96聖
北へ進むこと一日と半日強。
周囲に見える景色は一変していた。
「はっはっはっ! ここまでくれば、いっそ豪儀とするべきか!」
自らの身体すら見えなくなるほど吹きすさぶ吹雪を前に、腕を組みながら大笑いするルウィは大物である。あと、偉そう。
だが、当たり前だ。
アデウスの第一王子は偉いのである。
本日中に北の国境へ到着できるだろうと、馬を飛ばしていた一同が安堵し始めた頃、それは突然現われた。
遠目には、白い壁に見えた。しかし皆、本気で壁などとは思わなかった。
ただの酷い吹雪だと思ったのだ。
何せこの季節である。アデウスの最北ともなると、もうまとまった雪が降り始めてもおかしくない。
知らせを受け村へ急行してきた面々も、北に到着する頃に積雪の可能性は高いと言っていた。
よって私達は、冬の強行軍用の支度をして出立したのだ。
現に白い壁が見えるより前、北の辺境伯が治める地へ入った頃にはちらほらと雪が降り始めていた。国境へ向け北上するにつれ降雪は増していく。
だからあの白い壁は、風に吹かれた雪が見通しを悪くしているのだと思っていた。どこか胸騒ぎがするのは、気のせいだと、思っていたかったわけだが。
しかし近づくにはつれ、それは杞憂ではなかったと誰もが肩を落としていく。
やがて白い壁に見えた場所に到達して、私達はその異常性をはっきりと把握した。
壁があった。
立っている場所から指一本分空けた先に、白い壁があるのだ。
世界を白く塗り潰す吹雪が、まさしく壁のように私達の前に広がっていた。
一歩足を踏み込めば隣に立つ人間どころか己の身体すらも見えず、息さえできぬ吹雪は、元の位置へと後退すればぴたりと止む。
目の前ではごうごうと荒れ狂っているというのに、こちらではふわふわと降りてくる雪が、広げた掌に二つ落ちるのみだ。その掌を前に突き出すと、痛いほどの風が雪を叩きつけてくる。
どう考えても自然に発生した吹雪ではない。
「こ、れは……このような、ことが」
神兵も騎士も、自身の目で見る光景が信じ難いと、声音だけでなく全身で語っている。
「そなたらの出立時に、これはなかったか」
「は……は! 無論にございます、殿下! このような状況であらば殿下をお呼びだていたすはずがありませぬ!」
神兵達は、悔恨が全身から滲み出ている騎士達を見ていた。神兵達へ視線を向ければ、音もなく私の周囲を囲む。
そして若干気まずそうに背筋を丸め、ひそひそと告げてくる。
「我々だとこの場合、何はともあれ聖女様をお連れすべきと判断したと思いますが……許されますかね、これ」
「許されるも何も、寧ろ連れてこなければ怒られますよ。聖女は対異常現象対策装置みたいなものなんですから、ここで使わずいつ使うんですか」
「意味合いは分かりますけど、言い方! エーレの飛び火、洒落にならないんですからね!? 俺達はサヴァス隊長じゃないんですよ!
