戦場で戦力としてあり続けてくれた彼らを労いたかった。

 ただただ純粋に、この戦いの勝利を喜ばせてあげたかった。いまこの時だけでも、手放しの達成感に笑ってほしかった。

 けれど、それは彼らが望まない。

 そして私が口を開かない限り、彼らは何日でもこうしているだろう。


「――全員、顔を上げなさい」


 彼らがどれだけ頭を下げていたくても、神兵にとって聖女の命は絶対だ。

 私の命によって上げられた、神兵達の顔を見下ろす。

 その顔には、何の感情も浮かんでいない。個ではなく、神兵として殉じる彼らの意思がここにある。

 たとえ、その個の中に叫び出したいほどの悔恨が渦巻き、その身を蝕んでいたとしても。

 彼らはそれを表へ出すことはないだろう。

 感情は表に出されていないけれど、隠せぬ苦悩がその顔にはくっきりと刻まれている。

 終わりの見えぬ戦場で戦い続ける。その一点のみでも耐えがたい疲労と苦痛に苛なまれる。

 だというのに、本来は救いと縁にしなければならない聖女と神殿に、罪の意識を抱いてしまっているのだ。どれほど耐えがたい苦痛か、考えただけでも悲しい。

 中には夢に見る者もいただろう。休息時間を休息として使えず、救いに罪悪を感じていれば、心身共に癒やせるはずもない。

 村ではそんな素振りをほとんど見せなかったナッツァとて、他の誰とも変わらぬ酷い有様だった。彼が元気でいてくれたのは、村人達を案じさせぬ為であり、私がそれを望まなかったからだ。

 彼らは聖女を忘れた自身へ、罰を求めている。聖女を聖女として扱わなかった行為を己が罪だと捉えている。

 忘れたのは忘れさせられたからで、聖女として扱わなかったのは扱えなかったからだ。 

 その事象に明確な犯人が存在し、それらが彼らの意思でなかった以上、私は彼らの罪とは思わない。

 それでも彼らが罰を望むなら、私はそれに答えるべきだ。

 彼らが神兵としてそこにあるのなら、私は聖女として応えるべきなのだ。

 それが彼らへの救いと成り得るのならば。私には、人の子の祈りを聞き届ける義務と、叶えてあげたい願いがあるのだ。

 だからそうするべきだ。


「……………………」


 そうする、べきなのだけれど。


「……私は、あなた達を罰したくはありません」

「っ、聖女様!」


 咎めているとも懇願しているともとれる引き攣った声が、神兵達から弾けた。だが、続けて言葉を発しはしない。私の言葉を待つため、口を噤む。

 こんなにも、こんなにも神殿の者である彼らを罰する理由が、どこにあるのだろう。

 こんなにも神殿の者であり、当代聖女の神官である彼らが、どうしてそんなことを思わなければならないのだろう。


「確かにあなた方は、一時の間、私を聖女として扱わなかった。けれどそれは、あなた方の責ではありません。あなた方の責ではないものを、あなた方の責とは出来ません」

「しかし、聖女様!」


 切羽詰まった声で、追い詰められた顔をする神兵達の願いを叶えてあげたい。

 敬虔なる信仰の心を持つ彼らは、罰を欲している。たとえ自らの責でなくとも、自らが起こした行動の結果に責を持つ。そんな真面目で優しい彼らは、神殿が誇る自慢の神兵だ。

 皆の苦痛が軽くなるのなら、罰を与え、一つの区切りとするべきなのに。


「聖女として、私はあなた方に罰を与えなければなりません。けれど…………けれど、マリヴェルとしては、そんなことを、したく、ありません」


 罰を与えられることで、彼らは漸く救いを得られる。彼らにとっては罰を与えられず無罪放免となるほうが絶望であり、苦しみから解放される術を失う。

 私は聖女だ。聖女は人に救いを与える為にある。そして善良なる彼らには救いが与えられるべきだ。

 分かっている。分かっているのだ。

 分かっているのに、したくない。私は彼らに苦しんでほしくないのに、この手に持つ彼らの救いを叶えてあげられない。マリヴェルとしての私が、彼らの望みを拒んでいる。


「少し、時間をください。王都に戻り、神官長と相談して決めるその時まで」


 ナッツァ達は息を呑んだ。

 神官長は、もう。

 誰もが飲み込んだ言葉が、この空間に漂っている。

 それでも誰も口には出さない。誰もが思っていて、誰も音として世界に放つことはない言葉。

 だって誰もが、そんな事実は望んでいない。ほんの僅かな可能性に縋っていたい。

 その為に飲み込む言葉が、これから多くなるとしても。


「……私に、時間をいただけませんか。あなた方も私も、皆が納得し受け入れられるような……そんな奇跡を、探してみせますから。その時間を、私にください」


 どうか、私に。

 聖女へ罰を乞う人々に、マリヴェルが時間を乞う。

 

 相反する願いは、人の子が叶えた。

 己が感情を噛み殺し、全てを飲み込み、頭を垂れてくれた人の子が、叶えてくれた。

 神に等しい存在の願いを、人の子は己が願いを封じてまで叶えてくれた。その意味を、私はこの身が潰えるその時まで、忘れることはないだろう。


「ありがとうございます」


 エーレは何も言わない。未だ跪いたまま私を見上げるナッツァ達が、弱った顔でエーレを見た後、再び私へと視線を戻す。そうして、更に弱り果てた顔となった。

 私はきっと、酷い顔をしているのだろう。

 本当は笑わなければならない。聖女が沈んだ顔をしていれば、人はどこに救いを求めればいいのか。

 聖女は揺らいでははならない。聖女は惑ってはならない。

 分かっている。けれど。

 この件に関して、私はマリヴェル以外の誰でもありたくはなかった。



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