――普通に死にますって、あれ」
急に真顔にならないでほしい。
けれど確かに、エーレの怒りが洒落になった試しはない。何故か一切の火傷はないのに、毎度しっかり熱いのだ。
一度くらい熱くなくてもいいと思うのだが、エーレは如何なることにも、特に怒りには全くもって手を抜かない男である。
「殿下! 殿下! どうか気を確かにお持ちくだされ!」
そういうわけで今もしっかり燃やされた私は、目の前の吹雪に突入すれば丁度いいかもしれないと思ったところを改めて燃やされたわけだけれど。
ルウィはルウィで、突如大笑いを初めたおかげで騎士達から大変心配されていた。
気付け薬、度数の高い酒、いっそ頬を張るべきか、だったら聖女を投入しよう。
そう大わらわに話し合っている騎士達が可哀想なので、何故か偉そうに吹雪の前に立ちはだかって大笑いしているルウィは、早く安心させてあげてほしい。
出来れば、私が投入される前にしてほしいところだ。
「で、殿下ぁっ!」
悲痛な声に、ルウィはようやく笑い止み、騎士達へと視線を向けた。
「案ずるな、正気よ。そも、瞬時に王都が飲み込まれた光景を見ておれば、この程度さもありなんと言ったところか。なあ、聖女よ」
「そうですね」
その光景を見ていない彼らには少々酷な結論を下した後、私もルウィの横で同じ体勢を取った。
これはスラム時代に発見した極意なのだが、自分の前で腕を組むと掌が温かいのだ。脇に挟むと尚いい。
「ところで」
「うん?」
「どうして笑ってたんですか?」
「ここまで来れば、最早笑うしかあるまいよ」
「そういうものですか」
うむと鷹揚に頷いたルウィの美学はよく分からないけれど、まあいいや。
「して、聖女よ。どう見る」
「行きになかったのであれば、国境沿いに作られていたという神玉が、何かしらの術を発動させられる段階まで完成してしまったのでしょうね」
「アリアドナが移動してきた可能性は」
「彼女がこの地にいるのなら、わざわざこの地で吹雪を起こす必要はありません。彼女が移動してきているのなら、ここには大樹が生えていますよ」
明らかに自然現象ではないものが発生していても、それが吹雪であるのなら、術者はアリアドナではない。
この吹雪からは、命を絶たれる恐怖を明確に感じられる。だからおそらく、術者はウルバイの、はたまた考えたくはないがウルバイと通じた者がいれば、その人間が発動したのだろう。
そもそも、そうでなければわざわざ手間暇かけて神玉を造り出す必要などない。力の源はアリアドナに由来するものだろうが、術者は違う。彼女なら、神玉など必要とせず大樹を発生させられる。
アリアドナは、十二神の力を、既に手中に収めているのだから。
私の答えを受けたルウィは、ひょいっと眉を上げた。
「アリアドナの力の有無は見えぬか」
私が答えた程度の憶測であれば、ルウィも既に分かっていたのだろう。
「様々なものがもう少し馴染むまで、ちょっと難しいですね。今の私では、アリアドナの力だけを抜きだして見ることが出来ません」
「つまり」
「今やろうとすると、情報量で脳が爆発します」
場合によっては眼球破裂か鼻血で済むかも知れないので試してみてもいいのだが、エーレにはっ倒されそうなのだ。その上で念入りに焼かれそうでもあるので、ある程度安全性が確保できてから試してみたいと思っている。
アリアドナは、神の力をその身に馴染ませるのに何百年も使っていた。私は人ではなく、元より神を受け入れるが為の器なので、彼女ほど時間を要しはしないが、もう少しだけ慣れは必要だ。
せめて大雑把に力を使ってみてから、一度勝手を知っておきたいところである。
しかし、自分が制御できない力を大規模に使える場所は限られるのだ。
ルウィも私の事情を汲んでくれ、この件についてはそれ以上言及してこなかった。
「アリアドナが王都を離れていないにしても、ここに猛吹雪があるのは事実。ならば――エーレ特級神官」
「畏まりました」
王より深く、神と同等の礼を私へと向けたエーレが、ゆっくりと身を起こす。
そうして、吹雪を背にする私の肩越しにそれを見た瞬間、光が膨れ上がった。
私の背後で轟いていた吹雪の音が遠くなり、先ほどまで肌に感じていた寒さが消え失せる。
膨れ上がった熱は、温かな風となって戻ってきた。一年で最も過ごしやすい季節よりも少し熱い。
そんな温度が私達を包んでいる。
私が振り向いた先に、吹雪は存在しなかった。
エーレが発した光という名の熱は、弾けぬ泡のように膨れ上がり、どこまでも広がっていく。正常な北の地であっても積もっているはずの雪をも溶かしながら、どこまでも止まらない。
遙か彼方まで開けた視界を見つめながら、私は静かに頷いた。
どうしよう、これ。
エーレも、現在自分が扱える力を試したいと言ってはいたけれど、どう考えても、少し、やり過ぎである。
本人が手加減したつもりであれば、更にどうしようだ。
人の枠組みから外れたからといって、人の枠組みを簡単に外れないでほしい。もっと人間だった頃の名残と、人の枠組みから外れることへの躊躇いを持ってほしい。
「エーレ」
「何だ」
「なんか……あんまり変わりませんね」
「そうだな」
根本はがらりと変わっているはずなのに、根本が変わっていないと表現するしかない現状に、私は頭を抱えたくなった。
本来、元が神として発生しなかった存在が神となったのなら、万能感に酔いしれるが世の定め。
けれどどう考えても万能なのはエーレであり、そのエーレに頭を抱える私は無能である。
神に近しき存在となった己に酔いしれる時間と隙と成功体験がなさ過ぎる。
私はくじけそうな気持ちを、なんとか奮い立たせた。
何せ相手はエーレである。
エーレのやることにいちいち動揺していては、日常生活に支障が出てしまう。何せエーレだ。事故、事件、エーレと項目分けできるほどにエーレなのである。
私は聖女らしく再び鷹揚に頷いた後、静かに口を開いた。
「婚姻関係を継続していく自信が、若干失われた気がします」
「頑張れ」
「はい」
婚姻は、成立させるよりも持続させるほうが困難である。
人間関係に悩む本や観劇などでよく聞く言葉を、まさか自分が実感する日が来るなんて思わなかった。そもそも未だに、いつの間に結婚したのかよく分からない。
エーレにより北の大地は温かくなった。けれど私はなんだか肌寒く感じて身震いした。
ルウィは海老になっていた。
神の怒りを彷彿とさせる恐ろしい吹雪は、聖女が通れば消え失せる。
そんな噂が、瞬く間にアデウス北部を駆け抜けた。
突如発生した吹雪を警戒し、追加で派遣された騎士と神兵達は、私達と合流するなり、そう教えてくれた。
数日もすれば、アデウス全土へ広がるだろうとも。
この状況下だ。希望は少しでも多いほうがいいし、大きければ大きいほどよい。
それは分かっているが、この現象は聖女の御業でも、まして神の御業でもなく。エーレ・リシュタークその人の力である。
その辺りは正しく、そしてはっきり強く精密に伝えていただきたい。
リシュターク家当主及び次男が、全身全霊をもって愛し抜いている彼の手柄を奪っては、アリアドナをどうにか出来たとしても私の首が繋がっている保証はない。
私とて、エーレのご家族とは仲良くしたいと思っている。
それに、もしも神殿とリシュタークが争った場合、リシュタークを前にエーレが立ちはだかってしまう。そうなっては目も当てられない。かつてリシュターク家で起こった混迷が、アデウスを舞台に始まってしまうのだ。
そんな事態は、どうあっても避けたい。エーレがリシュタークにつく心配をしたほうが、まだ平和だ。
それに何より、リシュターク家の兄弟喧嘩は見たくないのである。
「……最近、エーレが聖女をすれば万事解決なのではと思えるときがあります。けれどこんなものをエーレに背負わせたくはないので、そうでなくてよかったとも思います」
「それは俺も思うな」
「え? エーレ、聖女になりたかったんですか?」
「馬鹿野郎」
心の底から呆れた声を返されて、ほっとする。
その夢だけは応援してあげられないのだ。
「お前が聖女でなければよかったという話だ。だが、そうなれば俺は俺の神を失うことになり、神官にもならなかっただろう。だから、俺は俺の勝手でお前が聖女であることに喜び、その責任は果たすつもりだ。何より、聖女であるお前は美しい。今更人に堕ちる必要もない」
「人形が人になれるのならば、それは救い上げられた奇跡では?」
エーレの感性は、少し不思議だ。それは私が人形だったからではないと思う。
エーレは誰よりも人らしい、人の象徴のような人だから、人である尊さが分からないのだろう。
だからそれらを損なう恐怖も損失も、理解しづらいのかもしれない。
それはとても、勿体ないことだ。
命とはこんなにも美しい光を放つ、得難い奇跡であるというのに。
「どうだろな」
それなのに、光そのもののような人は、いつも私を見て目を細めるのだ。
その機嫌は悪くなさそうで、どこか心地よさそうでもある。だから私は、いつも不思議な気持ちで、日向ぼっこをする猫にも似たその顔を見つめるしかなかった。
「そろそろ余のこと思い出してもらってもいい?」
「忘れてはいませんよ? 神もアリアドナも関与せず、早々忘却が起こっていては明らかに機能不全じゃないですか」
「忘れておらぬほうが問題である」
記憶の損壊より問題があるとは到底思えないけれど、ルウィ以外の面子も口には出さないが皆一様に同意の表情を浮かべている為、この件はいったん保留としよう。
エーレの力を以てしても、冬から寒さを奪えるわけではない。
冬独特の、匂いより先に寒さが鼻に届く空気を胸いっぱいに吸い込む。
気温によっては鼻どころか肺が凍る上に、どちらにせよ身体が冷えるので、必要な場合以外は避けたほうがいい行為だ。
それでも大きく、そして静かに呼吸をしたのは、何も冬の香りを楽しむためではない。
ただ、分かっていた現実を、それでも飲みこむ猶予を得たかっただけだ。
眼下に広がる光景を見下ろしながら、私は小さく息を吐いた。
降り積もった雪では、到底吸い込みきれなかった怒声と悲鳴。そして、耳を劈く断末魔が、世界に響き渡っている。
この辺り一帯に充満しているのだろう。生臭い血と死体、そして鉄と火薬のにおいが漂っている。
眼下に広がるのは、人が命を摘み合う作業を繰り返す場。
人はそれを、戦場と名付けた。
かたやアデウス王城の、そして神殿の旗を掲げる北の辺境伯軍。
かたや、アデウス国内に巨大な陣を張ったウルバイ軍。
その両者が殺し合う。
これは、異様な光景だった。
他国の領土内に巨大な陣を張ることも、そも侵略してくること自体が異常な行いだ。
だが何よりも、度重なるウルバイの侵攻から北を守り抜いてきた辺境伯が、この規模の陣を敵に許したことが異様な事態なのだと、アデウスの民なら誰もが分かるだろう。
それほどに、北の守備は絶対で、難攻不落で在り続けてくれた。その北がこの状況なのであれば、それは状況の異常さを物語っているのである。
この戦場では、全てがウルバイ軍へ有利に働いているとの報告を受けている。
風向きから雲が晴れる機会や雨が兵士に到達する機、果ては小さな羽虫に至るまで。
全てが全て、ウルバイへ有効的に働くと。
通常ならば、ただ運がないだけか、怠慢による言い訳と取られてもおかしくない主張である。
けれど、そう報告してきたのは北の辺境伯だ。
怠惰や不運を理由で誤魔化すという手段を取るはずがない。そんな稚拙な言い訳や泣き言を言う人間に、長らく北を預けるほど、ルウィの目は曇っていない。
そして、実際目の当たりにして納得した。
「ああ、これは」
辺境伯の体感は正しい。
「……不愉快な気配だな」
不快さを隠さないエーレと、無言ではあるが瞳に常以上の警戒を滲ませたルウィも、正しい。
詳細が分からずとも、人の生死に関わってきた人間ならば、肌へ感じずにはいられないだろう。
私は不自然な風に煽られる自身の髪を自覚しながら、更に神の目を通して世界を見た。
ここにはアリアドナが充満している。
大樹の根がここまで到達していないことには安堵したが、安堵できる要因はそれしかなかった。
大樹の根は到達していないのに、まるでアリアドナ自身が存在するかのような神力が、憎悪を伴い戦場に満ちている。
その憎悪の先は、アデウスへ向いているのだ。
直接的な攻撃でなくとも、鍵さえ手に入れれば神となる寸前の存在がウルバイに味方し、アデウスを呪っている。
ここは地獄だ。
アデウスの民にとっての地獄が、ここにあった。
嘆くより先に、こんなにも真っ当な地獄をよくも地上に表出させられたと、呆れかえるほどに。
神に等しい自国の聖女が、己達を呪っている。
生を穢し、死を望んでいる。
アデウス軍は、その瞬間に瓦解してもおかしくなかった。
さらに、これまで神力という圧倒的優位を保てる力を武器としてきたアデウスが、それを失った状態で、この戦場を保たせた。
どれだけ優れた采配か、どれだけ鍛え抜かれた胆力か。
どれほどの覚悟と、涙の上に成り立った、死への決意か。
アデウスは、いまこの時代、そしてこれまでの歴史上、この一族が北を統治し、彼らが率いる軍隊が北を守護してきた事実に、心から感謝しなければならない。
小高い丘から戦場を見下ろす私達には、戦場がよく見える。この丘がある角度を考えると、アデウス軍よりはウルバイ軍から発見されやすい位置にある。
だが、どちらにせよ戦うのであれば知られたところで構いはしなかった。
私達は隠れもせず、丘の上に立っている。
「何とも……見事な神玉を与えたものだ」
ルウィの呟きを受け、私はその視線の先へと自身の瞳を合わせた。
遠目からでも見えてはいたが、近づけばはっきり分かる。
ウルバイ軍が陣を構えている周辺では、細長い塔のような物が十本以上聳え立っていた。それらが、建築途中と言われていた建物だろう。
そのどれもの最上部で、見事としか言い様のない神玉が輝いていた。
ここまで近づけば、最早肌でも感じられるほど、真円で巨大な透明の石。神殿に飾られているかのような完璧な神玉と、それらを掲げる塔。
まだまだ完成していないと聞いていたけれど、これはどう見ても完成形だ。
無意識に服の裾で口元を覆っていた。身の内から湧き上がる嫌悪感を抑えきれず、思わず口から思考が転び出る。
「………………悍ましい」
嫌悪は声だけでなく、表情にも滲み出ていたのだろう。私の声で弾かれたように私を見たエーレが、更に目を見開いたのだ。
次いで私を見たルウィも、ひょいっと片眉を上げる。
「そなた、そのような顔をすれば、まるで気位の高い神のようであるな」
「気位は盛大に低いですし、神ではなく神もどきですよ」
そんな顔ってどんな顔だ。
「そなたが神であろうが神もどきであろうが、今更何も変わらぬさ」
ルウィまでエーレのようにわけの分からないことを言い出した。
しかし、こういう言い方をしているときは、基本的に彼らの中で確立された信念があるので、音に出している部分を理解できなければ深く介入しないことにしている。
首を傾げつつも掌で自分の頬を擦っていると、どこか不機嫌なエーレが私の顔を両手で挟み込んだ。そのままごしごし擦られて、目を回す。
「この期に及んで、お前に好みを歪められた人間の層を広げるな」
「何の話ですか?」
目は回るが、エーレが触れていた頬は温かい。手袋越しなのにほかほかしてきた。
「浮気者」
「何の話ですか!?」
「神の成分に引っ張られるなと言うことだ」
「エーレ語の翻訳、本当にそれで合っています?」
神になれば浮気者になるらしい。
エーレの基準は中々不可解だが、先程身の内に湧き上がった嫌悪感は、恐ろしいほどの熱意があった。嫌悪の対象へ向ける熱意が激しければ激しいほど、損傷は激しくなる。
それが世界か己かは分からないけれど、よくない兆候ではあるだろう。何せこの身は既に、憎悪を知っているのだ。
「それで、あれの何がお前にそんな顔をさせたんだ。確かに、嫌な気配ではあるが」
嫌な気配とエーレは言っているけれど、その顔は単なる好みの差違による嫌悪を浮かべてはいない。
命の本質が、人としての本能が、あれを嫌悪している。その理由を理解していない思考が疑問を浮かべているけれど、誰よりエーレの魂があれを嫌悪している。
私は、透明となることで無垢を演出した、巨大な石へと視線を戻した。
石の土台となっている塔は、傍目には建物にしか見えない。建てられてすぐのはずなのに、既に蔦が絡まり、長年そこに建っているかのような雰囲気であったり、側面が平らでなくぼこぼこと凹凸が目立ったりと、新築としてならば少々疑問はあれど、ただの塔に見える。
話を聞くに、塔の建設に関して、建築材や作業員の類いは一切が発見できていないという。
建築を阻止するためには、資材を燃やすなり運搬を阻むことが一番手っ取り早い。しかしそこが不可能となれば、直接出向くしかなくなる。
すると、建築材も作業員も見当たらないというのに、塔の周囲には必ず多数の人間が配置されていたという。
見張りと呼ぶには異様な数だったと。
それに見張りとして周囲を警戒するにしては、全員が塔を向き、見張りならば当然周囲へ向けねばならぬ視線を、誰しもが塔に固定していたのだそうだ。
理由は分からずとも、どの塔にもそうやって人員が配置されていたことから、北の辺境伯は塔の建築にはこの塔を囲む人間達が必要と判断した。よってその人間達を排除することでどうにか建築を妨げていたのだそうだ。
材料も作り手もなく建っていく建造物。辺境伯が頭を悩ますわけだ。
私は視線を固定したまま、苦笑いを浮かべた。
本当に、心から苦々しい笑みとなった自覚がある。